プラハの夜、あるいは瑞々しき愛
三津凛
第1話
私はプラハでの一夜を忘れることができない。
プラハ国立歌劇場で見た初めてのオペラも、その時のモーツァルトも霞むくらい、あの人のことは忘れることができない。
東洋人の横顔は柱のような高い鼻梁の群れの中で目立っている。偶然隣席になったあの人からは特有の香りもなくて、薄味の出汁のような雰囲気ばかりが厚いコートを通して漂っていた。
私は声をかけることは全く思いつかなかった。
ただ下を向いて、じっとしていた。
蜂の唸り声のような雑音で満たされている。一つ一つの音に故郷があり、そして意味があることに私は少しだけ涙ぐみそうになる。
その中にポツネンと存在している私は孤児のように寂しいものに見えてしまうだろうか。
そう思って顔を上げてみると、まるで劇場がローマのコロッセウムのように私を見下ろしているように感じる。
「ねぇ、日本人じゃない?」
いきなり横から手を握られて、私は背中が冷たくなった。
視線がまともにぶつかって、頭が熱くなる。
「…はい」
「モーツァルトが好きなの?…若いのにちょっと渋いわね」
私は一呼吸置いて、あの人に告げた。
「好きというか、よく分からないけど…一生に一度は見ても損はないかなって」
「ふふ、なにそれ」
あの人は喉を見せて笑った。
「卒業旅行かなにか?」
「まぁ、そんな所です」
「あら、お友達は?」
私はちょっとだけ目を逸らした。すると、あの人は小気味よく笑った。それはハイヒールを心地よい音を立てながら歩く様とよく似ていた。
「ねぇ、熱狂的なモーツァルトのファンのことなんていうか知ってる?」
「いいえ」
あの人は唇を舐めた。それはとろ火のように揺らめいて、仕舞われた。
ひんやりとした唇が私の方を向いている。
私は考える振りをした。あの人は本当は答えをすぐ言ってしまいたくてたまらない顔つきをしている。
「モーツァルティアンって言うんだって」
先走るようにあの人が言った。
「舌を噛みそう…、じゃあ貴女はモーツァルティアンってこと?」
「まさか。教えてもらったの」
誰に、とつい聞きそうになる。
「フィガロの結婚ってチェコでは大成功したけど、ウィーンでは駄目だったのよね」
私は無言で頷く。
後ろをよく分からない言語を纏った人達が何人か通り過ぎていく。あの人はちょっとその辺に視線を散らした後で、ウインクをしてみせた。
「モーツァルトの音楽をよく分かってたのは、ウィーンの人達じゃなくてプラハの人達だったのよ…そう思わない?」
私もちょっとだけ同じように視線を散らした。
まだ芸術が何たるかを、私は全く知らない。その一欠片を摘んでみることはそう難しいことではないのかもしれないとあの人の横顔を眺めて思った。
「あぁ、寒い」
あの人はプラハの夜と向かい合った。
私も首を縮めて、なるべく外気に触れないようにした。
「不思議じゃない?この星も月も遠い日本の星や月と同じなんだから」
確かに、と私も眺めてみる。
「独りきりで眠るには寂しすぎる時ってない?」
「えぇ…」
あの人は縮こまった私の手を握った。
「いやだ、手袋は?」
「…忘れてきたみたい」
それは嘘だった。本当はポケットの中にちゃんと仕舞われている。
「馬鹿ね、その内痺れてホテルの部屋の鍵を開けられなくなっちゃうわよ」
「まさか」
私はちょっとだけ、馬鹿にしたように嗤ってみせた。あの人は自分の手袋を外して裸の手で私の手を握る。
何をするのだろうと眺めていると、まるで恋人がするように自分のコートのポケットに私の手を突っ込んだ。
唖然として私は口を開きかける。
「昔ね、アイルランドに行ったことがあるの。ちょうど今くらいの二月頃だったと思う。手袋を忘れて外に出た後鍵を開けようとしたら、力が全然入らないの」
「本当に?」
「うん。だからね…こうやって」
徐にポケットから手を取り出して、あの人は温かい息を強張った私たちの手に吹きかけた。
「何回もこうやって、やっと鍵を開けることができたの。結構辛かったわ…」
オペラの余韻はとっくに冷めて、私たちは向かい合っていた。
「…貴女はどこのホテルに泊まってるの?」
あの人はちょっと笑って私の手を引いた。そしてたった一度だけ振り返って呟いた。
「女同士だと、こんな風に気軽に誘えるからいいわよね」
気取らない二匹の猫のような足取りで、私たちはプラハの夜を跨いでいった。
思いの外、あの人は安っぽくて埃っぽい部屋の中に泊まっていた。薄くなった壁紙に描かれた花や鳥、蔦の絡まりが物哀しかった。
私は汚れた窓から通りを眺めた。
何もなかった。何も見えなかった。
凍えた手を抱えながら、
「熱いシャワーを浴びたいわ」
振り返ってあの人に告げる。
「そうね…」
コートを脱ぎながら、あの人は背中を向けて応える。
「…先に浴びてきて。私は後でいいから」
眠気を感じながら、私は軋むベッドの端に腰を下ろして言った。そして、とんでもないことに気がついた。
ベッドが一つしかない!
その途端、私は急に恥ずかしくなって立ち上がった。
「なに、慌ててるの…。変な子」
その変な子、がまるで異国の言葉のように柔らかく怪しかった。
フランス人がフランス語を傲慢に自慢する気持ちが何となく分かる。
あの人の日本語は、どこか音楽的で軽薄で美しい。
「本当、変な子ね」
あの人から漏れ出る「変な子」という発音は、どこか淫靡だった。
「私、やっぱり帰るわ」
「もう遅いわ」
「…でも、ベッドは一つしかないもの」
あの人は笑いながら、私を抱き締めた。
「一緒に寝ればいいわ。独りで眠るより、ずっと温かくなるって思わない?」
背中に回された掌が、赤ん坊を寝かしつける時のようにトントンと叩いてくる。
そうやって言いくるめられて私とあの人は薄いシーツに包まった。
「さなぎになったみたい」
あの人はぽそりと呟いて、天井を眺めていた。
「…眠らないの?」
「そんなあなたは?」
「眠れないわ」
「眠くなるおまじない、してあげようか」
あの人は私をじっと見つめた。
おまじない、そんなものあるもんかと思ったけれど私は頷いた。
ふふっ、とあの人は笑う。そして、すぐに笑みを消した。
私をちょっと乱暴に引き寄せて、あの人は思い切り私の首元に唇を押し付けた。
ひんやりとした、熱の感じられない唇だった。私は何をされるか予感しながら、この唇が熱を帯び出す頃にはちゃんと二人とも眠れるかもしれないと思った。
私はそっと覆いかぶさってくるあの人の背中に手を回して、最後に聞いてみる。
「何をするつもりなの?」
あの人は少しだけ顔を上げた。
「全部一から説明しないと、分からない?」
「いいえ」
あの人の手が段々と降りてくる。
私は好きにさせて、あのくすんだ安っぽい壁紙を眺めた。
熱い息が降りかかる。唇が段々と瑞々しくなって、肌を駆け回る。
その度に、壁紙の花が美しく咲いて、鳥たちがさえずり出した。
ほんの少しだけ目を見開いてみる。
蔦が活き活きと伸びてきて、私とあの人の周りを取り囲んでいた。
今まで見たどんなものよりも、ずっとずっと美しい。
そして、あの瑞々しい唇で割られる。
あの夜、あの人は私と一緒にプラハの夜までもあの瑞々しい唇で割ってしまったのだ。
キャサリン・マンスフィールド
「しなやかな愛 Leves Amores」を参考に。
プラハの夜、あるいは瑞々しき愛 三津凛 @mitsurin12
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