道導


シンカが手紙を読んで瞼を腫らしながら再び南下を始めた日から3日後の夕刻、クウハンは30人の同胞を引き連れて箒星落下地点周辺を探索していた。


雪解けが始まり忽然と姿を消した箒星。


捜索をあと2日も延ばしていれば件の王種を見つけることが出来たのではと悔やみ切れなかった。


今までにクウハンは部隊を率いて3体の主を駆除して来た。

王種を討伐した実績は無い。

しかし何時でも地道な調査の上で痕跡を発見し、危なげなく巨大な個体を討伐してきた。


だが今回の様に微塵の気配も探し当てられなかった事はない。


経脈が地表に繋がる位置で、霧が発生しない様植物を伐採した事もある。


霧を吐く植物を見た事もある。


霧の森無く霧の王種が出現したという例は森渡りの連綿と続く記録に存在しない。


そもそも霧の森とは地に流れる太い経の脈が地表近くまで浮き上がる地点で、木々が異常成長する事で生じる。


この辺りには経脈の湧点は存在していない筈なのだ。


無論クウハンは新たに湧点が生じた可能性を考慮して周辺の地中を経を浸透させる事で確認した。


広範囲を探査したが、成果は上がらなかった。

この探査はハンネ隊も実施しており、あまりの痕跡の無さに予言は誤っているのではと考えた程だった。


しかし現実にクサビナで戦は起き、河口に龍が現れた。


そこまで数年前より未来を予言し、最後の霧の森と王種だけ外れていると考えるのはあまりに都合が良い。


そしてそんな最中に箒星が持ち去られた。


箒星自体は纏経を行えない人間が10人で転がせる程度のもので、リンブやシンカの妻程纏経により力を発揮できる者なら、3人程度で持ち上がる。


大きさも高さ7尺、幅10尺、奥行き8尺程度。

王種なら運ぶ事は訳ないはずだ。


解せないのはその痕跡だ。

巨石を持ち運びに対して積雪前とはいえ足跡が残っていない事に違和感を覚える。


龍や巨大な鳥の類が持ち去ったのなら、何処かで目撃があってもおかしくない。


王種がケルマリオやケルレスカン近郊に生息していることすら確信出来ていなかった。


それから数日、クウハンは草の根を分けて痕跡の捜索を進めた。


だが一向に痕跡は発見出来なかった。


4日後の夕刻、クウハンは4人の隊員と共に再び状況を確認していた。


「状況整理だ。まずハンネ隊が仕留め損ねた曼荼羅龍が飛び去った方角はケルレスカン南東方角。我々が今いる一帯だ。そして消えたランギ商隊が最後に目撃されたのがケルレスカン。彼等はその後南か南西に進路を取ったはずだ。方角が合わない」


「確かに今までランギ隊の捜索はしましたが、何故ベルガナ方面に向かわなかったのかは考察していませんでしたね」


コウガが答える。


「彼等がベルガナを目指し、進路を南や南西に取っていれば、失踪する事は無かったのだろう。ならば彼等は何故南東を目指したのか」


クウハンは半ば自問自答気味に言葉を発した。


「やはり何かを見つけたのではないでしょうか?」


「何か…。御告げの王種か」


「しかし街で目撃情報の無い魍魎をどうやって目にしたのか…?」


隊員が意見を交わすのをクウハンは黙って聞いていた。

深い眉間の縦皺が更に寄る。


ランギ隊が街を出て直ぐに南東を目指したのだとすれば、それは王種を目撃したからという理由に他ならない。


或いは痕跡を見つけたかだ。


巨体を誇る王種が街の側に出没し、住民に目撃されなかったというのは考え難い。


ではランギは何を見た?


その時、クウハンの脳裏に1つの仮説が浮かび上がる。

全身の肌が粟立っていた。


「…我等は前提を誤ったまま、捜索を続けていたのかもしれん…」


「隊長、何か分かったのですか?」


「シンカはグリューネで遭遇した鬼羆が人語を話したと言っていた…。人語を話すという事は高度な知能を持つという事。精霊達が告げる災厄の主は、高度な知能を持ち、痕跡を隠している。その可能性が高い。そしてその痕跡は……隠せるものだという事だ…」


誰かが唾を飲み込む音が聞こえた。


それから3日間に渡り、クウハン隊の再捜索が行われた。

そして森暦198年春下月の下旬4日目に、到頭クウハンはその報を耳にした。


直ぐに方々に散開した隊員をケルマリオ北東、白山脈4合目付近の断崖に集結させた。


即座に集結した先行の30人と共にクウハンは崖の側面に空く裂け目を見据えていた。


裂け目は崩れた岩石で視認が難かしい。


再度の調査でクウハンは隠された痕跡の捜索を徹底させた。

地にめり込む石、僅かに押し潰された苔、擦れて落ちた樹皮、破れた落ち葉。


それらを全力で捜索し、範囲を狭めて到頭その崖に辿り着いたのだ。


「…」


手信号で経の感知に優れるウンビに裂け目の中について問う。

ウンビは経脈が地上に湧き出す点、経点が裂け目の奥に恐らくはあるであろう事を手信号で返す。


「…」


クウハンは更に手信号で周囲の隊員に指示を出す。


嗅覚に優れるカイラン、聴覚に優れるハンタがそれぞれ鼻と耳に経を集め、感覚を鋭敏化する。

2人が頷く。


いる。


クウハンは続きコウキとコウガに指示を出す。

2人は背嚢から薬剤を取り出す。

併せてテンリが両手を突き出し、崖の裂け目に緩やかな風を送り込む。


コウキとコウガが2つの薬剤を地に垂らす。

見た目上は何も起こらない。

しかしテンリの風行法が無ければあたりには腐卵臭が満ち、吸い続ければ半刻で人は死ぬ。


だがこれだけで魍魎の王種を殺せるとは思っていない。

クウホが右手を振るう。

裂け目の入り口に無数の何かが刺さる。

毒針だ。虹百舌鳥の毒液が針には塗られている。


加えてコウガとコウキは次の薬剤を取り出す。

3呼吸も吸えば神経を侵され身動きも取れなくなり、身体の機能が損なわれて死に至る猛毒の気体が、現在は液体として蓄えられている。


「…チッ」


クウハンは合図を送る。

皆緊張に顔を引き攣らせている。

コウガとコウキの指先は震えていた。

テンリが風行法を強める。

すぐにコウ家の2人が毒の入った瓶を裂け目に投げ付けた。

2つの瓶が高い音と共に割れる。


直後、耳をつん裂く咆哮が裂け目から響き渡った。

一同は咄嗟に耳を押さえる。

クウハンは内臓にまで響く咆哮を感じながら考える。


何の鳴き声か。仕留める事は出来たか。

右耳が滑る。鼓膜が破れたのだろう。


視線だけは裂け目から逸さず咆哮が終わるのを待った。


漸く空気の振動が止み、手を耳から離した瞬間、それが視界に映った。


「いかんっ!?散開っ!」


岩の裂け目の手前、崩れ落ちた岩の上部に黒ずんだ手が置かれたのだ。


隊員達が一斉に背後に跳びずさる。

直後、岩石が爆発した。


クウハンにはそう見えた。


引き伸ばされた思考の中でクウハンはその現象が黒い手の主人により攻撃を受け、ばらばらに砕け散り弾け飛んだのだと理解していた。


砕けた破片がクウハンの肩を掠る。

装備を切り裂き、肩まで抉れ、血が飛び散った。

前方でコウガの頭に大きな破片がぶつかり、頭皮や脳漿が落とした赤茄子の汁が如く飛び散った。


嫌な汗が全身に流れていた。




シンカはスイキョウから聞いたクウハンの位置を目指して南下していた。


昼食を済ませ四半刻、シンカは周囲の様子に異変を感じていた。


「キキキキッ」


合図を送っても同胞からの返答が無いのだ。


一体は霧の王探索の為に同胞が散開している筈である。


白山脈の4合目付近を南下しつつ、時折合図を送るものの、誰からの返事も返って来なかった。


シンカは周囲に最新の注意を払い先を急いでいた。

明らかに様子がおかしい。


シンカは己の違和感に逆らうことは無い。


「…頼む」


小さく声を掛けると、笠の天辺に留まっていたヤカが飛び立った。


シンカは考える。

クウハンは経験豊富な同胞だ。

これまで部隊を率いて多くの強大な魍魎を駆逐してきた。


他にもハンネや多くの同胞が協力して見つけ出せないのだ。


そこには理由がある筈だった。


その理由について、シンカは1人里からの旅路で思索していた。


スイキョウと会合し改めて状況を聞き、疑問を持った。


第一に。

何故霧の森が見つからないのか。

秋口から冬を挟んで春に至るまで霧の森が見つからないのは何故なのか。


森渡りは如何なる森の深くまでも辿り着くことができる。

見つからないのであれば、その森は森渡りには辿り着く事が出来ない場所にあるという事だ。


そして第二に。

何故痕跡が見つからないのか。

霧の森を出ていないからか?

出ていないならランギ小隊は失踪する事はなかっただろう。


つまり御告げの魍魎、霧の王は己の巣から動き回って尚、その痕跡を残していないという事だ。


高い知能を持つ事は鬼羆の王種と遭遇して分かっている。


しかし痕跡を隠す事が出来る種とそうでない種がいる。


魚はまず無い。

魚では曼荼羅龍を捕食する事はできないだろう。また、水生であれば陸に上がった時に痕跡が残る。


爬も無いだろう。

蛇や蜥蜴は這いずった痕跡が残る。

龍なら飛行で移動する。目撃される可能性は高く、また羽ばたく時痕跡を多く残す。


鳥も同じく。


残る可能性は獣と鬼だ。

この2種は強い体臭を放つという特性がある。

獣の獣臭、鬼の垢臭。

鬼羆の王種の様に巨大なら、痕跡が残らないという事はまずあり得ない。


この二つを踏まえてシンカは思考を巡らせ続けてきた。


知識と経験を元に推論を重ねる。

自分も、森渡り達も1つの固定観念に縛られていた事にシンカは気付いた。


今まで発見され、討伐されて来た3体の王種達は、須く気の遠くなる様な長い年月を生き、その体躯を巨体へと発達させていた。


本来巨大な体躯は自重を支える事が出来ない為、生物の成長は一定で止まる。


しかし経を含んだ霧を吸い続けた王種達は、その自然の摂理を経の力で跳ね除けて、異様な巨体を育んだ。


今まではそうだった。

だから今回もそうなのだろう。

そう考えて来た。

だから巨大な痕跡を探して来た。


しかし、そうではなかったのなら。


つまり、身体は然程大きくなく。

そして長い年月を生きて、高度な知能を得ていたら。


先入観に縛られた森渡り達はその痕跡を見ても除外してしまうだろう。

それが御告げの魍魎が見つからない正しい理由であったとしたならば、霧の森が見つからない理由も自ずと浮き彫りになる。


霧の森を巨大な魍魎が彷徨っていると考えていた。

身体が小さな魍魎なら何処を寝ぐらにするだろうか。


獣の冬眠や、小鬼達の棲家はどの様な場所で為されるか。

穴だ。


霧の森は植物の蒸発散作用に経が含まれることにより発生する。

植物は地表に生え育つ。

霧も地表に漂う。

自然の摂理である。


だが、地表以外で育つ植物もある。

そして霧の森の霧は一般的な霧とは別物である。

ならば問題なのは地表かどうかではなく、そこに植物があるかどうかだ。


シンカの出した結論は、洞窟などの狭い空間で苔などが霧を吐き出し、そこに小型の王種が潜んでいるのでは、というものだった。


目に付きにくく、森渡りですら脚を運ばない場所。

巨大な岩が無数に転がる切り立った谷間の地形が幾つか、シンカの脳裏に浮かんだ。


何もケルマリオ北東に位置する。

シンカはそこを目指す事とした。




歩を進めて3刻。依然同胞との連絡は取れなかった。

シンカは明確にそれを異変と捉えていた。


森渡り達は霧の中から何かを引き当てたのだ。

できる事なら、何を引き当てたのかを事前に把握して対策を取りたかった。


しかし連絡が取れない以上、それは叶わない。


薄闇の中を衣摺れの音一つ立てずシンカは進んでいく。

岩を跳び渡り、枝を掴んで跳び渡り、痕跡一つ残さず進んでいく。

背に背負った背嚢も音は立てない。薬剤も器具も真綿で包まれ対策されている。


猿のように、鹿のように、シンカは森を進んでいた。


暫くしてヤカの小さな鳴き声が耳に届いた。

シンカはすぐさま進路を変えた。


ヤカが鳴いた方角はシンカが目指していた候補地の内一つとの間であった。


速度を増して森を駆け抜け四半刻。


シンカの鋭敏化された嗅覚はその匂いを捉えた。

血の匂いと臓物の異臭だ。


風は向かい風。敵に気づかれる事はないはずだ。


シンカは薄暗い樹々の合間を抜け、樹々の生えない小さな広場に出た。


そこには下半身を失った男の身体が俯せに転がっていた。

周囲を警戒しつつもシンカは男に駆け寄る。


心音は聞こえる。

だがその脈拍は小さく、体温は人としてあってはならない程に低い。


シンカは男の身体を仰向けに治して容体を確認する。

わかってはいた。


「…シンカ……か…」


それはクウハンだった。


下半身を失い倒れるクウハンだった。


失った臍から下の下半身は周囲には見当たらない。

断面は焼かれて塞がれている。


自分で自分の体を焼き、臓器が零れ落ちないようにしたのだろう。


手には樹皮片が付着している。


クウハンは何かに身体を引きちぎられ、それでも応急処置を施して2本の腕で逃れてきたのだろう。


息は荒い。荒すぎる。

体温は低く身体は震え、苦痛に脂汗をかいている。

誰が見てもわかる瀕死の状態だった。


「…わかっている。俺は助からん……」


「…すまん…何があった」


シンカは刻一刻と減っていく命の時間を、予言の主の正体を尋ねる為に費やそうと試みる。


「……部隊は……退却…させた……あれは……あれは………何人か……やられてしまった……すまない………俺の……せいで……」


喘ぎながらクウハンは言葉を紡いだ。


「霧の王の正体はなんだ!?」


シンカはクウハンの手を取り反対の手で肩を揺する。

クウハンは目を閉じて震えていた。


「…すまん、いしきが、はっきりしない…。あれは…あれは、なんだ、あれは……ことばが、でない!…すまんシンカ、ことばがでない?!」


それは摂理であろう。

多くの血を失い、今にも死のうとする人間がまともに言葉を紡げる筈もない。


生きていることが不思議なくらいだ。

間に合ったのが奇跡のような状態だった。


いや、それは違うのだろう。

クウハンとシンカは導かれたのだ。


今ここに、導かれたのだ。


「…だめか?」


「あれは、そうだ、あれはあく、りょう…いや、あくま、だ……あんな、あれは……あくまにちがいない…あんなもの、ありえない……」


シンカは諦めた。苦しむ彼をこれ以上苦しめる事を諦めたのだ。


「分かった。もう十分だ。お前は役目を終えた。次は俺の番だ。後は任せろ。何か、言い残す事はあるか?」


シンカはクウハンの白髪混じりの頭髪を撫でた。

落ち着かせる為に。心を楽にしてやる為に。


「つまと…こに………愛してると………たのむ、シンカ…たのむ…さとを………かぞくを…………あいしてる…………あい、してる………たのむ………」


クウハンの声は段々と小さくなり、掠れた空気の音が多く混ざるようになった。


「分かっている。大丈夫だ。ちゃんと伝える。ちゃんと、守る」


クウハンの頬に手を当て、目をしっかりと見て答えた。


「……ああ………ありが…ぅ………さいご、に…おまえに、あえて……よ………」


それきりクウハンは言葉を紡ぐ事はなかった。

胸の上下は無くなり、息も無くなった。


悲しむ暇は無い。

シンカは素早くクウハンの最後の言葉を書き記すとそれをヤカの脚に結え付ける。


ヤカは南西の方角に飛び立っていった。ハンネの元にその文を届けてくれるだろう。


シンカは付着した血を薬で落としながら思考を巡らせた。


なんならクウハンをこの状態にできるか。


大きさは先の考察の通りならさして大きくは無い。

にも関わらず身体が引きちぎられたのだ。


焼け爛れた傷口からは原因は辿れない。


シンカはクウハンの心を優先して王種の情報を得損ねた事を後悔しそうになり、慌てて首を振って邪念を払った。


自分は人として正しい事をしたのだと信じて。


クウハンの手を胸の上で組み、瞼を閉じた。

腰に下げられているクウハンの武器、砥木の枝を細い円錐状に研いだ針を手に取る。


「これで仇をとってやる」


日は傾き始めている。

シンカの目的地とクウハンの位置関係から予測が正しかった事に僅かばかりの安堵を得てシンカは広場を後にした。

走りながら過去を振り返る。


シンカはクウハンに師事したことはなかった。

しかし幼い頃から彼が里で1番優秀で、人々が彼の功績を鼻高々に話す様子を聞いてきた。


シンカの両親もまだ4つのシンカに対して、彼を超えろと教育した。


17の時、力をつけたシンカはクウハンと戦う事となった。

迎春の宴の事だ。酔っ払いがクウハンとシンカ、どちらが強いか試してみろと悪乗りしたのだ。


そしてシンカは勝った。

クウハンは20近く都市の離れたシンカに敗れても、顔色ひとつ変えずシンカを褒め称え、お互い精進しようと告げた。


立派な戦士だった。

尊敬に値する男だった。


そんな彼が逃げる事しか出来なかったら魍魎を、シンカは倒さなければならない。


部隊は撤退している。

やはりあの夜見た夢の通り、シンカは1人で事をなす必要があるのだろう。


いや、そうせざるを得ないのだ。

ならばその先は…


クウハンの逃走経路を辿るのは血痕を元にすれば容易だった。


八半刻駆けて、シンカはそれを見つける。いや、見つけるという控えめな表現は相応しく無い。


それは見逃しようが無かった。

激しく誇示していた。


頭を潰された森渡りの女。

大樹の袂に背を預けて骸を晒していた。


その大樹は大人2人で漸く抱えられる太さだったが、無惨に折れて向こうへ倒れていた。


シンカは感情を押し殺して遺体や周囲の様子を確認する。

折れた樹の幹、折れ目の部分に大量の血液や脳漿が付着している。


協力な一撃が彼女の頭を潰すと同時に背後の大木をへし折ったのだ。

樹の折れ目を確認する。


中心部が硬く押し潰されている。両端は筋状にささくれ立っている。

身体での体当たりや尾による薙ぎ払いでは無い。

これは拳で殴りつけたものだ。


樹の繊維の潰れ方で魍魎の体格が判る。


肩の高さが5尺半、頭までは6尺半程度だろう。


足元を確認する。

足跡。強く踏み込み苔が抉れ、柔らかい土まで深く沈み込んでいる。


足の指の形が見られない。抉れた足跡に何か繊維が押し潰されている。

乾燥した植物の細い茎だ。


魍魎は、草鞋を履いている!


拳で殴りつけた事がわかった時点で魍魎の種類は獣の猿の類か、鬼に絞れていた。

しかしこの足跡で確定した。


敵は鬼だ。


それも、草鞋を履くだけの知性を持った。


足跡を確認する。


草鞋の形状からして毛族を起源とする鬼とは考え難い。

それ以外は霧の森による変異と経年を考えれば絞り切れなかった。


小鬼が巨大化したのやもしれなかったし、中型の鬼がそのままの大きさで強くなったのかもしれない。


或いは大型の鬼が幼年の内に成長を止めた可能性もある。

敵の形容を把握すると、シンカは森渡りの遺体に目を向ける。


頭部を潰された女。

その右手には鉱石製の剣が握られていた。


死の間際まで戦意を失っていなかった証だった。

彼女の外套を脱がせ、遺体を横たえてそれをかけてやった。


装備を漁れば身元も判明しただろうが、シンカにはその時間が残されていなかった。

優先すべき事があった。


僅かな時間、シンカは黙祷を捧げて再び進め始めた。

鬼の行き先は分からなかった。


時折森渡りが慌てて逃走した痕跡を認める事ができた。八半時進むと戦闘痕を発見する事ができた。


2人の森渡りの遺体が無造作に転がっていた。


1人はハング。胸に大穴が開いており、俯せに息絶えていた。


もう1人はスイラク。首が引きちぎられ、胴と泣き別れていた。


そして男の下半身。これはクウハンの物だろう。


周囲の森は激しく荒らされていた。

樹々は倒れ、土は捲れ上がり、森渡り達が行った行法の痕跡が至る所に見受けられる。


転がり落ちた剣を見つけ、シンカは拾い上げる。

刃を確認する。


轢鋼製の両刃剣。その刃には血などは付着していない。

しかし刃先を確認すると僅かに刃が曇っている事が確認できた。


皮脂だ。

しかしその色は人間の物とは異なり僅かに赤み掛かっていた。


血液ではない赤みだ。

つまり敵の皮膚は赤いという事。


その様な鬼は現存しない。霧の森での変異か箒星を喰らったことによる変異なのかは判別がつかない。


シンカは死んだ2人の遺体を確認する。


ハングの胸に空いた穴は直径が4分の3尺程。しかし背中はその3倍の大きさ内側から弾け飛び、肉や臓器を覗かせていた。


恐らく。


鬼は力任せにハングを殴り、その拳が胸から背へと突き抜けたのだ。

そしてあまりの力に背中側が弾けた。


スイラクの遺体は単純だった。

遺体の側に彼の頭髪が落ちているのを見つけた。

遺体の右肩の衣類が破け、血が付着している。

穴が空いているのだ。


鬼は左手でスイラクの肩を掴み、彼の頭髪を掴んで首を引き抜いた。


そして最後にクウハンの下半身。

剥き出しの脊椎が半尺程の長さで潰されている。

地面は深く陥没している。

踏み潰したのだ。


血の付いた短剣が転がっている。

付着した血液は匂いでクウハンの物とわかる。

クウハンは自分で潰された下半身を切除し、逃げたのだろう。


地面には手形が残っている。

逆立ちで逃走したのだろう。


凄まじい血臭だが、森にざわつきは無い。

ここは霧の森の主人の縄張り。

鬼がいる限り他の魍魎は近付きもしないだろう。


シンカは更に森を進む。

この先には切り立った崖がある。シンカの目的地だ。


間違いなくそこが御告げの魍魎の棲家だ。

北東に向けて樹々の合間を抜けていく。


慌てて逃走を図ったのか、複数の森渡りの痕跡が確認できる。


そして到頭、シンカは崖の前にたどり着いた。


放射状に岩がばら撒かれ、大地や木の幹に突き刺さっている。


その中に仰向けに倒れた森渡り1人を確認できた。


コウガだ。左側頭部が抉れ、脳漿が地に零れ落ちていた。


付近に血濡れた岩片が落ちている。

コウガの死因は飛来した岩石片を頭部に受けた事だろう。


土行法法か?

シンカは嫌な汗を掻きながら思索する。


土行法の礫時雨で同じ状況を作る事ができる。

しかしそうだとすれば魍魎は行法を使えるということになる。


それは恐ろしい事だ。


事の起点と思われる崩れた巨石に近寄る。

先には崖の亀裂が垣間見えた。

高さ8尺、幅3尺程度の亀裂だ。

シンカの見立てた魍魎の大きさと比較して違和感の無い開口だった。


崩れた巨石を調べ、シンカは安堵する。

組成は崖と同じ石灰岩。

散らばった物も同様。


強い衝撃が崖側から加わり、放射状に四散したのだろう。

殴ったのだろうと、想定した。


足元の地面に針が突き立っていた。

また、薬剤が散布されたのか、僅かに残滓を確認できた。


毒針はシンカも扱う虹百舌鳥の毒。

針は踏まれた形跡があったが、血液は付着していない。


足の裏の皮が厚く、貫通できなかったのだろう。


散布された毒の種類も判別できた。

これを吸っても死なない魍魎。不安要素が積み重なる。


シンカは一度深く息を吸い込み、そして吐き出すと

裂け目の中の気配を探る。


嗅覚、聴覚で生物の気配は捉えられない。

経を流し込み、そして違和感に当たる。経を散布しても一定以上先から感知が困難になるのだ。


別の経がシンカの経を狂わせる。

似た様な経験をグリューネで体験した。


霧の森だ。


予測通り、霧の森は地下にあったのだ。


いや、もはや森と呼ぶのは語弊がある。霧の洞窟だろう。


裂け目の前に立つと、僅かに風の流れを感じられた。


幸い散布された毒は既に流れ去り、霧散しているだろう。


風が流れるという事は別の入り口もあるのだろう。

シンカはまさに鬼の居ぬ間にその棲家に足を踏み入れた。



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