第4話 後輩・井上

 ひさしぶりに劇団にやってきた。まもなく始まる公演の大道具作りを手伝うことになっていた。今回は後輩の井上志郎が演出する。

 井上は二年前にアトリエの小空間で演出した作品が内外で評判がよく、一躍時の人となった。万を持しての本公演デビュー。来年には外部で演出することも内定しているらしい。

 後輩に先を越されていく。まったく面白くない。

 ちょうど劇団の事務所から出るときに、井上とはちあわせてしまった。

「境先輩、おつかれさまです」

 井上が礼儀正しく挨拶をした。井上は小綺麗なジャケット姿だった。俺はというと、汚れた作業着を着て、頭にタオルを巻いている。

「先輩に仕込みを手伝って頂けるなんて、光栄です。どうぞよろしくお願いします」

 そういわれてなんとなく下を向いてしまう。俺自身は、自分の顔は悪くないほうだと思っている。しかし、井上と比べると、顔の作りがずさんな縫製で、イケメンのばったものだ。井上は俳優にならないのがおかしいくらいの美形である。女優にモテる。

 井上の、顔以上に気に食わないところは、俺よりも身長が高く、足が長いところだ。

「こちらこそ、どうぞよろしく」

 さっさと逃げようと、俺は井上の横を通り抜けた。すると、井上が俺を止めた。

「先輩、夜お時間ありませんか」

 飲みにいかないかと誘われた。用がある、と断わりたかった。

「まあ、少しなら」

 断るのもしゃくだった。

 本日分の大道具作りのめどがたった頃、井上も稽古を終えた。連れ立って事務所の近所にある居酒屋に入った。養成所の頃から通っているので、店の大将とも顔なじみだ。

「お、珍しいね」

 俺の顔を見て、大将はいった。

 入っておいてなんだが、俺は居心地が悪かった。昔はここで、酔った勢いにまかせ、熱弁をふるったものだった。今となっては大勢で入ってもこそこそしている。

「井上大先生も一緒か」

「先生ってやめてくださいよ」

 井上が笑いながら席につく。

 先生は否定しても、『大』は否定しないのかよ、などとひねくれたことを俺は思った。

 これが売れっ子というやつか。自信と余裕にあふれている。俺は井上をじろじろ眺めた。

 二年後輩の井上に、俺は教える立場だったが、いまでは形勢は逆転した。傍から見れば、先輩後輩ではない。新進演出家と、裏方スタッフだ。

「いまやってるやつの次はなにすんの?」

「来年はチエーホフの『かもめ』ですね」

 俺は鼻柱をはじかれた気分だった。挑戦したいと思っていた演目だった。

「あと、外部でタレントさんの舞台をやることになってます」

 こっちは今年も来年も、予定は真っ白だった。裏方の仕事ばかり入ってくる。

「境先輩は、滝村先生のやってらっしゃる市民劇団の演出をされてるんですよね」

 井上の耳にまで届いていることに、俺は驚いた。

「なんでそれ知ってんの」

 演出ではなく、基礎トレーニングであるということはいわずにおいた。

「滝村先生がおっしゃっていましたよ。一任した、って」

 交通費込みの二千円でな、ということばを口のなかで転がした。滝村先生のことだ。大袈裟に話を盛ったに違いない。

「滝村先生、境先輩のこと大好きですからね」

「やめろよ、気持ち悪い。それに、滝村先生が好きなのは俺じゃなくて、晴美だろ」

 滝村先生は、晴美が大好きだ。会うたびに、「あのでか尻はどうした」と聞いてくる。先生、それセクハラですよ、といっても、「褒めているのにセクハラもクソもあるか」という。

「篠原さん、お元気ですか」

 篠原は、晴美の名字だ。

 井上には浮いた噂の一つもない。まだ晴美に惚れているのかもしれない。井上にモーションをかけ、玉砕した女たちが、あいつはゲイだ、とかロリコンだ、若年性EDに違いないなどと勝手なことを囁きあっているのを、たまに耳にする。晴美と別れてはよりを戻す、を繰り返した挙げ句、別れたというのにいまでも同居している自分がいうのもなんだが、どいつもこいつも狭い劇団内で、惚れた、付き合った、別れた、やった、と兄弟姉妹作りにいそしんでいるなか、井上は潔癖だった。

「いつも通りだよ。仕事の不満をぶーたれてる。このまま面倒なババアになりそうだな」

 わざと晴美を悪くいってから、俺は猛烈に後悔した。

「僕の作品に出てほしかったな」

 ストレートに話す井上に、俺はうらやましいと思う反面、苛立った。

「やりたくなったら、やるだろうよ」

 俺は曖昧に答えた。俺が晴美の気持ちを代弁する資格はない。

「境先輩の演出なら、晴美さん、やるんじゃないですか」

「やんねえよ。あいつうるせえし、演出したかねえよ」

「待ってるんだと思いますよ、先輩がいうのを」

 真面目につっかかってこられると、ぐうの音もでない。

「先輩の『アガタ』、すごく良かったですよね」

 十年前、俺は劇団のアトリエ公演で演出家デビューをした。研修生を卒業してすぐのことだった。若手の番が回ってこない新劇の劇団のなかでは珍しいことだった。滝村先生がごり押しした、とあとで聞いた。はじまる前は、「老舗劇団期待の若手」などと記事が出た。

 晴美を出すつもりだったが、ちょうど地方公演に出演中で、断念した。俺は晴美を演出したことはない。

 演出したのはマルグリッド・デュラスの『アガタ』だった。近親相姦関係を臭わせる姉弟の二人芝居だ。抽象的な舞台セットで、観客の想像力を膨らませる、自分なりに野心的な試み、のはずだった。しかし、集客は悪く、上演後の評判もひどかった。もっと悪かったのは、よその劇団で同時期に『アガタ』が上演されたことだった。それによっていやがおうにも比べられ、「文伯座のほうは期待はずれ」と散々な劇評が新聞に載ってしまい、それ以来、劇団の会議に企画を出しても、一度も通ったことがない。

 それからはずっと裏方の手伝いをしている。毎年入ってくる新人に押され、近頃は演出助手にすら呼ばれなくなっている。

「招待出すんで観にきてください、って晴美さんにお伝えください」

 帰り際、井上はいった。

「伝えておくよ」

 こういうとき、発泡酒はよくない。上辺だけをなぞってしまう。

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