第5話 晴美の名案
「気分じゃないわ」
晴美は興味なさげに、井上の芝居のチラシを一瞥して、テーブルに放った。
「なんでまた春に『冬物語』なのよ」
「シェイクスピアすんのに季節感関係ないだろ」
放られたチラシを見て、井上を不憫に思い、俺はいった。
「井上の演出だし、悪くないんじゃないの」
「よくもないけどね」
晴美の井上演出についての弁は聴きごたえがあった。サプライズ感がない、予定調和、俳優を活かしてない、と言いたい放題だ。聞いてるほうが楽しくなってくる。しまいには、
「女をわかっちゃいない」
とまでいい放った。
かつての女優さまにいわれたら、たまったもんじゃない。演出家も、異性をわかっちゃいないといわれたら死活問題だ。しかも振られた女に。真面目な井上が聞いたら、ショックで寝込んでしまうだろう。
「りゅうちゃんがやればいいのよ」
他人への中傷は、すぐ我が身にかえってくる。
「やれねえよ」
やらない、のではない。
「早くやんなよ」
晴美がつっかかってくる。また仕事で嫌な思いでもしたのだろう。
「やる気はあるのよね」
「あるよ」
「ならいいわ」
晴美はそういって、風呂場に向かった。一人になると、急にきまずくなった。
部屋を見渡すと、あらゆるものがあったが、すべて、晴美との共用だった。俺はベッド代わりのソファーに寝そべる。
ルームシェアというより、俺がふがいないばかりに晴美の部屋に居候になっている、というほうが正しい。
「やる気はあるんだよ」
十分ほどして、風呂場をあけると狭い湯船に晴美は浸かっていた。
「はいってこないでよ」
無視して俺は風呂のへり、晴美に背を向けて腰掛けた。
「やっぱ辞めるか」
「なにを」
「このまま劇団いても仕方ないしさ」
ずっと考えていたことを口にした。
「やめてどうすんのよ」
晴美は不機嫌な声でいった。
「舞台スタッフの仕事も、劇団以外であるし、生活はできるし」
自分の将来についてでなく、とっくに俺たちは別れているのに、別れ話をしているように思えた。
「境隆司よ、それはもう演出をやめるということかね」
晴美は芝居がかった物言いをした。
「いや、そういうわけじゃなくて。いずれ旗揚げしたりだな」
俺はしどろもどろになってしゃべった。いっておいて、そんな展望はなにひとつない。
「ストップ! だめでしょ。いまのままじゃ誰も君と一緒にやろうなんて思わないよ。君がいま誇れるのは、のこぎりとナグリの扱いだけでしょ」
晴美は顔をしかめている。半身浴している晴美の、湯から露出している肌から、汗の玉がふいていた。
「まあ聞きなさい。生活できるっていったってさ、金がなくって、いまだに別れた女と暮らしている男ですよ。せまいリビングのソファーで、身体丸めて寝てる御身分ですよ。その上、真面目な話のできる相手は、その別れた美人しかいない、あわれな男よ」
晴美はいった。
「美人て誰?」
晴美は俺の背中を思い切り叩いた。
「いまあんたのまわりにいるのはさ、別れたっていうのに一緒に暮らしてあげている情け深い女と、演出家として入れたくせに、大道具しかさせずに飼い殺して、やめるって自分からいうのを待っているような、クソ劇団と、演劇で豊かな人生だとか腑抜けたたわごとをぬかしているド素人だけ」
腹が立つのは真実だからである。
「三つしかない。でも、それぞれが密接に繋がっている」
「どういうことだよ」
「市民劇団を成功させる。それを劇団のやつらに見せつける。そして、そんな失望させた元彼女を惚れ直させる。どうよ」
「失望してたのか」
俺はわかりきったことを訊いた。
「そろそろわたし、出たいんですけど。水分足んない」
そういって晴美が立ち上がり、飛沫が俺に思い切りかかった。
「自分を演出しなさい。演出家だろ、あんた」
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