灰よ
その男は腕を組み、顎を上げて此方を睥睨していた。
「……汝は逃げなくて良かったのか」
ラングに声を掛けた。
「……やってくれたな、苔豚」
「これこそが業。最早汝等に死から逃れる術は無い」
「……我が…里が……」
ラングは火の手が上がる里を茫然と見渡し呟いた。
里を惜しむ気持ちはある様だった。
彼等の貧しさは道すがら把握することが出来た。
狭く痩せた土地に苗に群がる油虫の様に集まる山渡り達。
さりとて魍魎を糧とするほどには力も持たず、精精が隠れ里の周囲の植物や小型の魍魎を食料とする程度の生活なのだろう。
苦しい生活なのだろう。
だが、それと森渡りが害される事とは繋がらない。
例え力が弱くとも、己の障害は己で跳ね除けなければならない。
それが生きるという事だ。
自らの足で立ち、自らの足で歩き、自らの手で道を切り開く。
それが生きるという事だ。
他人の手を借りたところでそれは己の成長では無い。
彼等は誤った。これは報いだ。
森渡りが手を下さなくとも他力本願な彼等はいずれ滅びただろう。
現に己が手で支える相手を選び、サルマと進むべき道を共にして苦難の道を選んだ白雲の山渡りは、彼等が返り咲こうと執念を費やしていたメルセテでは無くとも 、ラクサスに土地を得る事が出来た。
クサビナやメルセテ程肥沃では無くとも、ラクサスも大陸全体からすれば罔害が少なく糧の得やすい良い国土だ。
だがラングは脈々と受け継がれてきたメルセテでの復権という妄執を捨て去る事が出来なかった。
女王サルマの治めるベルガナでは満足できなかった。
メルセテは大国。今尚膨大な兵力を用いて内乱が繰り広げられている。
そんなメルセテで地位を築くには戦力が必要であった。
ラングはその戦力を森渡りに求めたのだ。
許す事など到底出来ない。
ラングは剣を抜く。コブシ製の曲剣である。
「我等は終わらぬ!嘗て栄華を極めたオウ一族、今一度メルセテに返り咲くのだ!」
ラングが両手を突き出した。
風が吹き始める。
その場で三度剣を振る。
何かが高速で近付いてくる気配をシンカは察知した。
風行法・飛剣。
心技体法全てに高度な技量を要する法だ。
見えぬ刃をシンカは躱す。
ラングはシンカの躱す先を見越して更に剣を振る。
「ははっ!逃げるだけか!?雑魚が!」
隙を見てラングは囲む森渡りへも剣を振るう。
シンカ隊の面々はシンカの初動から法を察知し対策を済ませている。
周囲の森渡りを削れない事を悟ったラングはシンカへと意識を集中させる。
剣の舞を踊る様にラングは1人剣をその場で振り続ける。
その動きは流麗であった。
10、20と回避を続けたシンカは僅かな隙に地に手を着いた。
「シンカ!やれ!」
「ラング様!どうか!」
大地が迫り上がる。
地表が掌を象りラングを挟もうと迫る。
迫り出す柏手は手の皺、指紋までが再現された不気味な程の精度である。
迫る岩塊をラングは後退して躱す。
飛剣の目に見えぬ刃が柏手に防がれた。
ラングは位置取りを変えて再び剣を振るう。
そしてそのまま身体を前傾に倒して駆けた。
対してシンカは口を開く。
「かっ!」
経が瞬間的に口腔から発され、物理的な力を持つ。
周知の落ち葉や微細な火山灰質の土、小石や小枝と共に飛来する風の刃を吹き散らす。
ラングは衝撃に自ら突進し礫や枝葉を身に受けながら直進した。
しかし唐突にその場を転がる。
シンカの柏手がその形状を変えた。
全方位に栗のいがの様に針を伸ばす。
「行くぞ!
シンカは叫ぶ。
それは同胞に向けての声だった。
俄かに鋭く長い針を纏った柏手が膨張する。
香蒲の穂が弾けて種を飛ばす様に柏手が一瞬膨らんだ。
森渡り達はその場を飛びすさり、地に手をつく。
刹那、轟音と共に岩塊が爆散した。
土行法・香蒲散弾は無数の岩片を全方位にばら撒く。
岩戸に身を隠した森渡り達に被害は無かったが、彼らが直前まで戦っていた山渡り達は全身に破片を浴びて身体を貫かれ、半数以上が即死し、残りも身体に無数の岩片をくらい重傷を負っていた。
ラングは岩戸が間に合い無傷であったが、その惨状に目を剥いた。
「お、おのれっ!おのれえええええええええええっ!」
ふんぞり帰り同胞だけを危険な任務に従事させていた男が今更何を気にするのかと滑稽に思う。
恐らく彼にとって里の同胞の命は集めた金貨の数と同じなのだろう。
愛は無いが、失われるのは痛いのだ。
ラングは爆発的な速度でシンカへと駆けた。
シンカは腰を落とし迎え撃つ。
掬い上げるように迫るラングに向けて剣を振るう。
ラングは剣で逸らそうと腕を上げる。
柔そうとした先に8分まで剣身を翅で断たれ、ラングは転がりながら剣を捨てた。
シンカは右の腰から翅を逆手に抜いた。
亡き朋友の剣だ。
目頭が熱くなり顔を顰めた。
「滅びよ!」
ゆるりと右足を前に出す。
周囲では山渡りの増援が集う気配がある。
皆が三々五々散り増援を待ち受けるべく備えている。
シンカの左脚が前に出る。
ラングが立ち上がった。シンカの動きを推し量り腰を僅かに落としている。
武器は無い。
左の爪先が地に着くと同時にシンカの身体が急速に回転を始める。
柳斧流奥義松毬。
逆手に持った左の翅、順手に持った右の翅の順にラングに振られた。
ラングは後退して躱す。
シンカは2回転目に入り更に斬撃を放つ。
余りにも速い連撃であった。
己の弟子であるナウラに武術を完璧に仕込んだシンカが、その流派を扱えない筈がない。
シンカの軸足は地を削りながら逃れるラングへと足の裏の動きだけで追従する。
触れれば膾切りになる刃にて乱舞を続ける。
その動きは正しくメルセテやコブシの玩具、独楽の如き様でありラングはただ逃れるしか無かった。
シンカの松毬は続く。
10、20と回転を続けラングを屋敷の塀まで追い詰める。
ラングは塀に向かって飛び上がり三角跳びでシンカの頭上に躍り出た。
シンカは急制動をかけて松毬を取り止める。
頭上からの一閃。
シンカは大きく後退した。
今までシンカが立っていた足元が深く裂けた。
ラングはそのままシンカに剣を振る。
シンカはすぐ様右に跳ねて回避する。
鋭い風切り音を聞き取った。
続け様に剣が振られる。
シンカは地に四つ足を着き蜘蛛の様に素早く動いて飛剣を回避しつつラングに近付き飛び掛かった。
シンカの蜘蛛のような動きにラングは鳥肌を立てる。
粟だった腕の皮膚すらシンカの目には見えている。
ラングは己の腰から短剣を抜き咄嗟に投擲した。
シンカの速度に長剣の振りが間に合わないための緊急手段であった。
真っ直ぐに飛来する短剣をシンカは左の翅で斬り払う。
右手の翅はラングに鋒が向けられている。
ラングは跳ねて後退する。
僅かに稼がれた距離で長剣をシンカに向ける。
シンカはそれを切断した。
しかし僅かな挙動の隙を突きラングは長剣の柄を手放すとシンカの右手首を掴みにかかった。
手首が掴まれる刹那左の翅を手放し掌底を打ち上げる。
ラングの左手が弾かれる。ラングは続けて右手でシンカの左腕を取ろうとする。
右の翅を振るい牽制、ラングは足払いを繰り出す。
シンカは足の裏でそれを受けすぐに右足で下段の蹴りを放つ。
膝に一撃。更に足を振り上げ中段蹴り。ラングは腕で受ける。更にシンカは上段蹴りを放つ。
顎を狙った鋭い蹴りをラングは腕で防ぎ蹈鞴を踏んだ。
逃す気はない。
シンカは踏み込み波割を放つ。俊速のそれをラングは風流陣で逸らし再びシンカの腕を狙った。
ラングの拳がシンカの腕に刺さる。
壺を突かれ握力が緩む。
シンカは素直に剣を手放し肉弾戦へと転じた。
小指から順に指を握り、顎を引いて両拳を顔の前に添える。
腹筋を引き締め踵を開いて半爪先立ちとなった。
経を練る余裕は無い。
練ればそれを感知し直ぐに攻め立てて来るだろう。
ラングの右拳がシンカの顔目掛けて振るわれる。
左の拳で逸らし右拳を放った。
ラングは己の左拳でこれを受ける。
更にシンカは左を放ち、続けて右拳を打ち出す。
ラングは両腕で頭を庇う。
しかし防御の隙間からシンカの挙動を確実に見取っている。
シンカは左脚を上げる。中段の回し蹴りだ。
ラングはそれも見切り右腕を落として胴を守る。
しかしその腕が衝撃を感じる事はなかった。
シンカの蹴りは膝を起点に器用に方向を捻じ曲げ即座にラングの頭部を目指した。
無手・鷲尾羽。
可変蹴りである。
しかし山渡りに於いて武力にて君臨し続けたラングは予想外の攻撃にも対応して見せた。
下げた防御を再び上げたのだ。
常人では反応する事も出来なかっただろう。
だがラングは対応した。
そんなラングの側頭部を強烈な衝撃が襲った。
中段から可変して顎を狙う様に振るわれたシンカの右足は、上段で更に可変し、顳顬に振るわれていた。
よろめいたラングにシンカは更に追い討ちを掛ける。
鋭い右正拳をラングは蹌踉ながら捌く。
続く2発の左拳を一撃は防ぎ二撃は腕で弾く。流れる様に打たれた左拳をシンカは同じ様に腕で打ち落とし左拳を再度打つ。
ラングはシンカの攻撃を首を捻って躱すと体をやや落とし左右の拳を順に繰り出した。
鳩尾を狙う左の拳をシンカは右の掌で捌き、続く左拳を左拳で打ち上げ、即座に肘を打つ。体を逸らして躱したラングの足を直ぐにシンカの右下段回し蹴りが掬った。倒れるラングだったが手を地に着き倒立し跳ね上がる。
激しい肉弾戦だ。
剣や槍ならまだしも格闘で、戦場でここまで競り合う事などシンカにも経験は無かった。
シンカは追い討ちをを掛けていたが躱される。
距離を取ったラングだったが直ぐに攻撃に転じた。
振り子の構えを元にした軽快な足捌きで重心を変えつつシンカににじり寄る。
ラングは間合いに入ると素早く右左右の拳打を放つ。
腰の入った強烈な拳打だ。
シンカは初撃を右掌底で逸らし二撃目を左手で受け止める。三撃目を体を左に開いて躱しつつ右の掌底を打ち込む。
強い踏み込みに足裏と地の接点から破裂音が生じる。
乾いた火山灰土の煙が立ち昇る。
ラングは体を開き躱しにかかる。
しかし躱しきれずに掌底がかする。
ラングの金属製の胴が凹む。
「己れっ!」
衝撃を利用し左拳が振るわれた。
シンカは腕を曲げ側頭部を守り受けた。
シンカの開いた体に向けラングが回し蹴りを放つ。
左脚を上げて腿で受ける。
更に残った右脚を刈るラングの足払い。
直ぐに左足を着き右脚を上げて足の裏で受ける。
上げた右脚をすぐに攻撃へ転じる。
4連の蹴りを放つ。
下段、中段、下段、中段の順に4撃。
ラングは下段を右脚に重心を置く事で受け、中段は折り曲げた肘で受ける。
反撃の右回し蹴りをシンカは左腿を上げて受け、拳打を放つ。
シンカの正中線を狙った連撃をラングは後退しながら捌いていく。
しかし途中で捌き切れなくなり防御へと転じると反撃の隙を窺っていた。
シンカは拳打では仕止め切れないと見て取ると攻撃を関節攻めに転じた。
右手でラングの手首を掴む。
直ぐにラングはシンカの右腕を左掌底で弾く。
その左手首をシンカは掴む。
シンカの手を払うべくラングは回転する。
動きに合わせシンカの左手が離れた。
ラングは回転の勢いを使い背面からの右肘を打ち込む。
シンカも右腕を上げて防御すると骨盤を開く様に左膝を高く上げ、未だ背を向けたままのラングの脇に打ち付ける。
膝蹴りの威力にラングの胴が破損し吹き飛んだ。
蹈鞴を踏むラングにシンカは追撃を仕掛ける。
背中を蹴りつけようとするとラングが身体を屈めた。
即座に踏み込んでいた右脚を上げた。
右脚があった場所を後ろ向きのまま放たれた足払いが通り過ぎて行く。
ラングは脚を振るった勢いでしゃがんだまま正面に向き直る。
シンカは前蹴りを放ったがラングは交差させた腕で受け、衝撃のままに後転すると腕で身体を跳ね上げて飛び退った。
再び距離が開く。
隙に乗じてシンカは経を練り終える。
息を大きく吸い胸を膨らませて背を反らす。
両手を強く握り合わせた。
異音と共に水条が吐き出される。大地を切り割りつつ白糸がラングに迫る。
ラングは飛び込み前転で白糸を回避すると地に手を着く。
「石筍乱起!」
鋭い岩槍が続け様に隆起する。
シンカは首を振り白糸で薙払う。
シンカは握り合わせた手を再び強く握る。
周囲の気温が俄かに下がった。
ラングの吐き出す荒い息が白く立ち上る。
急激な気温差に大気中に輝く結晶が舞い散った。
水行法・
シンカが大きく息を吐き出した。
凍てつく強風がシンカの口腔から吐き出された。
直線上のラングは直撃を躱す。
吐き出された息は氷の結晶を含み、名の通り輝いていた。
ラングは直撃を避けたが衣類が凍り付き固まる。
彼の身体の動きもあまりの寒さに鈍る。
更にシンカは経を己れの右目に集める。
ラングは更に地に飛び込みそれを回避した。
水行法・蔑視。
視線の先全てを凍らせ動きを止める。
ラングの身体が凍り付く直前、彼は右手を振るった。
火行法・
鮮やかな橙色の火炎の膜がラングを包む。
シンカは見開いた右目で蔑視を続ける。
火勢は幾分か衰えるがラングを凍てつかせる事は叶わない。
焔繭の表面が蠢く。
火線が伸びてシンカに迫る。
火行法・火綱渡り。
回避は容易い。
皮膜の蠢きと共に二乗、三条と火線が伸びる。
行われた火綱渡りは維持され、周囲を照らし出していく。
シンカは次の法を予測して地に手を着く。
勢い良く大地が隆起しシンカを上空へ打ち上げた。
樹々と同じ高さまで飛び上がったシンカは何かの虫の巣のような橙色の炎達を眼下に見据え、両手を組んだ。
まさに怒涛の如く水流を吐き出した。
膨大な量の大潮が蠢き始める前の炎を消し去る。
落下するシンカは両手を突き出しぬかるんだ地に向けて一角を放つ。
ラングは右手を振り強く地を踏みつける。
足裏から打ち出された経が燃えてラングの周囲を焼く。
火行法・火印章である。
水分が蒸発し雷は地に吸い込まれて消える。
立ち上がる蒸気の中シンカは落下し膝で重力を吸収し転がり起きる。
蒸気の中己れの菅笠を外し即座に投げる。
そしてそれを追いかけ肉薄する。
ラングは靄の中現れた笠を躱す。
シンカとラングの視線が合った。
「如何に虐げられようと!我等は再び立ち上がる!その時こそ貴様らの滅びの時!」
「その日は来ない。夢を見るな。汝等は今日、今夜滅びるのだ」
シンカは飛び上がる。右膝を折り曲げ突き出す。
跳び膝蹴りをラングは左に避ける。
避けざまに右手を振るう。
炎弾浮かび上がる。
着地したシンカにそれが飛来する。
口腔から水蜘蛛針を吐き出す。
3発で消火に至る。
距離を詰めたラングが右掌底を放つ。
左手の腕で捌く。
続く左手掌底を右手で身体の左側に逸らした。シンカは左脚で回し蹴りを放つ。
胴にシンカの脛が打ち込まれるが感触が硬い。読まれており腹筋を固めて防がれている。シンカの左足を抱えろうとするラングに対して延髄に手刀を放つ。
ラングはシンカの脚を取るのを辞めて左腕で手刀を防ぐ。
ラングは直ぐに右拳を鋭く突いた。
シンカの顎を狙う鋭い一撃だ。シンカは首を傾けて回避し右脚を振り上げる。
ラングは側頭部を狙った右回し蹴りを回避しシンカの左足を払う。
シンカは飛び上がり回避し着地と共に再び飛び上がり蜻蜓を切りながら中空から踵落としを放つ。
半身下がって回避したラングはシンカの胸に掌底を放つ。
シンカは攻撃を腕で受け、続く連撃を捌き始める。
左右の連撃を10、20と裁き25撃目の鳩尾を狙う正拳を拳を当てる事で打ち上げた。
ラングの身体がやや流れる。
ラングの脇腹にシンカの右拳が突き刺さった。
呻くラングに追撃を仕掛ける。更に右拳を脇腹に突き込み、崩れた防御の隙間から左拳を顎に打ち込む。
蹈鞴を踏んだラングを追う。
左右の拳を振るう。
ラングは後退しながらそれを捌いた。
強い。この男は類稀な動体視力、反射神経、そしてそれを生かせるだけの肉体と運動神経を持つ。
挙句に豊富な経験値を持っていた。
森渡りとは違う争いの中に生きた男なのだろう。
だが間違えてはならない。
彼が相手にしてきたのは己れよりも弱い者達。
森渡り達が相手にしてきたのは己れよりも遥かに強力な魍魎だ。
ラングは反撃にシンカの側頭部を狙う右回し蹴りを放つ。屈み回避する。
流れる様にラングは背後に下段の後ろ回し蹴りを放つ。
その蹴りをシンカは右脚を上げて足の裏で受けた。
そして上げた右脚を更に振り上げる。側頭部を狙った蹴りをラングは潜って躱しつつシンカの軸足を払いにかかった。
シンカの右足は未だ頭より高い位置にある。
残る左足をラングは刈り取る。
だがラングの足がシンカを捕らえる事は無かった。
シンカは左足を蹴り飛び上がると先の右足による蹴りの力そのままに回転し、体を落としたラングにあびせるように踵蹴りを放った。
ラングはその蹴りすら屈んで回避した。
そして宙に浮くシンカに攻撃を加えようと拳を握る。
だがそれを放つ直前でラングの視界が何かに塞がれた。
それはシンカの右足の甲であった。
左の回転蹴りを外されたシンカは更に回転を続け、先に躱されて畳んだ右脚を蹴り開き、ラングの顔面を強かに打ったのだった。
ラングはのけぞって仰向けに転倒し、シンカは背中から地に落ちる。
ラングは慌てて手を着いて立ち上がる。
そのラングの目の前でシンカは肩越しに両手を地に付けて両脚を上げると海老反りになりつつ飛び起きた。
「…は?」
先に起き上がり始めたラングよりも先にシンカは立ち上がり、体を落とし掌底を突き出した。
轟音が周囲に響いた。
ラングはとてつも無い衝撃に弾き飛ばされ、自身の住む屋敷の塀を突き破り、重厚な玄関にぶつかってずり落ちた。
ぶつかった扉も半ば破損していた。
ラングは朦朧とする意識を繋ぎ止め立ち上がろうとしたが下半身に力が入らなかった。
己れの身体を見下ろすと胸から下に巨大な穴が開き、破れた何某かの臓器が垣間見えていた。
背骨が途中から失われているのだ。
立てるわけがなかった。
「……こけ…ぶた……め……」
死に往くラングの目前には無機質な表情で彼を見下ろすシンカの姿があった。
ラングは咳き込む。
粘度の高い血液が咳と共に吐き出された。
「…さて、後は残りを屠殺するか」
「………やめ…ろ……。つみ…の……ない……」
「最早その懇願は受け容れられぬ。悔め。汝の選択が腰の曲がった老人から乳飲み子まで須らくを殺したのだ」
シンカはゆっくりとラングに歩み寄る。
周囲の戦闘は収束しつつあった。
万全の態勢の森渡りが山渡り風情に劣るはずも無し。
「辞めよ!おおおおおおおおっ!」
趨勢を見守っていた老人がラングに近付くシンカに向けて駆け寄り剣を振り被る。
シンカは腰を落とし右の掌底を放った。
老人は衝撃に跳ね返されてそのまま倒れた。
少し離れた地には未だ動き続ける心臓が張り付いていた。
それも2度脈打ち動きを止める。
シンカは素早く振り返ると飛来した短剣を掴み取り、ラングへと投げ返した。
咽頭に鈍い音と共に突き立ち、ラングの頭は背後の扉へと固定された。
ラングの経が急速に高まる。
シンカは菅笠を拾い上げると同時に指弾を放ちラングの丹田を攻撃した。
自爆しようとしていたラングの経が霧散した。
「本当は滅びを見せてやりたかったが……汝にも飽きた」
地面が隆起し岩槍がラングを串刺しにした。
槍の鋒はラングの肛門から脳天までを貫き、怖気の走る像へと彼を変じさせた。
彼はもう何も話せない。何も出来ない。
しかしシンカの気は晴れなかった。
これから先幾ら山渡りを殺してもこの気持ちは晴れないのだろう。
分かっていた。
何をしても死んだ里の皆は帰っては来ないのだ。
「……くっ……っ……」
肩が震える。涙が流れる。
このような下らない連中に里が踏みにじられ、同胞の命が潰えたのかと思うと遣る瀬無い思いが次から次へと湧き出てくる。
だからといって報復しなければ良かったとは思わない。
未だに胸の奥深くには松脂の様な粘度の暗く激しい憎悪が燃えていた。
ラングの屋敷に火が掛けられた。
火は直ぐに広がり煌々と辺りを照らした。
見渡せば周囲一面が炎に包まれていた。
川の下流が何かの祭りの様に炎で明るみ夜を照らしていた。
直にこの火災は山火事へと変わり、辺り一帯全てを焼き払うだろう。
森渡り達が山渡りを逃したところで今度は彼等の命を火が奪うのだ。
シンカはまるで己れの意識を焼かれてしまったかの様に炎を見つめ続けた。
脇にヴィダードとユタが寄り添い、ユタがシンカの背を撫でた。
生きる事は辛い。苦しい事ばかりだ。
赤子の様に無垢で、何も考えずにいられたなら、誰かを失う苦しみなど感じずに済むのだろうか。
それでもシンカは人並みに物を考える。成長と共に喜怒哀楽を覚えてしまった。
親しい同胞が無念の死を遂げたとしても、大切な家族を守る為に剣を握り、経を練って立ち向かわねばならない。
それが義務で責任だ。
人も魍魎も、自分の力で立ち、糧を得て生きる。
それが出来ねば死ぬだけだ。
親に育てて貰い、そして伴侶を得た。
今まで守られてきた分、守らなければならない。
それが人の責務なのだ。
それをしてきたからこそ人は繁栄した。
森渡りも知識を受け継いできた。
どんなに苦しく辛くとも立ち止まるわけにはいかないのだ。
何を失ったとしても、それだけはやり遂げなければならないのだ。
妹達が側に近寄り、軈て復讐の限りを尽くした森渡り達が戻って来るまでシンカは熱風に煽られながらも滅び行く隠れ里を見つめていた。
その風景にはシンカを慰める様な答えは無かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます