崩落

背嚢を落とし大樹の影から左方に躍り出る。


シンカが飛び出した時、洞窟前に立っていた筈の鬼が既に拳を引いた状態で間近に居た。


拳が放たれた。


いや、正確には拳が放たれたのだろうと推測した。

気付けばシンカが潜んでいた大樹の幹に鬼の右腕が突き刺さっていた。


同時に破裂音が鼓膜に届く。

見えなかった。


経を眼球から視神経にまで纏わりつかせていたにも関わらず。


シンカの目ですら捉えられない拳打の速度。

加えて音を超える速度に音響衝撃が発生し破裂音を響かせていた。


間近にいれば躱しても吹き飛ばされる可能性がある。


大穴が空いた幹は自重に耐えれなくなり達磨落としの様に潰れ落ちるが、上部で隣接する樹々の枝に支えられて倒れるには至らない。


シンカは跳ねて間合いを開ける。

距離は20歩。しかしそれだけの距離も一瞬で詰められるだろう。


一瞬の油断も許されない。全ての可能性を考慮し、万全を尽くさねば次の瞬間には肉塊になるだろう。


「…ア?」


腕を見て続けてシンカを見る。

目、肌、鼻、経の五感を持ってシンカは敵の動きを察知した。

地を蹴り出す前の右太腿、大腿四頭筋の膨らみがシンカに攻撃を察知させた。


大腿四頭筋が膨らんだ後、瞬きの50分の1程遅れて右前腕伸筋群が隆起したのを見て取り、シンカは左手に身を投げた。

正しく暴風だった。


シンカは確かに攻撃を躱した。

しかし余りにも早い鬼の攻撃は周囲の空気ごとシンカを薙ぎ払った。


吹き飛ばされたシンカは錐揉みにされながらも両手を握り合わせる。


シンカの白糸が回転に合わせて周囲の樹々を薙ぎ払い、その内の一条が鬼に到達する。


鬼の左脚に到達した白糸は、しかし皮膚に痕すら付ける事は叶わなかった。


巨木の幹に地面と水平に着地したシンカはそのまま脚を蹴り地へと飛ぶ。

僅かに遅れて轟音と共に巨木が殴り倒された。


「……チョコマカト!」


振われる右の裏拳。大きく下がって躱す。

しかし再び暴風に吹き飛ばされる。


鬼が動く。

吹き飛ばされたシンカを追う。


「っ!?凍れっ!」


右眼を見開く。

水行法・蔑視


自然の中心の空気が冷却され、氷塵が舞い散る。


鬼の動きがやや鈍る。

その隙にシンカは着地し経を練った。


そして両手を突き出す。


風行法・一角が動き始めた鬼に突き刺さる。


例え幾ら肌が強靭でも、物は冷やす事ができるし水分を多く含む生体は雷を流す。


「…ちっ」


だが。

動きが鈍った鬼ではあったが、しかし止まることはなくシンカに向けて直進を続けた。


油断は無かった。

再び右側に身体を投げる。

先より速度は遅いだろう。

通り過ぎる鬼。


シンカの頭は地を向いていたが、口元には筒が構えられてしかと鬼に向けられていた。


躱された鬼が咆哮を上げながらシンカに向き直る。

その時、鬼の眼球には長針が突き立っていた。

虹百舌鳥の毒が塗られた吹き矢だった。


シンカは直ぐに筒を放り、両手を地に付いて後方へ跳ねた。

鬼は眼球に毒針を残したままシンカへと迫っていた。

シンカは後方へ逃れながら両手を組み合わせ、経を発して鬼の胎内に干渉する。


法は発動しなかった。

鬼自身の強力な経に妨げられシンカの経が鬼に浸透しない。


鬼が拳を振るう。

左脇を通り抜ける。抜けざまに翅を抜き、鬼の脇を斬り払った。

人間なら肋まで裂かれて臓器を零す一撃。

シンカはちらと翅を見遣る。


翅には血液が付着していない。

皮膚が硬質で斬れていないのだ。


「ハムシメ!ウヌラノスヲ、ミツケダシ、ハカイシテ、クレル!」


シンカは経を耳道に充填し音を遮断している。

しかし鬼の言葉は唇の動きで理解できた。

鬼は眼球に刺さった毒針を抜き取る。

一瞬視界が塞がれた。

次に鬼がシンカの姿を視界に収めた時、シンカは両手を組み合わせて口から水条を吐き出している所だった。


鬼は眼球に向けて一直線に進白糸に気付かなかった。

眼球に白糸が突き刺さる。

その場で朱顔鋼鬼が吠える。

衝撃にシンカは吹き飛ばされた。


ひりつく肌。痛みを堪えて鬼に目を向けるとシンカへと駆け出している所だった。


「っ!」


間に合わない。空中に体があっては何もすることが出来ない。

鬼がシンカに向けて腕を伸ばす。

掴まれれば終わりだった。


シンカの右側で急速に経が高まる。無論自分で起こしたものだ。

生み出された風が明確な形を持つ前に吹き荒れる。


暴風に吹き飛ばされてシンカの体が鬼の軌道からそれた。

地面に叩きつけられる前に地に手を着いて跳ねて距離を取る。


鬼は勢いのまま木の幹に突撃して大人一抱えもある杉を圧し折ってしまう。


シンカは朱顔鋼鬼の王種について分析する。

力は王種の名に相応しく触れるもの全てを破壊し、余波ですら周囲を薙ぎ払う。


知性は人間であった時の物を残し、会話も可能。


人を好んで食す性も見受けられる。


必ず排除しなければならない。


触れられれば即死。行法も刃も皮膚を通さない。眼球に針は刺さったが、毒はさして効かず。


自分に何が出来るのか。

敵は強大。何れ自分が先に力尽き、森に飲まれることになるだろう。


だが、確かにシンカは夢を見た。

欅の精霊がシンカに見せた夢だ。


シンカは導かれた。ここまで導かれて来た。

必ず出来ることがある。例えその命が尽きたとしても。

諦めることは許されない。愛する妻の為、子の為、妹弟の為、両親の為、里の同胞の為。


息を深く吐く。


向き直った赤ら顔の鬼。

最早動きは予測するしか無い。今までシンカは必ず右に避けてきた。

鬼が動く。

見えない。

シンカは既に動いている。

掬うように左手が振られたのは地面が抉れた事で気付けた。

飛び散った土中の石が散弾となって周囲に飛び散り樹々に穴を穿つ。


右に避けていればシンカの身体も蜂の巣のように穴だらけになっていただろう。


だがシンカは今度は左に避けていた。

避け際に翅を振るう。


膝上、右腿の側面。

やはり傷一つ付かない。


直ぐに暴風にシンカは吹き飛ばされる。空中で体勢を整え両手を握る。


「グオオオオオオオオォォォォォォオオオオオオオオッ!?」


鬼が転げて凄まじい速度で正面の巨木にぶつかった。巨木はゆっくりと倒れていく。


水行法・氷柱張り


体内の経に干渉が出来なければ表面はどうか。

まして鬼はシンカの吹き矢により毒針を眼球に突き立てられ、涙を流していた。


シンカはその水分に干渉し、それを基点として脳の破壊を狙った。


だが手応えは今一つ。

シンカの作り出した氷柱は鬼の脳に到達まではできなかった。

しかし、眼球は破壊出来た。


シンカは巨木の幹に着地すると直ぐに蹴り、地に跳ぶ。


地を手について前転、回転して両脚で苔むした大地を踏み切り、数度の前転を繰り返すと転げる鬼に向けて駆け出す。


全身の筋肉、神経、骨、臓器に至るまで経により強化され、猛烈な勢いで駆ける。


シンカの気配を察知した鬼が氷の花が咲いた右目を左手で抑えつつ体を起こす。


鬼は近くの倒れた樹の幹を右手で掴む。


シンカは脚の回転を止め、苔や土を撒き散らしながら地を滑り身体の向きを変える。


直後、豪風が横一文字に迸る。鬼がシンカを木の幹で薙ぎ払うべく振るったのだ。


地表から1尺程が扇状に吹き飛ばされる。

しかしその中にシンカ自体は含まれていない。


飛び上がり地と水平になりながら巨木が通り過ぎるのを感じる。

同時に自身の周りの空気、巨木との間に干渉し、経により固定する。


巨木が通り過ぎた後の暴風はそれにより絶縁され、身体が吹き飛ばされる事が無くなる。


一か八かの試みに成功した事で先の展開を幾つも想定しつつ着地する。再び鬼に向けて駆ける。


そもそもシンカは風行法の風系統を得意としない。

経の効率も悪く、維持できる時間も短い。


ヴィダードの様に自在に形を変え、維持して動かす事は出来ない。

しかし、朱顔鋼鬼の攻撃があまりに早いが故に、シンカの未熟な風行法をしても効果を出すことができた。


鬼が振るった幹は一振りで半ばから裂け折れる。

鬼は手元に残った丸太を投げつける。予測していたシンカは空気の膜を作りつつ、左に躱す。


再び一閃。やはり傷も付かない。

振り返り攻撃の勢いのままに後退する。

2度の跳躍の後直ぐに鬼に対し円を描く様に駆け始める。


経を用いたその速度は人間離れした速さであり、常人では脚の回転も視認する事は出来ないだろう。


堆積した枝葉を撒き散らしながら不安定な足場を駆ける。

鬼は再び倒れた木の幹を拾い上げて振るう。


今度は縦に。


シンカに届かない距離。

だがシンカは急制動し、延長線から身体を逃す。


直後、鬼の目前から大地が裂けた。

その様に見えた。


強烈な力で叩きつけられた大地が爆ぜ裂けたのだ。

そのまま走っていれば弾き飛ばされた土砂でシンカも肉塊となっていただろう。


再び折れた丸太を投付け、鬼は無手の拳を眼前で構えて体を落とした。


明らかな武術の構えだ。


確たる知性の証。

言語を解する知性のみならず、かつて大陸を蹂躙する際に用いた戦闘技術すら健在。


血道のトュティラ。


残る鬼の眼球は怒りに血走り。白目は夕陽に照らされ烱々と輝いて見えた。


突進するシンカに向け、左拳の拳打が放たれる。

シンカは気膜を作りながら潜り躱す。


強靭な肉体が間近に見える。


ちらと手元に視線を送る。

僅かにヨウキと分けた翅に付着した血液。

4枚の翅のうち3枚までが今シンカの手元にある。


内1枚を使い潰す覚悟を決める。


鬼の右足の予備動作を探知し軌道を想定する。飛び込みつつ気膜を張り、鬼の攻撃を交わしつつ背後に回り込んだ。


右足前、左脚で地を踏み締め、剣を握った両腕を頭上に掲げ、大上段を取る。


構えは千剣流・倒木の構え。


蹴りの慣性に流されて背を晒していた鬼がシンカに向き直る。

直後、シンカは動く。大きく、強く左脚を踏み出し袈裟に翅を振り下ろした。


狙うはこれまで狙い続けた鬼の左腿。幾度も同じ位置を狙い薄皮1枚づつ斬り裂き、漸く僅かな流血まで運んだ。


千剣流奥義・流星。


肉を斬り裂く手応えと共に翅に無理な負荷が掛かる感触。

そして何か途轍もなく硬いものとぶつかる手応え。


鬼の太腿が半ばまで切り裂かれている。だが大腿骨に食い止められ、シンカの狙っていた大腿動脈には刃は到達せず、翅は半ばから折れ曲がっていた。


脈に罅もも入っている。


大腿骨に食い込んだ翅を離し鬼から離れる。


だがシンカの体の動きが突如として止まる。


鬼の腕がシンカの外套を掴んでいた。


胸元の止め紐を引き、即座に脱ぎ去る。

だが再び離れようとする前に左腕が鬼に捕まえられていた。


「っ!?ぐ、ああああああああっ!?」


振り解くこと叶わず、シンカの左腕は鬼により握り潰された。

鬼は自ら潰したシンカの腕を離さず、ニタリと醜悪な嗤いをを浮かべ、左手をシンカに伸ばした。


激痛に脂汗を流しながら、振り解くことも叶わず伸ばされる鬼の大きな掌をシンカは目にした。


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