第6話 演出家とは
早めに教室に着くと、初日に俺が受講生と勘違いしたおばさんが文庫を読んでいた。
「もう授業始まりますか?」
おばさんは顔をあげいった。
「いえいえ、まだです」
「もう少しで区切りのいいとこなんで」
そういっておばさんは文庫本を読む。
「なにを読んでいるんですか」
熱心に読んでいるのを邪魔しては悪いと思いながらも、訊いた。
「『風と共に去りぬ』です」
すぐにおばさんは文庫に顔を戻した。いいところなのかもしれない。
昼下がりののんびりした部屋の空気を感じながら俺は考えた。基礎コースのみんなを半年後、秋の文化祭であのでかい市民ホールの舞台に立たせるまでレベルアップさせるにはどうしたらいいか。
ここは市民劇団だ。クオリティを高いところまでもっていかなくてもいいのではないか。皆が楽しく舞台に立ち、家族や友達に晴れ舞台を見せるだけでも上等なのではないか。『人生を豊かに楽しみましょう』と、宣伝文句にあった。豊かかどうかはともかく、楽しさだけを味わわせることが、俺の役目で、彼らもそれを求めているのではないか。
「あの」
おばさんが俺に声をかけた。
「来週から押し花教室の展示があるんで、良かったら」
そういって、チラシをくれた。先日覗いた絵画展と同じ場所だった。
「片岡さつき、っていうのがわたしです」
おばさん……片岡さんは、チラシにある自分の名前を指差した。
「すごいですね」
俺は特になんとも思わなかったが、自然とおべっかが出た。
「わたし、押し花のおかげでいま凄く楽しいんですよ」
このしおりもわたしが作ったんです。文庫本を開き押し花のしおりを俺に見せた。
「見にきてください、ぜひ。気合いはいってますから」
片岡さんはおどけてガッツポーズをし、照れながら去っていった。
気合い。そうか、上っ面だけ教えても、上達なんてしないし、本当の楽しみなんてわからないのかもしれない。俺はそう思った。
授業がはじまって、発表会をしてみましょうか、と切り出すと、そこにいた全員が驚いた顔をした。やはり時期尚早だったのかもしれない。彼らは先週台本を読んだばかりなのだ。
「それって、どこでやるんですか?」
麗奈がおそるおそる手をあげて質問した。
「劇場を借りるとか、大袈裟なものじゃなくて、ここ、市民会館のこの部屋で、簡単なセットを作って、いまやっている『みごとな女』を上演してみたらどうかな、って思ったんだけど……」
いいながら心細くなってしまい、俺は下を向いてしまった。
「いいですね」
そういったのは、部屋の隅でパソコンをいじっていた芳賀だった。思わぬ援軍が現れた。
「発表会するのは、いい宣伝になるし、皆さんも自分のやってることを見せることができますしね」
俺は気持ちを立て直すことができたが、受講生の皆は、驚いたままで、賛成なのか反対なのか、判断がつきかねる。
「発表会とか、やっていいんですか? 勝手にここで」
和田が不安そうに訪ねた。
「お金とらなければ大丈夫ですよ、きっと」
芳賀の助け舟を借りてうまく彼らの不安の海を航海できるかわからなかったが、漕ぎ出すしかない。
「二ヶ月後、六月末にやれたらな、と思ってます」
夏から本格的に文化祭に向けての稽古が始まるという。それならばこのタイミングでやるしかない。
俺はいった。柔らかい口調でいったが、どんなことをしてでも発表会はしなくてはならない、と覚悟を決めた。彼らをどうにかする、のではない。自分自身を試そう。
役を変えながら読み合わせをした。事前に読んでいるだけあって、皆、割と流暢にセリフを話す。
「自分がいう前に、相手がしゃべったことに、どういう気持ちになって、セリフをいうか、が大事ですから、しゃべりだすのに時間をかけてもいいですからね」
座って台本を読みながらなら、ある程度の感情の発露は容易だ。セリフを覚え、実際に立ってその場でいろいろな行動を起こしたり、相手のしてくることを受け取ったり、となると、まだどうなるかわからない。座って読んでいるあいだに、話の流れと自分の演じる人物の機微を感じ取ってもらわなくてはならない。
こういうとき、滝村先生はどうしていただろう、と思う。授業のときは一回読ませただけで、あとはおのおのに勝手に打ち合わせをさせていた。
俺は自分が演出するときも、演出助手として芝居についていたときでも、あちこち細かいことばかり意識が飛び、なかなか場に向けることができなかった。自分がちびちびコンセプトを詰め、その通りにやらせても、それだと皆で作ったものにはならない。おおらかな気持ちを持とう、と決めた。
自分はたいした演出などできそうもない。演出家は舞台を支配するのではなく、構成要素の一つだ。そのほうが、思いがけない奇跡を引き寄せることができそうな気がした。自分を表現するのではない。相手を輝かせるのが、大事なのだ。
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