きっとあなたは泣くのでしょうね

「"こうして死んでも、わたしはあの方の、あの方の足下で死ぬの"」

そんな科白セリフが聞こえたから僕が読んでいた漫画本から目を上げると、彼女は向かい合うソファに寝そべってなにやら御本を読んでいた。起きようともせず仰向けのまま、にやりとした笑みを浮かべて僕を見る。その手は、今にも折れてしまいそうな樹氷のような指は、本の背表紙を隠すように覆っていた。

「……寺山修司?」

「不正解、ゲーテ。そういうわけで君の負けだから珈琲をよろしく」

「海外古典はさっぱりでね……あぁ、でも駄目だ。言ってなかったっけ」

「言い訳はなしねーーーなんだよ、まだ足腰が立たなくなるような年じゃないだろ?昨晩少しはしゃぎ過ぎたからって」

「喧しいな、いや、そうじゃなくて。珈琲もう切れちゃったんだよ」

いくら二人とはいえど、配給のなかで嗜好品として得られる即席インスタント珈琲は微々たるもので、しかも僕等ふたりは揃って血管にカフェインを流し込むまないと動けないような類いの輩だ。これまでは配給と廃墟からの"採集"でなんとか絶やさず賄ってきたけれど、それもいよいよ底を尽きた。

僕がその旨を伝えると彼女は少し笑って、「死のう」なんて言った。

「生きる意味なんてもんはね、君と寝起きに飲む一杯の珈琲程の価値しかないのにーーーうん、まぁ、まだ紅茶があるからいいや。ほら、さっさと持ってきて」

「はいはい、分かりましたよってに。……あんまり君が紅茶飲んでるところは見たことが無いけどね。砂糖は?」

「3つ」

珈琲は頑にブラックのくせに、こういう所では甘党が出るようだった。


F&Mの紅茶の缶を開けると、それだけでいい香りが鼻孔にまで届いた。質のいいダージリンだ。一月程前に廃墟となった大型デパートにふたりで赴いた時の収穫であるーーー食糧の類いは既にすっからかんだったが、調味料の類いや栄養サプリメントなどが微々たる量ながら残っていたのはありがたかった。この亡んだ世界で一番不足しているものといえば野菜の類と嗜好品、そして最も満ち満ちているのが栄養にもならない結晶と少しの悲観だろうから。

「欲をいえば牛乳が欲しかったけどね」

そんなものは愛と一緒に、とうに腐ってしまったことだろう。


*


「突然で申し訳ないんですが、このあたりで30歳くらいの男性を見ませんでしたか。こう、阿部寛の彫りをぐっと浅くして、極限まで不機嫌にして、この上なくブアイソーにしたような顔つきの男性なんですが」


そんな風にその女性が尋ねてきたのはあまりに唐突で、まだ珈琲も仕入れていなかったので仕方無く紅茶を出すことにした。というより珈琲を切らした翌日、つまり今日の"採集"のかいもなく即席インスタント珈琲も、豆さえも得られずに亡霊アパートに僕等が戻ってみると、門前に近頃いっこうに見掛けなかった人影があって、それがこの女性だったという話なのだが。

「いや、このあたりでは見ないですね……この上なくブアイソーな男性ならそこに一人いますが、あれは私のなので多分違うでしょうし」「そうだね、私のは彼ほど可愛くはない。素直じゃないんだ、私のは。露骨に無頼を気取るというか、露悪的というか」

そんなことを言って彼女は(何故か)意気投合しているが、僕としてはあまりその女性を歓迎するわけにもいかなかった。

聞けば女性はある目的地ーーーこの近辺らしいーーーにその捜し人と向かっている途中、はぐれてしまったのだそうだ。確かに時折激しく結晶の粉塵が舞い、砂嵐のようになる日もあるが、しかし。

地域ごとの食料配給がある程度功を奏しているこの日本において、この御時世にわざわざ大きな移動や旅をする人間は二種類に限られる。


ひとつ、死に場所を探している人間。

ひとつ、生きるために略奪しつつ移動を続ける人間。


この女性がどちらかは分からない。分からないが、いっそ後者であった方がまだ楽だ。

かつて、世界がまだ生きていた頃は僕だって一応、でひととのつきあい方を学んできたつもりだ。だけれどそんな甘えがまかり通る程には最早、この世界は、やさしくはない。


あらゆるものが結晶に、きらめく墓標に成り果ててゆくこの世界ではで、すべてを語るべきだろうから。彼女は初対面の女性を失っても、十分に傷つきうるから。


彼を思い出す。笑って、墜ちて、砕けたを。どうもあの日以来、どこかに食い込んでしまった破片がずきずきと痛むような気持ちになる。

悼むような。

目の前の落ち着いた女性がであれーーー傷つくことは避けられない。前者が精神的、後者が物的の違いくらいのものだろう。この世界では出逢うものすべて、何もかもが痛みと同義だ。彼を捜すために数日でいいから泊めさせて欲しい、という女性に、今晩を合わせて二泊までという約束を取り付けたーーー長居はさせられない、と一人で思う。情が移る程には。失ったら痛いものは、出来るだけ少ない方がいいーーーでも。


それでもきっと彼女は泣いてしまう。

何を、どんな失い方をしようとも。


ならば僕にはなにができるだろう。

、そんなやさしい彼女に対していったい、何が。

痛みに遭わないように護るーーーのは、この世界では些か難しすぎる。かつての生きていた世界でだって上手に生きられなかった僕なのだから、せめて、痛みに耐えるために噛み締める折り畳んだハンカチくらいの役割は、果たしたい。


そんなことを思いながら紅茶を淹れていたものだから、なんだか妙に苦くなってしまった。







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