雨蛙大王

雑草文学

雨蛙大王

 庭先に紫陽花があり、その手前側の一番大きな葉の上に一匹の雨蛙が身をかがめて乗っているのが見えた。窓辺から開花したばかりの紫陽花を見ていた時に雨蛙がいることに気付いたのであるが、よくいる雨蛙とはどこか違う。ふつう雨蛙といえば、手の大きな緑色の体に、大きな目玉が二つ付いているのを想像すると思う。いや確かにこの雨蛙も手は大きく、両の瞳も大きいのだが、はたして目の錯覚か黒いタキシードのような衣に身を包み、頭にはハットを腕にはカフスまで施しているように見える。世に両生類は数多居ると聞くが、これほど身なりを気にする雨蛙というのも珍しいものである。

 と、物珍しく眺めているのも束の間であった。しばらくして、その雨蛙と目があった。向こうも見られていることに気が付いたのか、こちらに向き直り、口をパクパクと動かしている。なんとも変な雨蛙である。タキシードを着ているだけでも、おかしなことであるのに、その上鳴き袋を膨らませることもなく、上下の唇を合わせたり離したりを繰り返している。

 今度は片手を宙に浮かして、おいでとするような仕草をしている。こんな愉快な雨蛙を私は生まれてから初めて見る。いまだかつて、タキシードを身にまとい、また何かを話すがごとく口を動かし、手をまねくように動かす雨蛙を見たという人物がどれほどいるだろうか。

 とはいえ、私も雨蛙に精通しているわけでもない。むしろ、雨蛙とはそういうものかもしれぬ、などと思いなおした。いや、たしかに雨蛙とは彼の雨蛙のようなものだったのだろう。これまでは雨蛙というものを誤解していたに違いない。そうでなければ、目の錯覚か、あるいは私の脳が見せる幻影か、はたまた夢か。

 ――ビタンッ

 目の前で音が鳴った。音の鳴ったほうを見ると雨蛙が窓に張り付いている。しかも先ほどの雨蛙である。急に来た雨蛙が、拳を握るような形にした手で窓を叩いているものだから、私は思わず仰け反った。その雨蛙をよく見れば、また口をパクパクとさせている。その仕草に見入っていると、それが何か話しかけているように聞こえてきた。おい、そこの小童。話ぐらいしたらどうだ。なぜ吾輩を見ていた。おい、聞こえないのか。などと、雨蛙が言っている。小童とは私のことだろうか。ずいぶんと失敬な雨蛙である。私は今年で七十になる。それをこの雨蛙は小童と言う。失礼にもほどがある。

 雨蛙のものと思しき声を聞いているうち、私は胃が煮えくり返るような心持がした。これは怒りである。紛れもなく雨蛙に対する怒りであった。

「おい、雨蛙。貴様こそ、小童とはなんだ。私はこれでもう七十になる。産まれ落ちてせいぜい幾年であろう貴様に、小童などと罵られる筋合いはない」

「小童の癖に七十も生きておると申すか。片腹痛い、吾輩はこそ、かの雨蛙大王が末裔、第六十八代雨蛙である。吾輩がこの地に産み落とされてから、どれくらい経ったかはわからぬが、すでに子が百八匹おる。この数には勝てまい。小童の子孫はいったい何匹になる」

「私の子は二人だ。たしかに貴様のいう百八匹というのには数は負けるが、それは貴様が雨蛙であるからだろう。私の子はさらに子を産んで、すでに七つになる。貴様、孫は何人いる」

 そう云うと、雨蛙は両目を大きく見開いた。

「こりゃあ、たまげた。小童の子はもう子を産んだのか。あの水の中でちょろちょろと泳ぎ回るだけの可愛いらしい子どもらが、いったいどうして、子を産むというのか。吾輩には信じがたい話だ。しかし君、ほんとうかね」

「ああ、ほんとうだとも。うちの子にもたしかに、ちょろちょろと走り回っている可愛いころがあった。しかしそれも昔のことだ。いまや立派になって、その子どもらが、ちょろちょろと走り回っている」

「そりゃ、可愛いかろう。子らは何匹になっても、いや多ければ多いほど可愛いらしい。追いかけまわしているのか、追いかけられているのか、傍からみてもわからないのが、なんとも可愛らしい。それが二代先までいるとは。気に入った!君、名前はなんという」

「私は樋口左之助だ」

「そうか。吾輩は第六十八代雨蛙である。名前は無い。子には名前を付けるが、吾輩の親は吾輩の名前を告げず死んだらしい」

 雨蛙は両目に大粒の涙を浮かべていた。一粒こぼれるたび、両手で拭いとる仕草は健気である。見ているこちらも泣けてきた。

「そうか、そうか。雨蛙も、いや失礼第六十八代雨蛙殿も大変なのだな」

「ああ、そうとも。樋口左之助殿、いや吾輩も失礼だった。これまでの非礼を許してほしい。貴君は尊敬に値する。今日は良い話ができた。また子どもたちにも話してやらねばなるまい。樋口殿、またいつか会おう」

 言い終わると、雨蛙は窓ガラスを蹴り飛ばして、どこかへと消えた。

 これが、私がお祖父さんから聞かされた雨蛙のお話である。



 了

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