3
冬が本格化してきて、町は真っ白い雪に包まれて、日に日に賑わいを失っていた。みんな冬ごもりの準備を済ませ、家の中に引きこもっているのだ。学校も冬季休暇に入ったので、子どもの姿も見当たらない。用もなく外を出歩くのはどうやら僕たちくらいらしい。
「お待たせ」
集合場所に着くと、すでにニルスが先に来て僕を待っていた。相変わらず来るのが早い。いつも時間を決めて待ち合わせをすると、必ず僕よりも先に着いている。負けじと僕も早く出たりしているのだけれど、なかなか勝てなかった。
彼は僕に気付かずに、水が凍って動きの止まった水車を見つめていた。少し上を向いた口元から、白く濁った息が漏れている。僕がもう一度声をかけるよりも先に、隣にいたレヴィが彼の元に駆け寄る。
「やあ」
ぺたぺたと足を鳴らしながら近づいてくるレヴィを抱き寄せ、後ろにいる僕に軽く手を挙げた。
「寒くなったからか、最近はすごく機嫌がいいんだ。雪も積もっているし、外に出かけるのが楽しいみたい。やんちゃすぎて困っちゃうくらいさ」
「そうみたいだね」
レヴィはすぐにニルスにも飽きて、腕を振りほどくように勢いよく身体をねじらせて、僕らから離れていった。そして身体を器用に雪の積もった地面上に滑らせながら、道の広いところで行ったり来たりしてはしゃいでいる。
「ちょっと行きたいところがあるんだけど、ついてきてくれるかい?」
いつもは集まっても適当に町を散歩したり、どこかで話をしたりするのがほとんどなのだが、珍しく今日はニルスに行く当てがあるようだった。当然僕は行きたいところもないので、彼についていくことにした。
「レヴィ、行くよ」
夢中で遊んでいたレヴィを呼び戻して、僕たちは町の中心部へと向かった。
僕たちの住む町はさほど大きくなく、一周しても数時間ですべて見終えてしまうほどのものしかない。栄えているのは農業くらいで、取り立てた観光資源もない典型的な田舎町だ。
中でも僕たちが住んでいるのは中心から少し外れた田園地帯で、学校もその近くにある。だからあまり遠くまで行くことはないが、買い物や外食に出かけるときは、店が立ち並ぶ中心部を訪れた。
「ここだ」
地元育ちの僕よりも慣れた様子で進むニルスの後について歩いていくと、一軒の古書店に辿り着いた。その店は奥まった路地を入った先にあり、何か目印があるわけでもないので、知らなければ絶対に来ることができない場所だった。
「よくこんな店を知ってるね」
滅多に中心部へ来ない僕は、もちろんこんな店があることも知らなかった。それにもし知っていたとしても、一人では到底入ろうと思わないだろう。重厚そうな赤い扉と薄汚れた看板は明らかに来る者を拒んでいる。
「この店は父さんに教えてもらったんだ。仕事柄、父さんは古書店とか古道具屋によく来るから、こういう店も知ってるんだよ」
彼の後ろについて店に入ると、古本独特のかび臭さが鼻をつく。店内は赤みを帯びた裸の電球がまばらに吊り下げられているだけで、窓もないのでかなり薄暗い。僕の身長の倍近くある本棚が所狭しと並べられ、通路は人一人が通れるギリギリの幅しかない。その暗さと圧迫感から、僕はまるで洞窟に迷い込んだような感覚を覚える。
売られている本はどれも年季の入ったものばかりで、分類もしないまま雑多に詰め込まれているみたいだった。数が多すぎて管理が行き届いていないのかもしれない。手近にあった本を一冊手に取ってみると、顔の目の前で埃が舞い上がって、思わず咳き込んでしまった。
「こんにちは」
本の迷路を抜けて一番奥まで辿り着くと、店主らしき人がカウンターの前に座っていた。ニルスの声に反応してこちらを一瞥したが、またすぐに手元の本に視線を戻す。
店主は口元に髭を蓄え、太い眉毛と鋭い目つきを備えていた。古書店に似つかわしくない筋骨隆々の屈強な身体を狭いカウンターに押し込めて、何やら難しそうな本を読んでいる。背中を目いっぱい丸めているのに、頭が天井についてしまいそうだった。
「あの人はこの店の店主で、レフって言うんだ。彼のお爺さんの代から、ここで古書店をやっているんだって。だから古くて貴重な本とか、掘り出し物がたくさんあるんだ」
ここは彼の行きつけになっているらしく、暇さえあればここで気になる本を探しているのだと言う。僕は本なんて学校の教科書くらいしか読んだことがないから、こんなにたくさんの本に囲まれると目が回ってしまいそうだった。
今日はどうやらあらかじめ目当ての本が決まっていたようで、それを買うためにここを訪れたのだった。彼はちょうど頭よりちょっと上にある本に手を伸ばし、その本を取ろうとする。しかし隙間なく本が詰め込まれているせいで、なかなかその一冊を引き出すことができない。僕も手伝おうと背伸びをするが、残念ながら彼よりも背が低いので、あまり役に立てなかった。
すると、突然後ろから大きな影に包まれて、視界が真っ暗になった。何かと思って後ろを振り返ると、本棚よりも大きな体躯のレフが本を取ろうと手を伸ばしていた。どうやら見るに見かねて助けてくれたらしい。
「ありがとうございます」
ニルスが取ってもらった本を片手に礼を言うと、彼は何も言わずまたカウンターの方へ戻っていった。見た目や雰囲気で怖いと思っていたけれど、ただ寡黙なだけでいい人のようだ。
「それは何の本なの?」
何だかずいぶん古い本らしく、表紙は掠れてタイトルが読めなかった。分厚く重そうなその本は見た目だけで難しそうだと敬遠してしまう。
「これはね、母さんの国の本なんだ」
中身を見ると、確かにこの国の言葉ではない文字で書かれていた。何が書いてあるのか全くわからなかったが、彼によるとこれは向こうの国の小説なのだと言う。彼は現地の言葉を勉強したことがあるらしく、会話はできないものの、文章を読むことは問題なくできるそうだ。だからこうして心の故郷であるかの国の本を見つけては、集めて回っているのだった。
僕はパラパラとページをめくりながら、ところどころにある挿絵を眺める。何だか不思議な見た目の動物が出てきたり、見たこともないような風景が描かれていたりしたので、案外絵だけでも面白かった。
そうやって僕とニルスが夢中になって本を読んでいると、本棚を挟んで向こう側から、大量の本が崩れ落ちる音が聞こえた。驚いて音がした方へ回ってみると、見事に本棚から本が溢れ、床一面に広がっている。そして出来上がった本の海の中で、レヴィが苦しそうに翼をパタパタと振ってもがいていた。
僕は慌てて彼に駆け寄って、身体を覆い隠すように積み上がった本の山をどかしてやる。救出された彼は悪びれた様子もなく、平然とした様子で床にぺたんと座り込んだ。僕はそんな彼の図太さに呆れながら、目の前の光景を見て途方に暮れる。
顔を上げると、レフが丸太のように太い腕を組んで、仁王立ちのまま真っ直ぐ僕を見据えていた。その無言の圧力に一瞬で屈した僕は、落ちた本を拾い上げ、一冊ずつ丁寧に本棚へと戻していった。
家に帰ってベッドに横たわると、全身にかかる重力が普段よりも重く感じた。これは明日の朝には筋肉痛で動けなくなっていそうだ。
結局あの後、僕とニルスはレヴィが散らかしたところを全部綺麗に元通りにして、さらに他のところまで掃除をしてから帰った。重い本をたくさん持ち上げたせいで、腕と腰がパンパンに張っていた。
また散らかして邪魔をされないように、レヴィは外に追い出していたのだが、終わって外に出ると、彼は楽しそうに雪遊びをしていた。疲れて叱る元気もなかった僕は、存分に遊んでご満悦の彼を連れて今帰ってきたところだった。
「全くお前はやんちゃが過ぎるよ……」
目を離すとすぐにどこかへ行ってしまう。この気まますぎる性格をもう少し何とかしないと、この先やっていけないのではないだろうか。それこそ僕と離れてしまったら、こうして面倒を見る人もいない。
「きっとそんなこともわかってないんだろうな」
僕はベッドの端にもたれる彼の頭を撫でながら、黒々と光る彼の瞳を見つめる。よくペンギンは哲学的だと表現されるけれど、彼にはその風格がまるでない。この大きく見開かれた目玉を見ても、何も考えていないようにしか見えなかった。
「あれ、何を持ってるの?」
角度的に目に入りづらいからか、今の今まで全く気付かなかったが、彼は脇に何かを挟んでいた。ちょうど翼に隠れてほとんど見えないが、右側だけが不自然に膨れている。僕が確認しようと彼の右の翼を持ち上げると、そのまますとんと挟まっていた物が地面に落ちる。
「ダメじゃないか、勝手に持ってきちゃ」
僕はレヴィを軽く叱るが、彼はやはり反省している様子もなく、僕の言葉を聞き流してふらりとどこかへ歩いていってしまった。後でちゃんと注意しなければと思いながら、ベッドの下に入り込んでしまったそれを拾う。
レヴィが持っていたのは一冊の絵本だった。どうやらレフの店から勝手に持ってきてしまったらしい。表紙には写実的なペンギンの絵が大きく描かれていたので、これを見て仲間だと思ってしまったのかもしれない。比較的新しい本のようで、多少の日焼けはあるものの、目立つ汚れやシミなどは見当たらなかった。
――『訣別の痕』。
絵の横に書かれたそれが、この本のタイトルなのだろう。著者は聞いたこともない人で、奥付を見ると、五年ほど前に出版されたものだった。
明日返して謝ろう。レフは怒ると怖そうだが、さっきも謝ってきちんと片付けをしたらちゃんと許してくれたので、理不尽に怒ることはないはずだ。
僕はそんなことを思いながら、一方で、目の前にあるその絵本が気になって仕方なかった。「訣別」という言葉が今の僕を惹きつける響きを持っていた。買ってもいないのに読んでしまうのは、何だか泥棒のような気がしたけれど、少しくらいならと僕はついその本を開く。
まず最初に僕の目に飛び込んできたのは、見開きいっぱいに描かれた赤黒い絵だった。一見すると子どもが絵具を塗りたくっただけのようにも見えるその絵は、よく見ると小さな人の絵がたくさん描かれていた。
さらに細部を見ていくと、その人々は剣を取り、血を流しながら戦っている。その血や土煙をダイナミックに描いているために、全体としては赤黒くてよくわからない絵に見えるのだった。
そしてそこで戦っているのは人間だけではない。その恐ろしい絵の中には、武器を持ったペンギンの姿が当然のように描かれていた。彼らは人間と同じように、血まみれになって戦っている。またところどころに倒れて動かなくなった者や敵に剣を突き刺された者もいて、その光景は見れば見るほどあまりに無惨だった。
僕は耐え切れなくなって、静かに本を閉じる。ひどく耳鳴りがしていた。表紙のペンギンがこちらを睨んでいる気がして、思わずその本を投げ捨ててしまう。
ニルスのことが頭をよぎった。彼はこの恐ろしい光景を恐れて、愛するセルマを殺したのだろうか。もし彼がそのままセルマと「別れ」ていたら、今頃セルマもこうして血を流しながら、目の前の人間に武器を向けていたというのか。
レヴィがあの赤黒く生々しい世界の中に佇んでいるのを想像する。彼は何もわからないまま剣を突き立てられ、あるいは見よう見まねで相手に剣を突き立てる。この町に残った僕は、そんなことも知らないまま、いつも通り朝食を食べ、学校に出かけ、今日も疲れたと呟きながら、暖かい布団で眠りにつく。
このとき初めて、僕は「別れ」を想像することができた。しかしそこに自分を当てはめることができない。レヴィがいなくなっても、僕がまだ存在しているという、そんなちぐはぐな現実を上手く理解することができなかった。
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