全てを飲み込んで


燃え盛る山渡りの里をシンカは彷徨う。

方々で逃げ遅れた者や隠れていた者を同胞達が引き摺り出しとどめを刺す。


それで彼等の気が済むのならシンカは何も言わない。

火種を残しておけば後顧の憂いとなるのは明らかだ。


歩けばそこかしこに死体が転がっている。

先の襲撃時に大半を討ち取った為か、戦士の数は少ない。


老若男女闘うことの出来ない者達が干上がった湖の魚の様に転がっている。


これを自分達が成したのだと思うと恐ろしくなった。

しかし、それでもやらなければ良かったとは思わない。


近くの家屋が炎を纏いながら崩れた。

北方角では到頭火の手が山に広がり異臭を振り撒いていた。


シンカは地に屈み込み足跡を調べる。

東に向けて続く足跡。

大きさは成人女性の物。爪先が深く減り込み、踵部分は蹴り出された土で消えている。

急ぎ駆けた痕跡だ。


これが奴の足跡だという確証は無い。

だが足跡の大きさと沈み込んだ深さで体格はほぼ同等であると推察出来た。


歩幅も広い。駆けることに慣れているはず。

この里の女戦士という事になれば選択肢は絞られる。


燃え盛る家屋の合間をシンカは早足で歩いて行く。

その間痕跡を逃す事は決して無い。


後方をヴィダードとユタが警戒しながら付いてくる。

足跡は依然として西へと続いていた。


シンカは同胞を殺められた憎しみを抱くと同時に戦う力を持たぬ山渡りの骸に虚無感を持った。


足跡は軈て剥げた山の斜面に入り、その斜面を登って行った。

そこで痕跡が薄まる。

シンカは踏まれた落ち葉の痕跡や潰された下草から滲み出る汁の鮮度から向かう先を予測して辿って行った。


軈て痕跡は完全に失われた。

背後から火災による熱風が吹き去っていく。

シンカは火山灰性の目の細かい赤土を手で掴むとがれ場に向かい、転がる岩に向かってそれを振り撒く。


何度か繰り返すと舞い上がった土煙が吸い込まれる場所を見つけた。

大きな岩の端に煙が吸い込まれるのだ。

シンカはそれを回り込む。


斜面に細長い亀裂が生じていた。

複数の人間が行き来した形跡を見てとった。

ゆっくりと足を踏み入れ、それにヴィダードとユタご続いた。


ヴィダードは弓と矢を仕舞うと短剣を抜く。

ユタも炭流しを収めて短剣を抜く。

上下左右に気を払い洞穴を進んでいった。


乾燥した洞穴であった。

流れ込む風が不気味に唸りを上げていた。

シンカは明かり無しで細い洞穴を進んだ。

途中何度か細い糸を使った罠を発見し、慎重に通過する。


分岐は風の流れと痕跡で正しい道を選んでいった。

半刻もすると前方が俄かに明るんできた。

出口だ。


視界が開けた。

1つの尾根を抜けた様だった。


屈み足元を調べる。

がれ場が続いていた。


火災を元にした明かりはまだここまでは届かない。尾根が遮っているのだ。


雲間から星空が見える。

阿紫座の一等星が煌めいていた。

星下の明かりさえあればシンカの目は何一つとして見落とすことはない。


擦れた岩の跡や踏まれてずれた石と地面を見とめてそれが続く方角へ進む。


時折背後から火災により起こった風が吹き抜け、外套と笠を揺らした。

一際大きな岩を跳ね飛んで岩同士の擦過音を立てずに進んでいった。


そして森へと踏み入る。

折れた木の枝、踏まれた下草。人の痕跡は先へ続いていた。

見まごうことはない。


そうしてシンカは崖の袂に近付いた。僅かに開けた先の切り立った高い崖には細い亀裂が走っていた。

そして亀裂の脇に生えた白皮松の上に潜む人影を見取った。


ヴィダードの肩に手を乗せ指を差す。

ヴィダードは樹々の合間から男を狙う。

そして矢を射た。弓返りの音もせず、ヴィダードが放った矢は音も立てずに飛んだ。


音がならぬ様長年に渡りイーヴァルンの民が試行を重ねた形状の矢は樹上の男の喉を木の幹に縫い止めた。


「……っ!?……ぁ……っ……」


ヴィダードは2矢目を放つ。胸の中心に矢が深く突き立ち男は息絶えた。


張られた糸による感知の罠を避け、シンカは崖の亀裂の前に立った。


突如亀裂から何か小さな物体が亀裂の中から飛び出る。

戦輪だ。


その刃は何かに濡れており、小さな飛沫を飛ばしている。

樹上の見張りと感知の罠を囮とした本命。


受けても紙一重で躱しても刃の毒で敵を仕留める三段構えの攻撃であった。


その戦輪をシンカは跳んで躱した。

宙で両手を握り合わせる。

着地を狙い更に3つの戦輪が飛来する。

シンカの口腔が膨らみ水針が吹き出され、戦輪を撃ち落とした。


「出てこい」


告げて経を練る。

すると亀裂の奥から女の姿が浮き上がってきた。


「………」


「逃さんと言っただろう?」


「……………」


現れたイリアの容姿は髪が乱れ、顔色は血の気が引き疲労と心労で顔付きも以前の澄ました物とは雲泥の差があった。


だが目だけは異様にぎらぎらと光り、星下でシンカを見つめていた。

シンカは翅を抜いた。

ヨウキの形見。2人の思い出の品だ。


シンカとイリアは僅かに開けた森の中で微かに顔を出す星の下、5度目の対峙をした。


1度目はラクサスのガジュマ王城で。

2度目は森渡りの隠れ里で。

3度目は白山脈北方西側裾野間際で。

4度目は山渡りの天海山隠れ里、ラングの屋敷前で。

そして最後が此処だ。逃すつもりは無い。

報いを受けさせる。


「抜け。お前を殺し背後に匿っている者達を始末する」


「……何の罪もない女子供です」


汝等うぬらは何時も己の都合ばかりを述べる。誰がその言葉を口にしている?汝はその手で何をした?我等が汝等を許す事など、……断じて!有り得ない!」


イリアが動く。

短剣を両手に逆手で握ると顔の前で構える。

同時に摺り足で素早くシンカに肉薄した。


鈴剣流蟷螂剣とうろうけん。かなり希少な体系だ。


矢張りという感想が先立つ。イリアの技は小振りの双短剣を自在に操る。

であれば速さに主眼を置いた蟷螂剣を扱えると踏んでいた。


素早く突き出された右の短剣を身体を左に倒して避ける。

逆手に握られた刃が頬の横2寸を通り抜ける。

直ぐに腕が引かれ、左の短剣が疾る。

下がりながら突き出されたイリアの左腕を翅で狙う。


イリアは直ぐに腕を引き再び右を突き出す。

シンカは翅を合わせる。

イリアは武器を破壊されることを厭うて背後に跳ねて躱す。


シンカは追い縋る。しかしイリアは着地した脚で直ぐに前進した。

シンカは突き出される右腕へと翅を走らせた。

イリアは腕を引き直ぐに左腕を突き出す。シンカのがら空きの右半身へと刃が迫る。


直ぐにシンカは対応した。迫る左の短剣を迎える様に翅を薙ぐ。

シンカの翅とイリアの短剣がぶつかり合う直前、イリアの動きがひたり止まる。


左脚前、右足後ろで大きく開き、顎の前で短剣を構える様はまさしく蟷螂。

鈴剣流蟷螂剣獲待ち揺れえまちゆれ


翅をやり過ごしてシンカの喉元に斬りかかる。

シンカは即座に屈み込み左の爪先を軸に回転し足払いをかける。


イリアは構えを解かぬまま左脚を僅かに上げて足払いを透かすと背を向け屈むシンカに斬りつけた。

シンカは転がり避け、そのまま倒立する。


イリアは即座に追いすがる。

摺り足で距離を詰め左右の短剣を素早く操り獲物を捕獲する蟷螂の様にシンカを狙う。


シンカは倒立したまま身体を回転させる。

右脚で振るわれたイリアの左手を蹴り払い続く右腕蹴り払い左足で倒立のまま踵落としを放つ。


イリアは踵落としを左手腕で受け止めて、その脚に向けて右手の短剣で斬りつけた。

シンカは逆立ち歩きで距離を取ると口腔から水蜘蛛針を吐き出した。

イリアは下方から飛来する水針を肩幅に広げた脚を起点に上半身を揺らして回避し、法の終わりと共に地を蹴り付ける。


シンカに向けて土が飛ぶ。

土は途中で針に変わりシンカの顔へと殺到する。

シンカはぺたりと大地にうつ伏せに張り付くと全てそのままやり過ごし、四つ脚で身体を浮かせる。

そのまま猛烈な勢いでイリアへと迫った。


イリアはシンカの動きに肌を粟立てながらも体を落として迎撃に移る。

隙の少ない蟷螂剣特有の斬撃でシンカを牽制し寄せ付けない。


左右交互に鋭く腕を突き、両の短剣でシンカを攻め立てる。

シンカは四つ足で後退し握った翅を振るう。


巧みに見切ったイリアは鈴剣流蟷螂剣孤月透かしで紙一重で翅を裂け、シンカの腕を狙う。


突き出された左短剣、それを握る拳部分を右腕で受ける。イリアの右拳をそのまま右拳で殴りつけ両の攻撃を逸らす。


シンカは右脚でイリアの脚を蹴り付ける。脚を浮かして躱されるとシンカは慣性を利用して回転を続け、高麗の如く再度イリアに向き直る。

先に下段蹴りを放ったその脚は高く振り上げられている。


イリアは避ける余裕も無く左腕で頭部を庇う。

シンカは短剣を避けて蹴りを打ち込み、威力に蹈鞴を踏んだイリアに対して蹴りの力で浮き上がり右脚で踵落としを放った。イリアは背後に転がり、両手を突き出した。


月槌。


シンカは着地と同時に飛び跳ねて効果範囲から離脱する。

直後、今までシンカの身体があった位置が陥没する。


再度着地したシンカは即座に地に手を着く。

大地が隆起し岩槍が突き出る。


イリアは追撃を取り止めて行法から逃れた。

そして両手を短剣を握りながらも突き出す。

シンカへ向けて突風が吹く。


「私が負ければ!負けるわけには!」


更にイリアの体内を経が巡る。

イリアの身体が帯電する。


「絶対に負けません!皆の為!家族の為!」


シンカへ向けて細い稲妻が立て続けに走る。


「………」


シンカは無言で屈み、地に手をつく。岩船が起こり雷花を防ぐ。


イリアの足元から氷の花が咲く。

鋭い花弁を広げて彼女を貫かんとするが紙一重でイリアは飛び退る。


宙でイリアは両腕を突き出す。

シンカの頭上で大気が蠢く。

風行法・堕龍が岩船に身を潜めたシンカを狙う。


「私達はこのままでは何れ滅びた!だから!その前に何かの力を借りようとした!」


シンカは堕龍を後退し躱す。

束ねられた風の流れが大地を激しく打ち、赤茶けた地表を長く陥没させ、土煙を振り撒く。


「他者から奪いて生きるその性は、人の悪しき業也。されど我等が抗う事に嫌を唱える事、何人たりともまかりならん!」


シンカは両手を大きく広げる。可能な限り、力強く。


そして掌を強く叩き合わせて握り締める。


首周りの筋肉を固め、背を丸めて衝撃に備える。

二肢を大きく前後に開き大地を踏みしめた。


水行法・大水梁


シンカの口腔内の水分が増幅される。

頬が膨らむ。

直後前傾姿勢でシンカは水流を吹き出した。


あまりの威力にシンカの身体が流され、地表に足で線を描きながらずり下がる。

シンカは膝を曲げて踏み止まる。


大水梁は堕龍を吹き流し、起こした岩船を破砕し警戒するイリアへ迫った。


イリアは躱さなかった。いや、躱せなかった。

背後は崖に穿たれた洞穴。

先は行き止まり。

幼子や妊婦が隠れ潜んでいた。その中には腹に子を抱えた彼女の妹もいた。


「あああああああああああああああああああああっ!私はっ!」


イリアの美しい肌が裂けて血を吹き出す。

過剰な経の行使の影響だ。


地に手を着き、巨大な岩船を作り上げた。

その影響で体内の経が小石へと変じ、血管や肌を裂き、臓器を傷付けてイリア自身を瀕死の重体へと追い込んだ。


しかし、イリアが命を賭して作り上げた防壁はシンカの起こした水流を受け、削られながらも右後方へ逸らした。


斜め右上へ逸れた水流は崖を崩して通り去る。

役目を終えたかの様に岩船が崩れる。


崖の裂け目の前に仁王立ちしたイリアの姿がシンカの目に入る。


「……っ、………ぅ………」


全身から血を滴らせ、口角から大量に吐血したイリアが両手を広げて立ち塞がっていた。


「………敵ながら、見事」


歯を食いしばり、かっと眼を見開いてシンカを見つめるイリアを正面に見てシンカは小さく言葉にした。


死に体のイリアの胸に投擲した翅が突き刺さる。


「…………………どう、か…………………………」


どう、とイリアの身体が仰向けに倒れた。


目尻から流れた涙が顳顬を伝い、耳殻に流れていった。


「………素直に我等に頭を下げ、協力を請うていれば何某かの援助はしたであろうに……」


イリアは答えなかった。

既に彼女の命は失われていた。


現実的に森渡りを道具の様に考えていたラングの元で、彼らが森渡りに頭を下げる可能性を鑑みれば、山渡りと森渡りが手を取り合う未来はあり得なかったのだろう。


であれば、この結末は数百年前にメルセテにて彼等が政争に敗れた時分から確定していたのだろう。


シンカは無言で虚無を見つめるイリアを見下ろした。


同情心など湧かない。しかし彼女も、これまでに死んだ山渡りも、皆が何かの大きな流れ、或いは定めと呼ぶべき奔流に絡め取られた犠牲者なのやもしれない。


風も無く、物音も無く。山火事により赤らむ背後を見遣りもせず、シンカはイリアの胸から翅を引き抜き付着した血を払った。


執念深いこの女が息を吹き返して脚でも掴まれるかと考えたがそれも無かった。


シンカは背後で警戒を続けるユタとヴィダードに合図を送り、裂け目に足を踏み入れた。


外套と壁面が擦れて欠けらが落ちる。

半身になって右手の剣を構えながらシンカは進んだ。

そして開けた場所まで進んだ。


幼子た達が震えながら互いに抱き合いながら身を寄せ、4人の成人女性が腹を抱えたまま怯えた様子で此方を窺っていた。


イリアによく似た外見的特徴を持つ女もいた。

シンカは彼女達の体温を感知した。

体臭からも間違いなく妊娠していた。


「………どうか………」


イリアによく似た声で1人が震えながら頭を下げた。

容赦するつもりなど無かった。


シンカの目の前で命を落としたセンバ。

幼い同胞を守る為に小さな手で剣を握り、奴等に刺されて死んだ。


戦闘の最中に親共々殺された子供もいた。

洞窟の闇の中、シンカは歯を剥き出しにして噛み締めた。


彼等を許す事はできない。

翅を強く握った。


女達は泣きながら己の腹を両手で守り、背後に僅かな星明かりを背負うシンカを見る。


「お腹に、子がいるのです……どうか…」


怒りで意識が飛びそうになった。

山渡りのなんと自己中心的なことか。


ならば先に襲われた己らはなんなのか。


彼女らはたとえ殺されたとしても文句を言える立場には無い。事は既に起こったのだから。


だが、本当はシンカも分かっていた。


妊婦達にも、幼子達にも罪など無いのだと言うことを。


そして何よりも。


シンカは腹を守って蹲る女達を見て、そこにリンファの姿を幻視した。

シンカの子を孕んだリンファが腹の子の助命を乞い願う様を幻視した。


続き将来のナウラやカヤテ達を夢想した。


シンカの子を孕み、なす術なく追い詰められ、せめて腹の子だけでも護ろうと希う妻達の姿を思い浮かべてしまったのだ。


シンカは翅を握り構えていた腕をだらりと垂らした。


やらなければならない。彼女らを生かせば、軈て10年後、100年後に災厄を齎すかもしれない。


いや、放置したとてシンカのようにこの場所を見つけて彼等を殺す者が現れるだろう。或いは魍魎の餌となるかも知れない。遅いか早いかの違いだ。


今、此処で殺さなければならない。


だがシンカの腕は再び上がる事はなかった。

出来なかった。


武器も持たぬ幼子を、子を孕んだ女を、シンカは如何しても殺せなかったのだ。


シンカは涙を流していた。


それは同胞を殺された無念の涙か。使命を全う出来ない情けなさか。

それとも血を流さずにはいられない捻れて歪み切った全てに対してなのか。

自身にも分からなかった。


胸中で渦巻くさまざまな感情を解き解し、説明する事は不可能だった。

重く沈んだ気持ちを晴らす事など出来なかった。


彼女らを此処で生かす事など意味は無い。それどころか未来の子孫の破滅へと繋がるかも知れない。

しかし、如何してもシンカには殺す事が出来なかったのだ。


「此処は、直に見つかる」


小さく、短かく呟く様に口に出してシンカは背を向けた。


それはこれから苦難の道を進む彼女らに対して捧げたシンカの言祝ぎであった。


そのシンカの足元に何かが放られた。

それを払い上げると今度こそシンカは洞窟から去っていった。




森渡りを達は草の根を分けて山渡りの生き残りを見つけ出し狩り立てた。

家族を失った者は見つけた者が幼子だったとしても容赦はせず、山渡りを駆逐した。


家屋は尽く燃え、火の手は樹々に燃え移り、森へと広がり天海山の南斜面を焼いた。


夜にも拘らず、黄昏時の如く夜空は明るみ、森へと逃げ込んだ山渡り諸共木も魍魎も分け隔て無く焼き尽くした。


シンカは忙しなく動き回り生き残りを探す同胞を見る事なく、燃え盛る山火事を見遣っていた。


手慰みにしていた針に視線を向ける。


メルセテの祈祷などに使われる古い古代の独自文字が刻まれた白い龍の牙だ。

洞穴でイリアの妹に放られたものだった。


針は炎を照らして鈍く輝いていた。

彼女の意図などシンカには分からない。

姉を殺し、そして自身を見逃したシンカに何を思ったのか。


彼女らは何を考えていたのか。

シンカには何も分からなかった。


息子を失いその仇と鎌を振り上げた老婆を思い出す。

父の仇と短剣を振りかざす少年を思い出す。

立ち塞がる者は皆斬った。


そこまでしたのに、あの者達を斬ることが出来なかった。


全てがぐちゃぐちゃに胸中で混ざり合う。

如何しようもない程に重い何かの感情が気を緩めると顔に出てしまいそうで、シンカは顔を凍らせてただ火を見つめた。


そんなシンカの背をユタが摩った。


「それでいいんだよ」


シンカの顔がくしゃりと歪んだ。


「シンカ。最初に言ってたよね。無理したら、心が壊れちゃうよ…」


すっと、シンカの胸から何かが抜け出していった。

死んだ同胞達。殺した山渡り達。

それ以前にシンカは多くの死と関わり合ってきた。

闘争、戦争、復讐。

素手で、剣で、行法で。多くの命を奪って来たのだ。


今更の筈だった。


だが如何しても。


「…女子供の死を見るのは、辛いなぁ…」


やらなければならなかった。


「そうだね……」


煌々と山火事は燃え続ける。

三日三晩続くだろう。


どんなに辛くとも戦わなくてはならない。

歩く事。食べる事。立つ事。生きる事。

それらは戦いだ。


人は常に何かと戦っている。


ヴィダードが何処かで摘んだ山法師の白い花を手放した。

山火事が起こす肌を焼く様な強い風が煽られて吹き上げられ、明るい夜空へ消えて行った。


山法師の一枝を追って夜空を見上げた彼女の麦穂色の髪と白すぎるかんばせは炎に照らされ輝く様だった。


春の夜の匂いと樹々が焼ける匂いが混ざり、シンカの鼻を鈍らせる。


それが復讐の香りだった。


後悔は無い。

それでも、もう死んだ人達は帰ってこない。


強い怒りと、悲しみが炎に煽られてその熱が鈍ると、その影からひっそりと姿を現したのは濃く深い虚しさだった。


「……………帰るぞ……」


山渡りの死体を冒涜し続けるヨウミンの襟首を掴み、炎を茫然と見つめるテンカの腕を掴むとシンカは山火事に背を向けた。


幼い頃、父母を無くして塞ぎ込むシンカに寄り添い声を掛けたテンキ。


1人で槍の練習をするシンカに髭面を掻きながら近寄ったヨウキ。


次はシンカの番だ。


だから、シンカは立ち止まるわけにはいかないのだ。


シンカが彼等の優しさに救われた様に、今度はシンカが彼等の子の心を救わなくてはならない。


それがシンカの義務だ。


憎しみが人の間で連綿と続く様に、優しさや好意も同じ様に巡って行く。


世界はそうして作られている。




森暦197年夏中月。

ベルガナ王都ダルトの北方聳え、大国メルセテとを隔てる天海山にて火災が起こる。


幾つかの峰を焼き尽くし山火事は4日の間続いた。


幸い麓の村には被害も無く、ベルガナ王政府は森が焼き開かれた為、資源調査を行った。


そこで調査兵達は大規模村落の跡を発見する事となる。

ベルガナ兵は集落跡地で大量の焼死体を発見し戦慄する事となった。


生存者は確認できず、村落から離れた場所で幾らか戦闘痕や死体を発見したがいずれもそこで何が起こったか把握できるものではなかった。


夥しい数の死体をベルガナ兵は山に埋葬した。

以来天海山は身焼き山と呼ばれる様になって行った。


身焼き山の呼び名は後年でも近隣住民口にされる事となる。


しかしベルガナの史書には197年に大規模な火災が起こった事が記されていても、大量の死体が発見された事は記されなかった。


歴史の中では記載するに値しない些末な出来事であった。

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