死んだ世界のトロイメライ

こんな夢を見た。


"七年前の少年"は、どうしようもなく死にたがっていた。

死に焦がれていた訳ではないーーー単に、 これ以上は生きていたくもなかったというだけで。中学三年生の夏、真夜中。少年は死ぬために学校のプールに赴いた。

なるべく馬鹿らしい死にかたが良いだろう、と少年は考えた。別に誰かに苛まれた訳でもなく、絶望を味わうほどなにかに望みを抱いていた訳でもなく、自分はただ生きていたくないから死ぬのだから。誰かが冤罪を背負うよりは、いっそ皆に呆れられてしまうような、そんな死にかたがいい。


少年ぼくがあの日、大量のアルコール飲料を持って深夜の学校のプールに向かったのは、そういう顛末だった。



「髪を切ろうと思う」

ーーーろくでもない夢を見たせいで寝惚けていた僕の意識が一気に覚醒するのに、それは十分な文句だった。へ、と間抜けな音が口から漏れ出て辺りを漂う。

「いや、久しく切ってなかったしね。そろそろいい頃合いだろーーーあれ。なに、君、そこまで長いのが好みだったっけ」

「いや、あー……うん」

別にロングが好み、と言うわけでもない。言わせてもらえば僕はロングが好きだから彼女が好きなのではなくて、彼女が彼女だから、そのいち構成要素としてのロングは確かに好ましい。

けれど、どちらかというと、短い髪の彼女は少し苦手だ。


あの日の僕等を思い出して。

あの日死に損なった"七年前の少年"を思い出してーーーほんの少し、気が滅入るというだけ。


「いや、いいんじゃないかな。良い気分転換にもなるだろうしね。……自分で切るの?」

言った後でしまった、と思う。もう遅い、とも。

目の前の彼女は珈琲をひとくち、そのかたちの良い唇に含んでーーーカップを置くやいなや、その唇をにやりと邪悪に、淫靡に歪ませて笑う。

「ーーーなに、切ってくれるの?」

「私の、髪を?」

「毎晩のように寝床で髪を?」

うるさいな、と言って僕は彼女をじろりと睨む。彼女はさも可笑しそうにくくく、と笑った。

まったく、からかわないで欲しい……というか乱暴にして欲しいというのは、そちらの御要望リクエストだろうに。

「まぁ、それはそれでもいいよ。僕が散髪してもいいけどーーーうん、賭けてもいい、多分君が自分でやった方が相当マシだろうね」

「いや」

君にやってもらいたいな、と。

彼女はいつものように僕の目を覗き込んでくる。

あぁ、そうだ。

あの時もーーー。



七年前の少年ぼくは初めて酒精アルコールをかっ食らったものだから、悪い方に酩酊していたーーーここで自分の酒の性質たちを知ったともいえる。前後不覚にはなるが、意識はいやにはっきりしている。

これはよくないな、と思った。

いくら自分でも死ぬのは少し怖いから、それを誤魔化すような甘い酩酊は期待していたのにーーー最高なのはこのままプールサイドで眠りに落ちて、そのままどこかの詩聖よろしく溺れ死ぬ、という末路だった。

『……酔生夢死、ね』

当時、古文か歴史の授業かなにかで習ったのだったか。

酔うように生き、夢に死ぬ。成程そいつは素晴らしいのだろう。それこそが幸福だ、と余人は言うのだろう。

ーーーそれは違う。卵が先か鶏が先か、ではないけれど、 幸福しあわせな人間だけが、だからこそ、生きることに酔えるのだ。死に夢を持てるのだ。

だから僕のような人間は、悪夢のように生きるのが嫌になったから、酔って死ぬ。


そう思って、ゆらりとーーー重心を頭に移しながら、真黒な水面に身を委ねた。


ただでさえ七月の熱帯夜、そこに酔いが回っているものだから、僕のからだはひどく火照っていて、初めは水が心地好かった。

次第にからだは悲鳴をあげ始めるーーーもっと空気を。酸素を、窒素を、二酸化炭素でもいいから寄越せと必死になって脳味噌に苦痛を伝えるが、その脳味噌はどうやらとうに腐っていたようで死にたがっているうえに標本でもないのにアルコール漬けだ。からだを動かせるはずもなく、僕は、僕の命は、水に溶けてーーー。



ざぱり、と、イルカの跳ねるような音がした。

僕はあの日の彼女に抱えられて、死に損なっていた。


僕がなんとなく、ほんとうになんとなく阿呆らしいだろうという理由だけで選んだピンク色のアロハシャツを着ていたのが悪かった。そこには水も滴るセーラー服の少女に抱えられる、濡れ鼠のアロハシャツの少年というよくわからない構図が出来ていたからだ。

僕は泣いていた。別段悲しくはなかったが、人間というものは死にかけているような状況から解放されると涙を流すように出来ているらしく。

月がいやに綺麗な夜だった。

短く切り揃えた彼女の黒髪が、水の珠をつないでいた。


『なにがあったかとか、どうして、とか、そんなことは訊かないよ。間違ってるとか生きるべきだとか、そんなおべんちゃらも、言わない』


プールサイドで座って足をぱちゃぱちゃと遊ばせながら、初対面の少女は言う。笑って、ただじっと、隣に座る少年の目を見つめながら。



『もし、君が生きている理由がないっていうならーーー、うん、私の為に生きてよ』



あぁーーー生きるのは、生きる理由は、そんな楽ちんなもので良かったんだ。

少年が呆れたように笑いながらそう言うと、彼女も笑ってこう言った。

そんなに上等じゃないだろうけどーーーそれなら、これから善くしてけばいいんだよ。

ぼくと、かのじょで。



彼女もまたきっと、死ぬために学校を訪れたに違いないーーー学校の屋上からは、プールがよく見えるから。

"七年前の少年"は、屋上に翻るセーラー服のプリーツを見た気がした。

あの夜、少女もおそらくは、プールサイドで酔って死のうとしたアロハシャツのあげる飛沫を見たのだろう。


前者はただ利己的に死のうとして、後者は、たすけた。ただそれだけの違い。ただそれだけの、話。


彼女がどうして死のうと思ったのかなんて興味もないし、聴きたくもないし、訊くべきではないし、知ったところでなんの意味もない。

あの日確かに死にたがっていた僕等よりも先に、世界が亡んでしまったのだから。

だから、彼女は僕の生きる目的になった。

そして、僕は彼女の生きる愉しみになった。


そうして僕らは今もなんとか、せせこましく、図々しく、爛れるような生を満喫している。


「にやけ顔」

ベッドのなか、隣にいる彼女が僕の頬をつついてくる。なってしまった世界の夜はあまりに静かで、なんとなく寂しくて、僕等は今日も互いに互いを重ねて慰めあっていた。

「なにか良いことでもあったのかなーーーこんな御時世、思い出し笑いでもないだろうに」

「いや、思い出し笑いだよーーーまったく。うん」

「なんだい」

「君はショートカットも、よく似合う」


酔うように生きるというのなら。

僕は少し、このあたたかな美酒に酔っているのだろう。


「……ひとを養命酒みたいに言うんじゃないよ、私、あれ苦手なんだ」

「僕はけっこう、好きなんだけどねーーー」












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