御告げの王

崖の裂け目は、初めはただの石灰岩が続いていた。


しかし歩を進めると壁面はぬらぬらと光を照らし返す鍾乳洞に変じていった。


光は入り口から差し込む光がぼんやりと周囲を照らしているが、奥へと続く洞窟は暗く口を開くだけだった。


足元に薄く靄が流れている。

多量に軽を含んだ靄だ。


シンカは躊躇うことなく先へと足を踏み入れた。


腐敗した肉の臭いが鼻に届く。

石筍と鍾乳石を避けて物音を立てずに獲物を狙う蛇の様に進んでいく。

細い隙間を抜ける。

すると広間にたどり着いた。


まず目に付いたのは焚き火の跡。

鬼は火を焚く知恵がある。シンカは身震いした。


周囲を見渡す。

無数の骨が鍾乳洞の壁際に積み上がっていた。


獣や鳥、爬の物。

そして人骨も。

御告げの魍魎にとって人もまた食料に過ぎないと言う事だ。

いや、鍾乳洞の外の森渡り達の遺体は放置されていた。

食事以下の認識しか持っていない可能性もある。


広い広間の隅に骨はばらばらに積まれている。

中に苔色の外套を見つける。


近寄りそれらを確認する。

大量の血がこびり付いて乾き、変色している。

どの人骨がそれの持ち主かシンカには判別が付かなかった。


しかし外套に薄らと付着した土埃の量から放置された期間が窺い知れる。


半年未満。ランギ達の物だろう。


どの様にして御告げの魍魎と遭遇したのか、シンカに知り得る事は今となっては不可能だった。


広間は二手に分かれていた。

一方向からは風が流れて来る。片方は空気が澱んでいる。


シンカは先に澱んだ行き止まりの道を選んだ。

今、鬼は森渡りを追っており此処には暫く帰ってこない筈だ。

その間に退治する術を見付けておく必要がある。


追われている同胞には無事に逃げ切る事を祈るばかりだ。

無闇矢鱈に同胞を守ろうと鬼を追えば、クウハンの様にシンカといえど無為に殺される可能性が高い。


空気の澱んだ右の穴に踏み入る。

そこには無数の骨や衣類等が積み上げられていた。


広い空間だ。にも関わらずその高さはシンカの身長を超える。

動物から人間まで。


暗闇の中でシンカはそれに目を止めた。


苔色の厚手の布だ。


どれほど前の物か確認しようと骨の山を登り、布の元まで辿り着く。


間違い無く森渡りの物だ。

近い位置にもう一枚。


積み上げられた遺骸は手前の物はばらばらで原型を留めていないが、奥の物は動物も人間も原型を留めていた。


古い物は臓器や肉をそのまま食していたと言うことなのだろう。


手前の物は火に炙る程度だが、調理をする事を覚えたのだと推察できる。


シンカは森渡りの外套2着を引っ張り上げる。


1着目の持ち主は小柄だった。骨盤のカタチや全体的な骨の太さで女性と判断できる。


もう1着の持ち主は男性だ。

下半身の骨は確認できなかった。


外套への埃の積もり方から10年、20年は放置されていたものとわかるが、50は経っていない。


もしかしたらシンカも名を知る同胞かと、外套の内袋を確認した。

薬剤や油紙、消臭粉などが男の外套から見つかった。


骨盤の上部に剣帯が巻かれており、2振りの鞘が固定されている。


1つは鞘のみで剣は収まっていない。


抜いて戦い、敗れたのだろう。


続いて女の外套を調べる。

同じく森渡りとしてはありふれた装備が殆どだったが、1つだけ変わった物が見つかった。


小さな木箱だ。


簡易的な作りで、掌の半分程の大きさ。薄さは指2本程。

振ってみるが音は鳴らない。

重さも軽い。


貴重な薬剤かと蓋を開けてみる。

綿がまず見える。

綿を指で掻き分けると、小さな硬いものに指が触れた。


綿の中を追いかけて摘み上げた。

それは珠だった。


暗闇の中でその珠に視線が吸い寄せられる。

その珠はシンカの瞳と同じ色だった。


珠には目一杯経が込められていた。

経を感じ取り、何処か懐かしい気持ちになる。


「…あぁ……そうだったのか……」


1人小さく呟いた。


シンカと同じ瞳の色の珠は大鴉蛾の胎内から採取できる。


大鴉蛾の生息地は今は森渡りの里から程近いが、それは年々北上した結果である。


30年前の生息地はケルマリオ南の白山脈山麓であった。


何故彼等がその珠をわざわざ取りに行ったのか、本当の事は誰にも分からない。


それでも、シンカには両親がシンカの為にそれを得ようとしたのだと、思えてならなかった。


父と思われる男の骨盤に引っ掛かっている剣帯から鞘ごと剣を抜く。

暗闇の中でシンカは得に巻きつけられた鞣革を解き、紋様を指でなぞった。


故ヴァルド王国の王紋が刻まれていた。

27年前に里から失われた物だ。


間違い無くこの2人はシンカの両親だった。

息子に贈る珠を採取に訪れ、そこで王種と会合、その命を落としたのだろう。


リンレイや周りの大人達から、自分は厳しくも両親に愛されていたと聞かされてシンカは育った。


しかし他人からそう聞かされていても、シンカには実感が持てないと言うのが正直な感想だった。


両親が消息を経ち、2月でシンカはリンレイに引き取られた。

両親が里を出たのはシンカの誕生月の3月前。順当に帰っていれば誕生月の1月前には里に帰っていた事だろう。


息子の誕生祝いにと、珠を取りに行ったのだろう。


漸く、やっとのことで自分は両親に愛されていたのだとシンカは実感できたのだった。


涙は出ない。

涙が出るには真相が分かるのが遅すぎた。


今のシンカはリンレイや5人の母達を親として長い年月を過ごしてきたのだ。


シンカのリンレイ達に対する想いが揺らぐ事はない。


それでも何処か暖かい気持ちになるのは気のせいでは無いだろう。


全てを終えて、この巣穴から両親を連れ出してやり、妻達と共に祈り、大地に返してあげたい。


父の剣帯を外して自分の腰に巻く。ヴァルド王家の剣を挿し直し、シンカは鬼の塵捨て場を後にした。




鬼の食事場に戻ったシンカはもう一つの道を進む。


住みやすくする為に石筍や鍾乳石が折られている。

やはり高い知性を持っている事は間違いない。


最も賢い猿ですら、居住の為に周囲を破壊する事はない。

分かってはいた事だ。拾った物か、自分で作った物かは分からないが、草鞋を履くのだ。


最早魍魎と言えるのかも疑問だ。

人間ではないのか?


しかし人肉を食っているのだ。

奴にとって人間は家罔と同じ食料に過ぎない。


狭まった箇所を通り抜ける。

案の定、そこは鬼の寝床の様だった。


人間を殺して奪った衣類が隅に積み重ねられている。

そこで寝ている事は間違いない。


シンカは寝床に近付き、鬼の種類を特定する為痕跡を探し始めた。


すぐに毛を発見する。

毛はシンカのものより僅かに太く長い。

頭髪だ。


頭髪がある鬼という事は人間を起源とした鬼で間違い無い。

更に頭髪を観察する。


色は黒。太い直毛。

黒髪はモールイド系かアガド系かドルソ系か、ネラノ系。

この髪はアガド系より稍毛質に腰がある。


また直毛の為ネラノ系も除外。

モールイド系かドルソ系か。

しかし先に殺された森渡りの剣に付着していた皮膚編は赤み掛かっていた。


ドルソ系ではないだろう。

モールイド系とすると、何故皮膚が赤かったのか。


気付けばシンカはじっとりと汗ばんでいた。


嫌な予感に背は満遍なく汗で濡れていた。


「…いや、あれは絶滅した筈だ…」


首を振る。


それに、何かを忘れている気がする。

冷静に思考を巡らせ、答えを導かねばならない。


モールイド人を起源とする黒髪の現存する鬼を脳内で羅列する。


黄肌小鬼、生多目鬼、百目鬼、一角一ツ目、星隈鬼、壁鬼、河童、饕餮、背折益、夜叉鬼。


内河童は水棲、百目鬼と一角一ツ目、壁鬼、背折益は大型の為除外。


饕餮は二足歩行ではない為除外。


黄肌小鬼が大型化したか、残る星隈鬼、夜叉鬼か。


星隈鬼か夜叉鬼は非常に凶暴で、それが変異したとすればそれは恐ろしい事になるだろう。


黄肌小鬼は小鬼の例に漏れず小型で群れる鬼だ。

それが単独で王種に至るかと自問すれば、首を傾げざるを得ない。


夜叉鬼か星隈鬼か。


赤い皮膚変は銅や鉄を食べたせいか。

その時、シンカの背筋に雷が走ったが如く冷たい物が抜けていった気がした。


そうだ。


王種は隕石を食らったのだ。


鉱物を喰らうという条件を度外視していた。


現存する鬼の中で鉱物を喰らう鬼は子掘鬼、饕餮の2種だ。


だが、子掘鬼はモールイド系ではない。また饕餮の骨格から考えて、変異したとしても二足で森渡りを殴り殺せるかと考えれば難しい様に思える。


だが、現存しているという条件を除けば。


シンカには1つ心当たりがあった。


あまりに凶暴で危険な為、2000年前に森渡り自らの手により滅ぼした鬼だ。


それはモールイド人を起源とし、黒髪で、赤い肌であり、鉱物を含む全てを喰らった。


その鬼は悪しき馬の一族、テュテュリス人を起源とした最古の鬼。


シンカははっと顔を上げる。


素早く寝床の先、もう一つの出口に向けて飛び跳ねた。

天井が崩落し、陽光が鍾乳洞の中に差し込んだ。


天から降る無数の岩を避けて大きく五度跳ねて後退し、素早く出口を目指す。


耳を劈く咆哮が洞窟内に響いた。


既に耳には経を充填させ、大気の振動を絶縁しているが、余りの咆哮の大きさに臓器が揺すぶられて吐き気を催した。


洞窟から抜け出し太い木の影に身を隠し、洞窟の入り口を睨む。


暗い裂け目から濛濛と土埃が巻き起こり、夕陽に照らされた。

そこにゆっくりと影が浮き上がる。


濃密な経を感じる。


土煙の中から鬼が姿を現す。


疎らな黒い長髪、消炭色の表皮、そして赤ら顔。


朱顔鋼鬼。


古のテュテュリス人が纏っていた襤褸の鎧を纏い深い地を這う様な唸り声を出していた。


テュテュリス人による大侵攻は大陸中に夥しい血を撒き散らし、森や魍魎が発生する原因となった。


腐り変質した経を食物連鎖の果てに多量摂取した人間は鬼へと姿を変じた。


では肝心のテュテュリス人はどうなったのか。


その答えの一つが朱顔鋼鬼だ。


有象無象のテュテュリス人達は十把一絡げの鬼へと変化した。

しかし元々濃い経を持つテュテュリス人達は別の変化を辿ったのだろう。


それが朱顔鋼鬼だ。


強い経を持つテュテュリス人戦士達が凶悪な魍魎へと姿を変え、だった数体で大きな街を滅ぼす程の被害を出していた。


2000年前のシンカの先祖、シンオウ・シメル・ヴァルドは数百人の犠牲を出しつつも朱顔鋼鬼を滅ぼしたとされている。


しかし、生き残りがいたとすれば。


襤褸布から除く手脚は筋骨隆々であり、陰影を落とす程に発達している。


ただでさえ強力な魍魎が長い年月強い経を取り込んでを王種へと至り、更に河口の龍、曼荼羅龍の蓄積された変異経を取り込み、未知の材質を含む隕石を食らって、今シンカの目の前に立ちはだかっていた。


倒せるのか?


それは最早人間にどうこうできる代物では無い。


シンカは全身から脂汗を流しながらそう考えた。


朱顔鋼鬼は唸り声を上げながら周囲を見渡している。

シンカを探しているのだろう。


それでも。


自分に何ができるか分からない。何もできないかもしれない。


恐ろしい。


ただ立っているだけで腰から力が抜けそうな重圧を感じた。


「……ドコダ……デテコイ……」


低くざらざらとした音がシンカの耳に届く。

言葉だ。


鬼羆も言葉を話した。しかしそれはただ単語を並べる程度の稚拙さであった。無論驚異的な事実だ。


しかし今の鬼の発した言葉はそれを凌駕する。


明確に文章として言葉を発していた。


シンカは一つの結論に達した。


この魍魎は3000年も昔のテュテュリス人の戦士そのものなのだ。


少なくとも2000年前に滅ぼした朱顔鋼鬼達は人語を解さなかった。

一頭たりとも。


変異した経を取り込み生物は変化した。

変化したそれらを人は魍魎と呼んだ。


鬼へと変化した人間は知能を失った。それは朱顔鋼鬼も同じだ。


経により脳が変異したとされている。


しかし目の前の個体は今、文章として人語を口にした。

身に纏う鎧の残骸と言葉。それこそ大陸を席捲したテュテュリス人の戦士がこの現代まで生き続けた証なのだと。そうシンカは悟った。


これ程の力を持ち、知能も人並みであれば、最早勝つ術はないだろう。


人間よりも知能が劣る事を祈るしかない。


「デテコイハムシ!コノトュティラノシンジョヲアラシ、タダデスムトオモウナカレ!」


咆哮だった。


空気が震える。


耳に経を集めて絶縁していなければ鼓膜が破れていただろう。

骨を伝い鼓膜に届いた鬼の言葉にシンカはまたしても身を震わせた。


トゥティラ。


馬を駆りテュテュリス人を統べて、西は南方のメルセテから北方のコブシまで、東はアルアウラーダ川を超えて地図にも載らない大陸南方まで血を撒き散らし駆け抜けた悪名高き王の名だ。


伝えられる名は血道のトゥティラ。


確かにトゥティラが討たれたり病に倒れたという記録は残っていない。


それは森や魍魎の発生による混乱により彼の姿を見失った為と考えられて来た。


しかし、まさか霧の洞窟で生き延びていたとは。


3000年力を溜め続け、今御告げの災厄として再び歩み始めたのだ。


シンカは威圧に竦む全身に経を巡らせる。


皮手袋の上から左手の5つの指輪其々に接吻をする。


震えが消えた。


争うのだ。


己の為に。


妻の為に。


家族の為に。



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