日曜演劇家 〜干され演出家、シロート劇団を立て直します!〜
キタハラ
森本薫『みごとな女』
第1話 授業初日
『毎週日曜日、午後一時から五時まで。発声練習からはじまって、セリフを読み、自分とは違う人物を演じてみることを体験してみませんか。年に一度、市民文化祭で発表会もしています。演劇で、人生を豊かに楽しみましょう。』
毎週日曜日に開講している基礎練習コースの場所は、おため市民文化会館だという。チラシに載ってある地図を見ながら駅から歩いてきたものの、見当たらない。もうじき約束の時間だ。初日から遅刻するなんて、もってのほかだ。汗ばむのは陽射しのせいだけではない。俺は焦っていた。
何度も前を通り過ぎた、まったく目立たないおんぼろ雑居ビルが目的地だと気づいたのは、十分ほど通りをうろついてからだった。活気のある通りにひっそりと、気配を殺して建っていた。隣接するドラッグストアの商品が、会館の入り口そばまではみ出ていた。
入り口に市民文化会館と、小さい表札がかかっている。すすけていて、文字が見にくい。ドアのガラスに手書きで『節電中』と張り紙がある。なかは薄暗い。
ホワイトボードを確認すると、四階の会議室に、市民演劇センターとあった。エレベーターはなかった。約束の時間に間に合ったものの、気持ちが急いて、階段を二段飛ばしで駆け上がった。ついたときには息が切れていた。運動不足だ。
ドアの前で俺は一度深く深呼吸をした。
よし。意気込んでドアを開けると、だだっぴろい教室に、おばさんが一人いるだけだった。部屋を間違えたのかと思い、ドアの前を確認した。確かにここのようだ。
「すみません、演劇教室はこちらでしょうか」
俺はおそるおそる訊ねた。
おばさんは読んでいる文庫本から目を離し、俺に頷く。
「もうはじまりますか?」
おばさんが問い返した。
「いえ、まだです」
俺が答えると、再びおばさんは文庫のほうに集中しだした。時間まで邪魔をするな、といわんばかりの態度にたじろぐ。質問もできそうにない。時計を見ると開始五分前だった。タバコを吸いたかったが、一階まで降りるのが面倒だった。俺はおばさんから距離を置いて椅子に腰掛けた。
会議室は机が並べられたままだった。折りたたんで壁に寄せておかないと、体を動かす場所がない。授業が始まってから作業をするなんて、時間の無駄だ。そもそも一人しかまだ参加者がいない、というのもけしからん。片付けておこうかと腰を浮かせてみたものの、再び椅子に尻を戻した。なぜ俺がしなくちゃならない。はじまるまで動いてなるものか。おばさんは文庫から目を離さない。
窓から青空と街並みが見渡せた。遠くのほうに山並みがぼんやり見えた。おぼろげな山は書き割りの絵のようだ。高いところから眺めると、のどかな町だが、駅前にはファッションビルもあり、賑わっている。都心から特急に乗って、二十分ほどでこの町に着く。
沈黙が苦しかった。俺はシャツのボタンをひとつはずした。同居人の晴美に、ボタンは上までとめろ、と注意されたことを思い出した。
「いい? はじめが肝心よ」
俺が持っている服のなかでは、一番上等なシャツとパンツを着ていた。
「うん。きちんとした格好をしてみると、りゅうちゃんも悪くないわ」
晴美は偉そうに、俺を上から下まで眺め、頷いた。いった本人はといえば、寝起き同然の格好だ。首元が伸びたTシャツに、ジャージのパンツである。
「シャツ、ズボンのなかに入れたら?」
「そこまでしないでいいだろ」
あれこれケチをつけられると歯向かいたくもなる。
「入れていると入れてないとじゃ、やっぱり違うわよ。いちおう肩書きは演出家ってことになっているんだから」
「いちおうってなんだよ」
この肩書きに自分が一番しっくりきていないくせに、俺はいった。
「りゅうちゃんはさ、童顔だし、全体的に貫禄がないから、せめて身なりだけでもきちんとしておいたほうがいいよ」
シャツを入れたがらず、そのまま出かけようとする俺の背後で晴美が一喝した。
「あんたの足の短さ、隠してもごまかせないから」
ずけずけいわれ、腹が立つ。俺はシャツの裾をパンツに押し込んだ。荒っぽい動作で自分の気持ちをアピールしてみた。晴美は気にもしない。晴美に従うのは、今月分の家賃半額をまだ渡していないからだけではない。威厳が足りないのは、自分でもよくわかっている。顔立ちが幼いというのは、三十を過ぎた男にとってネックとなる。人にものを教える、などという威厳が必要な現場ではなおさらだ。
「境隆司センセ、いってらっしゃい」
そういって晴美はさっさとドアを閉めた。もう一眠りする気だろう。
まもなく開始時間だ。いまのところ読書おばさんだけで、誰も部屋に入ってくる気配がない。俺は馬鹿らしくなり、もう一つシャツのボタンを外して、首をゆっくりと回した。
無名の演出家によるトレーニングなど、演劇サークルのメンバーにとって、出てもしょうがないことなのだろう。平日に仕事をしている人たちにとって、日曜日は貴重だ。発声よりも、行楽や家族サービスをしたほうが人生は豊かになることだろう。
腕時計を見ると、一時を過ぎていた。滝村先生に頼まれた以上、毎週日曜、ここで基礎トレーニングの授業を四時間しなくてはならない。生徒がたった一人だとしても、やるといった以上は、やってやる。俺は椅子を尻から引っぺがそうと、勢いよく立ち上がる。椅子が音を立てて倒れた。おばさんが驚いて、俺のほうを振り向いた。椅子を元に戻しながら、はじめましょうか、と俺は落ちつきを払いながらいった。
「今日から基礎トレーニングを受け持つ境といいます。文伯座の演出部に所属しています。どうぞよろしくお願いします」
俺は腰から曲げて礼をした。頭をあげて、おばさんを見据える。おばさんが慌てて小さく頷いた。
「あの」
おばさんが小さく口を開くのを無視して、俺は話す。
「最初は発声練習から始めましょう。どうぞお立ち上がりください」
おばさんはいわれたままに立ち上がり、荷物をまとめ出した。
「来週からは、はじまる前に、テーブルを壁に寄せておきましょうか。でもま、教室でやっているみたいで、なんだか新鮮ですよね。今日のところは人が集まってから片付けましょう」
頼む、きてくれ、と祈りをこめていった。
「あの」
おばさんが怯えた表情をして手をあげた。
「すみません、忘れていました。自己紹介お願いできますか」
「わたし、演劇教室の生徒じゃないです」
一瞬、相手がなにをいっているのかわからなかった。
「午前中にここでやってる、押し花教室のものです」
俺は絶句した。
「午後の教室、いつも一時半くらいからやってて、だからわたし、教室が終わってから、ここで本読んでるんです」
すみません、とおばさんは申し訳なさそうにいった。
「演劇教室って、一時半からなんですか」
「そのくらいからはじまるみたいですよ」
じゃあ……と、おばさんは頭をさげながら、部屋から出て行った。階段を駆けおりる音が次第に遠くなっていく。
結局教室には俺だけしかいなくなった。出鼻をくじかれ、俺はへたり込む。本当に生徒はやってくるのか。ひとまず下に降りて、タバコを吸ってから、テーブルと椅子を片付けようと思った。
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