旅立ち


ユタとゆったりとした1日を過ごした翌々日、シンカは旅の支度を始めた。激しく鍛錬して身体の動きを確かめつつ代謝を上げ、体臭を落とす食事をとり、垢を落とし体調を整える必要がある。


同時に装備を見繕う。

どの様な敵か分からない。武器は多めに持つ事にした。


ヨウキと倒した流蜻蜓の翅。

何時も持ち歩いている1本と家に保管していた1本、ヨウキの形見の1本。


そして戦争が終わった時にコンドールから下賜された青鈴岩の直剣。


何かの縁と山渡りの里でイリアの妹に投げ渡された持ち手の付いた太い針も持って行く事にする。


ダーラから渡された龍の爪から削り出されたアケルエント王族の紋様が刻まれた短剣も用意する。


薬の確認をしていると部屋の扉が叩かれてカヤテが入って来た。


「…出発は明日か?」


「うん」


「いいか?必ず帰って来い。………シンカ。これを持って行ってくれないか?」


手渡されたのは5年半も前にシンカがカヤテに別れ際に送った短剣だった。


「お前の手元にあったのか」


「私が冤罪で拘束される時にミト様に渡したのだが、戦争が終わった際に返して貰ったのだ」


鞘から短剣を抜く。翡翠の良く磨かれた刃が光る。

僅かにカヤテの経を感じた。

珠程ではないが、僅かだが万物には経を貯めおくことができる。


鉱物はその中でも比較的多くの経を貯めおくことができた。


他人の経だ。何に使うこともできない。

翡翠の短剣からはカヤテのもの以外に僅かに別の経を感じ取ることができた。


恐らくミトリアーレのものだろう。


「助かる。お前が一緒にいてくれる様な気がするよ」


「ああ。無事を祈っている」


カヤテは簡潔に告げると荷造りするシンカの肩をひと撫でして部屋を出て行った。


薬剤に不足は無い。

匂い消し、殺虫剤、乾燥剤や毒薬。


再生薬も骨、臓器、神経、筋肉、皮膚用と多岐に渡る調合済みの薬と予備の薬剤までが揃っている事を確認した。


装備に痛みや損傷が無いかも丹念に確認して行った。

外套、編み上げ靴、革鎧から翅や吹き矢、短弓、雨避けの油紙。


いつも通り抜かりは無い。


昼前に尋ね人が来た。

父のリンレイだった。


リンレイは粛々と装備の確認をするシンカの部屋までナウラに通されて椅子に腰掛けた。


「リンファに聞いたよ。クウハンの応援に行く事にしたんだってね」


「うん。そうした方がいいような気がしたんだ」


リンレイは少しの間口を閉じ、シンカの手元を見つめていた。


「シンカ。リンファのこと、ありがとう」


唐突にリンレイはそう告げた。

拗れてしまった仲を、シンカがリンファを許す事で元に戻した事を言っているのだろう。


「俺がそうしたかっただけだ。誰かの為じゃない」


シンカの答えは決まっていた。

シンカは大切な事の決断を人に任せたりはしない。

自分の意思で決める。


「シンカならそう言うと思ってたけど、人の親として娘が誰かを無闇に傷付けたんだ。ずっと謝りたかったんだ」


「父さんが、俺を息子だと思ってくれているなら……あれはただの姉弟喧嘩だ。少し長引いたが」


「…そうだね。本当に長かったけど良かったよ。……僕はシンカはリンファを振ると思っていたんだ」


「信用が無いな」


「信用の問題じゃないよ。君は正しく育った。誤ったのはリンファだ。取り返せない過ちもある。君が取り返してあげたんだよ」


そういう考え方もあるのかもしれないと思った。


「この話はもういい。俺はリンファと番て満足している」


「…わかったよ。君は自分の選択を後悔しない性格だからね。シンカ、気を付けてね。帰って来たら2人で酒でも飲むかい?」


「うん」


リンレイはシンカの返事を聞くと懐から何かを取り出す。

手紙だった。


「…クウハンや他の同胞達がいるとは言え、危険な魍魎の筈だ。僕らは息子の無事を祈っているよ。僕と、リクファ達からの手紙だよ」


里で作られている紙だ。

便箋に入れられたそれが6通。リンレイが懐に仕舞っていた為に少し折れていた角を指で直してシンカに手渡した。


「…まるでどちらかが死ぬみたいだな」


「……渡した方がいいと何となく思ったんだ。でも確かに言う通りだね。それでも持っていって欲しいと僕は思っているよ。理由は自分でも分からないけどね」


シンカは受け取った便箋の宛名と差出人の文字を読む。


角張った達筆のリンレイ、几帳面さが窺えるリクファの文字、丸っこい字のセンコウ、大きめで伸び伸びとした字のクウル、意外にも綺麗で教本に乗る字のようなカイナ、綺麗で小さめの字のシャラ。


親の字を読む機会など早々無いため、シンカは懐かしく感じた。


「持って行く」


「ありがとう。じゃあ気を付けてね」


リンレイは右手を上げて背を向け部屋を出ていった。

どう言う風の吹き回しかシンカは考える。


父達も何か感じる事があるのだろうか。


大陸中の精霊が破滅を予言する中、森渡り達も芽を摘むべく動いて来た。

クサビナでの内乱により全力で活動する事は出来なかったが、しかし本来であれば根源となる霧の森やその王種を見つけられていた筈である。


その程度の力は割いていた。

だが見つからなかったのだ。


巨大な箒星は発見したものの、周囲に霧の森を見つけられなかったのだ。


シンカの心は既に決まっている。

自分がどの様な役目を負うのかはわからない。

しかし、やる事はこれまでと変わらない。

出来ることを全力でするのだ。


昼食を終えて腹ごなしの鍛錬を行い、汗を流すと再び装備の点検に移る。


3本の翅を並べる。

ヨウキと共に仕留めた流蜻蜓の翅。

右の2枚をシンカが、左の2枚をヨウキが使った。

シンカの物は欠けることなく2つ。ヨウキは1つ失っている。


そのヨウキから託された翅をシンカは眺めた。


山渡りに復讐する為に渡されたそれを、今度は里を魍魎から守る為に使う。


美しい脈を磨き直し、鞘に収めた。


防具の紐の強度を確かめていると今度はシンリを抱いたリンファがやって来た。

子供を抱いた手とは反対にふた振りの短槍を携えている。


「もう持てんぞ」


「煩いわね。いいから、あたしだと思って持っていきなさいよ」


「お前だと思ったら使えんだろうが」


「……」


シンカが返すとリンファは耳を赤らめて照れた。

しかし表情は高慢な女の顔で、相変わらずの取り繕いっぷりにおかしな気分となった。


シンカは無言で短槍を1本だけ受け取った。


「俺は二槍の型を収めていないからな。一本でいい。重いし」


「その槍は一頭の手長猩猩の群長の腕骨で作ってる兄弟槍よ」


「知っている。15の時に俺が狩るのを手伝った」


手長猩猩は攻撃や威嚇に腕を相手や地に叩き付けて攻撃する獣で、硬度の高い腕骨を持つ。


その骨を熱しながら圧縮して作ったのがリンファの槍だった。


リンファの大切な武器、厚塗りと素貧。

シンカは素貧をリンファから借り受けた。


「支度、大丈夫なの?雨よけの油紙は持った?消臭粉は?使い捨ての手拭いも多めに持ちなさいよ?」


リンファは小煩く忘れ物がないか訊ねてくる。


「お前より余程旅慣れているわ」


言うとリンファは唇を僅かに尖らせ、鼻で息を吐いた。

一見感じの悪いしぐさだが、落ち込んでいるのを誤魔化しているに過ぎない。


あんな事が無ければシンカと色々なところを旅できたのに。

そんな事を考えているのだろう。


「何よ。心配したっていいじゃないのよ」


「まるで母親のようだ。まだ若いのだからやめておけ。老けるぞ」


「!?…あんた…なんて事をっ!」


リンファが顔を赤らめて興奮したが、気配を察知してかシンリがぐずり始めた為、直ぐにあやし始めた。


「お父さんがお母さんの悪口言うの。あんたはお母さんの味方よね?将来お父さんより強くなってあたしの事守ってね?」


シンリはリンファの乳にしがみ付き大人しくなる。


「あんたにそっくり」


「含みがあるな。具体的に何を指してそう思う?」


「あたしの胸が好きですぐ吸い付くところよっ!」


「愚かな。乳首は吸う為にある。他に何に使うのだ?一文で答えよ」


「育児に決まってるでしょ!」


「乳幼児が居ない期間は何に使う?男が吸う以外に使い道がないではないか」


「男って、ほんと馬鹿!なんでそんなに胸が好きなわけ?」


「侮るなよ?俺は尻も好きだ」


「ほんと馬鹿」


「帰ってきたら右側だけ吸い続けて、右だけ倍の長さにしてやるから楽しみにしていろ」


「最低!」


リンファはシンカの頭を叩くと部屋を出ていった。

小うるさい妻を追い出すのに成功したシンカは背筋を伸ばして関節を鳴らすと手に持った素貧を扱いた。


傷付き、よく握る位置が摩擦されて鈍く光っている。

灰褐色の槍をシンカはそっと床に置く。

小さく鼻で笑い再び作業を開始した。


作業を誰かに手伝わせる事はない。

ナウラ達にもそう教えた。

いざという時必要な物が何処に入っているのか、他人の手を借りて装備を整えていれば分からなくなることがある。


短剣の刃を研ぎ、錆止め粉を振る。

調合した薬を澱粉紙に小分けにしたり、それを外套の内袋に入れたりとやる事は尽きない。


そうこうしていると日も暮れ始め、部屋の中が暗くなり始める。

シンカは部屋の光源を確保しようと立ち上がり長灯石を叩いて光らせた。

暖色の光が部屋に灯る。


再び作業に戻ろうとすると部屋の外が俄に騒がしくなった。

そして唐突に扉が開く。


「ねぇシンカ!ナウラとヴィーと話ししてたんだ!誰が1番素敵な1日をシンカと過ごせたかって!」


「寝坊をしていた貴女ではない事は確かです、ユタ」


「ヴィーとの1日が1番でしょお?」


間近にヴィダードの顔が現れる。


「距離感!」


シンカはヴィダードの顔を掴み距離を取る。


「何故っ!?」


突き放されたヴィダードはシンカに顔を抑えられたまま何故か舌を伸ばした。


少しでも近付こうという努力らしい。


会話から察するに如何やら3人でシンカとの過ごし方を自慢し合っていたらしい。やめて欲しい。


それ以前に何故いつも通りの過ごし方をしたユタが自慢を出来るのか。無論良い過ごし方であった事は間違い無いが、自慢できる神経が流石としか言いようが無い。


だがシンカは愚者では無い。

能ある鷹は爪を隠すし、沈黙は金である事を重々理解している。


「甲乙はつけられん」


「面白みのない答えですね。面倒な騒動になるのを恐れて日和見しましたか」


ナウラが無表情で顎を上げて発言する。

挑発しているのは分かるが話の流れをどう持っていきたいのかは全くわからない。


「優劣をつけられると思っているのか?仮に俺の中で順位付けしていたとしてもとても口には出せん」


「ではどうすれば口に出しますか?シンカは女に目がありませんから、色仕掛けで口を割るでしょうか?」


ナウラは腕を組んでその豊満な胸を持ち上げた。

首を傾けて流し目を送るが表情が無い為シンカは一瞬反応ができなかった。


「ぴくりとも来ん」


「っ!?妻に向けてなんたる発言ですかっ!」


ナウラは豊満な肢体にも拘らず、未だに褥では初心さが抜けきらない。

そんなナウラが仕草で挑発した所で性的興奮を覚える事はないのだった。


こういった仕草が似合うのはリンファだけだ。


顔を抑えられていたヴィダードが自身を抑える腕に縋り付き漸く大人しくなる。


「ねえ、また長老の果物食べたいな」


「俺がいない間はやめておけ。上手くやらんとばれた時に頭を押さえられるからな。じじいどもを甘く見ないほうがいい」


「そっかぁ。うーん…じゃあお腹減ったらどうすればいい?今まではシンカにおねだりしたらおやつ貰えたのに…」


「おやつ禁止」


「やだやだっ!なんとかしてっ!」


はしゃぐユタを捕まえて頭を撫でる。

柔らかい毛質が手のひらに心地よい。


「ナウラ」


「嫌です」


「3日に1回でいいからユタの」


「嫌です」


「宜しく」


「ですからっ!………っ、仕方ありませんね…」


袖にしがみつき媚びた表情でナウラを見上げるユタにナウラは折れた。

無表情で小さくため息を吐く。


ヴィダードはシンカの背中にしがみついて首筋に顔を擦り続けている。

特に会話も無いらしい。


「そうです、これを渡しに来たのでした」


そう言って取り出したのは珠であった。

シンカの瞳と同じ焦茶の珠だ。


「僕もあるよ!……あれ?……あった!」


ユタは服の物入れを弄り、干し肉と乾酪のかけらと一緒に同じ色の珠を取り出す。

ばっちい。


「ヴィーもあるわぁ」


背中にしがみ付くヴィダードも耳元にねっとりと囁きながら珠を取り出した。


3人が掌に乗せた焦茶の珠からは3人其々の経を感じ取ることができた。


「首飾りを作りました。珠を嵌め込んで持っていってください」


嘗てアゾク大要塞へ向かう前、シンカがナウラに黒翡翠色の珠を送った様に、経を込めた珠を送る事は森渡りの息災祈願である。


シンカは首飾りを受け取り、3人から渡された珠を金具に嵌め込んだ。

珠の取り付けられた首飾りを身に着ける。


「どうですか?私を感じますか?」


「3人の経が混ざってよく分からなくなる」


ナウラは明らかにむっとした気配を身から漂わせた。


「3人に抱きつかれてる感じ?」


シンカは目を閉じる。


「その卑猥な手つきを辞めなさい」


何も無い空間で腰を撫でさすり尻をつるりと撫で上げる仕草をナウラが腕を掴んで止めた。


「帰ってきたらいっぱい触っていいよ」


「ユタ、恥じらいを持ちなさい」


「ヴィーもいいですよぉ。ナウラは何処かに行ってなさいなぁ」


騒ぎ始める3人の様子にシンカは表情を綻ばせる。


その後3人を部屋から追いやると皮鎧に油を塗り込み、表面に黒岩魚の鱗と消臭粉を混ぜ合わせた粉末を叩き、刷り込んで硬度を上げる。


革紐に傷んだものがないかを確認し、漸く作業を終えた。


外套の内に父達の手紙を仕舞い込む。

中身は里を出てから読むことにした。


後は己の体調だけである。

経の流れに淀みは無い。

身体にも違和感はない。


自室で身体の筋を伸ばしていると夕食の時間になった。

陽気に呼びに来たユタに連れられて今に向かう。

食卓には豪勢な食事が並んでいた。


「…おい、誰の仕業だ」


肉料理から始まり脂質の多そうな食事が並んだ食卓を見てシンカは5人を見渡す。


森を渡る前に肉や油物は食べられない。体臭がつくからだ。


「肉や酒は私達が食べます。シンカはいつものがありますよ」


ナウラが穀物系の食事を指し示した。


「あたしは辞めようって言ったのよ?でもナウラとユタとカヤテが」


「リンファ!私を売ったな!?」


カヤテが漏らされてリンファに振り返る。


「事実じゃないのよ。ユタが肉を食べるって言い張ったら、あんた満面の笑みでお腹の子の為に仕方がないとか言ってたじゃない」


「そうだ!お腹の子の為だ!」


騒ぎ出す2人にシンカは溜息を吐く。


「まあいいが……おいナウラ!酒まで俺の前で飲む気か!?」


「はい。私と肉を食べ酒を飲みたければ早く帰ってきてください」


己の欲望にこじつけたシンカへの激励のつもりなのだろう。


魂胆はばればれであった。

何かにつけて酒を飲む理由を探している。

酒飲みとはそういうものだ。


ヴィダードだけはシンカと同じ献立の方が望ましい為何も反応を示さずただシンカの顔を見つめていた。


騒がしい食事を終え、身体を流そうと浴室に入ると少し遅れて湯着のナウラとヴィダードがやって来た。


「垢を流します」


「ヴィーがやるからナウラは帰ってなさいなぁ」


競って狭い浴室に入ってくる。


「どちらでもいいから頼む」


森を渡る前の最後の準備だ。

垢を落としておかなければ体臭が出やすくなる。


森では簡単に身体は流せない。布で拭ったり消臭粉を身体に叩く程度しか出来ることはない。


垢擦り用の布を2人して手に取りシンカににじり寄る。

最終的にナウラが後ろ、ヴィダードが前の担当に落ち着き垢を擦り始めた。


力の強いナウラと弱いヴィダードとで揉めずに分担するあたり、この2人もお互いの事を理解し尊重し合っていることが分かる。


普段の口論など彼女らにとってはじゃれ合いに過ぎないのだ。


時間をかけて垢を落としてもらい、ついでに全身を洗ってもらうとシンカは早めに就寝することにした。


今日は添い寝はない。

明日からの動きを想定して瞼を閉じる。

やはり、恐れは無かった。




明くる日の早朝、まだ日が出きっていない薄花色の空の下、里の入り口でシンカは5人の妻と対峙していた。


「じゃあ気を付けて。待ってるから」


短くそう言うとリンファは腕のシンリをシンカに差し出した。

シンカはシンリを受け取り抱き上げた。


太々しい寝顔でシンリはされるがままであった。

最近漸く赤みが引き、人らしさを獲得し始めた生後3ヶ月の息子の顔をシンカは見つめる。


重い。シンリは順調に大きくなっていた。


シンカは息子をリンファに返す。


「なに?もういいの?」


「糞を漏らされたら敵わん」


「何それ!?あんたの子供でしょ?!」


「支度のやり直しになる。頼んだぞ」


リンファはシンリを受け取るとシンカに密着して口に吸い付いた。

そして顔を首元に寄せて強く首元を吸う。

僅かな痛みで吸い後をつけられた事を理解した。


リンファの背に腕を回して強く抱きしめる。


「シンリが潰れるでしょ」


悪態を吐きながらも拒絶はしないリンファにシンカは少し笑った。


リンファが下がると今度はカヤテが進み出る。

春先で、山中でしかも早朝である為周囲はかなり冷える。

カヤテは厚着をしていたが、それでも大きな腹は目立っていた。


「…お前の出産までには帰れないだろう」


「分かっている。名前は私が決めてもいいか?」


「うん。楽しみにしておく。いい名を考えてくれ」


「まだ性別もわからんしな。顔を見て考える」


そっとカヤテの頸に手を差し込み、顔を寄せて接吻した。

カヤテはシンカに主導される事を好む。

至近距離から見るカヤテは目を閉じられており、美しい翡翠色の瞳を隠していた。


カヤテの次にユタがシンカに近付く。

何も考えていない気楽な歩調だった。


「…シンカ…いなくなっちゃだめだからね?僕、まだまだいっしょにシンカと楽しいこといっぱいしたいんだから…」


「うん」


ユタの頭を撫でる。柔らかい髪が手に心地よい。


「負けないでね」


ユタを抱きしめて口付ける。


「悪さばかりするなよ。帰ってナウラからお前が大人しくしていたが報告を聞くからな」


「うんっ!…でもナウラはきっとおっきくして話すと思うからぜんぶ信じちゃだめだよ?」


ユタが笑う。

笑った彼女は本当に可憐だ。


ユタの次にシンカに近寄るのはヴィダードだ。


「本当に一緒に行っては駄目なのぉ?」


シンカの胸元に収まり至近距離から目を見つめてヴィダードは言葉を紡ぐ。


「うん。シンリやカヤテの腹の子を守ってくれ。お前が頼りだ、ヴィー」


吸い込まれそうな澄んだ空色の瞳を見つめながらシンカは答えた。


「そうねぇ。あなた様に頼りにされてるならぁ、仕方ないわぁ」


年端の行かぬ少女の様に細い腰を抱く。

それでもシンカが抱き続けているせいか、初めよりは肉が付いた様にも感じられる。


「俺の子を頼む」


「ヴィーもあなた様の子を産みたいわぁ。早く帰ってきて」


腰を抱いたままヴィダードに口付けをする。

壊れそうな程細身のヴィダードを強く抱くのがシンカは好きだ。


彼女の命が自分の腕の中にある事を実感できるからだ。


ヴィダードを離す。何時迄もくっついていようとするヴィダードをナウラが襟を掴んで引き離し、今度は自分がシンカの前に立った。


「約束です。必ず帰ってきてください」


「うん。必ず」


ナウラはシンカの背に両手を回して抱きしめる。

力強く、ナウラがシンカの存在を必要としていることが言葉を交わすまでもなく伝わった。


そして最後にナウラの薄桃色の唇に口付けを落とした。


「必ず帰る。約束する。……ではな」


片手を挙げて別れを告げる。

妻達と里に背を向け、未明の明け方の竹林へ足を踏み入れた。


「約束ですよ!」


ナウラの声に振り返らずにもう一度手を挙げて返じた。


森鶫のヤカだけがシンカに着いて飛び、肩に止まった。


薄暗がりに自分の身体が飲み込まれていくのがわかった。

先へ伸びる暗い道をシンカは進み始めた。


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