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 それからというもの、彼は別の意味で好奇の視線を向けられることとなった。それは学校だけでなく町中に広がり、狭いこの町ではすぐに知らない者がいないほど、話が伝播していった。

 もはや誰も彼に語りかける者はいなくなり、町から疎外され、ペンギンさえもいない彼は、いつも一人で過ごしていた。異国風の魅力的な彼の見た目は、いつしか異端的で奇異なものと見なされ、まるで水の中に垂らされた一滴の油のように、片田舎の寂れた町並みから浮き上がってしまっていた。

 僕は何だかすごく変だと思った。彼の事情を全く聞きもしないで、自分たちが決めたルールから外れたというただ一点だけを理由に、みんなが彼から離れていく。もしかしたら、彼の相棒は重い病に罹ってしまったのかもしれないし、誰かの悪戯で怪我をしてしまったのかもしれない。絶対に彼が悪いとは言えないはずなのに、みんな彼を悪者だと決めつけている。

 とは言え、僕も他の人たちとたいして変わらない。少し遠くから彼のことを眺めるだけだ。話したいと思っているのに、その勇気が出ない。ただでさえ、しゃべったことのない相手に話しかけることが難しいのに、彼と話すことで僕も好奇の目で見られることを思うと、怖くて仕方なかった。

 そうやって、気付けば季節は冬になっていた。葉はすっかり枯れ落ち、裸になった木々たちは寒そうに風に揺られている。田んぼや畑も眠りにつく準備を始めていて、町全体が少し寂しげに感じられた。

 僕は学校帰り、閑散とした畦道を歩きながら、もうすぐ訪れる「別れ」のことを考えていた。

 妖精局から『招待状』が届いてから、もう二か月が経ってしまった。基本的には半年以内に妖精局へ自分のペンギンを連れていかなければいけないので、レヴィと一緒にいられるのも、もうあと四か月ほどしかないことになる。レヴィとの「別れ」を済ませれば、僕は晴れて大人の仲間入りを果たすことができ、きっと家族や親戚が総出でお祝いをしてくれることだろう。

 レヴィは僕と似て引っ込み思案なのに、結構寂しがり屋だから、僕と離れてもちゃんとやっていけるか心配だ。そもそも彼は一体どこへ行ってしまうのだろう。いつかまた会える日が来るのだろうか。それとも僕の知らないどこかで、僕の知らないまま生きていくのだろうか。

 彼との「別れ」のことを考えると、世界が色を失って、時が止まってしまったように錯覚する。静寂に包まれた空虚なその場所に取り残された僕は、声も涙も出ないまま、ただ茫然と立ち尽くす。しかし厄介なことに、時計の針はしっかり動いてくれていて、限られた時間だけが刻々とすり減ってしまう。

 つらい想いをしなければならないなら、いっそ大人になんてならなくていいと思う。ずっとレヴィと一緒に、今のままいられればいい。大人たちは、自分もそうだったからと、嫌がらせのように過去を押し付けているだけなのではないか。

 こんな風にあれこれ考えたところで、結局何も変わりはしない。僕はこの狭い町からも出ることはできず、僕のことなんかお構いなしに、日々は淡々と流れていく。大人になった僕は日常に追われていくうちに、いつしか彼のことなど忘れてしまって、小さなことに一喜一憂しながら生きていくのだ。

「ただいま」

 僕が家のドアを開けると、一目散にレヴィが僕に駆け寄ってきた。甘えるように服の裾をくちばしで引っ張りながら、ひょこひょこと身体を揺らしている。せっかく帰ってきたばかりだと言うのに、どうやら彼は散歩に出かけたいらしい。

「わかったよ」

 脱ぎかけた靴を履きなおして、軽く彼の頭を撫でたあと、再びドアを開けて外に出る。そしてお決まりの散歩コースを歩き出すと、彼は楽しそうに飛び跳ねながら、僕の後ろをついてきた。何だか今日はいつも以上にご機嫌みたいだ。僕が悩んでいることなどお構いなしに、いや、むしろそんな僕を励ますように、彼は元気に行進する。

 しばらくそうして川辺の道を進んでいると、突然彼が僕を追い越して前の方に駆けていってしまった。慌てて後を追いかけると、彼は何やら僕らの先を歩いていた少年の手前で立ち止まった。

「あ、君は……」

 僕はレヴィを追うのに夢中だったために、目の前に来るまでその少年のことが見えていなかった。しかしよく見てみれば、軽くカールのかかったふんわりとした銀髪は見紛うはずもない。そう。そこにいたのはニルスであった。

「えっと、確か……」

 話したことがないとは言え、流石にいつも教室で顔を合わせているので、彼はちゃんと僕のことを覚えていた。一瞬名前が出てこなかったようだが、すぐに思い出して、ずばり言い当ててみせる。

「この子の散歩かい?」

 彼はそう言ってレヴィの方に視線を落とす。レヴィはいつの間にか彼に身体を摺り寄せて、すっかり懐いた素振りを見せていた。

「そう。彼はレヴィナスって言うんだ。それにしても珍しいな。レヴィはあんまり他人に懐かないのに」

 初対面の人にこんなに気を許すのは初めてだった。大抵は知らない人を前にすると、僕の後ろに隠れてしまって、怖がって近づくことすらできない。僕がニルスに惹かれているのと同じように、レヴィも何か感じ取るものがあったのかもしれない。

「よかったら一緒にどう?」

 話す前はあんなに近寄りがたく感じていたのに、いざ言葉を交わしてみると、何だか旧知の友のような親近感を覚えた。レヴィがすんなり懐いたこともあり、緊張もなく、自然に接することができた。彼は元来、人を惹きつける何かを持っているのだろうか。

「いいね。ちょうど僕も散歩をしていたところだったんだ」

 三人で並んで歩きながら、僕らは色んなことを話した。僕は彼のこれまでのことをあれこれ尋ねたし、逆に彼は僕やレヴィのこと、そしてこの町のことを知りたがった。そうやって話に夢中になっていると、いつの間にか僕らは町はずれの方まで来てしまっていたので、休憩がてら川べりに腰を下ろす。

「じゃあ、本当に遠くからやってきたんだね」

「うん。元々母さんが北の国の人で、父さんはそのすぐ隣の町に住んでいたんだ。父さんが仕事で北の国に行ったときに、そこで見かけたウェイトレスに一目惚れして、猛アタックしたんだって。それが僕の母さん」

 彼は母が亡くなるまでは、北の端にある故郷の町に住んでいたらしい。この国はたくさんの小国が合併したという経緯があって、とても広い国土を持っている。僕らの町は真ん中より少し南寄りにあるから、彼の生まれた町まで行こうとすると、たぶん何か月もかかってしまう。あまりに遠いその場所は、同じ国と雖も全く関わりのないところだった。

彼は四歳で母を亡くし、ちょうどその頃から父も仕事が忙しくなってしまって、六歳を過ぎた頃からは色んな町を転々としてきた。故郷へはもう十年近く帰っておらず、その風景も忘れつつあると言う。

「故郷と言っても、小さい頃の記憶しかないし、僕にとっては母さんのお腹の中とたいして変わらない感じかな。たまにおばあちゃんには会いたくなるけど、あの町に帰りたいって気持ちはあんまりない」

 はっきりとした思い出や帰る理由があればこそ、望郷の想いが湧くわけで、ぼんやりとした風景しか思い出せなければ、案外故郷なんてそんなものらしい。僕は生まれてからずっとこの町で過ごしてきたから、まるで想像がつかないけれど、彼の言わんとすることはわかる気がした。

「でも母さんの国には一度行ってみたいかな。三人で暮らしてたときは、毎晩母さんにその国の話を聞かせてもらってたんだ。寒さが厳しくて、決して豊かなところではないけれど、とても自然が美しくて、町は活気に満ちていたんだって。そんな話をしてくれる母さんの顔を見ただけでも、すごくいい国だってことがわかったよ」

 北の国はおそらく彼にとっての原風景なのだろう。彼の言葉だけでも、その美しい景色が瞳の奥に浮かんでくる気がした。


 何となく話がひと段落して、しばし沈黙が続いた。優しげに流れる川のせせらぎと、僕らの周りをぺたぺたと歩き回るレヴィの足音が聞こえる。ずっと風に晒されていたせいか、耳がずいぶん冷たくなっていた。

「……君はどうして、僕のことを避けないんだ。知っているんだろう?」

 ニルスは唐突に口調を変え、訝しげに僕の顔を覗いた。僕は何て答えたらいいかわからず、少し目を逸らしたまま黙って考え込んでしまう。レヴィも彼の真似をして、首を傾けて僕の顔を覗き込んでいた。

「誰かとの「別れ」って一体どんなものなの?」

 僕は彼の問いに答えを見つけられないまま、逆に彼に問いを投げかける。ずっと聞きたかったけれど、切り出せずにいたこと。しかし、お互いそのままにはできなかった。

ちょうど横にいたレヴィと目があった。彼の瞳は黒く澄み、冬の夕陽が写り込んでいた。

「僕は君の言う「別れ」を二回経験している。一度目は母さんの死。そして二度目が、君の聞きたいであろうセルマの死だ」

 彼はそっと目を瞑る。そしてゆっくりと昔を思い返すように、落ち着いた声で語り始めた。

「母さんの死は、正直ほとんど覚えていない。死というものを理解するには、僕はあまりに幼かったし、それはあまりにも突然のことだったから。それどころか、未だに母さんはどこかにいるんじゃないかと感じることがあって、これからも本当の意味で母さんがいなくなった事実を受け入れることはできないんだと思う」

 レヴィが僕とニルスの間をこじ開けるように入ってきた。ニルスはそんな無邪気な彼に温かい視線を向けて、再び続きを語る。

「だから「別れ」を経験したということなら、次のセルマの死を語るのが妥当だろう」

 その声は他人事のように淡々としていて、彼の語り口は物語の語り部を思わせる。

「セルマは僕が五歳になった日に僕の家へやってきた。あまり外で遊ぶことをせず、いつも家で一人遊びをしていた僕にとって、彼は最高の遊び相手になった。彼が人懐っこい性格だったこともあって、すぐに僕と彼は仲良くなった」

 ペンギンとは元来、人懐っこい生き物である。もちろんレヴィのように臆病な性格の者もいるが、種としては好奇心が旺盛で、社交性が高い。野生のペンギンでさえ警戒心が薄く、向こうの方から人間に近づいてくることも多いと言う。これもペンギンが人間のパートナーとして選ばれる要因の一つだった。

「基本的には元気で明るい性格だったけれど、彼はふとしたときに、静かに空を見つめることがあった。その目は虚ろげで悲しみを含んでいて、遠くのどこかに憧れて、何か強い想いを馳せているようだった」

 時々、レヴィもそうやってボーっと空を見上げていることがあった。それは飛べなくなった空に未練を感じているのか。それとも、その先にあるずっと遠くの故郷を思い出しているのだろうか。

「彼との日々は幸せだった。母さんはいなくなってしまって、父さんは仕事に出ていることがほとんどだったから、彼は唯一の家族と言っても過言ではなかった。知らない町を転々とする僕にとっては、手を繋いでいてくれる彼の存在が何よりも頼もしかった」

 ニルスは右手を弱々しく握る。そしてそこに残る温かさを思い出すように、じっとその拳を見つめていた。

「ちょうど十三歳を迎えた頃に、僕はある町を訪れた。そこは西の国境に近い場所にあって、あまり裕福ではないところだった。年々子どもが減っていることが問題になっていて、放っておけばあと何十年かすると無くなってしまうほど、衰退した町だ。そんな町に越して数か月が経ったある日、妖精局から僕の元にある手紙が届いたんだ」

「もしかして、それって……」

「そう、それはセルマに送られてきた『招待状』だった」

 実は『招待状』が送られてくる年齢に明確な決まりはない。大抵の場合は今の僕たちくらいの年齢だが、ペンギンの成長具合や健康状態にもよるため、早い人は十二、三歳、遅い人では二十歳を超えても送られてこない場合がある。

 早ければ早いほど優秀だと判断され、何歳であろうとその時点から一人前として認められる。選挙権などの権利も得られるし、希望すれば大人と同じ扱いで働くこともできる。

「町の人たちは祝福してくれたよ。でも僕は流石に早すぎると思った。まだまだ一緒にいたかったというのもそうだけど、それ以上におかしいと思ったんだ。セルマはまだ身体も小さかったし、明らかに『招待状』が送られてくるような成長度合いじゃなかった。僕は不審に思って、父さんにそれを相談してみたら、とんでもないことを教えられた」

 ――セルマたちはなあ、兵隊にされちまうんだよ。

「兵隊?」

 僕は聞き慣れない単語に首を傾げる。

「僕らの国がもうずっと戦争をしているのは知っているかい?」

 戦争の話なら、授業で習ったから聞いたことがあった。確か何百年も昔から、西の国と戦争が続いているんだっけ。ただ授業では本当に少し触れただけだったし、それ以外のところでその話を聞くこともなかったから、何だか自分には関係のないことだと感じていて、あまり気にしたこともなかった。

「僕たちが知らないだけで、今もまだ戦争は続いているんだ。こうしている瞬間も、西の国境では誰かと誰かが戦っている」

「そうなんだ……」

 正直そう言われてもピンと来なかった。当然その光景を見たこともなければ、大砲の音だって聞こえてこない。そもそも戦争というもの自体、一体何なのかよくわかっていなかった。僕たちはきっと自分が生きるのに必死で、生活に関係のないことまで気を配っている余裕がないのだ。

「僕の父さんはその戦争について研究していた。けれど大人になって自分から興味を持つまでは、僕にその話をしないと決めていたらしい。父さんはついにこの日が来たかという風に、自分が知っていることを一つ一つ教えてくれた」

 長い歴史の話の中で、彼にとって重要なことは大きく二つあった。

 一つは、さっき彼が言っていた今も戦争が続いているのだということ。その戦争は何百年も続くうちに、いつしか人々に忘れられていった。今ではその戦争について知る者は、実際に戦いに参加している人間を除けば、数えられるほどしかいない。そこには様々な事情や歴史的経緯があり、彼の父はそれを調べるために国中を転々としているのだった。

「そして二つ目は、その戦場に立っているのが誰なのか、ということだった」

 戦争が百年ほど続いた頃、この国の偉い人たちは自分たちのやっていることに疑問を持ち始めた。人が生きるための戦争であるはずなのに、それによって多くの人が死んでいく。この大きな矛盾にようやく気付いた。

 本来なら、そこから戦争終結へと向かう流れになるはずだった。しかし、戦争と生活が様々なしがらみによって雁字搦めになっていたせいで、その道が選ばれることはなく、奇妙な形で矛盾に対する答えを見出した。

 ――人間はペンギンたちに戦争を押し付けたんだ。

 人を死なせることなく、戦争を続けるという、一見無理解にも見える方策は案外簡単に実行された。単純に人間以外の者に戦争を代行させることにしたのだ。そしてその役目に選ばれたのが、僕たちの一番身近にいたペンギンたちだった。

「子どもが五歳からペンギンを育てる伝統は、兵士としてペンギンを使うのに、国だけで育てるのには無理があるからと始められたものなんだ。妖精局っていうのは、実態は徴兵と兵隊の育成を担う機関なんだよ」

 妖精局に連れて行かれた後は、野生に返されるというのが一般的に言われている話だ。だからもう二度と会うことはできないし、ある意味でそれが健全な形なのだという説明をされているから、僕を含め、それ以上深く追求しようとする者はいない。

 もしもう一度会おうと、南の果てにある彼らの故郷まで向かう人がいたとしても、まず辿り着くことが困難であるし、たとえ無事に着けても、その広大な白銀世界で一匹のペンギンを探すことなど無謀に等しい。だから大抵の人は彼らの行き先を考えるよりも、彼らのいなくなった後の自分の行き先を考えることに終始するのだった。

 特に疑問を抱くことなく、今まではただ聞かされてきた話を信じてきた僕にとって、彼の話はあまりに荒唐無稽で、驚き以上に信じられないという気持ちが強かった。そもそもこの国が今も戦争をしているということすら、僕には実感ができていない。それなのに、僕たちの代わりにこの小さなペンギンたちが戦っているだなんて、信じられるはずもなかった。

「まあ信じられないのも無理はないと思う。ともかく僕は父さんからそんな話を聞かされた。真偽なんて結局僕たちにはわからないわけだから、あまり関係がなかった」

 確かに、この世界の何が本当で何が嘘かなんて、誰にも判別できない。僕たちは水槽の中の脳かもしれないのだ。ましてや自分たちからは見えない、どこか遠くの方で起こっていることなどわかるはずもない。だから結局何を信じるかが重要なのであって、何に真実を見るかが真偽を判定する唯一の尺度なのかもしれない。

「それから毎日のように夢を見た。たくさんのペンギンが剣を取って、人を殺し、人に殺される夢だった。いつもそのどこかにセルマがいて、けれど僕にはその姿が見つけられなかった」

 彼は吐き気を堪えるように、口元に軽く手を当てた。レヴィがそれを心配そうに見つめる。

「そうしているうちに、セルマとの「別れ」が迫っていた。僕は彼の顔を見る度に、例の夢がフラッシュバックした。そして耐え切れなくなった僕は、彼に尋ねたんだ」

 ――セルマはこのまま人を殺すために僕と別れていいのかい?

「彼は当然何も答えなかった。でも僕には黙って空を見上げている彼の目が、ままならない自分の生に絶望しているように見えた。僕は、彼を楽にしてあげたいと思った」

 しばらく俯いたまま口を閉ざし、沈黙が続いた。川の流れとともに、時間が緩やかに過ぎていく。いつの間にかすっかり日は沈み、柔らかな夜の音が辺りを包み込んでいた。空に散りばめられた星たちが、まるで瞬きをするように、交互に光を放っている。

 どれくらいそうしていただろう。それは永劫の時にも思えたし、実際はほんの一瞬であったようにも思えた。彼はその目に涙を滲ませていた。こぼれ落ちた一滴が地面に弾け、散り散りになって消えていく。

「僕は自分の手にべったりとついた真っ赤な血を見たとき、これでもう彼には会えないんだと悲しくなった。不思議と涙は出なくて、彼の死体を庭に埋めた後、爪の間まで丁寧に手を洗った。そこでようやく心にぽっかりと空いた穴に気付いて、彼の名前を呼んだ。何度も、何度も呼んでいるうちに、彼と過ごしてきた日々が走馬燈みたいに頭の中をぐるぐる巡って、少しずつ、自分のしたことを理解した」

 彼は深く溜め息を吐く。そしてずっと伏せていた目をこちらに向け、僕のことを真っ直ぐ見つめながら言った。

「僕は、彼を殺したんだ」


「君の質問に答えるはずが、ただ思い出話をしただけで終わってしまった。悪かったね」

 ニルスは目尻に残った涙を拭って、照れ臭そうにはにかむ。

「君の疑問に対して一つ言えることがあるとすれば、僕はセルマとの「別れ」を一生忘れずに生きていくだろうということだ。目を瞑れば彼の顔が浮かんでくるし、耳を塞げば彼の声を思い出す。いつまでも彼の影を追いかけながら、その亡霊に縋って生きていくんだと思う」

 僕には彼の言っていることがあまりよくわからなかった。言葉の上では理解できたけれども、それを自分に当てはめて想像することができない。

 僕はレヴィとの別れを前にしたとき、何を想うのだろうか。何を考え、どんな言葉を口にするのだろうか。

 もしレヴィが人殺しの道具として戦場に向かうとしたら、僕は彼を楽にしてあげたいと思うだろうか。そして、僕自身も楽になりたいと思うのだろうか。

 あるいは、別れを拒絶し、逃げ出そうとするだろうか。逃げる方法を探し、行く先を見つけ、勇気を持つことができるだろうか。逃げ続けて逃げ場が無くなったとき、僕はどうするだろうか。

 案外すんなりと受け入れて、すぐに彼のことなど忘れてしまうかもしれない。それは今の僕からしてみればとてもつらいことに思えるけれど、ニルスの言うように一生彼のことを想って生きていくというのは、それ以上につらいのではないかと思った。

「君のところにも『招待状』が届いて、もうすぐこの子と別れることになるんだろう?」

 一言もそのことは口にしていないはずなのに、彼はまるで僕の心を読んだように、ぴたりと僕の状況を言い当てる。それも推測ではなく、すでに知っていることだというような言い方だった。そして僕の反応を待たずして、彼は言葉を続ける。

「僕みたいに後悔したくないのなら、そのときが来るまでにきちんと考えておいた方がいい。自分はどうしたいのか。彼はどうしたいのか。そして、自分はどうするべきなのか。そうでないと、きっと訳がわからないまま二度と会えなくなってしまって、ずっとそのときのことを考え続けることになる」

「でも、考えて答えが出るものなの?」

 ずっとレヴィとの別れのことを考え続けているけれど、考えれば考えるほどわからなくなっていく気がする。

「それはわからない。けれど、それでも必死に考えることが、大切なんじゃないかと思う」

 初めから結果の心配をしていても仕方ないから、結局できる限りのことをするしかない。そして、どんなに話を聞いて、誰に言葉をもらったとしても、最後に答えを探すのは自分なのだ。ニルスの話を聞いて、そのことが改めてわかった。

「色々話してくれてありがとう」

 求めていた答えは得られなかったものの、ニルスが包み隠さず自分のことを語ってくれたことが素直に嬉しかった。こんなにも真摯に僕の前に立ってくれた人は今までいなかった。彼とはいい友達になれそうだ。

「セルマがいなくなってから、僕はずっと一人だった。こうして誰かとちゃんと話すのも久しぶりだったから、自分の心を整理するいいきっかけになったよ。こちらこそありがとう」

 彼はそう言ってゆっくりと立ち上がった。話し込んでいるうちにずいぶん時間が経ってしまっていて、もうそろそろ帰らなくてはいけない時間になっていた。名残惜しさもあったが、僕は彼の後を追うようにして立ち上がる。

「また、こうして話をしてもいいかな?」

 約束をしておかないと、彼はどこかへ行ってしまう気がした。しかし何と言えばいいのかわからず、僕はそんな風に漠然と彼に問いかける。すると彼は柔らかい笑顔を見せ、軽く首を縦に振った。

「今度はもっと君の話も聞かせてくれると嬉しいな」

 彼はちらりとレヴィの方に目を遣る。そうしてもう一度僕に笑顔を向けると、そのまま踵を返して来た道をゆっくりと歩いていく。闇夜に消えていくその後ろ姿は、何故だか少しだけ寂しげに見えた。

「じゃあ、また!」

 僕は遠ざかる彼に向けて、大きな声で再会を約束する。彼はその声が聞こえなかったのか、こちらを振り向くことはなかった。

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