遅れ先立つ事は有りとも



気が抜けたのか立ち上がる事ができなかった。全身が痛む。

再び咳き込み吐血する。


御告げの魍魎、朱顔鋼鬼はやっとのことで討ち果たした。


しかしシンカは生きているのが不思議な程満身創痍だった。

間違いなくシンカでなければ出来ない偉業であっただろう。


森渡りが束になれば、或いは何とかなったのかもしれない。それは分からない。


クウハンですらなす術なく敗れた相手だ。森渡りと言えど数百人の犠牲を払っただろう。


大人がそれ程森で朽ちれば、森渡りの里は廃れて行くだろう。


であれば、これは正解だった。


誰がどう感じようがそれでいい。


シンカは全身の筋肉、関節からの痛みに震えながら這いずる。


「…ヤカ……」


シンカを助け動かなくなってしまったヤカ。


せめてまだ温かい内に寄り添い送ってやりたい。


必死に這いずり打ち捨てられたヤカに近付く。


ずっと一緒だった。

羽を怪我しているところを拾い、治療して以来懐かれた。


リンファに振られて1人里を出た時も肩にはヤカが止まっていた。


いつも共に旅をし、何度も救ってもらった。


土まみれになりながらゆっくりと近付く。


「……あぁ…良かった……」


ヤカの柔らかい羽に涙が零れ落ちる。

温かい。まだ生きている。


迷いはしなかった。


懐の中の薬を腕の氷柱を伸ばして取り出す。

臓器を治せる薬はこれだけ。


そしてこの量ではシンカの肺は治せない。


紙包を開き端を口で咥える。目は見えなくともヤカの温もりがシンカに居場所や姿勢を教えてくれる。


口に粉薬を流し込み、行法で水を生み出して数滴口に垂らした。


「…良かった…良かった…本当に…」


木に背を預け、ヤカの身体を拾い上げて下腹部に置いた。


小さくも呼吸をしている。腹の上下を感じ取りシンカは微笑んだ。


そして咳き込む。口の中が血の味で染まる。


周囲が冷え始める。

陽が沈んだのだろう。


こればかりは耳や経では分からない。


シンカは目が見えない。

こうやって肌で感じるしか無いのだ。


軈てヤカがシンカの下腹の上で動き出す。


「…羽は折れていないみたいだ。もう飛べるか?」


咳き込む。話さない方が良いだろう。


ヤカが激しく鳴く。


「……一緒には、行けない。すまんな。先に…里へ……」


シンカの言葉を理解しているのかいないのか。

ヤカはシンカの服の裾を啄み引っ張る。


「…お前は本当に賢い鳥だな…」


ベルガナには人語を解する鳥も存在するという。

ヤカの頭の良さは知っているつもりだ。


それに心が通じ合っている。


ヤカは諦めたのか、一声鳴くと夜空に飛び立っていった。


鳥は夜目が効かないと言うが、星空の下であれば飛ぶ事はできる。


小さくなっていく羽音を聴きながらシンカは立ち上がる。


「………これが、因果か…」


森がざわめいている。


地面から感じる振動。

耳で聞き取る息遣い。

支配者が消え、森に生物が戻ってきたのだ。


牛鬼の群れ。


嘗てシンカがカヤテを救う為に戦争に利用した魍魎。


彼等が血の匂いに釣られてか、シンカに向けて迫っていた。

行かなければ。役目は終えた。後は帰るだけだ。


咳き込み、吐血して片足で跳ねる。


軈てシンカの経の散布範囲に牛鬼が現れる。

何事も無く逃げおおせる事は難しそうだ。


こちらは全身血塗れ。隠れる事は到底出来まい。


無数の足音。怒涛の勢いで朱顔鋼鬼が更地にした範囲に牛鬼が溢れかえる。

既に数は100を超えている。


武器も無い。加えて満身創痍。一刻も早く治療しなければ命も危ぶまれる。


だが仕方ない。


夢を思い出す。

欅の精霊が天からシンカの元に降りて来た場面だ。


夢に関する書籍を正とすれば、それはシンカに対する死の御告げだ。

欅の精霊がシンカに死を暗示したのだ。


シンカが死ぬ事を伝えたのか?

どうでも良い。

首を振る。


生きる。

最期のその時まで。

強い感情が身体に渦巻いた。


だが力も経も傷付いた体からこぼれ落ちていった。

眼球は変質し何も映さない。

粘膜が焼けて匂いも嗅ぎ取れない。

焼け爛れた肌は風を浴びても何も感じない。

両腕は無く、脚も片方。


だからなんだ。諦めるのか?


……それはあり得ない。断じてあり得ない。


それでもシンカは諦めない。


生きる事は抗う事だ。


自分を慕ってくれた女の為、産またばかりの子供の為、これから生まれる子供の為、自分を愛してくれた家族の為。


経だけがシンカを導く。

暗く、寒く、1人だ。


それでもシンカは抗う。

最期の時まで力を振り絞る。


最早声も出ない。

口を開けば血を吐きだしてしまう。

歯を食い縛り法を行う。


無数の土槍が地面から突き出る。

シンカに向けて走り迫っていた牛鬼達が腹を突き刺されて絶叫を上げる。

それを乗り越えてくる牛鬼に向けて稲妻が突き刺さる。


片足で跳ねて森を抜ける。抜けようとする。


直ぐに朽木に躓き転げた。


口に溜まった血を増幅して吹き出す。

何体かを切り裂いた。

数はどうでもいい。近付く敵だけ分かればいい。


全身が痛い。激痛だ。痛みに涙が滲む。

片足で地を這いずり逃れる。


山を下ろうと試みる。

決して諦めない。無理だとしても、絶対に。


それが己の義務だ。

帰ると約束した己の義務だ。


最期まで前のめりに里へと向かうのだ。


近付く牛鬼に向けて大地が隆起する。

また数が減る。


カヤテの顔が再び浮かぶ。


美しい黒髪の女騎士。折れず、曲がらぬ博愛の騎士。

眩しく凛と赫く、かつて見上げた美貌の騎士。


艶やかな黒髪の感触を忘れない。

己にだけ甘えるその笑顔を忘れない。


細められる美しい翡翠の瞳、意志の強い赫き。

張りのある強い声。


また逢いたい。彼女が産む己の子を抱きたい。


それが難しい事は分かっている。


迫る牛鬼に向けて稲妻を放つ。

大地の振動が5体を葬った事を伝えてくる。


地面を転がり這って進む。顔が擦れ、口に土が入る。


ユタの顔を思い浮かべる。


目付きの悪い可憐な剣士。

純朴で人の痛みに聡い優しい女。


何時も自分を和ませ柔らかい気持ちにさせてくれる。


手が掛かるがそこが可愛い。


小顔で脚が長く立ち姿が美しい。


抱き締めたい。


里に帰り彼女を抱き締め柔らかく笑う鳶色の瞳を見つめたい。

遠い道のりだ。血塗れの身体。魍魎から逃れ進む事は出来ないだろう。


群を殺された牛鬼達は怒り狂いシンカに迫る。

地響きが伝わる。


シンカは再び木に背を預けて立ち上がる。

足元に大量の赤い水流を叩き付けそこから氷の刃を生やし敵を貫く。


因果なものだ。

かつて目的の為に命を奪った牛鬼がシンカの命を奪うのだ。


ヴィダード。


盲目的に己を愛する美しいイーヴァルンの女。


彼女の良さを自分だけは知っている。

一途で献身的で、深い愛情を持つ。

自身の全てを肯定してくれる彼女に自尊心が満たされる。


よく実り陽の光を浴びて輝く様な麦穂色の髪、嵐の後の空の様に澄んだ瞳。


神々しいまでの美しさ。芸術品の様な精緻さ。


彼女の頭を撫でる事も、華奢な身体を激しく求める事ももう出来ない。


牛鬼がシンカに向かって突進してくる。

避ける事は出来ない。


口腔から水条を吐き出す。

正面の牛鬼を貫いて殺し、周囲にも吐き散らす。


そんな目の見えないシンカの身体に強い衝撃が走る。


慣性で殺した牛鬼が勢いのままシンカにぶつかったのだ。


「っ!?……く、……ぶっ…」


堪えていた咳が出て吐血する。


胸が痛む。衝撃で肋骨が折れ、肺に突き刺さった。

既に破れた肺だ。今更である。


吐き出した血を凍らせて周囲に散布する。

最早何体殺し何体残っているのかも分からない。


分かる事は自分の命が風前の灯である事だけ。


両腕を失い日々の入った片脚だけ。

そんな身体で森を越えられるものか。


仲間を待つか?

来てくれるだろう。


それまで保つだろうか?

更地に次々と現れる牛鬼達。

この身体でどれだけ耐えれば同胞は迎えに来てくれるだろうか?


朱顔鋼鬼を倒した事自体が奇跡だった。


何か1つでも足りていなければあの悪夢の様な王種を巷に放っていた。

十分な成果だろう。


シンカには分かっていた。

己が生きた意味が。


導かれたのだ。


女達と出会った事も、子が生まれた事も、大陸を旅した事も。

早くに両親が死んだ事も、戦に巻き込まれた事も、里を出たことも。


全て朱顔鋼鬼を倒す為に導かれた事なのだ。

そして己はやり遂げた。

役割を終えた。


血を多く失った。

逃げる為、進む為の四肢も失った。

あちこちの骨は折れ、砕け、身体は破れ、感覚も失った。


それでもシンカは逃げる。生きる為に進む。


例え命を失うとしても最期まで抗う。

それが人だ。


妻との約束を守れないとしても、最期までその努力を怠らない。


リンファ。


5歳の頃から共にある家族。

己の子を産んでくれた愛しい女。


面倒見が良く愛情深い女。彼女とであれば暖かな家庭が築けると信じていた。


すれ違いはあったがその通りになった。


柔らかく広がる彼女の髪を撫でて手櫛で梳きたい。

やや厚い唇を吸い、頬を撫でたい。


意識が途切れそうになる。失った血液、全身の激痛。息苦しく動くのも辛い。


意識を手放せば深い闇に落ち、そのまま身体を貪られて命を終えるだろう。


同胞と家族の命は守る事ができたのだ。


役目を終え、森に飲まれる。自分の番が来ているのかもしれない。


自然を人が操る事は出来ない。

多少の知恵で上手く付き合う事ができたとしても、それは思うがままになると言うことではない。


世の中に思い通りに行くことなどない。


己一つ取ってみてもそうなのだ。

人は思い、成したいと思った事すら出来はしない。


己すら制御出来ない人が自然を制御しようなどと烏滸がましい話だ。


時に恵を与え、時に牙を剥く。


それでも。それが分かっていても、シンカは這いずる事を辞めない。里を目指して這いずる。


芋虫の様で惨めでも、家族の元に帰ろうと這いずる。


シンカには分かっている。

何が大切で、何が必要なのか。

間違えはしない。


牛鬼が押し寄せる。


振り返り手当たり次第に行法を行う。


しかし万全ではないシンカに全てを捌く事は出来ない。


巨大な手に到頭身体を捉えられる。


ナウラの顔が浮かぶ。


情緒豊かで感情豊かで長く旅を共にした弟子で、妻だ。


滑らかな褐色の肌、美しい絹糸の様な白髪。


共に旅し、遺跡を調べ、本を共著した。


自慢の弟子、自慢の妻だ。


会いたい。会いたい。会いたい会いたい会いたい。


ここは暗く、寒い。

温かい家で、妻に囲まれ、暖炉の火を眺めながら熱い茶を飲みたい。


多くは望まない。富も名声も要らない。小さくとも良い。一部屋だったいい。家族で慎ましく暮らせればそれで良い。


シンカは経を散布する。

自爆はしない。

最期まで抗うのだ。


最後の瞬間まで家族を想い抗う。胸を張れる様に。決して諦めない。


多くを殺して来た。

その自分の最期を思う。


生きたい。死にたく無い。

皆そう思ってシンカに殺されて来た。


自分も同じだ。

行きたかった。死にたくなかった。

そして、死なせたくなかった。


生きる事は抗う事だ。

理不尽に抗い踠き、戦う事だ。


シンカは戦士だ。全てに抗い戦い歩んで来た。


「………………終に止まらぬ、浮世と思えば……」


血を吐きながら言葉を絞り出した。


家族のためならその命も惜しくはない。いずれ命は終わるのだから。だがそれでも帰るのだ。愛する家族の元に帰るのだ。全てはその感情に尽きる。その想いに尽きる。


その気持ちを大切にする為に争って来たのだ。


到頭、シンカの襤褸布の様に朽ちた身体は軈て牛鬼の群れに覆われた。


脇腹を掴まれ強く引かれる。

肋骨が毟り取られる。


反対から肩を掴まれる。


喉が擦れ、最早悲鳴も出なかった。


肉が毟り取られていく。


シンカの身体は到頭牛鬼達に包まれて見えなくなった。


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