ピンは役立たず

三津凛

第1話

「ほら、ピンなんて役に立たないのよ」

私の胸からママが先ほど留めたブローチがピンごと外れて落っこちた。

目の前でそれを見ているのに、理津子は拾い上げることもしない。

テーブルでは紅茶が湯気を立てている。ママの焼いたスコーンが私と理津子の間に香りを広げる。

「りっちゃん、見てないで探してよ。無くしたらママに打たれるわ」

理津子はふん、と鼻を鳴らす。

そしてレコードを何枚か引っ張り出して振り返る。

「今日は何を聞く?」

パパからそっくり譲り受けた年代物のそれを理津子はいつも熱心に聞き込む。

「ねぇ、そんなことより…ブローチを探さなきゃ、本当に打たれちゃうわ」

りっちゃん、と私が泣きそうな声を出しても理津子は全く感傷を動かした気配を見せない。

私は膝をついて、分厚い絨毯を這い回った。

「バッハのブランデンブルク協奏曲なんて、どう?私バロック音楽が好きだわ」

「…どうでもいいわよ」

ベッドの下も埃に塗れて探してみたけれど、ブローチは一向に見つからない。

理津子は本当にレコードをかける。呑気に流れるバッハに私は殺意が沸く。

「ばか、どうして探してくれないの!ひどいわ」

癇癪を起こした私を理津子は悠然と椅子に座って見上げる。

「ひどいのはあんたの方よ」

「どうして?」

「ばか、わからないの?」

理津子が手招きして自分の膝に私を座らせる。

そっとブローチのあった場所を掌で覆って、理津子は続ける。

「あのブローチはね、ママが自分の元にあんたを留めておくためのものよ」

「…そんなんじゃないわ」

「そんなものよ。…ピン留が役立たずなこと、本当はわかってるでしょう?」

私は黙って絨毯に瞳を走らせた。ブローチの煌めきすら、どこにもありはしない。

私はため息をつく。

あぁ、どうしよう。このままじゃ本当に打たれてしまうわ。

「ママはね、最近とってもうるさいの」

「そうね、心配なのよ」

「なにが?」

理津子は優しい顔をして、私の方を覗き込む。

「恋をしているのが」

「…どうして、わかるのかしら」

理津子はママの淹れた紅茶を手に取ってそっと飲む。そして、温かいカップの淵を私の唇にくっつけた。

私は素直にそれを飲む。自分の手を使わないで紅茶を飲むなんて、まるで赤ん坊になったみたいだった。

「ママも同じ女だからよ」

理津子は笑う。

「でも、ママは勘違いしてるのよ。私の相手が男の子だって疑ってないわ」

「…そうかしら」

「どうして?」

理津子は私を立たせて、ほんの少しだけブローチを探す仕草をした。

私はもう半ば諦めていた。今夜ママに打たれても、理津子に慰めてもらえばいいわと思いだしていた。

「ママは、倫理の塊よ。あなたが男といるよりも女とずっといる方がよくないって本当は思ってるかもしれないわ」

「いやだ、怖い」

理津子は思い切り私を抱き締めた。

スコーンは手つかずのまま硬くなっていくようだった。

理津子の手が優しく私の髪を梳いていく。

「ふふ、でも大丈夫よ。ピンは役立たずだもの」

私の太ももに硬い感触が走った。目を下げて見てみると、理津子があのブローチを握っていた。

「りっちゃんが持ってたんじゃない!」

「…ふふ、だってテーブルの下に落ちてたのさっき見つけたんだもの。探し方が悪いのよ」

私は今夜ママに打たれなくていい未来に安堵した。でも、理津子に甘える口実が一つ無くなってしまったことが妙に哀しかった。

「でもこのブローチはだめよ」

「どうして、返してくれないの?」

理津子は私の目の前にブローチを晒す。

ちょうどピンの所が壊れていた。たった一度外れて落っこちただけなのに、もう使い物にならなくなってしまった。

「ちょうど、ママの倫理みたいね」

「りっちゃんって、悪い女だわ」

理津子が喉を鳴らして、ベッドに倒れ込んだ。私も一緒に飛び込む。

あぁ、なんて愉快なのだろう。

留め置かれない私と理津子はどこまでも伸びやかで自由になれるみたいだった。

…だから、ママはブローチで留めたのかもしれないわ。

私がどこにも、誰の元にも行かないように。男といるより、女といる方が悪いみたい。

私は理津子の頰に唇を這わせた。

「くすぐったい」

理津子が身を縮める。

私も調子に乗って、理津子の首筋やでこに唇を走らせてみる。

そうやってふざけ合ったあとに、理津子はひとつ息を吐いて遠い目をした。

私も仰向けになって、一緒に理津子の手の中にあるブローチを眺めた。

それは梟のブローチだった。

「…知ってる?梟って、知恵の象徴なのよ」

「……ママは何が言いたいのかしら」

「さぁ」

目玉に二つの宝石をくっつけた梟が私たちを見下ろしていた。ピンで私の胸に留まっていたそれは、確かにママの倫理だった。

私は理津子の横顔を眺めた。

「私はりっちゃんのことが好きよ…いいえ、違うわ」

理津子が不思議そうに瞳を巡らせた。

「愛してるの。…英語だと、I love you でしょ?これでもう、誤魔化せなくなるわ」

「急にどうしたの?」

理津子が目を丸くする。

もう、ママの倫理はいらないの。

私は起き上がって、小さな梟を掴んだ。

そして、窓を開けるとその梟を思い切り投げ捨てた。

それは煌めきすら残さずに、見えなくなった。

振り返ると、理津子はじっとその様子を眺めていた。

「今夜、絶対ママに打たれちゃうわ」

ほんの少しだけ、涙が滲んだ。

理津子は聖母のように微笑む。

「私も、愛してるわ」

それだけ言って理津子は梟の所在について、二度と聞かなかった。

私は力を得て応えた。


「いいの。ピンは役立たずってだけよ」



ヴァージニア・ウルフ「存在の瞬間ー『スレイターのピンは役立たず』Moments of Being:Slater's Pins Have No Points'」を参考に。

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ピンは役立たず 三津凛 @mitsurin12

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