夕焼け雲に焦がるる紫煙
「ーーーそうだった」
そういえば、そうだった。
世界はとうに、亡んでいるのだから。
「別におかしなことでは、ないよな」
もはや世界は僕等を置いて亡んでゆき、死のうとしているのだから。
「世界はもう、誰も彼もにやさしいわけではないんだったね」
いやに硬く、透き通った左足の小指を見ながら、僕は残り少なくなった重い煙草の缶を開ける。このバニラの薫り、淹れたての珈琲の香り、隣で眠る彼女の髪の匂い。これだけあれば、大丈夫。それだけで僕はーーー。
そっと、起こさないようにして、眠る彼女の髪の毛を撫ぜる。栄養が足りていないのだろう、以前よりも細くなった気がする。それでも、あの突然の断髪の折からはだいぶ伸びていた。この白く停止した世界でも生命は動くし、成長もすれば、代謝もする。
当たり前のように。
いつか死ぬのと同じくらい、当たり前のように。
この分であればおそらくは、僕の方が先だろう。彼女が症状を黙っていたりしなければだがーーー見たところ全身は未だ柔らかだし、なにより彼女は嘘や隠し事の類いが僕以上に下手くそだから、その点は大丈夫だろう。だからこそ、下手くそだからこそ、僕のそれらを見破るのが得意なのかもしれない。
「さて」
煙を吐いて、考える。というのは僕の下手くそな嘘で、実際はなにも考えてなんていないのだーーー思い返して、再確認するというだけで。
僕が先に死ぬパターンの
まぁ妥当なところだろう。あの日、プールで死に損なってしまった
それが、丁度よかったから。
だからこそこれは、丁度いい結末なのだろうーーーでは、僕はこれから何をすべきか。
あのやさしい彼女の為に、どうするべきか?
答えなど、ひとつしかない。
*
その日は当たり前の、いつもの日常を過ごした。次の早朝に僕は、いつかのように、まだ暗いなか出掛けたーーー今回は前回の反省を活かし、コートもバイクも動かさず、静かに結晶まみれの沙漠を歩いて。
結晶に喰われゆくこの世界でも、無機物ある程度の抵抗を見せていた。といってもそれはうわべだけ、ただその形を長く保つことが出来るというだけのことではあるが。
故に彼等はどこまでも孤独だ。
みながみな、結晶の綺麗なかけらになったこの世界でーーーいつまでも形を、おのれを保たなければいけないなんて。
目的地に行く途中、青いローブを纏った集団に出くわした。彼等がまだ残っていたとは驚きだったーーー結晶化が始まった直後、最も混乱していた時期に流行った宗教団体だ。
曰く、これは神による救済である、と。
生きながらに結晶に成り果てた人々は神に選ばれた
だったらあんたらも罪人じゃないか、と口には出さず、呼びかけられても目も合わさず、ただその横を素通りする。どこまでいっても、たとえ世界が終わろうとするこの時でさえ、相容れないモノに対する僕の対処は変わらない。
しかしーーー目を合わせない為に下げていた視界の端に、青が映った。それも二つの。
ひとつは勿論青いローブで、もうひとつは、まだ幼い少女の眼の青ーーー海外の人だろう。
不意に目があったので慌てて目を逸らし、より足早になる。そんな僕の背中を足下からなぞるように、後ろから小さな、けれど確か日本語が聴こえた。
「まだ」
「まだ死んではいけないわ」
その預言は僕以外の誰かに譲ってくれと、僕は口には出さないままに罰当たりなことを言った。
*
目的地は旧市街地の外れにある、一件の古道具屋だった。
昔、店主だった男と友人だったのだが、世界がこうなってからというもの顔を出せる余裕も、なんなら必要もなくーーーかつて
……僕がうっかり行方不明にでもなる、それが最悪の結末だ。そうなれば彼女はそれこそ死ぬまで僕を捜すだろうーーーこの考えを自惚れというには、僕はあまりに彼女を愛しすぎた。死体は残らなければならない。
店に入ると相も変わらず、不気味なものが積まれていた。やれ人を狂わして傑作を描かせようとする絵筆だとか、夜だけを殺して夜が来ないようにしてしまうという伝説の短剣だとか、数百年前の
そして、
厳重に鍵を掛けられ、アクリルケースに保管されたそれ。盗まれたら一大事ということなのだろうが、ケースの一部は結晶に成り果て朽ちていたので容易く手に取ることが出来た。
M1917。
ずしりと重いその感覚が腕に伝わる。弾もケースのなかに供えるように置いてあったのを思い出して、此処に盗みにきたという訳だ。
初めは自前(といっても拾い物だが)のルガーで十分だろうと思ったが、よくよく考えればそれはでは彼女の護身用のものがなくなってしまうので、こちらを使おうと思い立ったのだ。
さて。
しっかり死ぬには、口にくわえて撃つのがいいんだったか。
ごりりという不快な感触のあと、味蕾に鉄臭い苦味を感じて顔をしかめてしまう。映画のようにこめかみを撃ち抜くような格好いい自決の光景ではないな、と思って、笑う。僕にはなんだかこの間抜けさが、ひどく似合っているような気がしたから。
ーーー彼女を悲しませたくないとか、そういった殊勝な心掛けがあるわけではない。むしろその逆で、僕が彼女の泣き顔を見ながら死にたくないというだけで。
彼女の為に生きてきた。彼女が僕に、理由をくれた。
だったらーーーだったら、死ぬときくらいは自分の都合で、と思っただけなのだ。
彼女の泣く顔なんて見ても、ただ痛いだけだから。
そう思って、きちんと外れず咽を貫くように、銃口をより深く口内に押し当てた。苦しむのは御免だ、そう思ったから。
そうすると自然に顔が、視線が上に向いてしまう。だからこそ、気づいてしまった。
天井からこれ見よがしに吊られた、一つの便箋に。
*
"僕は世界がこうなってしまったことを、ひどく悲しく思う"
"しかし、こんなに綺麗な終末を世界が迎えたことが嬉しくもある。複雑な心境だ"
"この手紙を読んでいる君へ。願わくば君が僕の友人であることを願うが、それ以外の誰かでもいい。此処にあるものはどれでも持っていってくれて構わない。上手く使ってくれることを願う"
"君の、あるいは君たちの明日が、幸福でありますように。人間とは幸福へと進み続ける生命の総称なのだからーーーよりよい結末を探してほしい"
"此処にあるもののうち、命を奪うことに使えるものは少なくない。よく考えて使ってくれ"
"では、僕はそろそろ出発することにしよう。こんな世界でも、なにか美しいものを見たいからね……では、よりよい終末を"
"赤紗堂 店主"
"追伸ーーーもしこれを見ている君が、ひょんな気を起こして当店を訪ねた時。この手紙は、君を想う誰かが此処を探し当てるまでの、時間稼ぎくらいにはなったかな?"
そこまで読んだ時、背後から扉の開く音がした。
振り返った途端に左頬に素晴らしいフックを貰って、思いっきりのけ反ってしまう。
「こんの……くそばか」
「……ばかなのは認めるけれど、くそっていうのは女性としてやめなよ。グーで殴るのも」
「喧しいよ、くそで足りなきゃ大くそばかだーーーなぁ、おい、頼むぜ」
黙って死ぬなんて水臭い真似、しないでくれ。
そう、彼女は言った。
ーーーあぁ、痛い。そんな顔を見たくなかったから、僕は一足先にと思ったのに。
痛くて痛くて堪らない。
「……やっぱりばれるよな、君だもの」
「私にばれない訳があるかよ、他のことならともかく君のことだぞーーーいつからだい」
「気づいたのは昨日だよ、中身がどうかまではわからないけれど……悪かった。御免なさい。許してくれ」
「……煙草を一本くれたら、考えたげるよ」
おやさしいことで、と僕がシガーケースに入れていた缶ピースを取り出すや否や、彼女は奪う様にそれを吸いだして案の定咳き込んだ。
「おいおい」
「ーーーぐ、あぁ、くそう。なんだって君の煙草はこんな重いんだーーー煙が、目に。目に染みてーーーふ、ぐ」
「……そうだね」
「煙いなぁ……くそう」
僕はどうすればいいのだろう。どうすればよかったのだろう。
目の前の大事なひとを傷つけない為には。
僕はーーーいつからか、僕の為だけに生きていたらしい。不甲斐ないことに今気づいたのだが、彼女の為に生きることこそが、僕の最大の幸福だったのだ。
で、あれば。
「×××までは、一緒にいるから」
「当たり前だ、ばか」
しばらく珈琲を淹れるのは、僕の役目になりそうだった。
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