花の香りの髪を嗅いで


シンカは決意を固めた。

己に何があっても戦うと。


恐らくシンカは死ぬのだろう。夢の内容が解釈そのままなら、シンカは死を欅の精霊に告げられたに等しい。


敵の正体は分からない。

夢が具体的に何を指し示すかは分からない。

しかしシンカはそれを御告げとして受け取った。


篝火が消え、大勢と共に姿を消した妻達。

あの夢は彼女達が大勢と共に死ぬ未来を指す。

事実は分からない。だがシンカはそう受け取った。


その未来を回避するには己の命を賭けるしかない。

特殊な王種と戦うのだ。いずれにせよシンカは死ぬ。


命を賭けることでシンカは妻達を救う事ができる。そう解釈した。


しかし分からない。

1人で争って滅ぼす事ができるのか。

シンカには自信が無かった。


大勢で行けば何とかならないのか。

シンカ1人で赴く事に意味があるのか。

疑問は尽きなかった。


もたもたしている時間は無い。

だが出発の前にどうしてもやらなければならない事をシンカは見定めていた。


シンカは妻達にクウハンの探索に加わる事を告げ、出発の前に2日づつ5人の妻に2人きりの時間を貰いたいと告げた。


シンカは夢の中で暗闇を歩いていた。

それが何らかの比喩なのか、事実として起こるのかは分からない。しかしこのままでは駄目だと、何があっても挫けぬ心の強さが必要だと考えていた。


シンカはその心の強さを妻達との触れ合いで培おうと考えていた。


初日、シンカはリンファの部屋を訪れた。

リンファは服をはだけてシンリに授乳している最中であった。


「ちょっと!また勝手に入って来て!着替え中だったらどうしてたのよ!」


「どうもせん」


リンファの豊満な乳に小さな手で抱き付くシンリを見る。

自分の息子だ。


若い頃、シンカは思春期特有の悩みである自己存在価値について考えた事があった。


自分は何の為に産まれたのか。何故この時代、この場所で生を受けたのか。

今から考えれば下らない悩みだ。楽しければ、幸せならばそんなものはどうでもいい。


しかしその時出した結論が間違っているとはいまだに思えなかった。


若かりしシンカは己の存在価値を子孫を作り、生物としての義務を果たす事と定義した。

子孫を残し、自身の知識や技術を受け継がせる。


それ自体は森渡りの掟と同じであったが、自分の子供は自分で無ければ作る事はできない。


リンファが別の男と結婚して子を産んでも、シンリは産まれなかった。


シンリこそが間違いなく、シンカが生きた証なのだ。


生後3ヶ月のシンリは生まれた時より体重が倍になり、首が座り始め、あやすと笑う様になった。


これから大きく育ち知識を付け、強くなっていくのだろう。

だが。恐らくシンカはその成長を見守る事は出来ない。


王種を何の代償も無く倒す事などできない。

或いは倒すこともできず、一時的に力を殺ぐくらいの事しか出来ないのかもしれない。


願わくば、幼い友人を守って死んだセンバの様な、そんな心の強い子供に育って欲しい。


腕が立たなくてもいい。人より優った所など無くてもいい。


ただ健康に、幸せに成長して心を捧げ合える良い妻を娶り、健康な子をもうけて家族に見守られて死んで欲しい。


シンカは逃げていた。

誰かが何とかしてくれないかと。

部隊を率いたクウハンならと。


シンカは疲れていた。

戦って、戦って、殺して、殺されて、また殺し返して。


その手と足は血に塗れ、果たして赤子に触れても良いのかと、シンカは自問自答し続けていた。


それでも、その手足にこびりついた血は家族を守るためのものだったと言い訳し、心を落ち着けて来た。


それでもシンカは疲れていた。家族のそばにいたいと願っていた。

だから逃げたのだ。


霧の森の脅威から。


しかしそれはここまで。

精霊は言っているのだ。

お前がやれと。


そしてその結末を暗示した。

お前は死ぬと。


受け入れたくは無い。

だが自身の最上に家族の死は受け入れ難い。


「なあ。お前が孕んだ事を俺に伝えた日の事を覚えているか?」


シンリに差し出した指が掴まれる。

この無垢な命は誰かに守られねば生きていけない。

まずは自分が守る番だ。


「覚えてるわよ?なに?あたしと散歩したいの?」


「うん。俺は自分のしたい事は全部する主義だ」


「なにそれ。初めて聞いた」


リンファはシンリを一度寝かして外出の支度をする。

既に塗っていた淡い色の口紅を一度落とし、真っ赤な口紅を引き直した。結んでいた髪を解き、梳かし直して背に流す。


「どお?」


「お前は昔から美人だよ」


「ならいいわ」


シンリに厚着をさせるとシンカは体の前に固定して家を出た。

リンファが続く。


空は高く晴れていた。

風が無く、暖かく感じた。


雪はまだ積もっており、地表は隠れていたがこの天気が続けば数日後には雪は溶けて森を移動できる様になるだろう。


シンカはこの景色を目を細めて記憶に留める。

緩く吹いた春の風にリンファの髪が吹かれて舞い上がる。

リンファが髪を耳に掛け直す仕草をシンカは目に焼き付ける。


階段を手を繋いで降りた。

長い階段だ。すれ違う里の者に冷やかされたりもする。


しかし気にする事はない。

妻と手を繋ぐ事が悪い事である筈がない。


しかし思い出す。


リンファと付き合い出し、別れるまでの数年はこうして堂々とする事が恥ずかしく感じられ、人前ではあまり接触しない様にしていた。


「覚えているか?お前は昔から意地っ張りで、俺を思い通りに動かしたがった」


「今だってそうだけど?」


打てば返る返答にシンカはくすりと笑った。


「あの頃、俺はお前と結婚して子を産ませる未来を当然の様に思っていた」


「そうなったでしょ?嫌味はやめてよね」


「そうじゃない。当然の事なんて世の中には無いのだ。俺とお前は一度別れた。しかしその原因は、どちらか片方が一方的に悪いなどという事は無いのだと、今は思う。お前も俺も悪い所があったのだろう。偏りがあるかもしれんが、人と人の関係に一方的なものなどない」


「……ねえ、どうしたの?突然。何か隠してる?」


シンカは首を振った。

階段を降り終えて小川に向かった。美しい細い川は未だ岸が雪に覆われており、所々武器などの植物が顔を出していた。


硬くなった雪を踏みしめて川沿いを歩く。

ずっとここに居たい。この里に。この家族の元に。


目を閉じて耳を塞いでこのぬるま湯に浸かっていたい。


「ねえ、今度はどれくらいで帰るの?クウハンもいるんだし、あんまり開けないでよ?」


「…こればかりはな。分からんな」


不安そうにシンカの腕を取ったリンファの腰を抱いてゆっくりと散策した。

日差しが照り返し目が痛い。

しかし眼鏡をかける気にはならない。

全てをそのままの形、色で目に焼き付けたかったのだ。


「ここでお前がセンリンに突き飛ばされて川に落ちたのを覚えているか?」


シンカは川の1箇所を指差した。


「覚えてる。あんた怒り狂ってあの子も川に落としたわよね。周りで笑ってたランコもランメイもエンランもみんな川に放り投げて」


「懐かしい」


「あたし、自分で仕返しできたのにあんたがぶち切れてるから引いちゃったわよ」


「たっぷり怒られたな」


「そうよ!あたし悪く無いのにあたしまで。あんたが絶対謝らないしふてぶてしいから一刻半も怒られ続けたのよ!」


「悪く無い」


「そういうとこ!」


顔を見合わせてくすりと笑い合った。


「あんたはいっつも堂々としてて、自分が正しいって疑ってなかった。自分を曲げないし、まっすぐでいられるだけの才能があった。そんなあんたをあたしは尊敬してた。尊敬して、憧れてた。そんなあんたが何時も隣にいる事を自慢に思ってた」


「うん」


「でもね、それってあたしが家族だったからでしょ?もしあんたが他の家の子だったら、きっとあたしの隣には居なかった。そりゃあたしの見てくれは良かったけど、そんなのあんたには関係ないでしょ?」


「お前の乳大好き」


「巫山戯ないで。付き合い始めて、あんたはどんどん他の女の子に憧れられて。あたしは迷ったの。自分にあんたは相応しくないんじゃないかって。努力はしてたわよ?でも不安だった。何であたしなのかって」


「前にも聞いたな」


思い出す。あの秋の日、シンカとリンファは心の内を曝け出しあった。


「教えて。何であたしだったの?」


リンファは未だに不安なのだろう。

自分が好かれているのかどうか。

袂を分かった11年はあまりに長かったのだ。


シンカは心が傷付いたリンファに対し、何度でもその証明をする必要があるのだ。


「なあ。顔が好きだ。身体が好きだ。性格が好きだ。なんて言葉で満足できるなら好きな所を幾らでも言おう。足の爪の形から頭皮の微妙な匂いまで俺はお前を好いている。しかし、そうではないだろ?大切なのは共有した記憶と時間だ。お前の若い頃と瓜二つの女が現れたって俺は何とも思わない。何でかわかるか?……そいつには俺と過ごした記憶が無いからだ。俺は父さんに引き取られて最初にお前と食べた物を覚えている。お前は覚えているか?」


「葡萄ね」


「そうだ。お前は自分が姉だからと俺に9つぶ渡し、自分は11粒取った」


「そんな事まで覚えて無くていいのよっ!」


「でもお前はその夜、親を亡くした俺を憐れんだのか、俺を寝台に誘い、俺達は同衾した」


「言い方!」


「お前はそういう女だ。見栄っ張りでつんけんしていて、自分の思い通りに事を運びたがるが、家族思いで、優しい女だった。そしてずっと2人で思い出を積み重ねて来た。他の家の子だったらという過程に意味は無い。俺とお前は従兄弟同士で、5歳から一緒に育った。俺と5歳から一緒に育ち、喧嘩をして、お互いを理解しあった女はお前しか居ない。誰も変わりはできない」


「………でもあんた、あたしの事置いて出てったじゃ無い。11年も」


「煩いな」


シンカは川面を見詰めながら鼻で笑った。

リンファも釣られた様に笑みを浮かべる。


「お前こそどうなんだ。何故俺が良かったんだ?」


「………煩いわねぇ」


「俺はこんなに正直に話したのに教えてくれんのか?」


リンファは足元の雪を暫く蹴り散らかしていた。

不貞腐れている様にも見える仕草だが、リンファの表情は頬が赤らみ、嬉しそうに微笑んでいた。


もしかすると、彼女の心に付いていた傷を少しは癒せたのかもしれない。


しかし妖艶な悪女にも見えかねない容姿の女が初心な少女の様に照れて喜ぶ様子は違和感があった。


だが、可愛かった。


きっとシンカはリンファがしわくちゃの猿の様に年老いても彼女を愛したままだろう。


「……あたしは一番歳上だから、母さん達もあたしを頼ってくれて、弟達の世話を手伝って、しっかりしなきゃってずっと思ってた。最初はあんただってその対象だと思ってたけど、そうじゃなかった。あんたは何時だって助けてくれた。あたしの事甘やかしてくれたのは後にも先にもあんただけよ。父さんや母さんですら。あんたの言う通りよ。ずっと一緒だった。それだけで十分だった。でもあんたはどんどん強くなって、顔も身体も男らしくなって…」


「俺の顔が良いと言うのはお前の幻想だ」


「……それもあたしがあんたに付けた傷なのよね…」


「そんな事はどうでもいい。いずれにせよ、俺はお前に子を産んでもらえて嬉しい。それで十分だ」


せせらぎの音をただ聞いた。

身体が冷えてくると2人は帰路へとついた。

家へ帰ると2人でシンリをあやした。

シンリはシンカが抱くとあまり機嫌が良く無いが、リンファやナウラが相手だと機嫌良く大きな乳にしがみつく。


こんこんと眠り続けるシンリ。

こうしてよく寝て、よく育って欲しい。


自分はここに帰れるのか。

シンカは苦悩する。


ずっとここにいたい。家族に囲まれて、変化はなくともじわりとしたぬるま湯の様な幸せに包まれていたい。


「リンファ。俺は……帰る事ができないかもしれない…」


シンリの小さな頭を撫でながらシンカは口に出した。


「っ!?……………なんで?!」


リンファはシンカの腕を掴み目を覗き込む。


「どんな魍魎かもわからない。しかし強力という言葉では収まらない相手だろう。経を大量に摂取した曼荼羅龍は本来なら最期の一頭になるまで共食いするが、五頭も生き延びた。肉体的な変化には至っていなかったが、今度はそうもいかないだろう。お前にだけは伝えておきたかった。皆を頼む」


リンファは顔を歪め、シンカの襟を掴んで激しく揺さぶる。


「あたしに自分の子供産ませて!あとは任せる!?巫山戯ないで!ちゃんと責任とってあんたは帰って来なさい!あんたは自分の子供をあたしと育てるの!あたしとこの子を置いて行くなんて許さないから!帰れないなんて言うくらいなら絶対に行かせない!」


見開いた目から涙を流し、リンファはシンカに縋った。

シンカはリンファを抱き寄せると豊かな髪に顔を埋める。

うっすらと花の香りがした。


「お前達を守りたい。このまま嫌な物を見ないように里に引き篭もっていては駄目だ。俺はお前達に誇れる自分でありたい」


リンファは鼻を啜りながら口を閉じた。


「帰って来て。必ず。もうあんたに置いていかれたく無いの」


背に回されたリンファの腕。

シンカも同じように背中を抱く。

力を込め、強く抱いた。


グリューネで退治した鬼羆の王種は片言で人語を話した。

魍魎に知恵がついていたのだ。


なら今度戦う王種とて同じ様に知恵を持っている可能性がある。

そんな魍魎と闘って勝てるのか。


それでも。


「男は剣、女は鞘だ。俺はお前達の剣。俺の帰る場所はここ以外にない」


顔を上げたリンファの唇を奪う。

柔らかく厚めの唇を吸い舌を絡ませる。


腰を強く抱き頬に彼女の艶やかな髪の柔らかさを感じていた。

そのままリンファを抱き上げて寝台に運ぶ。

シンカは貪る様にリンファを抱いた。


2人で楽しむ様な普段の抱き方では無かった。ただ少しでも長く妻を感じられる様に。


たった一晩で触れていないところなど無くす勢いで彼女を求めた。


リンファはそんなシンカを受け入れて、最後は2人して力尽き眠りについた。

翌朝シンカは昼頃に目を覚ました。


隣には未だに眠るリンファの姿が見えた。


シンリは誰かが世話をしてくれているのか赤子用の寝台にはいなかった。

隣で眠るリンファは縋り付くようにシンカの腕を抱いて眠っており、両腕に潰された豊満な乳房が目に付いた。


彼女の頭撫で、顔に張り付いた髪を整えてやる。

そして額に口をつけた。

横になったまま天井を見上げる。


どうしても見た夢が気になっていた。

これから何が起こるのか。自分に何が出来るのか。

同胞達と戦うのか、1人で戦うのか。


先の見通しは立たない。

恐ろしかった。

死にたくない。

だが家族が死ぬのはもっと嫌だ。


皆、シンカの事を技も身体も心も強いと信じている。

だがそれは違う。

何時だって恐ろしかった。


挫折する事が。傷つく事が。何かを失う事が。

最も恐ろしい事態を避ける為、シンカは怒りや悲しみで心を覆い、塗り潰して戦ってきた。


死ぬかも知れないと思った事はこれまでにも何度かあった。


アゾク大要塞に乗り込んだ時、鬼羆と戦った時、マルン砦を防衛した時、ケツァルに乗り込んだ時、ユタを助けた時、ガジュマ城に乗り込んだ時、グレンデーラで戦った時、里を襲われた時。


それでも今、シンカは今までで一番先行きを不安に感じていた。

危険だと直感が告げていた。


直感は胃をじくじくと締め付け苛んでいた。

ふらふらと旅をしていた時なら間違い無く逃げ出していただろう。


だが、今のシンカは立ち向かうことしかできない。

それが恐ろしかった。

所帯を持ち、シンカは弱くなった。

弱点が増え、足腰が重くなり、進むべき道が狭められていた。


だがそれでも戦わなければならないのだ。

未だに眠るリンファの隣でシンカは人知れず強く歯を噛み締めた。


それでも、帰りたいのだと。


無事に帰りこの女を再び強く抱くのだと。


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