第8話 喫煙所と恋

 新宿の劇場で、舞台セットの仕込みを手伝った。井上志郎演出の『冬物語』だ。井上はロビーで取材を受けていた。

 アトリエ公演で好評を博し、満を持しての本公演デビュー。期待の若手演出家。とでも新聞に載るのかな、と写真を撮られている井上を横目に俺は見出しを考えていた。

 井上と目があった。作業着の俺にまで色気をふりまき、はにかむ。腹の立つところだが、後輩の晴れ舞台である。水を差すようなことはしたくない。劇場の通用口に戻り、外に出て、喫煙することにした。

 喫煙所には先客がいた。研修生の志村裕子だ。今回の公演で、生き別れになった王女役をつとめる。研修生でメインキャスト。大抜擢だ。背が低く、劇団が好きそうなタイプの薄顔の女の子だ。

「おつかれさまです」

 俺を見つけ、裕子はおじぎをした。

「内緒にしてください、これ」

 と、持っているタバコの先を立てた。

「タバコ吸うの、内緒にしてるんだ」

「いま楽屋の整理をしてるとこなんですけど、さぼっちゃいました」

 一番下っ端の裕子は、稽古からずっとお茶場の支度や使いっ走りをしているのだろう。出演者も多いので、新人は気が抜けない。

「大道具、いつもありがとうございます」

 本当は演出なんだけれど、と自分からいう気にもなれなかった。

「研修科の発表会のときも手伝って頂きましたよね」

 研修科の二年目ということは、彼女は劇団の養成所に入って三年目。その間俺の大道具姿以外見ていない、ということになる。

「楽屋に戻ります」

 よっぽどのポカでもしない限りは、この子、劇団員になるんだろうなあ、と思った。彼女が俺のことを演出家と認識するのはいつになるのか、と思いを馳せたら、ため息が漏れた。

 劇場に戻ると、井上が客席にぽつんと座っていたので、声をかけた。

「晴美、土曜にくるってさ」

「本当ですか!」

 さっきまでぼんやりした顔で作りかけの舞台装置を眺めていたというのに、いきなり笑顔になり、男の俺にまで色気を振りまく。やっぱりまだ晴美に惚れているようだ。

「受付に招待券置いておきますね」

 井上はいった。

「どう、案配は」

「明日ゲネだっていうのに、不安要素は多いです。皆さん稽古を覗きに来られるので、意見を頂いてます」

「期待されてるじゃん」

 大演出家の皆様方が顔を出してくるなんて、俺ならストレスではげてしまいそうだ。

「俳優からもいくつか問題点をあげてもらってて」

 老いも若きもこの劇団の役者はとにかく意見をいってくる。活発な意見交換は集団作業の醍醐味だが、よく聞いてみると、自分がやりやすいか否か、だったりするときもある。見極め、すべてにきちんと答えを出さなくてはならない。

「いい座組だな」

「皆に助けられてます」

 俺もそんなことをいってみたいもんだ。

「先輩のほうはどうですか、市民劇団」

「けっこう楽しくやれてるよ」

 とはいったものの、一昨日の授業後に、面倒な相談を受けた。


『みごとな女』の立ち稽古を始めた。最初のあさ子と真紀の会話で、俺はたまげた。あさ子役の麗奈は緊張しっぱなしで、セリフをプロンプしてやらなくてはならなかった。それに比べ、真紀役の平嶋さんは、完璧にセリフを覚え、流暢にしゃべっている。

「何十回も読んでいたら、覚えちゃいました。でも、立って実際にやってみると、うまく動けないですね」

 平嶋さんは悔しそうにいったが、上出来だ。

「役のことを好きになると、セリフの覚えが早くなります」

 俺は偉そうに解説した。

「自分と役がどのくらいかけ離れているか、とか苦手な人物だな、と思うよりは、キャラクターの良いところ、面白いところ、憎めないところをみつけるといいよ」

 麗奈にしてみれば『ババア』の平嶋さんがここまで最初から仕上がっているのを見て、闘争心に燃えてきたらしく、

「わたし、気合い入れ直します」

 といいだした。相乗効果が出ている。

 収役の和田はというと声もだせず、いいまわしも一本調子となり、なにをいっているのかわからない。心臓まで止まってしまったのではないか、と心配になるほどの静止状態に陥る。こちらがセリフをいって促しても、そのあとどうしたらいいのかわからなくなるらしく、一ページやるのに、十分かかった。

「緊張しないでいいからね」

 仕方なく、台本を持たせると流暢になる。俳優にとって台本はライナスの毛布か。

 三浦さんが登場すると、空間がやけに厳重になる。緊張感が走る、というより、全体的にものものしくなってしまう。もう少し軽やかにしなくてはならない。

 初回の立ち稽古にしては充分だった。来週は、いろいろ動けるように、台本を読みこみましょう、といって、稽古を終えた。

 俺が市民文化会館から出ると、入口で和田が待っていた。一番セリフ覚えが悪かったことを、反省しているのかもしれない。

「先生、ちょっとお話が」

 そういわれ、俺は緊張した。やはり芝居は難しい、辞めたいなんていい出されたら困る。

 あの、ここでは……、と和田はそわそわ周りを見渡す。改めて和田と俺は年が近いことを思い出した。和田のくたびれた顔は、年相応なのかもしれない。

「じゃあ、喫茶店にでも入りましょうか」

 俺は和田を駅前のドトールに誘った。

 席につくと、俺は先回りして、けっこうしんどいですか、と訊いた。

「ええ、まあ」

「大筋をつかんでいれば、すぐセリフは覚えられますよ。大丈夫」

 悩んでいる人間にそんなこといっても釈迦に説法なのはわかっていた。「すぐに」なんていうんじゃなかったかな、ともいってから気になった。

「早川さん、かわいいですよね」

「は?」

 なにを一瞬いっているのかわからなかった。

「そうですね」

「やっぱり先生も思いますか」

「元気だし、やる気あるしね」

 和田の悩みの核心に届くまで時間がかかりそうだ。

「好きなんです」

 驚きのあまり俺はアイスコーヒーを吹いた。コーヒーが白いシャツに少しかかった。家に帰ったら晴美に怒鳴られる。

「好き?」

「はい」

「誰を?」

「早川さん」

 和田と麗奈は年齢が二十近く離れている。

「僕、人のこと好きになったりしたことなくって、自分のこと欠陥人間だと思ってたんです。このまま結婚とかもできないんだろうなあ、って」

 好きになれる相手を見つけ、のぼせてるのだろうが、結婚とは話が早すぎる。

「一緒にセリフを読んでいるだけで、しんどいんです」

 和田は顔を赤らめていた。俺は内心、知るか、と思った。そうですか、では役を変えましょうか、とはいえない。

 芝居に出てくるもう一人の男、弘は今度はあさ子が惚れる役だ。三浦さんを収にするのは難しい。和田ですら麗奈と見た目に開きがあるのに、三浦さんと麗奈では幼なじみには見えない。親子どころか、孫だ。いくら先日「杉村春子が」なんていって皆をのせたからといって、さすがにきつい。

「しんどいですか、早川さんとやってて」

「なんか、ぼーっと見ちゃいます」

 ものすごく面倒なことを打ち明けられてしまった。

「他に、やっててしんどいことはないですか」

「僕、最近仕事を変えたんですよ」

 質問の答えになっていない。

「職場で覇気がないっていわれてて。僕、緊張しいで」

 見ればわかる。

「上司に、これやってみれば、ちょっとは元気になるんじゃないか、って演劇センターのチラシを渡されたんです。からかわれたんだろうけど、むしゃくしゃして、入ったんです。境先生に姿勢をただしてもらって、臍のした……なんでしたっけ」

「丹田」

「はい、丹田を意識してしゃべるといいっていわれて、会社で報告するとき、先日やってみたら、上司に褒められました」

「それは……、よかった」

 ただの発声練習だが、日常で効果があったといわれると、嬉しい。

「もっと快活に、人としゃべれるようになれたらいいな、って思ってて、ここに来るのも楽しいです。日曜日は、どこにもいかないで、ずっとゲームしてるか寝てるかだったし」

 そこまでいってもらえると、こちらとしては大喜びだ。麗奈に対する、中年の初恋は別にして。

「一週間、きちんと台本を読んで、来週頑張ってみませんか。かっこいいとこ、早川さんに見せましょうよ」

「できますかね」

「できますできます。会社でできたんなら、できます。そのうち普段から声がでるようになります。そういうの、急がないほうがいいですよ。焦らないで」

 とりあえず、発表会が終わるまでは振られたり、傷ついたりしないでくれ、と俺は祈った。

「先生、さすがですね。やっぱ先生はモテるんだろうな」

「残念ながらモテません。数々の失敗の果てにたどり着いた真実です」

 いい年をして、恋愛相談か。高校生にでも戻ったような気分だった。先生、話を聞いてくださってありがとうございました、と和田に深々と頭を下げられた。

 演出家が世話しなくちゃならないことか? と和田が見えなくなってから、頭を抱えた。

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