仄暗い水の底から




山渡りの黄土隊を率い黄土隊長マルコは闇の中を駆けていた。


難航しつつも森渡りを徐々に制圧していた山渡りであったが、突如水銀隊が撤退し、続き土長のイルカイから撤退の指示が出され、その後音信不通となってしまった。


指示系統が確立しないまま熱に浮かされ攻撃を続けていたが、敵の増援とともに反撃が過激化し、敢えなく撤退する事となってしまった。


そして悪夢が始まった。


闇の中から執拗に追撃がなされ、800以上の山渡りは散り散りに追い立てられてしまったのだった。


マルコは黄土隊を率いて追撃を躱したが、その数は日中帯に森渡りの反撃に会い減った数を含めれば半数を切ってしまっていた。


僅か47名の生存であった。

今は各自秘薬を飲み視界を利かせて逃走を図っていた。


希望としては山から最短で脱出する西への逃走を行いたかったが、栗毛天馬に跨った中年女が口から物が溶ける液体を吐き出しながら東への向かっていった為、マルコは南西へと進んでいた。


リュギル方面に離脱しケルレスカンを経由、オスラク、アガスタを横断する経路である。


黙々と部隊を引き連れ進んでいると北側から複数の人の気配を感じた。

かなりの数だ。


マルコは部隊に静止をかけて巨木の影に潜み様子を窺う。

薄暗がりから三度笠と蓑を纏った一団を確認すると拾った石で4度幹を叩いた。


「……マルコか」


「其方も随分と減ったな」


現れたのは紅土隊と藍土隊。声をかけてきたのはそれぞれの隊長であるアーミンとライナーであった。


「…まさか、これ程の人数差でな…。ケルレスカン経由か?」


「ああ。奴等の目を避け何とか逃げ延びねば」


「急ごう」


短く会話をした後合流した三隊は南西を目指した。

三隊併せて171人。人数が集まりマルコは幾らか安心する事が出来た。


鬱蒼とした森は光を通さず、薬を飲んで漸く木々や岩、倒木などの形が朧げに分かる程度であった。

方々に散らかる枝を踏み音を鳴らしてはびくつき一行は進んでいった。


軈て僅かに周囲が明るくなる。

樹々が途切れていた。

曇天ではあるものの、雲の裏に潜む月が周囲を照らし出していた。


湿地であった。


「…どうする?」


「かなり広範囲だ。敵の目を欺く為にも俺は中央突破するのがいいと思うが」


「俺は反対だ。どの様な魍魎が潜むかも分からん」


「迂回すれば必ずの時間を浪費する。俺は追いつかれない為にも突破する」


「…ならば我等も従おう」


意見を出し合い湿地帯を抜けることに決めた。


「気を付けろ。足をとられるな」


アーミンが告げる。

一行は地面に槍を突き立てて脚を取られない様に進んだ。


森渡り襲撃から5刻半。

一行は湿地帯を半刻進み、限界に近い疲労を蓄えていた。


枝や落ち葉が浮き水底が見えない沼への恐怖心も薄れて来た頃だった。


唐突に。

何の前兆も無くアーミンの胸に何かが突き立った。


始めマルコはアーミンが木の枝でも踏み、それが持ち上がったのかと考えた。


だがアーミンは掠れた声を上げただけで倒れ、大きな水音を立てて沼に沈んでいった。


何かがぬるりと沼に沈んで消えた。


「魍魎かっ!?」


「急げっ!先に進め!」


慌てた山渡り達が先を急ぐ。

しかし次々と水面から伸びる棒に胸を貫かれて山渡り達は倒れていく。


マルコは見た。

水面から浮き出る影を。


その影は平べったい円錐を頂いた何かであった。

その形には見覚えがある。

森渡りが被る菅笠の形には瓜二つであった。


マルコは認めたくなかった。しかし認めざるを得ない。

あれは森渡りなのだ。


森渡りは音も無く沼を泳ぎ、山渡りに迫っていたのだ。

水面は彼等が浮上して攻撃するまで揺れる事がない。


一体どの様にして泳いでいるのか。

通常人が泳げば手や足の動きで水が動く。

しかしそれが無い。まるで沼底を這っているかのように。


次々と山渡りが討たれていく。

反撃を試みるも何時、誰が、何処から襲われるのかが分からないのだ。


沼に雷撃を撃ち込みたくとも自分達まで感電するは必至。


誰かが混乱する中遮二無二炎弾を水面に放つ。


その時マルコは見た。


水の中黒い巨大な魚影が泳ぎ、その口に手を掛けて寄り添う様に泳ぐ人影を。


黒い巨大な鯉だ。敵は鯉に捕まり水面を揺らさず此方に迫っていたのだ。


マルコの頭から最早森渡りに打ち勝つという考えは微塵も存在していなかった。


魚を操り音も無く水面下から迫る集団相手に戦う術など知り得なかった。


今はただ自分が標的にされない様祈るしかなかった。


何故自分はこんな所で為す術なく狙われているのか。

マルコは泥濘を移動しながら考える。

森渡りなどマルコにとってはどうでも良かった。

山渡りの権力への復権もどうでも良い。

しかし里の方針でこの作戦の実行が決められた。

決められた以上なすべき事を為すだけ。

そう考えていた。


しかし森渡りの里を前にし己らの痩せた山間の里ではなく森渡りの里で森渡りを傅かせ、森渡りの女を好きな時に抱き、世話をさせる事を想像して興奮し、攻撃の時を今か今かと心待ちにした事は間違いない。


集団で敵を攻撃して屠っていく興奮は今や恐怖に塗り潰されていた。


どれ程進んだか、マルコは到頭湿地帯を抜けて硬い地面に脚を踏み出した。


マルコは振り返る。


自分は生き延びてやったと気が昂り振り返った。直ぐにそれを後悔した。


奴等は水面から泥や腐った落ち葉を菅笠に貼り付かせながら首だけを水面から出し一同に此方を窺っていた。


菅笠から滴り落ちる水滴が雲越しの月光に僅かに煌めいていた。


笠の奥で此方をじっと見つめる暗い憎しみに覆われた瞳を見てマルコは初めて襲撃に参加した事を後悔した。


彼等は必ず山渡りを滅ぼすと確信した。


ぬるりと音も無く1人づつ彼等は沼に沈んでいった。

次の獲物をまた沼に潜んで待つのだろう。


気付けばマルコは尿を漏らしていた。


マルコと共に南西を目指す山渡りは80程まで数を減らしていた。

半数近くが湿地帯で殺された事になる。


紅土隊を半分に割りマルコとライナーの黄土隊と藍土隊に収容すると険しい岩肌に到達した。

太い木に長い縄を結びつけ降り始める。


岩場を降ると再び鬱蒼とした森に脚を踏み入れた。

細い崖を伝って進み、沢を超え山を行く。


山渡りと名乗るのは山に里を開き隠れ住む事から名乗っている。

山を好んで進む事はない。

とは言え一般の市民よりははるかに山歩きに慣れる。

大陸中の山々を踏破しているわけではないが、夜でも山を登り下りする程度の技量は持っている。


「……奴等は追ってきているか?」


「分からん。しかし湿地での光景…。諦めたはずがない」


「……俺達は…何に襲撃を仕掛けたんだ?」


「………辞めろ。士気に関わる」


マルコの脳裏には未だに闇の中、曇り空越しの月光に照らされた人影が焼き付いていた。


沼から首を出し憎悪を瞳に浮かべた森渡り達。

沼の中波を立てず鯉に捕まり此方に忍び寄った森渡り達。


今も気付かぬ内に忍び寄っているのかもしれない。

歩きながら周囲の様子を伺う。


「隊長」


部下にマルコは呼び止められる。

指をさされた先、大木の枝に赤ら顔の巨大な猿が四つ足で逆さまにぶら下がっていた。

赤面獼猴セキメンビコウだ。


それも通常個体の3倍。体長は成人男性と同程度の5尺半、横幅は3尺。

群れ長だ。


群れ長がいるという事は群れの個体がいるという事だ。


「不味いな。煙で追い払うぞ」


猿が枝から降りて地に四肢を着く。その背には菅笠を被った中年の女が跨っていた。

美しく歳を取った女だった。


わたくしの名前はトウリュウ。森渡り十指の1人、巷では八面六臂のトウリュウと呼ばれております」


マルコは八面六臂のトウリュウと言う二つ名に聞き覚えがあった。


15年前、メルセテで起きた大規模な反乱時に民兵と共に急増の砦に立て篭り反乱軍を追い返した英雄の名である。


戦闘時に兵を指揮しつつ反乱兵を枝葉を払う様に斬り捨てたと言う。


当時は20後半程度の女で、とても美しかった事からメルセテで持て囃されたものだが、その後は忽然と姿を消し以降歴史上名が出た事はなかった。


歳の頃、歳を経て尚美しい外見は伝承と合致する。


「我が里での暴挙、其れ即ち万死に値するもの也。須く死に候へ」


頭上の木々が騒めく。

猿だ。

大きさは群れ長の半分程。

その無数の猿が枝を伝いマルコ達に向けて接近してくる。


その背には皆が菅笠の人影を背負っている。


接近する先頭の猿に向け部下の1人が剣を向ける。

猿は止まらない。

部下が剣を振ろうとすると背に掴まる人影が片手を突き出した。

緩やかな風がそよぐ。


「…っ!?な……か、からだ、が…」


部下はその場で剣を落とし膝間づく。

そのまま猿に殴られて頭部を破裂させた。


方々で同じ現象が起き瞬く間に黄土、藍土隊が葬られて行く。


「我がトウ家の異能、風行法・金縛りは如何ですか?」


一際巨大な猿に跨がる八面六臂のトウリュウが気付けば間近におり上品な声音で告げる。


群れ長の巨大な拳が開かれライナーを掴んだ。


「や、やめてくれぇ…。死にたく無い…」


弱々しく言葉にするライナーを背にマルコは無様な悲鳴を上げながら逃げ出した。


「それは難しい相談ね」


「ぐ、ぐる、しい……たす、け……おかあ、さん……」


ぐしゃりという音と共にぼたぼたと何かが溢れ落ちる音がマルコの耳に届いた。


それら全てを投げやってマルコは駆けた。

張り出した木の根に何度も脚を取られて何度も転び、森の闇を駆けた。


恐怖に糞尿を垂れ流し、顔は涙と鼻水と脂汗で濡れそぼっていた。


軈て疲労に歩く事もままならなくなったマルコは苔生した大樹の根本に力尽きて座り込んだ。


森は静かだった。


猿の甲高い鳴き声も、山渡りの悲鳴も、剣戟の音も、全て周囲を覆い尽くす苔に吸い込まれたかのようだった。


耳が痛くなる様な静けさの中、膝を抱えてマルコは恐怖に震えた。

何もかもが間違いだった。奴等は地の果てまで山渡りを追い詰め滅ぼすだろう。


襲撃前の高揚する自分を殴り付けたい。

殴り付けてでも止めたい。

奴等に触れてはならなかったのだ。


猿に囲まれた時の獣臭さ、猿の背に乗り樹々を渡る森渡り。

万が一逃げ延びる事ができたとしても、マルコは生涯この日の事を夢に見て震えるだろう。


「逃げられると思ったのですか?」


闇の中から女が現れた。

トウリュウだ。


穏やかな口調に微笑み。口元や目尻に小皺はあるもののとても美しい女性であった。


「頼む……すまなかった……助けてくれ……」


マルコは懇願する。

惨めに泣きはらし地に頭を擦り付けた。


「……貴方の剣から、わたくしの妹の匂いがするのです」


マルコは己の頭部から血の気が引く感覚を感じた。


「知らなかった!知らなかったんだ!あんたの妹だなんて!やめろ!や、ぐあああああああああああああああああああああっ!?」


森の苔に吸われたのか絶叫が遠くに伝わる感覚は無かった。

肩に槍が突き刺さりマルコの身体が持ち上げられた。そのまま大樹に固定される。


「やめてくれ…痛いんだ…下ろして、ああああああああああああああっ!?」


反対の肩が短剣に突き刺されてまたも大樹に固定される。


「人が理性的であり他者を傷付けずに生活するのは法が有るからです。そしてその法が定められている理由は無秩序下で起こる犯罪を抑止するためです。しかし法が無くとも普通の人間は他者を傷付ける事を極力躊躇う。その理由は仕返しをされる事を厭うからです。他者を傷付ければ本人に、或いはその親族に報復される。知能が有れば自明の理です。他者を傷付け、しかし自分が報復される事は厭う。貴方方は人では無い。魑魅魍魎です。……さあ、貴方が傷付けた分、私は貴方に報復します」


突き付けられた剣の刃が服を切り裂く。


「何をする気だ…止めろ、止めろおおおおっ!」


肌が傷付けられ血が滴る。

トウリュウは懐から竹筒を取り出して白い砂状の個体を流し込み振った。


「これはただの塩水です。ここに赤辛子の粉末を入れて貴方に掛けます。私が毒薬を調合するまでこれで苦しんでいてください」


頭頂から液体を掛けられる。


「やっ!?ああああああああああああああああああああああああああああああっ!?」


焼けつく痛みが全身に走る。

痛みで身体が燃えているのではないかと錯覚した。

トウリュウは直方体の背嚢を下ろし、口元を布で覆うと何かの乾燥した根を取り出して粉末に擦り潰し吹子に注ぐ。


そして呻き苦しむマルコの前に立つ。


「これは経皮毒です。粘膜接触した部分から毒成分が染み込み激しい炎症作用を引き起こします」


マルコは痛みに返事すらできなかった。

しかし深い恐怖を感じていた。


「粘膜から吸収された毒素は微細な血管から血中に取り込まれて全身を周り体内の凡ゆる組織を同様に炎症させます。その後は炎症箇所は徐々に崩壊していきます。心臓がそうなればもう命はありません。痛みますが、たっぷりと味わってください。これが妹を手に掛けた貴方への私の復讐です」


トウリュウは柔らかく微笑むと距離を取り吹子をマルコに向ける。

マルコは叫び、呻いて潰れた喉で命乞いをしようとした。死にたくなかった。


だが潰れた喉は声を発する事ができなかった。

涙に汚れた顔をトウリュウに向けた。

視線だけで命を乞うた。


そのマルコに向け微塵の躊躇もせずに吹子の中身を吹き付けた。

散布された粉末が辺りを曇らせながらマルコの身体に向かい、塩水に溶け込んで消えていく。


直ぐに斬り付けられた斬り傷が更にじくじくと痛み始める。

傷口周りが赤らみ腫れ上がっていく。


マルコは最早何も考える事ができなかった。

直ぐに訪れる苦痛と死に絶望した。


里の事も、家族の事も考える事は出来なかった。

貼り付けにされたままただ首を垂れ、その時を待った。




水銀隊のイソルダは隊長のイリアに別行動を命じられて10人の女隊員を率いて潜伏していた。


当初は優勢であった山渡りであったが山渡りであったが次々に隊長格を討ち取られ、イソルダの所属する水銀隊も1人の男相手に撤退を余儀無くされていた。


増援と共に反撃に遭い山渡りは到頭志し半ばにして森渡りの里に背を向けた。


イソルダはその様子を里の外縁部の樹上より観測していた。


イソルダは山渡りの精鋭水銀隊に於いても気配の隠匿に優れ、ルドガー・レジェノ配下にあった時分は暗殺任務を幾度と繰り返して来た。


現在引き連れる10人もイソルダと共に暗殺術を鍛えられた強者である。

その事実が功を奏した。


彼女らの気配遮断術が怒りに沸滾る森渡りの感知能力から逃れさせていた。


防衛に人を残しながらも追撃に出て行った森渡り達から、少人数で気配を殺しながら逃走したイソルダ隊は半刻を経て森渡りからの逃走を確信した。


イソルダの配下達は森で繰り広げられる追討戦を遠目から窺い怯えていた。


鬱蒼と繁る森林の中で山渡り達はなす術なく命を刈り取られていた。

まるで遊戯の様であった。


誰がより多くの山渡りを殺せるか競うかの様に森渡り達は森の中で山渡りの命を奪った。


イソルダには最早怒りも湧かなかった。

この10人の部下を連れて逃げ延びる。

できる事はそれだけだ。


この山から一体何人が逃げ果せるのか。里に帰還し報告しなければならない。


袂を分けた白雲の里に揃って移住するのか、天海山で交戦するのか。それを決めるのはイソルダではないが、先ずはこの山から脱出する。


痕跡を残さない様配慮し山を西に向けて降る。

目指すはガルクルト王国の王都ゴール。


イリアとも連絡が取れない。

先んじて撤退した精鋭が既に壊滅したとは思えない。


苔生した大岩の袂で僅かな休息を取りイソルダは夜明けを待った。


それに気付いたのは部下のサッシャであった。


彼女は非常に臆病であるが、五感以外の感覚を持っているかの如く察知に優れる。


「…あの、何か……」


短く怯える言葉にイソルダは直ぐに手振りで支度を促した。


サッシャは人を殺す度胸は無いが、類稀な察知能力でイソルダ隊に籍を置いていた。


暗殺等の隠密行動時に一早く危険を察知する能力を買われての事だった。

それは人だけでは無く、罔害に於いても同様であった。


イソルダは直ぐ様森渡りの襲撃を想定した。

9人を潜ませサッシャと共にイソルダは巨大な羊歯の根本に身を隠した。


羊歯の人の太腿程の太さもある葉柄の間から周囲を窺う。


人や魍魎が近付く気配は無い。

イソルダ達は匂いを薬で消している。歩行の際の痕跡も残していない。


飼い慣らした狼や犬でも追う事は困難な筈だ。

戦闘能力は水銀隊の本隊に劣るが、隠密能力にかけては右に出る部隊は存在しなかった。


イソルダは副隊長のナージャに手信号を送る。

待ち伏せの合図だ。


イソルダはサッシャの直感を信じていた。今まで彼女の危機察知に幾度も救われて来た。


口に短剣を咥えながらも短弓を構える。

弓がしなる音など立てない。


一向に何も現れない。

イソルダは勘付く。

敵はイソルダ達の待ち伏せに気付いたのだ。


しかし周囲に同化した味方は未だ誰も欠けていなかった。

つまり、敵も此方の居場所を発見出来ていないのだ。

イソルダは指示を出す。


罠、撤退の手信号。

罠を仕掛けつつ撤退せよと言う意味だ。

この場合の退路は北西となる。

イソルダ自身木製の虎挟みを仕掛け、苔で隠しつつ本来の進路である東側に撒菱をばら撒く。


ゆっくりと、緩やかな向かい風が柔らかく肌を撫でる中、痕跡を残さぬ様にイソルダ達は進んだ。


魍魎を避け後方の気配を探りながらガルクルト北部を目指す。

憶測で山を出る迄に3日掛かる計算だ。

3日もこの緊張を保つ事はできない。


敵がついて来ているか分からない。だが少なくとも大人数では無い事だけは分かる。

10人には満たない。7、いや、5人以下だろう。


「…?!」


北西へ進みつつ山を下っていると苔生した人工物に行き当たった。

遺跡だ。崩れた柱、蔦の蔓延る壁。その古さはイソルダ達には計り知れなかった。


その遺跡は街であった。

石造りの朽ちた建築物が続く、かつては栄えていたであろう街であった。


「…此処で迎え撃つ」


遺跡であれば背後を気にせず潜む事が出来る。

人の出入りした痕跡も見当たらない。

森渡りもこの遺跡を利用する事はないのだろう。

罠は仕掛けない。此処で網を張っている事を気取られる。


イソルダ隊は遺跡の方々に散開し物陰に潜み敵を待った。

そしてそのまま1刻が経過した。


森に埋もれた遺跡が分厚い樹々の枝葉から漏れる朝日で僅かに明るむ。

風は無い。じっと潜んでいると小さな蟲の気配まで感じ取れる様になって来た。

敵が追って来ていない可能性もあり得る。

潜伏を中止しようかイソルダは悩み始めた。


そして更に半刻。

薄暗い森の中でイソルダは潜伏を中止する為に身体を動かす。

突然肩を掴まれた。

サッシャだ。

何かと振り返る。


その時北側から何かの弾ける音が聞こえた。

弓の放たれた音だ。

どさりと大きな音。

部下の1人が倒れ伏した。


首を射抜かれていた。しかし頸椎は外しているのか未だ息はあった。


「っ!?…か、かすけ…て…」


掠れた声で彼女は助けを求めた。北からの射線を避ける様に潜伏位置を調整した同胞が踠き苦しむ彼女を見て歯を食いしばって足を止めていた。


しかし1人が北からの攻撃を防げる様に土行法・天幕を行い射線を遮り駆け出した。


「手当てするわよ!」


屈み込み傷口を確認する。

今度は西側からだった。

手当てをする隊員の顳顬に矢が突き刺さる。


間違い無い、友釣りだ。敵は狙撃手、人数は2名以上。

しかし解せない。長らく潜伏していた時間、彼らは何をしていたのか。


ナージャに指示を出す。

西、4。

西に4名を率いて進み、南の狙撃手を仕留めよ。


イソルダ自身はサッシャと1人を残し2人を率いて北へ向かう。

狙撃手を仕留めなければイソルダ達に明日は無い。


始めに倒れた山渡りの被害から位置を逆算する。

変わった矢であった。通常弓矢の矢尻は金属か鉱石、或いは魍魎の爪や牙、時には鱗で作られる。

しかし射られた矢は何方も木から丸ごと削り出された矢であった。

イソルダは考える。


矢尻は矢を射る際に頭を重くして落下する際の力を得る。

だが先に射られた矢は重心が前方にあるものの落下の力は余り期待できない筈だ。

何故その様な矢を使うのか。

矢が飛来した方向を身を隠しながらも調査する。

しかし街の遺跡中には人の痕跡が無い。


幾ら森渡りと言えど、苔生した壁を苔の損傷無く登る事は不可能だろう。

ならば結論は一つだ。敵の狙撃手は屋根の上や遺跡の二階などから射たのでは無いのだ。


遺跡の外から射たのだろう。

ならば外壁か、その外、樹上からと言うことになる。


北側の外壁まで2町もある。腕は確かだ。

手鏡で外壁を確認する。敵影は無かった。

であれば敵は遺跡の外からから射撃したという事だ。


朽ちた外壁の穴から外を手鏡で確認する。

やはり敵影は無い。

1人に合図を送る。

部下の1人が地に手を着き岩戸を行う。

素早く穴から出て周囲を確認する。

ぱつんと何かの音が聞こえた。

人気は無かった。


しかし矢が飛来し、部下の1人の胸に深々と突き刺さった。慌てて矢が飛来した東側に向く。

人はいない。

しかし何か人工物が木の幹に結えられていた。危険はなさそうだった。


慌てて倒れた部下の手当てに移る。

矢はやはり同じ木製の矢だ。

滑らかに削り出された素朴な、しかし巧妙な凹凸により射手の癖、体格、技量に合った造りである事が窺える。


部下の容態は絶望的であった。

肋骨を砕いて肺に突き立っている。助ける術は無かった。


イソルダは苦しむ部下の頬を撫でて安心させてやると素早く頸部を圧迫し絞め殺した。

最早生きながらえる事は出来ない。

苦しみを長引かせるべきでは無かった。


血濡れた手を岩戸で擦ると木に縛り付けられた人工物の確認をしに周囲に注意を払いながら近寄った。


鳥肌が立った。

木の幹に縛り付けられていたのは簡易的な弩であった。


現には紐が結び付けられており西へ伸びている。

敵は遠隔から糸を引く事でこの罠を作動させたのだ。

しかし一体どうして適切な時分に罠を作動させられたのかがまるで理解出来なかった。


部下を失ったが分かったこともある。

敵の狙撃手は1人だ。

恐らく周辺を探しても狙撃手はいないだろう。


先の北側からの狙撃も手段とその精度に違和感はあるものの、罠を作動させたと考えた方が良い。

イソルダは死んだ部下の瞼を閉じて外壁沿いを西へ急いだ。

回り込めば挟み撃ちに出来る。罠が張ってある可能性は高い。急ぎつつ注意して進んだ。


途中弩による罠1つと木の枝を使った罠を見破りつつ四半刻進むと、遺跡の角に到達した。

外壁が進行方向左、方角で南に折れている。

手鏡で曲がり角の先を確認した。


人気は目に付かない。ぱっと見罠も見当たらない。

イソルダは部下と共に角を曲がり先を目指す。

八半刻進むと僅かに人の気配を感じとる事が出来た。


複数。恐らくナージャ隊である。

北側から続いていた罠の仕掛けとなる紐の片端がここで無造作に放られている。


遺跡の西門といえる場所に辿り着くとナージャと合流する事ができた。

しかし彼女と共に行動していた人数が1人減っている。


「……思う通り、と言うわけですね」


「…そうだな。だが分かったこともある。まず間違い無く敵は1人。狙撃手であり罠を使った待ち伏せ戦に秀でているが、1人だ。罠の断面が剣で斬ったにしては綺麗すぎた。風行兵だろう」


罠自体の癖で作り手が1人である事が分かった。

同時に紐まで使い二方向から攻撃している事から確定でいいだろう。


「隊長、待ち伏せをするつもりが既に立場が逆となっています」


「だが、奴さえ倒せば我々は離脱が可能だ」


敵狙撃兵が潜伏した場所はまるで見当がつかなかった。だが、確実にいる。

1人で此処までイソルダ達を追って来た執念は後どれだけ時間が経っても薄れないだろう。


イソルダは合図を送る。

走、西。

そして指を3本立て、2本に減らす。1本、最後に全ての指を倒す。


遺跡の中のサッシャともう1人は置いていく。

彼女らを連れに戻れば部隊は全滅する確率が格段に上がる。


走り出すと同時に小さな笛を吹き鳴らした。

退却の合図だ。これを聞けばサッシャ達も逃走を開始するだろう。


走るイソルダは経を感知した。

突如目前の外壁が破砕されナージャと行動を共にしていた1人が吹き飛ぶ。


吹き飛んだ方向を見遣ると彼女の腹には大きな穴が開き、臓器が溢れ出ていた。

信じられない威力にイソルダは内心胆を冷やす。

あれは行法を纏った矢だ。


加えて奴は我々の目を欺き遺跡の中に潜んでいたのだ。

サッシャともう1人も命は無いだろう。


イソルダ達4人は素早く薄暗い森を西に向けて駆けた。

敵の罠範囲から確実に抜け出せたと判断出来るまで走り続けた。


1刻を経てイソルダ達は速度を落として散開すると、集合地点を定めて個別に移動を始めた。

これまでの痕跡は皆無とまでは行かなかったがかなり少なく、小さくする事は出来ていた。


その上散開し更に慎重に移動すれば追跡は困難だろう。

イソルダは更に1刻苔を崩さず、腐葉土に足跡を残さず、枯れ枝を踏まず、枝葉に触れ折らない様最新の注意を払い移動した。


途中幾度か木陰や虚に潜んで追跡を確認しつつ北西を目指していた。


いつしかイソルダは何者かの視線を浴びている錯覚に陥っていた。

万全の状態で臨んだ森渡り襲撃とその失敗。

森渡り達の常軌を逸した力量、技術。

イリアとの連絡不通。

焦りや不安がそう錯覚させているとイソルダは考えていた。


いや、違う。


何かがイソルダを追跡している。

気付いていない振りをした。

狙撃手だ。奴がイソルダを追跡しているのだ。

その考えはイソルダの中で確信に変わっていった。


位置は掴めないが如何に反撃するか思考を巡らせる。

何故敵はイソルダに直ぐにでも攻撃を仕掛けないのか。確実に仕留める為なのか。遮蔽物の多い森の中を移動していれば狙撃は難しい。


イソルダは背後からの狙撃を避ける為に必ず大樹を背にして進んでいる。

何時迄もだらだらと奴を引き連れて進む訳にもいかない。

此処らで決着をつける必要があった。


「何時迄逃げているのぉ?貴女1人でどこに行くのぉ?」


耳に息を吹きかけられ囁かれた。

イソルダは泡を喰って方向を転じ懐から抜いた短剣を投擲した。


短剣は誰も捉えることなく腐葉土の中に沈み込んだ。

短剣と同じ様にイソルダの目も人影を捉える事が出来なかった。

確かに耳元でねっとりした女の声が囁いたというのに。


「何処だっ!?姿を現せ!」


叫ぶ。

その声は深い森に吸い込まれて消えていった。


「何処へ逃げようと無駄よぉ。お前達の薄汚い匂いを私が嗅ぎ分けられない訳が無いわぁ」


再び微風と共に耳元に囁き声が聞こえた。

間違い無い。敵の女狙撃手は遠方から声を届けている。


彼女の言が正しければイソルダ達の欺瞞行動や潜伏など何の意味も為さないと言うことだ。確かに今は向かい風だ。イソルダ達の匂いは背後に流れているのだ。


ふと掌を見た。部下の血液がこびり付き乾いている。

或いは部下達を傷付けた罠もイソルダ達に匂いを付けるための一手だったのやもしれない。


桁違いの狩猟能力だ。魍魎を狩る技量とは到底思えない。人間を狩る為研ぎ澄まされた技量としか考えられなかった。


人の恐怖、焦燥感を煽り行動を制御する技法だ。

女狙撃手にははなから此方の心中等筒抜けも同然だったのだろう。


「………部下達はどうなった?」


奥歯を噛み締め尋ねる。この声が届くのかイソルダには分からなかった。


「安心しなさいなぁ。軈て森の魍魎共の餌となり肥やしに変わるわぁ」


その時イソルダの視界で何かが煌めいた。

あり得ないことだがイソルダには見えた。

遥か遠方四半里先、樹々やその枝葉のすきまに女の顔を捉えたのだ。


それ程の視力はイソルダには無い。

しかし何故か見えた。


美しい顔だった。上司の、イリアの好みそうな美しい顔立ちだった。


しかしその顔の中で眼だけが異様な光を帯びていた。

見えるはずの無い遠方で、空色の透き通った瞳がイソルダの意識を吸い寄せていた。


強烈な意思を感じさせる瞳は憎しみを放ちイソルダを貫いた。


矢が凄まじい勢いで飛来していた。

あの矢が先に壁を破砕した矢なのだろう。


大樹の影に隠れるだけでは心もと無い。

イソルダは飛び上がり木の枝にぶら下がる。

射角からして幹を破砕してもイソルダはそれより更に上にぶら下がっている。


あとは樹が倒れる前に離脱すれば良い。

猛烈な勢いで下方を風を纏った矢が走り抜けて行った。


突如、その矢が破裂した。

風行法・酢漿。

酢漿の種が飛び散るかの如く対象物を開裂させる行法であった。


無数の木片がイソルダの全身に刺さった。

痛みに枝から手が離れ、落下した。

立ち上がろうとするが、両脚にも小さな木端が突き刺さり、また靴底を貫通し足の裏にまで潜り込んでいた。

歩く事は出来なかった。


木の袂に座り込み衣類を裂いて処置を始める。

痛みを堪えて身体に刺さった木端を取り除く。


「かっ!?」


唐突に首に衝撃を感じた。

首元に異物を感じた。

手を当てがうと硬質の物体に手が触れる。短剣の柄であった。


「……が、き、きぎ、おの、れ……」


短剣を引き抜く。細く勢い良く血が首から吹き出し脈に合わせてその力を強め、弱めた。


イソルダは短剣を投げる。その勢いのまま仰向けに倒れた。

苔色の菅笠と外套を纏った女の中心に短剣が突き刺さる。


いや、そう見えただけだ。

女は外套を割り開き、短剣を木の枝を加工した杖で受け止めていた。


「残念ねぇ」


鈴の音の様に軽やかだが、ねっとりとした不快な声音で声を掛けられた。


意識がぼやけていた。思考も働かない。

そんなイソルダに女は顔を近付ける。


そして死にゆくイソルダの瞳を1寸の距離から見つめ続けた。

恐ろしい瞳だった。イソルダの胸中が全て吸い出される様な、そんな感覚に捉われた。


美しい空色の瞳であったが、まるで仄暗い澱んだ水底を思わせた。

その水底から憎悪の感情が這い出ようとしている。

憎悪がイソルダの意識を掴み引き摺り込む。


ただ単に恐怖であった。

イソルダは恐怖に包まれそのまま意識を失った。


「穢れたわぁ」


ヴィダードはたった今殺した女の血が付いた短剣と僅かに血糊が付着した杖を放り捨てるとふわりと森の闇の中に姿を紛れ込ませた。


後には恐怖に顔を痙攣らせた女の死体だけが残った。




夏上月上旬、森渡りを襲撃した山渡りは森渡りに被害を与えるもの反撃に遭い撤退を余儀無くされた。


彼等は1500の戦士を襲撃に充てたが、親兄弟、子の仇としてを執拗に執念深く追撃され、白山脈の一帯から離脱出来た者は100人に満たなかった。


国や民族同士の諍いなど歴史を見れば後を絶たない。

歴史書の文字にすれば数行で事足りる。


しかし当事者にとって、それはまさしく悪夢であり地獄であった。



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