ライブストック
宇多川ぎょくと
最初で最後
陰鬱な静謐に満ちた空間を乱すその音にセリヌンティウスは目を開いた。丁寧な歩き方が感じられる足音だが、看守すらいない地下牢には存外響く。そうしてカツン、カツンと等間隔で聞こえてくる足音は、小さな頃に読み聞かせられた絵本の敵を思い起こさせて、セリヌンティウスは微かに寒気立つ。そんなことに思いを巡らせている間に、暗闇に慣れた目には少し眩しい松明の灯りが、ただ一人の高貴な狂王を連れてきた。
「愚かな石工よ、気分はどうだ。卑劣な友人に身代わりにされた気分は。」
「私は身代わりになどされていません。メロスは来ます。」
セリヌンティウスは一切の躊躇もなく答える。ゆらめく炎に照らされたディオニスの顔は影に埋もれて表情が読み取れない。ただ言葉だけが響く。
「偽りの純朴など脱ぎ捨てれば良いものを。儂にはその臓腑に眠る疑念と後悔が透けて見えるぞ。」
王は吐き捨てるように呟いた。怒りとも悲しみとも違うその声音にセリヌンティウスは戸惑う。
「王よ、どうしてあなたはそんなにも人を疑われるのでしょう。なぜそのような悪徳に染まったのでしょう。我が友たるメロスのような純粋な善をなぜ信じられぬのでしょうか。私にはその眼に映るものがわかり得ぬのです。」
数瞬、逡巡するような間が空き、そして王は笑った。身に宿る狂気を抑え込んだかのような笑いは、地下牢の壁に不気味に反響する。
「クク、そうか、なぜ余に人の闇が見えるのか知りたいか。よかろう、教えてやろうではないか。友に裏切られて死ぬ貴様への土産だ。」
理解できない感情の宿る言葉にセリヌンティウスは身震いし、それでも敢然と王を見上げた。この血に塗れた王はなぜ生まれたのか、その真実を知るために。
仄かな明かりの中、自分を見据えた視線に王はにやりと嗤う。セリヌンティウスの心を見透かした上で嘲笑するような。
「長い話だ。もう3年近くも前のことになる。かつて……」
王は淡々と語り始めた。
***
そこここに下品にならない程度の装飾が施された王城の中庭。優雅な食事会が似合いそうな中央の芝生には、少々場違いな感じの否めない延々と木刀を振り続ける中年の男がいた。汗が煌めくその体躯に弛みなどは微塵も感じられない。それでいて行動の一つ一つから圧倒的な威厳と気品が滲み出ていた。
そんな不調和が調和した清冽な朝の空気を震わせる、柔らかく、しかしよく通る声。
「ディオニス様、そろそろ政務でございます。お着替えをお持ちしましたので、御仕度ください。」
中庭の王はゆっくりと最後の素振りを終えると、声の主を振り返った。
「もうそんな時間か。これは少し体が鈍ったかもしれんな。まだ普段の量をこなせていない。」
「仕方ありません。ここしばらく連日で重要な政務をこなされているのにそれだけ体が動けば十分でございます。」
王に体を拭くタオルを差し出しながら、白髪白髯の老爺は微笑む。顔は皺だらけだが、その指先まで躾けられた動きやピンと伸びた背筋は老いを感じさせない。これ以上なく執事服の似合う老爺である。
「それに今日の木刀はいつものものより大振りではありませんか。」
目を細めて芝生に置かれたままの木刀を眺めている老執事に、ディオニスは一瞬呆けたような目をしてから、堪えきれないかのように笑った。
「フハハ、やはりお主に見抜けぬものなどないか、アルスト。さすが儂の養育係だ。」
「私も伊達にディオニス様のお世話をしておりませんよ。まだ私の膝ほどしか背がなかった頃から見ておりましたら、大概のことには気づくようになります。」
笑みを浮かべて歓談しながらも、身支度の手は止めない。もう幾千と似たようなことを繰り返してきたアルストは、目を瞑っていたってディオニスの世話ができる。
あらかた着替え終わった時、ふとディオニスは顔を引き締めてアルストの肩を叩いた。
「これからが正念場だ。この国に蔓延る欲に目が眩んだものどもを一掃せねばならぬ。この国を縁の下で支えるお主の手腕、期待しておるぞ。」
返事の代わりにアルストは王の目を見て、ふっと目を逸らして空を見た。俄かに太陽が翳ったためだ。
「通り雨でしょうか。ともかく中に入りましょう。」
二人は連れ立って城の廊下を歩いていった。
***
「その執事のアルスト様と何か関係があるのでしょうか。私には到底あなたの闇と関係のある出来事に思えないのですが。」
「堪え性のない男だ。順を追って話していくから黙っておれ。」
そう言いながらも、疲れたのか近くに転がっていた椅子にディオニスは座り込んだ。幾分拍子抜けしながらセリヌンティウスも壁に寄りかかる。
傍らに開いた通気口から儚げに月光が差し込む。薄汚い地下牢においてもその光は美しかった。壁に染み付いた叫喚を洗い流すかのような光はメロスの純朴な心をセリヌンティウスに思い起こさせた。
座った王が口を開こうとする気配を感じる。この梟雄の心根を見極めるべく、セリヌンティウスも体を起こす。
「さて、まだしばらくは余が愚かにも人間を信じていた時の話になる。」
***
先王の治世以来、平和が続くこの国だが、だからといって政務が暇かといえばそうではない。平和な時代だからこそ、あちこちで泥沼の駆け引きが起こるし、利益に目が眩んだ商人たちが馬鹿げた陳情を送ってくる。全くもって愚かなものだが、軽く見ていると国が傾きかねない故にぞんざいには扱えない。
残暑の疲労が凝る初秋の或る日も、王の間は王とその側近たちが忙しく立ち働いていた…
「ディオニス様、次の書類でございます。ここ1週間のうちに全国から集められた陳情の類です。いつも通り重要なものだけ残しておきました故、じっくり吟味なさってください。」
この時点で既に数cmにもなっていた書類の山が数十cmにまで高くなる。いくらはいかいいえの選択肢しかないように文官たちが処理しようと、王の裁可なしでは物事は動かないため、王の仕事はそれなりに多い。
書類に目を落としていたディオニスは目もあげずに礼を言う。
「すまんな、アルスト。その年ではもう大儀だろうが、今が踏ん張りどきだ。頑張ってくれ。」
「当然でございます。この国のためにこの老骨にできることがあれば、それこそが私めの使命なのでございます。」
誇らしげな口調と裏腹、その目は自慢気に光るでもなく、心配そうに王を見ている。
「しかしディオニス様、お目を悪くされましたか?先程から私めが見ておりますと、随分と見えにくそうにしておりますが。」
「フン、まったく、油断も隙も無いな…。流石にこの体も衰えてきたのだ。しかしそのような情けない姿、臣下には見せられぬ故、常に気を張っていたのだが、お主には隠せぬか。」
書類から僅かに目をあげ、疲れを滲ませてディオニスは苦笑する。国のためと様々なことを行うたびに仕事は増え、ディオニスの気力を蝕んでいく。最近では、皇后とともにいる時間すらあまり確保できていないようなザマである。
「お疲れなのであればしっかりとお休みください。たとえ政務を皇太子殿に譲るとしても、時間は必要でございます。今ディオニス様が倒れてしまっては国の運営に滞りが出ます。」
少し強い口調でアルストがディオニスを窘める。ディオニスよりも十以上年上のアルストがこうして諫言するのはよくあることだった。そしてディオニスがそれにあまり従わないのも小さい頃から同じ。
「わかっておるよ。しかし、国の舵をとるものは常に必要だ。つまり、余が確りと気を保ち、倒れなければ良いのだ。気合いというものは万能薬だからな。」
茶化して笑うディオニスに対して、アルストはいつまでも不安げだ。
そうして話しながらも手は止めていなかったディオニスは、しかし次の書類に目を通した瞬間に硬直する。みるみるうちに笑みが険しい表情に変わっていく。
「アルストよ。お主、暫く余の息子についてくれぬか。」
***
「へ、陛下、一大事でございます!」
そんな言葉を叫びながら会議場に誰も名前すら知らない男が転がり込んできたのは、その日の王と大臣による会議が始まったばかりの時だった。
髪を振り乱したその若い男の身なりはそれなりに清潔であり、安心できそうなことに、その線の細さから少なくとも王の暗殺などと言う大それたことはできなさそうであった。
「何用か。今は国政を左右する会議の最中であるぞ。」
少々頭の固いところがある軍の元帥がその男を咎める。しかしその行動が誤りかと言えばそうではなく、そもそも会議中の乱入など通常許されない行為である。しかし、扉を守っていた衛兵が戸惑い、彼を取り押さえないのは、男の様子に並々ならぬものがあるからだろう。
「も、申し訳ありませぬ。しかし、この件は国家の命運すら左右する一大事。直接、陛下や元帥閣下に伝えるべきだと私は考えます。」
ずれた眼鏡を直しながら、男は平伏する。服を見るに中級の文官のようだ。普段慌てることなど無いに等しいその役職のものをこれほどまでに慌てさせる事柄は何かディオニスは興味が湧いた。
「ほう、それほどまでの一大事か。ならば申してみよ。ただし、内容次第ではその首が飛ぶものと思え。」
あくまで軽い口調だったが、それでも王の言葉に威圧されたのか、少し不自然に男は震え、伏せていた顔を上げた。
そして、一拍おいて男が発した言葉は会議を混沌の坩堝に陥れた。
「は、それでは、——現在、この会議を欠席しております陛下の妹婿様とアルスト様、さらには王太子様が謀反を共謀していることが発覚いたしました。アルスト様と妹婿様は現在妹婿様の別邸に潜伏している模様です。その別邸は王太子様の領地の中にあり、周辺には王太子様の命を受けた兵士たちが徘徊していることが確認されております。その事から、王太子様も謀反に加わっていると考えられます。」
存外冷静なその言葉は会議場を一瞬にして凍り付かせた。誰もが思考を止められる。数瞬して、会議場を包む奇妙なほどのその静寂を破ったのは、王の軋るような声だった。
「それは事実か?」
端的なその言葉や王の表情は冷静そのものだったが、その表情の下に渦巻く激情は察するにあまりあった。周辺の官吏がそれに怯える中、しかし男は王から目を逸らさなかった。
「は、残念ながら。」
「では再度問おう。何故一介の文官如きが仮にも王族の謀反計画を察知できた?」
いつのまにか会議室は異様な緊張に包まれていた。歴戦の猛者たる元帥すら動くことができない程の濃密な空気は、財務大臣など生粋の文官には息苦しさすら味合わせていた。
「実は私の友人がその周辺に住んでいるのです。仲良くしているのですが、その友人が最近兵士などが徘徊し物騒だから原因を調べてくれないか、と手紙を送ってきました。私は文官ではありますが、治安に関係する部署に所属しております故、わかるのではないかと頼ってきたのでしょう。」
と、そこで男は言葉を切り、乾いた唇を舐め湿らせた。
「そうして学生の頃よりの人脈まで駆使して調べておりますと、どうも妹婿様の別邸を取り巻くように王太子様の私兵が徘徊していることがわかってまいりました。これはどうもきな臭いと思いましてなおも調べていくと、妹婿様の元秘書殿に辿り着いたのです。彼は怯えながらもこの計画を私に話しました。」
と、そこで我慢できなくなったかのように王が声を荒げて男の言葉を遮った。
「何故その元秘書とやらを連れて来ぬ。貴様などの言葉を聞くよりその方が早いではないか。」
しかし、男は驚異的な胆力を見せ、一切戸惑うことなく言葉をつないだ。
「そこが問題なのであります。私も最初は半信半疑でありましたが、彼に従って行動していますとそうと思しき証拠が少しずつこぼれ出てまいりました。そして何より決定的だったのが」
男が言葉を切るたびに会議場は静けさに包まれた。その張り詰めた静けさは人の精神を極端に疲労させる。気の弱そうな書記官などはいつ倒れてもおかしくないような有様だった。
「その元秘書の死です。」
ガタンッ、と大きな音が響いた。某書記官は実際に椅子から転げ落ちて倒れたらしい。しかし、そんな下っ端など気にするものは誰もいなかった。いや、正確には気にする余裕があるものなどいなかった。その大きな音すら、空気を緩めることは能わず、寧ろより大きな緊張を与えた。
「先ほど私の元に彼が死んだ旨の手紙と彼の遺言書が送られてきました。そこに決定的な内容が含まれていたため、私はこうして陛下の御前に無礼ながらも転がり込んできたのです。その遺言書、現在は私の家にありますが、ご要望であればいつでもご覧いただけます。」
話が終わって、しかし誰も口を開かなかった。口を開けば死ぬかのような空気の重さだった。そろそろ倒れた書記官に気づくものもいたが、誰も助け起こすことはできないし、そのことを小馬鹿にする者もいなかった。
そしてその静けさを破ったのはやはりその男だった。
「陛下、今すぐ斥候を派遣してください。本職の者たちは私よりうまく情報を集められると思います。そして、軍の準備を。僭越ながら言わせていただきますと、陛下とこの国に永遠の栄光をもたらすため、陛下の英断を期待しております。」
そして後ずさる男にディオニスはたまらず声をかけた。
「名は」
「はい?」
「貴様、名はなんと言う。」
そして顔を上げて男は笑った。この状況においての笑みはもはや暴力だ。全員が思考を一瞬止められた。
「アレキス、そう申します。以後お見知り置きを。」
***
「今、なんの話をしているのかそろそろわかったであろう。」
王は椅子から立ち上がってセリヌンティウスの方を向いた。相変わらずその表情は影に埋もれて読み取りにくいが、それでもその口に酷薄な笑みが浮かんでいることはわかった。世の中全てを嘲笑うかのようなその言葉はセリヌンティウスに寒気を与えた。
「全く面白いものだと思わぬか。お主達が散々批判したあの3人の処刑は、国のために必要なことだったのだ。あの処刑は未だに余の夢に出てくる。」
しかしその言葉にセリヌンティウスはわずかな違和感を覚えた。この目の前の男はこの程度のことでここまで変わるのだろうか。いくら幼少より生活を共にした執事を殺さねばならなくとも、国のためなら殺すだろう。今までの話のディオニスが事実ならば、自分の推測は間違っていないだろう。
しかし、それすら見透かしたかの如く王は話し続ける。
「じゃがかつての余はその程度でこの世界に失望はしなかった。全く愚かなことにな。」
ディオニスから溢れ出る不穏な気配にセリヌンティウスは息を呑む。
***
3人を磔刑に処するその日、刑場には無数の人が集まっていた。ほとんど理由も知らされないままに行われる処刑に反対し、それでもなお止まらなかった王に石を投げるために彼らはここにいる。
溢れかえる偽善の断罪者を刑場の裏からちらと見てディオニスはそろそろと息を吐く。理由を公表しなかったのは、旅立つ3人にディオニスが送れた唯一の餞別だ。だが、この民衆を見ているとそれが間違いであったかのように、そして自分の今までの行動すらも間違いだったように思える。確実に反発するだろうと思って出した勅令に何も考えずに賛同していた国粋主義者が自分の批判に回る。練り上げた案を全て否定する労働者階級が王族が死ぬというだけで小躍りする。
「今回の件で人間の浅薄さを思い知った気がするぞ、アルストよ。お主がそこまで露悪趣味だったのは初耳であるぞ。」
「それが国のためとなるならば、私はいくらでもあなたに背きましょうぞ。老いたこの身が朽ち果てるのが国を思ったその果てならば、その罰が国からの否定であろうと私めには十分でございます。——しかし、妹婿様と王太子様は未だ先の長い身。この私めを凌遅刑に処そうと構いません。どうかご慈悲を。」
執事服がこの上なく似合うと思っていたアルストには、意外にも罪人の粗末な服が映えた。今の彼は、同胞の血を啜り、地を這い蹲って、それでなお正しい姿をと渇望する憂国の士に似ていた。叛逆者としての気概と気迫が老いさらばえたその身から溢れていた。
「残念だがその要求は容れられぬ。お主の存在は世にとっては重石だが、群衆からすれば塵紙にすぎんのだ。王族という大きな存在を使って、初めて抑止力になる。今は反乱が起きて良い時ではないのだから、少しの犠牲くらいは甘受しよう。」
少し口が渇いたのかディオニスが近くの小姓にワインを頼む。すぐに運ばれてきたグラスに口をつけている王を、アルストは鋭く、そして心配するように見る。
「しかし、ディオニス様とていつまでも生きていられるわけではありませんぞ。私のようなただの使用人とは違って、重い責任を抱える王の寿命は短くなりますぞ。もし皇太子殿を処刑すれば、この国とディオニス様の寿命はほぼ等しくなります。」
鋭いその視線も、しかし王は片眉を上げて、柳に風と受け流す。
「言ったであろう?気合は特効薬だ。それに少なくともこの国を潰すような真似はせん。それはお主に約束しよう。たとえ志が相容れなかろうと、儂はお主を尊敬している。稚児の頃から助けてくれた、そのことに恩義も感じている。故にこの誓いを手向けとしよう。」
「……っ。」
この時、ディオニスはわかっていた。自分の答えが噛み合っていないことを。実際のところ、この事件によってディオニスは後継者も、優秀な家臣も失う。平静を装う王にとって、そのことがどうしようもなく恐ろしかった。これは国のためではなく、ただの保身ではないのか。自分は死ぬべきだったのではと弱気な考えが脳裏をよぎる。
「さて、そろそろお主ともお別れだ。天上でお主の罪が赦されていれば、その時はまた色々と語ってやろうぞ。」
「内容次第によっては私はまたディオニス様に刃を向けることとなるでしょうがな。老人が先に死ぬのは道理。この運命こそも天帝お思し召しなれば、あとはディオニス様が正しくあれることを祈るのみが、私めが国にできる最後のことであります。」
そう言葉を交わしたのを最後に処刑人が檻を押していく。同時に裏から、王族として囚人にしてはありえない処遇を受けていた、王太子と王の妹婿が現れる。豪華絢爛な装束ではなく、無骨で酷薄な枷が彼らを留める頸木となっているのはなかなかに痛快で、同時にディオニスを暗澹とさせた。
「我が息子よ、余はお主に国の壊し方を教えた記憶はないのだがな。」
「ええ、そうでしょうとも、父上。人とは各々勝手に成長していくものであります。またその集合体たる国も同じにあれば、父上の思考は世の理に反しているのです。善なる灯火を消そうとするその心こそが。」
「幾分遅い反抗期だな。」
余裕ありげにディオニスは呟いてみせるが、しかしその声音に普段のような威厳はなかった。そのことを追求したかったのか、王太子の口が開くが、しかし連れて行かれる彼の声は処刑準備の喧騒に掻き消された。
***
「あの時の余は今から見ると、全くもって滑稽なものだ。謀反人と天国で酒でも酌み交わしたいなどと、妄言を吐いていた。あのアルストの義士気取りの言葉も仮面だったに違いない。」
呆れたように嘆息する王だが、しかしその声音にどこか縋るような響きがあることにセリヌンティウスは気づいた。まるで迷子の子供が助けを求めているような。その意を量り損ねてセリヌンティウスは黙り込む。
ふわふわと浮かんでいた羽虫が松明に自ら飛び込む。愚かに儚く燃え尽きる小さな虫を見やって、ディオニスはゆっくりと息を吐き出した。
「あの処刑の日は今でも容易に思い出せる。あれは余にとって僥倖だったという他ない。あの出来事によって余は全てを知った。」
静かに目を閉じて、あの時の記憶を瞼の裏に描く。
刑場に現れた王に石を投げる民衆。すでに死んでいるかの様な目でこちらを見る3人。無機質に、しかし血を欲するかの如く腥く煌めく槍の穂先。裏からアレキスが出てきた瞬間、アルストが目を見開いていた。しかし、震えて開かれた口から零れたのは、言葉ではなく鮮血だった。
全てが嘘の様で、妙に現実味がなく、しかし身を焦がす記憶。今となってはその全てが愚かしい。
「それを皮切りに残った王族は全て疑心暗鬼に襲われた。そして迂闊に行動したものから死んでいった。全く、アレキスの手腕は見事だった。」
ディオニスの口が皮肉げに歪む。見るもの全てを斬りつける様な形相。
***
ある日の夜、ディオニスは遅くまで執務を行っていた。処刑したアルストが執り行っていた王の直轄地の支配などは日中だけで終わりきる量ではなかったのだ。上質なワインを少しづつ味わいながら私室で夜遅くまで執務をする日常は嫌いではなかったが、疲れるものは疲れる。いくらと鍛錬を欠かさないとはいえディオニスはもう天命も過ぎた体であり、体の限界は近付いていた。
(アルストも、妃も、息子すら死んでしまった余にこの国を導けるのだろうか…)
脳裏によぎる弱気な思いを頭を振って追い出そうとする。
(何を考えているのか。余にはアレキスや元帥など優秀な官僚が多くいるではないか。そんな弱気でどうするのだ。)
そう念じてみるものの弱気な思いは消えない。度重なる親しい者の裏切りは確かにディオニスを蝕んでいた。
(もう余は駄目かもしれぬな…。アレキスなどを養子にでもしようか。彼奴ならば余のような不甲斐ないことにはならんだろう。)
と、ドアが鳴った。
「誰ぞ。」
短く誰何すると言葉は心地よいほどに即座に跳ね返ってきた。
「陛下、アレキスでございます。そろそろ夜も更けてまいりました故、本日の執務についてご報告をしたく参上致しました。」
扉越しでもよく通る声にディオニスは気を緩める。王族の処刑が相次ぐこの国が未だに国のていを成しているのは偏にアレキスのおかげだった。
アルストの死後、山積する課題への対処や他の王族の謀反計画の発見は全てアレキスの手柄だった。それまでたかだか中級の文官だったことが考えられないほどの力量だった。人事官たちの目が信じられぬ思いであった。それ以来ディオニスは彼を重用し続けていた。
「遅くまでご苦労。入れ。」
その時、ふとディオニスは首筋にひりつくような感覚を覚えた。理屈ではない、鍛え上げた体が何かを察した。体が反射的に動き始める。これから不吉な出来事が起こると体が理解した動き。
ドアが開いた瞬間飛び込んで来た黒い影は一直線にディオニスがいるところへ突進した。全身を黒く包んだ中、一ヶ所だけ銀色に輝くナイフ。一切の躊躇が存在しない動きは、ナイフの軌跡を銀色の光芒へと変えた。
しかし、危険を察知し引き伸ばされたディオニスの視界はそれすらもしっかりと捉えていた。日頃の鍛錬の成果か体も彼の思考に従った。だが、短すぎる間合いと溜まった疲労はディオニスに回避を許さない。
紅い飛沫が散る。
「くぉっ…。」
ディオニスの右腕を半分ほど裂いたナイフは、しかしディオニスにとどめを刺すことはなかった。痛みで動きが鈍るほどディオニスも無能ではない。僅かな間に完全に関節を極めていた。
「何のつもりだ、アレキス…」
何とか絞り出したかのような唸りは罅割れていて、とても王らしい気品は感じられなかった。鬼神の如き恐ろしさ。しかし、対するアレキスは王の詰問も、関節を極められた激痛も意に介さぬかのように飄々とした口調だ。
「やはりここで安易な行動に走るべきではありませんでしたか。焦りは禁物ですね。」
まともに答える気が皆無の回答を我慢できる余裕は今のディオニスにはなかった。
「質問に答えろ!貴様はなぜ余に刃を向けているのかと聞いておるのだ!」
「まさかわかりませんか?暗殺するためですよ。まあ失敗しましたがね。」
小馬鹿にした様に、自明の事柄を述べる。悪びれる気もないアレキスにディオニスの怒りは増していくばかりだった。顳顬に青筋を立てた鬼気迫る表情は子供も泣き止むだろう恐ろしさだったが、アレキスは柳に風と意にも介さない。
「理想の国づくりのために色々と暗躍しましたが、やはり急いては事を仕損じるものです。暴力なんて性急な手段に訴えては失敗しますか。」
死を目前としたこの状況下において、しかしアレキスはどこか他人事のような感じを崩さない。従容と刑の執行を受け入れ、その時を待つ死刑囚のようなその態度。アルストのあの覚悟ともまた違っていた。
ディオニスは激怒していた。必ずこの面従腹背の家臣を除かねばならぬと決意していた。しかしその一方で脳に残っていた僅かな理性には今のアレキスの言葉が棘のように引っかかっていた。煮えたぎる脳はその言葉の意味をゆっくりと消化していき、そして理解した時、ディオニスの口からは呆然と言葉が零れ落ちていた。真っ赤になっていた顔からすっと血の気が失せる。
「暗躍とは…まさか……。」
「おや?決して愚かな方ではないと踏んでいたのですが、随分と気づくのが遅いですね。謀反をこう何度も未然に防いでいるこいつは、点数稼ぎのために扇動しているのでは?くらいは考えませんか?いや、考えないのでしょうね。所詮は真なる国の治め方にすら気づかない人ですから。」
その言葉の後半はすでにディオニスの耳には入っていなかった。真っ白な面は赤鬼すらも恐れ慄くであろうほどに歪んでいる。知らずのうちに腕に力が入り、アレキスの腕がミシミシと嫌な音を立て始める。
「おのれぇ…余の親族を…アルストを奪いおって……一体何が目的だ!うぬ如きの私利私欲がために余は親しい者を殺したというのか!」
絞り出すようなその怒りの声に、腕を捻じ切らんとばかりに込められる力に、アレキスは侮蔑の目を向ける。
「私の私利私欲?何をおっしゃる。私が望むのは質素でも平穏な暮らしです。私利私欲を求めるのならこんな場所にはいません。」
「ならば…ならば何が目的だというのだ!」
理解不能なモノを見る時の恐怖がディオニスの顔に浮かんでいた。怒りも過ぎると最早冷静になるというが、どうやら事実の様だった。激昂する王と異様に冷静な暗殺者がいるこの状況が引き起こすのは疑問と恐怖だけである。これ以上、まだ刺客が潜んでいそうな奇妙な状況。怒りに震えながらも王は如何な状況にでも対応できる体勢は崩さなかった。
「何が?私の目的はただ一つ、革命です。この国をより完璧な理想郷へと変えるための。」
と、ここまで冷徹だったアレキスの目に狂信者の熱が浮かんだ。
「この国をより平等な全き世界へと変えられるのは私だけです。正しく歪んだこの国を全き正しさへと是正するのです。」
熱に浮かされたように熱く語るその言葉は、成程、決してディオニスに届かなかったわけではない。事実、扇動されていたとはいえ、同じく革命を望んだアルストの言葉はディオニスを揺らがせた。しかし、国の為にと磨り減らした王の心は、恐ろしい程に歪で、その熱すらも矯めることが能わない。アレキスの裏側を見抜けなかった自責の念とついぞ全ての近しい人に裏切られた絶望はいかな言葉も貫けなかった。
「王よ、あなたはこの国を正しい方向へ導きたいはずです。ならば、正式に遺書を残して死んでください。あとを私に引き継げばそれでこの国は救われます。」
さながら狂信者の様なその瞳は、ごわついた布の様にディオニスの心から全てを拭い去った。ディオニスの激昂はいつの間にやら深い虚無へと変化し、彼を包み込んでいた。
ボキリ
「うぐァァ!!」
腕の骨が砕ける音がした。その勢いのままナイフを掴み、
「……くぅっ。」
しかし、そこでディオニスの動きは止まった。深い暗闇に塗りつぶされた瞳から雫が溢れ出る。削られ切れた王の心の最後の輝きが零れ落ちる。
痛みにのたうつアレキスではなくその先の床にナイフを振り下ろす。絨毯が裂け、床が僅かに抉れる。
押し殺した嗚咽と床が抉れる音は夜の静寂に静かに響く。
***
「……自らの涙について語ることは、随分と恥ずかしいものだ。」
独り言ちるディオニスをセリヌンティウスは呆然と眺めていた。賢臣と謳われた男の裏の顔が、王の異様なまでの変わりようが、全てが驚きと哀しみに満ちていた。
「さて、そろそろ松明も尽きる。もう夜も深い故に余は帰ろう。必ず明日訪れるお主の死を、ただそこで座して待て。」
くつくつと笑う王の手の中で松明の炎が揺れ、その表情が初めてはっきり見えた。
凍りつく。
ゆっくりと去っていく王の足音を目で追うこともせずにセリヌンティウスは固まっていた。
「あの……眼は…。」
無意識に言葉が零れ落ちる。
一切の希望が、生気が、人が人たる所以の感情が、全て欠落した眼。
底なしの虚無がセリヌンティウスにも忍び込み、心を蝕む。あの眼は人ではなかった。理不尽に殺されていく家畜の眼。あまりに弱く脆く、故に闇雲にものを切りつけて、折れ砕ける氷刃にも近い。
その時、セリヌンティウスは友の純朴を疑った。
ライブストック 宇多川ぎょくと @Gyokuto-Udagawa
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