過日


年越しの宴が終わると雪が降り頻る日々が続いた。


里の全てを雪で覆い、森渡り達は冬眠する熊の様に千穴壁の横穴に潜り込み、静かに家の中で雪解けを待っていた。


シン家も蓄えた食料を消費しつつ騒々しくも穏やかな日々を送っていた。


産まれたばかりのシンリはまだ大きな声も出せず、夜泣きもそこまで大きくは無い。


しかし時が経つにつれて声は大きくなっていく。

何は頭がおかしくなる程泣き喚くのだろうが、シンカは大家族で過ごしていた為気にはならないだろう。


それよりも騒々しいのがナウラ、ヴィダード、ユタによる赤子の抱き上げ権利の争奪であった。


意外にも、まず朝に強いヴィダードが真っ先に起きると合図も何もなくリンファの部屋に侵入してシンリを抱き上げるとそのままシンカの部屋に侵入してシンカの寝台に潜り込んだ。


起こされてやや不機嫌になるシンカであったが、シンリをあやすヴィダードを見て哀れに思ってしまい何も言えなかった。


ヴィダードはシンカとの子供を欲しがっていたからだ。

彼女にはまだ妊娠の兆しは無い。


ナウラも同じ状況であることから、イーヴァルンやエンディラの民との間には子ができない可能性も考えられた。


しかしリンブは妻アレタとの間に小さな角の生えた子を授かっている。

産まれにくいかもしれないが希望は捨てていなかった。


暫くすると目覚めたリンファが己の子を取り返しにやって来る。


ヴィダードからシンリを奪い、乳を与え始める。

リンファの乳は張っており妊娠前より2回り大きくなっている。


ちなみにシンカはリンファの母乳を飲むなどと言う倒錯的な行為には及んでいない。

母乳は成人が飲むと腹痛を起こす場合が多いのだ。


授乳が終わる頃になると今度はナウラがやってくる。

ナウラはリンファからシンリを奪うとその豊満な胸に抱き、ぼんやりしていたシンカの隣にかけた。


「何なの…皆んなして…。あたしの子なんだけど」


「良いのですよ。何でしたか…セキム?の所に行っててもらっても。私がこの子を育てておきますので」


「もう良い加減に許してよ!あたしはこいつみたいな強い男が好みなの!へたれは好みじゃないから!」


「冗談です。むきになられても……はて。むきになるとは怪しいですね」


「やめなさいよっ!もうあたしは腹を見せた犬、木から降りられなくなった猫状態なの。無条件降伏なの。家族以外の男とは一対一にならない様に気をつけてるくらいなんだから変な事言わないで!わかる?」


「……そこまで狭量な亭主では無いと思いますが……」


「………まあ、ナウラには分からないかも知れないわね。もう手放したくないのよ。その為だったらその程度の気遣いは瑣末な労力よ。そうする事で自分の不安が無くなるんだから」


リンファは大分病んでいる様だ。


産後の気分の変化や子育てによる心身の過労により自死する者もいる。

注意を払う必要がある。


そうこうしているとカヤテが部屋にやってきてシンリをひと抱きして挨拶をする。

貴族の出身であるカヤテは乳母や侍女達に世話をされており、平民や森渡り達の様に親と子の関係が希薄な部分がある。


人の価値観を変える事は如何なものかと考えているシンカではあるが、これだけは変えてもらいたいと考えていた。


この環境だ。他の妻達に子育てを手伝ってもらう機会は多いだろうが、極力自分の手で育ててもらいたいと思う。


勿論シンカも家事、育児には協力するつもりだ。


現に今も世話を積極的に手伝っている。

最後に起床したユタは寝ぼけ眼でやって来て一頻りシンリの頬や腕をつつくと飽きてシンカの腿に頭を乗せて二度寝を始める。


尾裂き黒狐のアギは新たに加わった小さな生き物の事を守るべきものと思っているのか、シンリが赤子用の寝台に1人で寝かしつけられている時は寝台によじ登り、そっぽを向きながらもその豊かな尾で時折彼の身体を撫でていた。


稀に尾を掴まれても、ひくりと痙攣するだけで我慢をしている様だった。

後で不機嫌な様子でシンカの所にやって来て尾を差し出した。

毛並みが乱れた部分を含め、櫛で毛繕いをしろという事だ。


白狼のバラカは随分と大きくなり、既にシンカの腰下までの体高があったが、始めはおっかなびっくりシンリに近寄り、矢張り自分より弱いものと考えたのか、アギがいない時にシンリの寝台そばにやって来て昼寝をする様になった。


平穏な冬だった。


もう、何処かの街で女を引っ掛けて一夜の遊びに耽る事もないのだろう。


もう、何処かの街の宿で降り頻る雪を眺めながら一人酒を飲を嗜む事も無いのだろう。


それを窮屈と思う男も世にはいるのだろう。


しかしシンカにとってそれは自分の居場所が用意されている様で、心地よいものと感じられた。


妻と触れ合い、妻と時間を分かち合いたい。

家族のそばに居て、家族と共に物事を楽しみたい。


恋愛の駆け引きを懐かしむ事はある。

だがそれ以上に変わらずそこにある彼女らの愛が愛おしかった。


雪は激しくなり、軈て窓を覆い隠してしまう。

広場も木立も、小川も崖も、全てが白く覆い尽くされた。

側からはそこが人里とは思えぬ程に森渡りの里は雪に覆われ埋まっていった。


シンカの家は雪で覆われ、最早昼か夜かも分からぬようになる。

森渡り達は長灯石を灯して日々を過ごす。


柔らかい橙色の光の元、シンカたちは子育てと日々の生活に勤しんだ。


昼夜が分かりにくくなり、ユタの睡眠時間が増していた。

シンカはユタの鼻に強い匂いを放つ沼側鏡芋の花の汁を塗る事でユタを瞬時に覚醒させる術を見出した。


それを筆で鼻に塗るとユタは瞬時に覚醒し、泣き喚きながら顔を洗いに走った。


そしてびしょ濡れの顔で三白眼をひん剥きながらシンカの服に顔を擦り付けて水気を拭い、ついでに噛み付いて再び寝台に潜り込もうとする。しかしシンカが未だに手に持つ筆を見て渋々部屋を出て行く。

恨みがましい視線を通り越しながら投げかけて。


カヤテの腹は更に膨らみ、胎児が頻繁に動くようになった。

時折痛む程の胎動もあるようだ。


冬籠りで身体を動かせないのは彼女にとって大分心労があるようで、代わりにシンカは頻繁に按摩を頼まれた。


シンカは快く引き受け、人体に対する知識と器用さを持って類稀な力量を発揮した。

一度本気を出し過ぎてカヤテが白目を剥いて気絶した程だ。


他の妻たちに妊婦と卑猥な事をしていると勘違いされた程であった。


カヤテの出産予定は夏上月だ。子供の名は男の子ならシンキ、女の子ならシンシュと2人で決めた。

シンキのキは輝くという意味で、シンシュのシュは朱いという意味だ。


出産したリンファは産後の肥立も問題無く、妊娠線を消す為の努力と垂れてしまった乳を復旧するべくリンファは類稀な努力を行なっていた。


僅かに増量した脂肪、衰えた筋肉を元に戻すべくリンファは家族全員を付き合わせて修練を行った。

努力の甲斐あり、出産から2月後には薄っすらと割れた腹筋が取り戻され、妊娠線も軟膏を塗る事で薄くなりつつあった。


運動を始める時期は通常であれば出産3ヶ月後からが望ましいが、リンファはそれを待たなかった。


シンカに捨てられない様に女を磨き続ける姿勢は最早病的であった。

浮気をされない限りシンカがリンファと別れる事などあり得ないのに。


ナウラは執筆と酒と読書に明け暮れる冬籠りを過ごしていた。

ある吹雪の夜、2人は到頭分厚い本を書き終えた。四つの遺跡の古代文字とその訳、要約と考察を書き記した。


遺跡の様子などはカヤテに絵を描いてもらった。

著者の欄にシンカとナウラの名が記され、挿絵としてカヤテの名が書かれるとそれを見たユタとヴィダードが自分の名前も入れろと騒ぎ出した。

仕方がないので調査協力として2人とリンファの名前も加えられる事となった。


ナウラと2人で調べている所を不機嫌そうに見守っていた癖に、と思わなくもないが、家庭円満の秘訣の一つは我慢である。シンカは大人だ。なにも言わなかったがナウラはじろりと彼女達を梟の様に見つめた。


漸く完成した書物の表紙を革で丁本した。


書の題は、罔象の杜。


ウルサンギア人が信奉した精霊、罔象。

大陸を言語で一つに導いたウルサンギア人。


彼らにとって自然は敬い恐れるものであったが、同時に理解し、利用するものでもあった。

人にとって森は広大で、踏み入る事を恐れるものだ。

しかし今は無きウルサンギア人にとっても、精霊にとっても、魍魎にとっても、そこは人の感じる森とは異なるのだろう。


彼らにとってそこは森ではなく杜なのだ。

精霊と魍魎の古き呼称である罔象と彼らにとっての森。


だから、シンカとナウラは罔象の杜と名付けたのだった。

ヴィダードはあいも変わらずシンカにべたべたする生活を送っていた。シン家の夜の家族は完全交代制。褥を共にした妻が同衾する。


誰かが月のものが来ていればその晩シンカと同衾するかは妻とシンカぎ協議する事となる。同衾しない事となれば、シンカが予定を前倒しするか一人寝するかを選択するが、基本的に一人寝が選ばれる傾向にある。


シンカに10代後半から20代の頃の旺盛さは最早失われていた。

つまり、ヴィダードがシンカと同衾する事ができるのは5日に1回と言うことになる。


特にシンカが一人寝をする際は部屋に呼ばれないかとシンカが部屋に篭った後外から窓に張り付いてみたり、部屋の扉をか細く引っ掻いてみたり面倒な事この上ない。


極々稀にシンカの気が向き、部屋に連れ込んで抱き枕にして眠る事もあるが、そんな日の翌朝はその状態を夜通し満喫したのか、美しい目元に濃い隈ができ、ただでさえ白い肌は更に血の気を失い痛々しいことになる。

しかし本人だけは最高にご機嫌なのだった。


そしてシンリは妻達が抱くと大概機嫌が良いが、シンカが抱くと泣くのであった。


「ふむ。男の子は父親に似るというが、正しくだな」


「ええ。間違い無くシンカの子です。母として将来が心配ですね」


「…いや、あたしが母親なんだけど」


リンファの突っ込みを受けながらもじろりとナウラがシンカを見た。


「父に似て女好き」


「なんだナウラ。俺に文句か。お前が尿を漏らして俺に拭かせた話をするぞ」


「っ!?言ってはならない事を!」


「なになに?!聞きたい聞きたい聞きたい!」


シンカとナウラの応酬にユタが興味を示し目を輝かせた。


「あれは森暦192年の夏上月の事だった。ナウラを弟子にした俺はランジューから南下しクサビナへ向かうべく森へと入った」


「やめなさい、シンカ」


ナウラがシンカの襟首を両手で掴み揺さぶる。大層な怪力だった。


「森に入って暫くすると大きな白眉虎が現れ此方を威嚇した。顔に粉を投げ付けて追い返したが、ナウラは……」


「そこまでいう必要があったのですかっ?!」


「この女所帯に男は俺1人だ。少しでも流されれば後はお前達のでかい尻に敷かれて薄くなって行くだけだ。俺は戦う」


苛ついたのかナウラの眉が微動した。


「でしたらヴィーは大丈夫よねぇ?だってナウラやリンファ、カヤテと違ってお尻小さいからぁ」


「僕も小さめだよっ!シンカにも優しいよ!」


「何故私まで巻き込まれた?それにヴィー!私の尻は脂肪ではない!筋肉だ!」


「まるであたし達の尻が脂肪でできてるみたいな言い方やめてくれる?そもそも尻の大きさは獣の雌が雄を惹きつける為に大きくなったものなの。分かる?四つ足の獣は雄の目線に当たる尻が大きくなる様に進化していったの。つまり、尻が大きいのは獣から進化した生物としては当たり前で、小さいと言うことは生物として未完成で欠陥ってことなわけ。だからあんた達は女として問題ありな訳。それを自慢してどうするの?」


「…でも僕たち動物じゃないじゃん。獣はそうかも知れないけど人は足2本で立ってるからお尻が大きくなる必要ないでしょ?」


「まあそう言う言い方もできるわよ。でもそれなら胸はどうなの?人の女性の胸が大きくなったのは同じ話で、立った時の目線に胸が来るから異性を惹きつける為に胸が膨らんだのよ?」


リンファは腕を組み、増量した胸を持ち上げた。


「僕だっておっぱいくらいあるよっ!ヴィーと一緒にしないで!シンカも僕のおっぱい、手のひらに丁度で良いって言ってた!」


「シンカ様ぁっ!」


ヴィダードが半泣きでシンカの身体を揺さぶった。

ヴィダードは悔しいらしい。


そして閨での会話を暴露され少なくない精神的な傷をシンカは負っていた。


このままの流れでは暴露大会が始まりかねない。

シンカは呼吸、脈拍を己の意思で制御しつつ事態の収集に乗り出す。


「いい加減にせんか。全員が同じ体型では俺がつまらんだろうが」


「うわぁぁ」


シンカの発言にリンファがどん引きした。

ヴィダードは満足したのかシンカを揺さぶるのを辞めたが、ナウラとカヤテも冷めた目でシンカを睨め付けた。


ユタはいつの間にかガルクルト産の烏賊の天日干しを取り出してしゃぶりついており聞いていなかったようだ。


そんな仕様も無い話をしているとシンカの寝台で眠っていたシンリがぐずり出した。


リンファが抱き上げて授乳を襁褓を確認し、粗相では無いことを確認して授乳を始めた。

そんな冬の日々だった。




春中月に入ると雪が降らない日々が増え始めた。

ある朝、窓の外に積もり積もった雪が普段よりも明るいことに気付き、皆は瞬時に明るい気持ちになった。


朝食を終えるとシン家の皆は外に出るべく厚着を始めた。

毎度の事ではあるが、家に籠る生活は身体も心も腐っていくような気持ちになる。


シンカは家の外の雪に経を流し、束ねて雪の大蛇に変えると崖から身投げさせた。


「雪目対策に目薬を忘れるな。……続けっ!」


扉を開け放つとシンカは足を踏み出した。


「…あっ!もうシンカ!僕の足跡つける雪くらい残しといてよ」


訳の分からないいちゃもんを付けてくるユタを無視してシンカは家の正面、西の方角に目を向けた。


森は雪の帽子を被り、里も一面が雪に覆われている。

陽光を受けて宝石のように一面が輝いていた。

強い光を目が受けて僅かな痛みが生じ、目を強く閉じた。


「ユタ。遮光眼鏡を付けろ。目が痛む」


「はーい」


シンカは自身も眼鏡をかけて目を保護して、頬に吹く刺すような冷たい風を楽しんだ。


久しぶりの風は頬と耳を一瞬で凍り付かせるかと思える程冷たかったが、それでも心地よく感じた。

空は澄んでおり遥か西方に鑿の様に小さくガルクルトの王都ゴールが見て取れる。その北西の海は流氷が覆い尽くしている。


遠すぎて見えないがその先には去年冬を過ごしたゾナハンがある。曼陀羅龍と戦った砂浜もだ。


全てが鮮明に思い出せる。大陸の様々なところに赴いた。

妻達と出会い旅をした。決して色褪せることのない豊かな記憶だ。


ナウラが外へ出てきて除雪が終わっていない雪の壁に無表情で突撃し、身体を埋め込ませる。


「あー!僕の雪!」


抜け駆けされたユタが文句を付けながら走る。

そしてナウラの肩に飛び乗り蹴り上げて高く飛び上がると高く積もった雪の中に落下した。

姿は消えたが笑い声が明るい聞こえてくる。


「…雪なんて嫌いよぉ。寒いもの」


ヴィダードは洗練さのかけらも無い着膨れした状態で現れて蹲りながら雪を睨め付けた。


そうは言いつつも必ずシンカに付き合うところがヴィダードの可愛いところでもある。


因みに今日はリンファとカヤテは留守番だった。

まだまだ成長中のバラカがアギを背に乗せて現れ、その場ではしゃぎ回る。


背中のアギが怒ってバラカの頭を前足で打った。


「シンカ。私のバラカがあなたのアギに迫害されています」


「俺とナウラの力関係がそのまま展開されている様だな」


「……笑止。まさか冗談のつもりですか?面白く無いですね。覚えているかわかりませんが、以前森で自分の肛門を掻いた指の臭いを掻いだ猿が気絶して木から落ちた事がありましたが、あれの方が百倍は笑えるでしょう」


「あれにはやられたな。森の中で笑いを堪える余り、糞を漏らすかと思った」


シンカは穏やかに笑うと除雪を始めた。雪蛇にユタを乗せて這わせるとユタは楽しそうにはしゃいだ。


シンカ達と同じように、穴に籠った生活に辟易としていた森渡り達が、蕗の薹の様に雪を掻き分けて顔を出す。

四半刻とすれば好きに覆われていた千穴壁は本来の岩肌を取り戻していた。


子供達は滑空用の外套を身に付けて崖の上から飛び降りて、広場に着地すると積雪を潰して場を整える。

森渡り恒例の雪合戦が始まった。


大人達は酒とつまみを手に子供達の戦いを観戦する。

多種多様な体術が用いられ、見応えのある試合が行われていた。


シンカは家の前で黍の蒸留酒を舐めながら遠目に観戦していた。

何れはシンカも技を息子に仕込み、参加して戦う彼を酒片手に応援するのだろう。


今は寝返りを打つ事もままならないシンリがどの様に成長し、どの様な少年となってどの様な事に興味を持つのか。


酒を2人で飲む日が来るのか。3回捻りの最中の6連投を見ながらそんな未来に思いを馳せた。


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