第2話 誰ひとり、出ていない?

 家に帰ってビールを飲みながら、そのありさまを話すと、晴美は爆笑した。まったくデリカシーがない。

「で、結局みんな、いつきたわけ?」

 晴美は朝と同じ格好だった。貴重な休日を有意義に過ごしたらしい。

「一時半に、まず劇団の制作をしている芳賀さんがきたよ」

 芳賀薫は汗だくで現れた、遅れて申し訳ない、と何度も謝った。たしかにその名の通り、汗臭さが薫ってくる、大柄な中年男だった。

 しばらく経っても生徒はやってこなかった。集合時間は一時半「頃」にしているという。

「集まりが悪くて、ぽつぽつやってくるから、二時ぐらいから本腰入れはじめるんだと」

「講師をしろっていった張本人はきたの?」

「滝村先生は秋にある市民文化祭の発表会の稽古が始まるまで特にこないらしいよ」

「紹介しておいて相変わらずだねえ」

 晴美は嬉しそうだった。俺と晴美は劇団養成所の同期だ。滝村先生の指導を受けている。晴美は滝村先生のお気に入りだった。

「だったら基礎トレーニングって、いままで誰が教えてたの」

「台本の読み合わせ会をしてただけだったらしい」

 二時になって、全員が揃わないままで授業が始まった。芳賀が俺を紹介している途中で、人が入ってくる。何度も「滝村先生の教え子で、文伯座所属の演出家でらっしゃる……」とはじめに戻った。そういわれるたびに、いたたまれなくなった。たしかに俺は演出家として、今年で八十五周年を迎える老舗新劇団に所属はしている。しかしここしばらく、演出はほとんどしていない。やっているのは裏方の手伝いばかりだ。

 おため市民演劇センターは、秋に市民文化祭で公演をうつ。それに向けて、稽古前からメンバーは訓練を積まなくてはならない。俺はその指導をするよう、滝村先生に任命された。芳賀の説明で、自分がどういう目的でここにいるのかやっとわかった。

 先週、劇団事務所で滝村先生に呼ばれ、「日曜日、ちょっと発声とかみてやれ」と、基礎トレーニングコースのチラシを渡されたのだ。一回につき二千円もらえるよう話をつけといた、といわれた。どうやら交通費込みらしい。

 どんな芝居が好きなのか、やってみたいのか、と俺は集まった四人に訊ねた。

皆、とくに要望は思いつかないという。自分たちでやろうとしているくせに、演劇自体、実際に観たことがあまりないという。

「じゃあなんで芝居なんてやろうとしてんの」

 晴美は呆れた顔をした。俺はチラシに書かれている文句を指差した。

『演劇で、人生を豊かに楽しみましょう。』

「人生を豊かにしたい、貪欲なみなさんですか」

 晴美が鼻で笑う。

「一人、やる気のある女の子がいたな」

「女の子?」

 いきなり晴美が身を乗り出した。

「女子高生なんだけど」

「JK!」

 晴美はにやにやした。

 今日は自己紹介と雑談、最後に軽くストレッチと発声練習をして終わった。芳賀と今後のことを軽く打ち合わせして市民会館をでると、先生、と声をかけられた。さっき教室にいた、早川麗奈だった。女子高生と一対一で話すなんてことはついぞないので、俺は緊張した。なにをいってもセクハラになってしまいそうでおそろしい。

「びしびしお願いします」

 麗奈は笑顔でいった。近頃の女子高生は営業スマイルを自然にこなす。

「わたし、本当はアイドルになりたかったんですよ」

 アイドルという言葉の響きと目の前にいる女子高生のギャップに俺は戸惑った。隔たりがあるというわけではないが、距離は遠い。三十五歳の俺からすれば、女子高生なんてどれもかわいく見える。麗奈ももちろんかわいいが、とくに人目をひく美少女、というわけでもない。

「中学生のとき、わたし、オーディションに受かったんです」

 芸能界にうとい俺でも知っているアイドルグループの名前を、麗奈はいった。

「でも親に反対されて。大学を出たら好きなことをしていい、っていわれたんですけど、二十二じゃババアじゃないですか」

 この娘にとって、だったら俺はジジイか。すると七十近い滝村先生は生き神様にでも見えるのかもしれない。

「しかたないから女優でもいいかな、って。アイドルよりはつぶしがきくだろうって、お父さんもここの月謝を払ってくれて。なんで、どうぞよろしくお願いします!」

 礼儀正しいお辞儀とは裏腹に、相当失礼なことをいって、麗奈は去っていった。

「アイドルよりつぶしきかねえから、女優」

 晴美は舌打ちしていった。経験者は語る、だ。

「いろんなやつがいるってことだよ」

 したくもないが俺は麗奈を弁護した。晴美と同調してばかりでは、自分のモチベーションが下がりに下がって地球の裏側まで突き抜けてしまう。

「アイドル志望から豊かな人生とやらを貪欲に求める人まで」

 晴美は去年まで、文伯座の演技部に所属していた。いまは契約社員をしている。なんの会社でどんな仕事なのか訊いても、エクセル使ったり、書類書いたり、りゅうちゃんからもっとも遠い場所、と晴美は多くを語ろうとしない。

 少々悪くなった空気をごまかすように、去年の市民文化祭で上演した作品のDVDを観ることにした。宮沢賢治の朗読劇だった。

「悪くないね。テンポがいいから、客席にいても途中で寝ないですみそう。滝村先生、やるね」

 晴美はビールを飲みながらいった。人の演技を褒めるなんて珍しい。

 老若男女、バラエティ豊かなメンバーたちをうまくまとめている。緊張のせいか皆の表情と演技は硬い。だがはっきりと、なにをいっているのか聴きとることができる。なにが起きているのか、しっかりと理解することができ、世界に入りこめる。

「思い出しちゃうな、先生の授業」

「あれか」

 俺たちは苦笑した。

「セリフは大きくはっきりと!」

 滝村先生の口癖だ。最後は元気にやりゃなんとかなんだよ、と本番前に滝村先生はいったものだ。養成所では必ず滝村先生の授業を受ける。男女ペアでエチュードをするとき、こう動いて、ああいえ、とまず滝村先生は注文をつけた。その決められた動きに、養成所に入りたてで生意気な連中のなかには、自分らしくやりたいと反感をもつ者もいた。

「いまにして思えばさ、あれは滝村先生の考え以上に面白いことをやってみせろ、ってことだったのよね」

 晴美は悔しそうだった。

「そんなこといまさらいっても、しょうがないだろ」

「残念なことに、気付いたときにはいつも遅いんだよね」

 そのときそのときを懸命にこなしていても、いつだって残るのは後悔ばかりだ。

「雨ニモマケズ」はやっぱりマストだよな。「銀河鉄道の夜」、わたしもやったなあ。晴美ととりとめなく話しながら、観た。

 こんな風に晴美と芝居の話をするのは、懐かしかった。十年前は、あいつの演技がどうとか、あの芝居が面白かったとか、そんなことばかり二人で朝まで話していた。

 一時間の短い作品だった。カーテンコールでは、劇場に大きな拍手が起こった。俺はDVDを観ているあいだ、不思議に思っていた。

「このメンツなら、やりがいあるんじゃない?」

 晴美はまんざらでもなさそうな顔をしていた。

「いや、ちょっとおかしいぞ」

 もう一度、DVDを最初から流した。俺はテレビに顔を近づけて、じっくりと観た。

「なによ」

「今日いた生徒さん、誰一人出てこなかったんだ」

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