勝れる宝子に及かもめや



明くる日の早朝、まだ日が出きっていない薄花色の里の入り口でシンカは5人の妻と対峙していた。


「じゃあ気を付けて。待ってるから」


短くそう言うとリンファは腕のシンリをシンカに差し出した。

シンカはシンリを受け取り抱き上げた。


太々しい寝顔でシンリはされるがままであった。

最近漸く赤みが引き、人らしさを獲得し始めた生後3ヶ月の息子の顔をシンカは見つめる。


重い。シンリは順調に大きくなっていた。


シンカは息子をリンファに返す。


「なに?もういいの?」


「糞を漏らされたら敵わん」


「何それ!?あんたの子供でしょ?!」


「支度のやり直しになる。頼んだぞ」


リンファはシンリを受け取るとシンカに密着して口に吸い付いた。

そして顔を首元に寄せて強く首元を吸う。


僅かな痛みで吸い後をつけられた事を理解した。


リンファの背に腕を回して強く抱きしめる。


「シンリが潰れるでしょ」


悪態を吐きながらも拒絶はしないリンファにシンカは少し笑った。


リンファが下がると今度はカヤテが進み出る。

春先で、山中でしかも早朝である為周囲はかなり冷える。


カヤテは厚着をしていたが、それでも大きな腹は目立っていた。


「…お前の出産までには帰れないだろう」


「分かっている。名前は私が決めてもいいか?」


「うん。楽しみにしておく。いい名を考えてくれ」


そっとカヤテの頸に手を差し込み、顔を寄せて接吻した。

カヤテはシンカに主導される事を好む。


至近距離から見るカヤテは目を閉じられており、美しい翡翠色の瞳を隠していた。


カヤテの次にユタがシンカに近付く。

何も考えていない気楽な歩調だった。


「…シンカ…いなくなっちゃだめだからね?僕、まだまだいっしょにシンカと楽しいこといっぱいしたいんだから…」


「うん」


ユタの頭を撫でる。柔らかい髪が手に心地よい。


「負けないでね」


ユタを抱きしめて口付ける。


「悪さばかりするなよ。帰ってナウラからお前が大人しくしていたが報告を聞くからな」


「うんっ!…でもナウラはきっとおっきくして話すと思うからぜんぶ信じちゃだめだよ?」


ユタが笑う。

笑った彼女は本当に可憐だ。


ユタの次にシンカに近寄るのはヴィダードだ。


「本当に一緒に行っては駄目なのぉ?」


シンカの胸元に収まり至近距離から目を見つめてヴィダードは言葉を紡ぐ。


「うん。シンリやカヤテの腹の子を守ってくれ。お前が頼りだ、ヴィー」


吸い込まれそうな澄んだ空色の瞳を見つめながらシンカは答えた。


「そうねぇ。あなた様に頼りにされてるならぁ、仕方ないわぁ」


年端の行かぬ少女の様に細い腰を抱く。

それでもシンカが抱き続けているせいか、初めよりは肉が付いた様にも感じられる。


「俺の子を頼む」


「ヴィーもあなた様の子を産みたいわぁ。早く帰ってきて」


腰を抱いたままヴィダードに口付けをする。

壊れそうな程細身のヴィダードを強く抱くのがシンカは好きだ。


彼女の命が自分の腕の中にある事を実感できるからだ。

ヴィダードを離す。何時迄もくっついていようとするヴィダードをナウラが襟を掴んで引き離し、今度は自分がシンカの前に立った。


「約束です。必ず帰ってきてください」


「うん。必ず」


ナウラはシンカの背に両手を回して抱きしめる。

力強く、ナウラがシンカの存在を必要としていることが言葉を交わすまでもなく伝わった。


そして最後にナウラの薄桃色の唇に口付けを落とした。


「必ず帰る。約束する。……ではな」


片手を挙げて別れを告げる。


妻達と里に背を向け、未明の明け方の竹林へ足を踏み入れた。


「約束ですよ!」


ナウラの声に振り返らずにもう一度手を挙げて返じた。


森鶫のヤカだけがシンカに着いて飛び、肩に止まった。


薄暗がりに自分の身体が飲み込まれていくのがわかった。


先へ伸びる暗い道をシンカは進み始めた。




森暦198年春下月の上旬、シンカは森渡りの里を出て東大陸と中央大陸を分断する長大な白山脈の3合目付近を縦走し、南下を始めた。


まだ雪が多く残る山間は魍魎の痕跡を発見しやすく、労力少なく渡る事が出来た。


シンカの出発前に先に調査を開始したクウハンからは雪が降り始める前までは未発見の報しか伝えられず、山山や里が雪に閉ざされてからは伝達が無い。


霧の王がどの様な魍魎なのか、対策の余地がないまま進み続けるしか無かった。


シンカは彗星の落下地点に最も近いリュギルの王都ケルマリオを目指して進み続けた。


途中雪狐や帷梟を撃退しつつも素早く尾根沿いに進み、10日という驚異的な速度でカヤテとの挙式を行ったケルレスカン近郊まで辿り着いた。


ケルレスカンまで1日という距離に辿り着いた時のことであった。


シンカは森渡り達の交信を耳にした。


互いの位置関係を知らせる程度の他愛無い伝達であったが、シンカは冬の間音沙汰のなかった彼らが無事である事に安堵した。


シンカは即座に合図を送り、位置関係を確認すると森に潜む同胞との合流を図った。


シンカは返信を受け同胞の元に向かう。

八半刻程移動した先の小川の畔に新任十指のスイキョウが立っていた。


シンカが木々の合間から現れるとスイキョウが警戒して立っていた。


「シンカさんでしたか」


スイキョウは警戒を解いて挨拶をする。


弟を失い怒りで暴れ狂い、名付きの武将を2人も討ち取った戦時中とは打って変わり、理知的な声音であった。


「如何していらしたんですか?リンファさんの出産は?」


「無事産まれた。問題ないと見て此方に参加することにした」


「無事産まれたのですね。おめでとう御座います。里に帰ったら祝福させてください」


「うん。有難う。シンリという名を付けた」


「シンカさんが出奔されて途絶えるかと思われていたシン家も、これから栄えるんですね。そう言えば以前から気になっていたんですが、血の濃い各一族に伝わる能力ですが、シン家の場合どの様な能力なのでしょうか?私の血は岩着膨れですが…」


「…シン家の異能は経の散布、放出範囲だ。自身から離れた位置でも他家より強い濃度で経を保てる」


スイキョウと雑談をしているとスイキョウ配下の森渡りが3名森の闇から湧き出てくる。


挨拶を交わしシンカは本題に入った。


「霧の王創作の進捗について確認したい。積雪前の段階で操作が難航しているという情報は聞いているが、進展はあったか?」


「まず私の隊20名で捜索しているのは山渡りへの報復時に忽然と姿を消したランギ小隊の足取りです。流石に同胞だけあって痕跡を辿るのは難しいですが、ケルレスカンで物資の補給を行った所までは確認が取れました。ですがその後の足取りは辿れず仕舞いです。現在はランギ小隊の最終調査の最中で、これで駄目ならクウハン隊に合流する予定です」


ランギ小隊が消息を絶ってから10月は経過している。


生存と痕跡の発見は絶望的だろう。

雪が降ったのであれば尚更である。


「しかし、装備も見当たらないとなると魍魎の可能性は下がるか?」


「クウハンさんも同じ見立てでした。里を襲った山渡りの残党にやられたのでは、と」


「しかし戦闘痕もないのだろう?」


「はい。或いはこの辺り最も離れた地域で何かがあったのかもしれません」


シンカは考える。


魍魎がランギを含む10人を襲い喰らったのであれば、武器や衣類などの残骸が残らないのは可笑しい。


戦闘があれば工事した行法の痕跡は否応なく残る。

不意を打たれ、誘拐されたとなると50以上の山渡りに囲まれたと取るべきである。


だとしても無抵抗で略取されるとは考え難い。


「クウハンは?」


「シンカさん…歳上の方を呼び捨てなのですね……。丁度昨日、クウハン隊から悪い知らせがありました。積雪前から再三調査を続けていた彗星についてですが、無くなっていたそうなのです」


「無くなった?」


「はい。箒星の落下点は大きく窪んでおり、積雪により全てが埋まっていた様なのですが、雪が溶け始め調査をした所、積雪前には存在した大きな箒星が忽然と姿を消していたそうです」


「足跡は?」


「無かったそうです。つまり、積雪前には持ち去られたと考えられます」


「……或いは……喰われた…か」


「……」


背筋が粟立っていた。

やはり見えない森の闇の中で何かが蠢動しているのだ。


「俺が倒した鬼羆の王種は、言葉を解した。予言の王種も高度な知能を持っていると考えるべきだ」


「…聞きました。熊が話すなんて…」


「……今は無いものの話をしても仕方がない。クウハン隊は彗星落下点近辺の探索、スイキョウ隊が消えたランギ隊をケルレスカン近辺で捜索、コクリ隊は?」


「コクリさんはケルマリオ南で予言の王種の痕跡を探しています。コウセイさんとハンネさんはケルマリオで情報の統括を」


「分かった。俺もケルマリオに向かう。スイキョウ隊は積雪で絶たれた里までの伝達路を構築し、同時にこれ迄の情報を伝えろ。…もう行く」


「シンカさん、お気を付けて。皆さんにも宜しくお伝え下さい」


「お前達も気を付けろ。今のところここより北には異変は無いが、十分に注意を払え。では」


シンカはスイキョウ達に背を向け歩き出した。




シンカはケルレスカン北東から再び白山脈を南に向けて縦走し始めた。


山羊のように危うい足場を飛んで渡り、岩を跳び沢を濡れずに渡っていった。


2日かけてケルレスカンとケルマリオの中間地点に到達した。


強い西日が徐々に力を失い、尾根に伸びる低木の影が長くなって来ると、シンカは寝床探しの為高度を下げ、中腹のがれ場付近で大きな岩を見つけ、その影に身を潜めた。


木々の合間から差し込む夕日は黄昏て色を濃くしていた。

シンカは懐からリンレイから受け取った手紙の束を取り出す。


5人の母とリンレイからの手紙だ。


文字にそれぞれの個性が現れた封筒を眺める。


始めにリクファの封筒の封を短剣で斬り、便箋を取り出した。


誇り高く、子供には緩んだ姿を一度たりとも見せた事がない辛辣な母は、ただ一文


家族が心配するから早く帰りなさい


そう書かれていた。


それだけだ。何かを続けようとした努力も何も無く、広大な余白が目に眩しい程であった。


だがシンカは知っている。


表面上は冷たく見える母だが、それは不器用なだけだ。


シンカは覚えている。


両親が森に飲まれ、リンレイに引き取られた時の事を。


既にリンファとリンブの2人を出産していたリクファは、連れられて来たシンカを見てどう対応すれば良いのか分からず、顔を僅かに顰めていた。


撫でようとしたのか頭に手を伸ばしかけて、しかし内心で色々と考えたのか途中で辞めて、一言


「私の言う事を聞かなかったら怒るわよ」


と言ったのだった。


親を亡くしたばかりの幼児にとんでもない態度だが、同情されて壊物の様に扱われることに辟易としていたシンカにとって、リクファの態度はこの家に家族として認められたのだと幼いながらに認識するに至った。


以来この時の事を掘り返した事はないが、リクファは不器用なりにシンカの心情を慮ってその様な態度を取ったのだとシンカは確信している。


短い一文を親指でなぞりながらシンカは1人微笑んだ。


色々な出来事を思い出せる。


リンファと口論して煩いと2人して拳骨を落とされた事。


その時嵌めていた指輪の凹凸部分が尋常では無く痛かった事。


シンカの10歳の生誕記念に貰った無骨な解体用の短剣はいまだに使っている。今も装備している。


幼いシンカが傷付いて1人水面を眺めていると、心配したリクファがやって来てじっと後ろに立っていた。


彼女はシンカを慰める様な事は言わなかったが、何時も見守っていた。


暗くなってシンカが家に帰る時、何も言わずに並んで帰った。


リクファの短い手紙を大切にしまい、次にセンコウの手紙を取り出した。


便箋は1枚。半分程が埋められていた。


手紙には無事を祈る言葉、留守の間はシンカの妻達を支える事、帰って来たら宴を開く事。


それらが書き綴られていた。


2番目の母らしい親切で、しかし深くまで踏み込むことの無い内容だった。


センコウとの思い出もシンカの中にはっきりと息づいていた。


シンカがリン家に引き取られた時、センコウは20歳で産まれたてのリンスイを抱いていた。


初めのうち、センコウはシンカとどう接していいのか分からなかったのだと思う。


初めての子育てに翻弄されていた面もあったのだろう。

引き取られて半年はあまり接する機会がなかった。


彼女は表面上は大らかで穏やかだが、その実心の壁は厚く高く、全てを曝け出すほど心を許す事は極めて少ない。


恐らく本当の意味で心を許しているのはリンレイと何人かの姉と妹、そしてリンレイの他の妻くらいだろう。


一見優しいが現実的で、諦めが早い面もある。

そんなセンコウの子育てをシンカは家族の一員として手伝う様になった。


赤子は昼も夜もなく泣く。深夜でも乳を求める。

身体や精神を病む母親も存在する。


表面上は取り繕いつつも、ふと見せる暗い表情にシンカは気付いていた。


だからリンスイが泣けば牛の乳から脂肪を除き乾燥させた脱脂粉乳に乾燥させた野菜粉末や糖分を混ぜて調合し飲ませ、深夜に彼女を背負ってあやし、襁褓を替え、湯に浸けて身体を洗ってやった。


当時リンレイの妻はリクファとセンコウとクウルだけであり、リンブも一歳で手がかかる時期であった為、複数人で子育てをしていたとは言え追い詰められていたセンコウはシンカの手伝いで随分と楽になった様だった。


そうしてシンカとセンコウ少しづつ家族になっていったのだ。


家族の一員として心の底からシンカを認められる様になり、センコウはシンカに勉学や斧術を教える様になった。

他の母の子供含めてシンカは以降も子育てを手伝い、リン家の義理の長兄として育っていった。


一緒に泣き止まないリンハンに苦労した記憶や、大家族の食事を2人で作った記憶が蘇り、シンカはそっと鼻で息を吐く。


苦労はしたが、今はいい思い出だ。あの時の苦労が今のシンカを作っている。


センコウの次にクウルの手紙を取り出す。


自分を偽らないクウルの伸び伸びとした字をなぞる。


クウルの手紙には小煩くあれに気を付けろ、何をするな、何をしろと、細かく便箋1枚半に渡り書かれていた。


思わずシンカは苦笑する。


クウルはシンカが引き取られた当初はリンレイの3人目の妻として結婚していくばくかも経っていなかった。


リンファの他、2人の乳幼児が泣き喚く家庭だった。クウルはそんなリン家に好んで嫁いだ変わった女だった。


いや、それらを押してまでリンレイの事を好いていたのだろう。


リンレイは若い頃から物静かで理知的な優男として名を馳せており、多くの子女に恋文を貰っていたらしい。


リンレイはその中でも特にリクファと仲が良く、恐らく始めはリクファ1人と添い遂げるつもりだったのだろう。


リンレイは18の時分にリクファと結婚し、1年後にはリンファが誕生する事になる。


リンレイと同世代で彼を好いていた女達はリンレイの結婚と同時に彼を諦めて別の男と結婚していった。


しかし若い女達の何人かは適齢期ではなかった事もあり、諦めていなかった。


森渡りの埋めよ増やせの文化にも支えられて猛烈な争奪戦を開始した…らしい。

リンレイが絆されるまで粘った女がセンコウでありクウルであったのだ。


クウルは特に我が強く、手が早く口も悪い。

しかしそれは彼女の一面でしか無く、感情の起伏が激しいだけでよく人を見ており、気遣いもできる人であった。


沢山いる子供達一人一人の様子を何時も見ており、悪さをすれば引っ叩き、失敗すれば馬鹿だ阿呆だと言い放ち、苦しんでいれば悪態を吐きながらその手を引いた。


ヨウロとの訓練で襤褸布の様になったシンカに、弱いのが悪いと悪態を吐きながら怪我に薬を塗ってくれたある日の光景をシンカは鮮明に覚えている。


容赦無く擦り傷に滲みる塗り薬を乱暴な仕草で塗りつけるのだ。

表情は不貞腐れている様で、しかし最後にシンカの頭をぐしゃりと撫でて手を引いて家まで帰るのだ。


手紙の最後に、あんたは馬鹿なんだから難しい事は考えてないで里で大人しくしていなさい。怪我して来たら傷口に辛子を塗り込むから覚悟しなさい。


そう書かれており、シンカはくすりと笑ってしまう。


子供達の誰一人として彼女のそんな悪態を本気で捉えてなどいない。


内心で心配していることが手に取るようにわかるからだ。


「親孝行……しないとな…」


虫も鳴かない春の森でシンカはそう口にした。

シンカの独り言は樹々の合間の暗闇に吸い込まれて消えていった。


続いてカイナの手紙を取り出す。


カイナの字は精緻で美しい。


ナウラの字も綺麗だが、カイナはそれ以上だ。

字の形は微塵も崩れておらず、並びも均等でぶれがない。

カイナの人を食った上っ面の下の、生真面目さが現れた字だ。


カイナの手紙には早く帰ってリンドウを娶る様に書かれていた。


リンドウの素晴らしさをつらつらと書き連ね、褥での技術を仕込んでおくとふざけた事が書かれていた。


ふざけているが、その中でも無事に帰って来る様にさり気無く書かれている所がカイナらしいと思った。


シンカはカイナとの記憶を思い返す。


初めて出会ったカイナは19歳で、3人の妻を持つリンレイに事あるごとに言い寄っていた。


カイナを初めて見た時も彼女はリンレイににじり寄り、彼への愛を囁いている所だった。宥めすかされて素気無く振られたカイナは居合わせてしまった5歳のシンカに、自分がリンレイの愛を手に入れる為手伝う様告げた。


シンカは瞬きの間も無く断り、カイナは5歳のシンカに生意気だ、いいから言う事を聞け。手伝えばいい事をしてあげる等と宣った。


シンカは断った。


その後カイナは諦めず、シンカが7歳になる間際にリンレイが折れる形で結ばれた。


カイナは森渡りの中でも群を抜いて美しかったし、一途に慕う彼女を養父も憎からず思っていたのは知っていた。


結婚が決まり、お母様とお呼びなさいとカイナに言われて以来、シンカは彼女を呼び捨てにしている。


彼女はそんなシンカとの関係を楽しんでいるのか、ちょっかいををかけやり返されてという関係が続いていた。


そして結婚してから2年後にリンドを出産した。


カイナは一見掴み所が無い人を食った性格に見えるが、その実繊細で態度以外は几帳面な人であった。


妊娠した彼女は悪阻が酷く、体調や其処から齎される生活の乱れに強く苛立っている様だった。


シンカはそんなカイナの体調を慮り、気が紛れる様に薬を調合し、散歩に連れ出したりと努力した。


出産してからも当然、育児や体調の維持に協力した。


カイナは一言も礼を言わなかった。


だがシンカもそれで良かった。


ついぞ母と呼ぶ事はなかったが、家族だからだ。


カイナが内心でシンカに感謝していることも分かっていた。


カイナとの思い出を振り返った時にいの一番に思い出すのが、夜泣きを始めたリンドの襁褓をカイナを押し退け、寝ている様促して取り替えた翌日、修練を終えて家に帰ると家の前で1人黄昏ていたカイナが、あんたは将来いい男になるわね、と呟く様に告げた時の事だ。


あれがカイナなりの礼だったのだろう。


そんな彼女も2人目のリンドウを妊娠した時にはあまり乱れる事もなく、シンカが手伝える事も少なくなってしまっていた。


シンカはそれを残念に思ったのだった。


最後の手紙、シャラの物を取り出す。


シャラの手紙は読む前から枚数が多い事が分かっていた。

封筒が厚いし、彼女がそういう性格である事も分かっていたからだ。


シャラはシンカが引き取られた時、まだ14歳だった。


まだ少女だったシャラだが、リンレイへ向ける視線が他の母達に引けを取らない事はすぐに分かった。


リンレイとシャラは10歳離れており、どちらかと言えばシンカの方が歳が近かった。


彼女は昔から可憐で同年代の多くに懸想されていたが、彼女の眼中にはリンレイしか無かった。


シャラの生家であるシャ家の分家はリン家の本家と近い位置にあり、シャラは幼年期から少女期にかけて火行法の手解きをリンレイから受けていた。


その時に好意を持ったのだろうが、シャラはカイナとは真逆で、少し離れた所からじっとリンレイを見つめる様な少女だった。


子が何人増えてもリンレイを見つめ続けていたのだ。


或いはシャラは端からリンレイと結ばれる事は諦めており、それでも好意を捨て去れず、付かず離れずの位置で思い続けていたのかもしれない。


途方に暮れた彼女の親が頼んだこともあり、17歳で想いを遂げる事となった。


シャラの事を最初に母と呼んだのはシンカだった。


17歳で嫁いだ先に8歳の子供が居るなら、関係に悩むのは目に見えている。


当時のシンカがそこまで考え及んでいたわけでは無いが、あまり気の利く質ではないリンファや幼すぎる4歳と3歳のリンブ、リンスイに先駆けねばという強い使命感があった事は確かだ。


シャラは自分を母と呼んだシンカに対し、正しく胸の支えが取れた様に笑った。


そして実の弟の様に可愛がったのだった。


シンカの目から見たシャラは、慕っていたリンレイと結ばれてとても嬉しそうだった。


シンカとシャラの関係を見ていたリンファやリンブ達も直にシャラに懐き、リン家は騒がしくも穏やかにひたすら子供を増やしていくことになる。


シャラの手紙には昔の思い出や結婚当初の感謝、今何を考えているか、シンカがいない間の小さな出来事から始まり、不安である事、無事に帰って来てほしいと思っている事などが便箋にびっしりと7枚に渡って記載されていた。


宵闇にあたりが覆われ、光が薄れていく中、シンカはそれを一文字も読み飛ばすことなく丁寧になぞった。


そして最後の手紙を取り出す。


書かれた達筆な名前を指でなぞる。


幼い頃はこの字が羨ましく、真似をしようとした事を思い出す。


結局シンカの字はリンレイの様にはならなかった。本人が書いた物と寸分違わずに真似をする事はできる。

しかし元の字を変える事は出来なかったのだ。


人間が他の誰かになれない様に。


折り畳まれた便箋を開く。

既に常人であれば文字はおろか周囲の障害物すら視認が難しい明度であったが、シンカには読み取る事ができた。


シンカ


君が生まれた時のことをよく覚えている。


君にとっては厳しいだけの母親だったかもしれないが、君を産んだばかりの姉さんは君を抱いて涙を流して君にありがとうと言っていたんだ。


生まれて来てくれてありがとう。何度もそう囁いていたんだ。


知っていると思うけど、僕と姉さんの二親は僕達が10歳になる前に森に飲まれた。


里の皆に手伝って貰いながらも、僕らは2人で支え合って生きて来た。


姉さんと義兄さんが結ばれたのは必然だったのだと思う。


義兄さんも両親を僕等と同じくらいに無くしていた。


姉さんと義兄さんは似通った境遇に共感し合っていて、早くに恋仲になった。


そうして結婚して君が生まれた。


2人はこれ以上家族を失いたくなかったんだ。


君が森渡りとして森に飲まれない様に2人は君を厳しく育てようとした。

だが志半ばで2人は森に飲まれてしまった。


君は2人に対してあまり良い感情はないかもしれない。

だけど2人が君を愛していた事は理解してあげてほしい。


姉さんと義兄さんが何時、何処で森に飲まれたのかは分かっていない。


だが幼いシンカを置いて一向に帰らない2人を皆で捜索し、僕は君を迎えに行った。


あの日の事、君は覚えているかい?


君は両親のいない家で1人で経を練り続けながら体を鍛えていた。


僕は人間の業の深さを感じた。

幾ら君への愛があったとしてもあれは呪いだ。そう思った。


5歳の子供が2ヶ月間1人で生活して、遊び回るでも無く鍛え続けるなんて、それは最早呪いだと。


幼い頃に辛い目にあった子供は、成長しても心が歪んだままで可笑しくなってしまう事は里でも研究されている。


僕は君も壊れてしまったんじゃないかと不安だった。


でもシンカは優しい子に育ってくれたね。


僕が情けなくも環境の変化や産まれたばかりの子供達に気を取られてる間に、君は妻達と子供達に囲まれて皆を気遣って解けてしまいそうな縁を繋ぎ止め上手く行く様にしてくれた。


君がいなければ僕の家族は今の様に纏まっていなかったかもしれない。


誰かが死んでしまっていたかもしれない。


本当に感謝しているんだ。


君が里から出て帰ってこなかった時、僕は本当に後悔した。

君に甘え過ぎていたと気付いたんだ。


僕達は君に甘え続けて、君の心をちっとも慮って来なかった。


君はそうじゃないと言うかもしれない。

でも僕達は僕達が悪かったと確信してる。君にはきっと逃げ場が無かったんだ。


それは僕達が甘え過ぎて、逃げ場になってあげなかった事が原因なんだ。


申し訳なかったと思っている。


君が里に帰って来た時、とても嬉しかった。

君の二十代の姿は殆ど見られなかったけど、立派に曲がらずに正しく生きて来たことがすぐに分かった。


その位はすぐに分かる。僕は君の父だからね。


何時だって君は僕の誇りだった。知識や力の問題じゃない。


幼少期から変わらない優しさや誠実さ、人としての正しさ。


何時だって君は僕の誇りだった。


改めて言うまでもないと思っていた。でも今日は敢えて書き記す。


シンカは僕達の大切な息子だ。


父として君を愛している。




シンカは袖口で涙を拭いながら大切に手紙をしまった。

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