残骸ひとり、残滓がふたつ

「自分」というものがいったいいつからあったかーーーそんな益体もないことを、時折痛みがぶり返す治りかけの打撲のように考えることがある。「物心のついた頃」というのが一般的な回答なのだろうけれど、それだって物心の発生したその瞬間、特異点とでもいうべきその一点を自覚できない以上はあくまで実感ではなく定義でしかない。  

「私は覚えているよ、物心がついた特異点。保育園の頃に初めて珈琲を飲んだ時。いやぁ、思えばあの頃から、カフェインに依存していたのかな」

 そう彼女は言うけれど、それはきっと最も古い記憶というだけで―――自己の発生とはいえないのではなかろうか。いうなれば彼女の自覚は、自分が始まってからの「線」の端だろう。点ではないのだ。

 始まりの一点を観測しようにも、その点以前には自分がいない。

 始まりの一点以降には、そもそも線しか存在していない。

 その点の存在だけが認知されてはいるけれど、その実情は誰も知らない―――つまりは誰も知りえないのだから、ヴィトゲンシュタインに言わせれば「黙れ」という一言に尽きる問題なのだろう。僕もそれに倣うことにする。



 では、終わりはどうだろう。



 これだって前述の命題と同じでなんの生産性もない、ただの時間の浪費ではあるが―――最早亡んだ世界の果てに、時間の浪費以外にやることなどあろうはずもない。

 あの、父娘を思い出す。その残骸を。

 「自分」というものが、いったいいつ終わるのか。

 この命題の解はきっと、誰もが知ることができるのだ。ただそれが分かった瞬間には最早知覚すべき「自己」はなく、ただ誰にもそのことを伝えられないというだけで。

 誰もが最期は亡ぶのだから。

 そして今、僕の眼前には、その問いの答えがある。

 答えが、いる。

「―――」

 なにか言っていることは分かる。けれど何を言っているのかは分からない。

もう口内は親知らずのように生えてきた結晶でずたずただろう。


 結晶に喰われつつある人間。

 この砂漠に、この世界の終末に呑まれようとしている、名も知らぬ彼。


 そんなものに出逢ってしまった―――生きるための糧を「採集」している最中だというのに。

 嫌になる。ほんとうに、僕という人間は間が悪い。

「……ここまで成り果ててもなお、か」

 どうする?と。

 彼女は僕の目を覗き込むようにして言った。

 彼の右足は既になく、断面には細かな結晶の群れが血に滲んでいる。遺った五体ならぬ四体も最早肉より無機物の方が占める割合が多いだろう。ここまでくれば内臓だって侵されているはずだ。

 それでも心臓が動いている。

 透けたからだの奥で、真赤に脈打っているのが嫌でも見えてしまう。来ていたシャツは背中と左肩から突き出た一際大きな柱で引き裂かれていた。

 ―――できることなら。

 僕の、僕等の見えないところで、成り果ててほしかった。

「どうする、って」「もう助からないぜ、彼」

 バイクの荷台に腰を預けるようにもたれて、彼女は黒い紙巻に火をつけた。

「亡霊アパートに連れて帰って看取ってやる、というのも案としてはあるけれど―――この結晶化の媒介がなにか分からない以上、得策とは言えないよ。ともすれば私たちも含めて、結晶三つができるだけだ」「……何かをする、って前提しかないのかい。このまま僕らがここを立ち去るってのは」「私は別にそれでもいいけれど。でも、君はそうはしないだろう」

 ……しないのではない。

 出来ないだけだ。

 透明な刃に咽喉を裂かれながら、それでも何かを訴えるような彼の目から逃げられないだけなのだ、この弱虫は。

 卑怯者は。

「楽にしてあげる、というのが彼にとってはいちばんいいだろうね。……私たちにとってはどうかはともかく」

 そう言って彼女が煙草の火で指したのは、僕のカーキのトレンチコートの胸元。


 命を殺すための銃だ。

 

 僕は何も言わない。ただ黙って、目の前を這う彼を見ている。いや、何も見ていないのだ。

「―――、―、―――」

 彼は何かを言っている。それが命乞いなのか、殺してくれと言っているのかさえ分からない―――そもそも白く濁った眼で、彼は僕らが見えているのだろうか。

「……高い所に連れて行ってください、だって」

 そう彼女は言った。

「よく聞き取れたね」「唇を読んだんだよ……あぁ、まさか現実でこんな台詞を吐く日が来るなんて。もっと格好がつく場面がよかったなぁどうせなら」

 十分格好いいよ、なんて言いながら、僕はその場にしゃがみこんで―――割れないように、崩さないように、まちがっても殺さないように、そっと彼を抱きかかえる。

「……まったく、ほんとうに呆れるくらい甘いね、君は。砂糖くらい甘いんじゃないの、ミスター和三盆」「うるさいな、だったら抹茶でも立ててくれ……確か少し行ったところに大学のタワービルがあったから、あれでいいだろう。バイク押して着いてきてよ、落雁ちゃん」

 そんな軽口をたたいて立ち上がる。右足が無いのを差し引いても悲しいくらいに、その物体は軽かった。体積じたいは突き出た結晶でむしろ増えたくらいだから、きっとこれが、死にゆく人間の重さなのだ。

「……抱え込むのはいいけれど。いやに背負いこむのはお勧めできないな―――じゃないとまた君、重い煙草を喫う羽目になるよ」

 そんなことを彼女が言うものだから、僕は思わず笑ってしまう。ほんとうに嫌になるくらい、似た者同士の僕等だったから。彼女だってたいがいに、僕に対して甘いのだ。

「ありがとう。でも、もうそれは決定事項だから―――ここでなにをしようと、あるいはなにもしまいと、どうせ僕は勝手に嫌な気分になるだろう。だったらせめて善人ぶって、煙を吐こうと思ってさ」「……ほんとう、イイ性格してるぜ、君」「愛想が尽きた?」「惚れなおした」


                  *


 なんのことはない。

 分かり切っていたことだ。


 かつて、よくこの辺りで彼女の古書店巡りに付き合っていた頃に見かけていた、大学の高いタワービル。なんとかタワーだったかタワーなんとかだったか大層な名前が着いていたけれど、よく覚えていない。

 非常電力は供給されているにしてもエレベーターやエスカレーターに回す余裕はないらしく(しかも場所によっては結晶になりかけていたため)、動いてくれなかったので階段を使って、なるべく高い所を目指した。十七階で僕の脚が悲鳴を上げ始めたのでそこで勘弁してもらって彼の目を外に向けてやる。「結晶化」初期の暴動の爪痕か、これだけ高い建物だというのに窓は殆ど割れていた。

「―――」

 そこから見える景色は圧巻だった。亡霊アパートの屋上もそこそこ高いが所詮は四階建て、ここまでの景色は望めない。


 そこからはどこまでも真白に澄んだ世界が見えて、砂漠にいくつかの大きな結晶の柱が、まるで墓標のように屹立している。エジプトのオベリスクのようだ、と思った。フ略奪の末にフランスの広場やイギリスの博物館にあるあの碑よりはるかに大きいし、美しさの質もまた違うけれど。

 どこまでも続くそんな綺麗な景色に―――ひとかけらの救いもなくこの世界は亡んだのだと、改めて思い知る。

 

 腕の中で、彼は笑っていた。


「ありがとう」

 そう言ったのが聴こえて、僕の腕は空っぽになる。

 地面は、見降ろさない。帰るときには逆の出口から出よう、なんて思った。

「……綺麗だね」と彼女は言った。「うん」と僕は泣かずに答えた。

 彼は初めから、死んでしまいたかったのだろうか。

 それとも、まだ世界に希望が遺されていると信じていて、この景色を見て絶望して落ちたのだろうか。

 あるいは、ただ単に綺麗なものが見たかっただけかもしれない。その一部になりたかった、それだけかも。

 ……今となってはそのどれもが正解で、それでいて全てが不正解だ。彼はもうこの世界の一部で、ひとりぼっちの命ではない。僕らふたりはふたりだけれど、いつだってひとりとひとりのままなのに。

 ずるい、と思うのはいくらなんでも理不尽か。

 平和、と名付けられた重い煙草に火をつける。ふと手のひらに痛みを感じたので確かめてみると、ざっくりとそこそこ大きな裂傷ができていた。彼のからだにひっかけてしまったのだろう。痛い。


―――あぁ、痛い。痛いな、これは。


「だから言わんこっちゃない」

 彼女はそう言って、紙巻を二本咥えて火をつけて。一本、地面に落としてやった。

「……付き合わせて悪かったね。そろそろ帰ろう、陽も沈む」「そうだね」

 のんびりとふたりで他愛ない会話をしながら、一階まで競うみたいにして降りた。じゃんけんで勝ったら、例えばパーで勝ったら「パ」で始まる単語の文字数だけ降りられるあれだ。

 目の前でひとが死んだ割にはただどっと疲れただけで、思ったよりも僕は冷酷なのだな、と思う自分がいた。

 ようやく地上にたどり着いて、バイクにまたがる。

座席の後ろに座った彼女は何も言わないまま、やわらかに僕を抱きしめた。

「こうやって君は、いつも損をするんだから」



「―――今夜は優しくしてあげるよ」

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