終にとまらぬ浮世と思へば



「なんだ…これは…」


クウハンは血濡れた里を見て熱に浮かされた様に言葉を絞り出した。


「………あり得ん……何の間違いかと思ったが……」


シャハンも言葉を絞り出す。

2人はグレンデルの戦後処理を担い、漸く里に戻る最中であった。


伝達により里に山渡り襲撃の報を耳にして部隊と共に里へと急いだ。


報を聞いて3刻。

漸く辿り着いた里は森渡りと山渡りの双方の血肉で赤く染まっていた。


美しかった里は地に染まり大地は抉れ、今尚方々で戦闘が続けられていた。


山渡りの一隊がこちらに駆けて来る。

先頭の男の頭部をクウハンは籠手を装備した拳で殴り潰した。


「…ヨウロは!?シンカは何をしていた?!」


血溜まりから息の有る森渡りを救い出し尋ねる。


「……ヨウロさんは討死に……シンカさんも50名に1人で囲まれている所を見ました…恐らくもう…」


「なんだと!?」


シャハンが歯を剥く。


「テンロウ。10人を率いそこの苔豚供を殲滅しろ。……何故…指揮系統はどうなっている?誰が指揮を取っている?」


「…誰も…本当に突然で、人も足りず…」


「許さねぇ!バウ!来い!」


シャハンが叫ぶと地響きと共に里の外から巨大な猪が駆けて来る。


シャハンに続き隊員達が口々に従罔の名を叫んだ。

熊が、狼が、鹿が、竜が、蜈蚣が、蜘蛛が現れ其々騎乗する。


「これ以上は誰一人として死なせん!」


血族が、知人が倒れている。

シャハンは孤立して継戦する森渡りを個別に救援し始めた。


クウハンは増援到着の報告を伝達する。

方々から増援要請の返答がなされた。


優先順位を判断する事が出来なかった。

猶予は無い。


クウハンの判断が遅れれば遅れる程同胞の命が失われるのだ。

見回した先に一際激しい戦闘を繰り広げる一隊があった。


黒髪の女が灼熱した剣を振るい取り囲む山渡りを斬り伏せている。

その女、カヤテを守りやや離れた樹上からイーヴァルンの民ヴィダードが援護を行なっている。

そしてその樹に近付こうとする敵を三白眼のシメーリア人女、ユタが守っている。


凄まじい戦闘であった。

カヤテは剣舞を舞うかの様に縦横無尽に剣を振るい山渡りの武器や頭を叩き切る。


そのカヤテに矢を射かけようとする敵をヴィダードは的確に先んじて射殺していく。


遠距離攻撃を放たせないヴィダードに対し山渡りは近寄り攻めようとするが、ユタが木には近寄らせず多彩な鈴剣流剣術と黒狐の陽動により討ち取っていた。


里の広場に陣取り山渡りの流入を阻害する彼等だが、何れは体力も尽きる。

3刻もの間ああして戦っているのだとすれば、その力量も連携も森渡りを越えている。


そしてそれは現れた。


全身血に塗れ、血涙の跡が見られる男だ。

その表情は右眼は憎しみに歪められ、左眼は怒りに見開かれている。怒りに左頬が痙攣している。


シンカの白糸がユタを囲む山渡りを切断する。


千穴壁を見上げる。


「うおおおおおおおおああああああああああああああああああああああっ」


複数の森渡りが雄叫びをあげる。

重なり合う雄叫びに地の小石が振動して跳ねる。

脳を揺さぶられた山渡り達が苦しみ耳を押さえて膝をつく。


シャ家の者達が一斉に酸液を吐き出し山渡り達を惨たらしく溶かしていく。


リクゲンやリンドウ、他10名ほどが避難所への道を護り戦っている。


重傷者を治療するソウカ達をジュコウとジュガが守って戦い、青少年を率いてクウロウ、センテツ、サンカイが必死に後退している。


クウハンはきつく歯を食い縛り眦に涙を浮かばせた。


必死に生きようと足掻く同胞、家族や仲間の死に怒る同胞。


彼等の生に対する執着や、同胞の死に対する悲しみがこの里に渦巻いている様に感じられた。


森渡りは俗世への関与を厭い、ひたすら知識や武を高めて来た。


俗世への妄執に囚われ奪う事でしか解決を図ろうとしない山渡りに敗れる己らでは無い。


「全てを!取り戻せ!」


クウハンは吠える。


次いで遠い峰々まで届くかの様な雄叫びを上げた。


野太い咆哮が戦場の騒音を裂いて山々に響き渡った。


直ぐにそれは現れた。


大地を割って樽程の大きさの頭が突き出す。

2人の山渡りを丸呑みにしてそれは鎌首を擡げる。


「皆!抗え!今こそその心、震わせる時ぞ!」


クウハン隊の皆が口々に異音を発する。

森が騒めいた。




鷹が鋭く鳴いた。


広げた翼は優に6間に及ぶ。

羽根を風にはためかせ優雅に雪が残る山頂を飛んでいた。


峯間隼は尾羽を巧みに操ると猛烈な勢いで急降下を始めた。


崖すれすれを降下する隼は唐突に尾羽を膨らませ翼を広げる。


2人の山渡りと両手の短剣で鍔迫り合っていた森渡りの元に滑空し、大きく広げられた両脚が2人の男の頭を鷲掴みにする。


隼は飛翔すると掴んだ男達を宙に放った。


絶叫し落下していく山渡りの向こう、一際高い樹上に若い女が現れる。


落下する山渡りを尻目に彼女は激しく両手を擦り合わせ擦過音を出し始める。


俄かに周囲の森が騒めく。

空が曇る。飛蝗の群れだ。

飛蝗の群れが森渡りの女の擦過音に導かれ山渡りの一隊を襲った。


その様子を千穴壁上部の物見櫓で少年少女を避難させながら伺っていた中年女の森渡りが突如異音を喉から発する。


甲高いそれは森に吸い込まれていき暫しの後黒く小さな影が無数に森の中から飛来する。


耳障りな甲高い鳴き声と共にそれらは森から飛び出して千穴壁を集団で降下する。


漏斗耳蝙蝠の群れは上空から山渡りを襲う。

気を散らされた山渡り達は対峙していた森渡りに隙を突かれて次々と討ち取られて行った。


エンボクが跨った飛竜が山渡りを踏み潰す。

周囲を翼で薙ぎ払い、棘の生えた尾が振るわれ更に広い範囲を攻撃する。


シャハンの跨がる大猪が鳴き声を上げるとその子々孫々の猪達が森を掻き分けて現れ、怒涛の如く里に雪崩れ込んで山渡りの達を曳き殺した。


クウハンの大蛟、八咫錦が複数の敵を絡め取り瞬く間に締め殺していく。


千穴壁を登っていた山渡り達が家々に篭った森渡り達の反撃をくらい次々と崖から吹き飛ばされ、地に赤い花を咲かせる。


岩着膨れを纏い暴れ回るスイ家の者達、熱視線の赤光で敵に穴を開けるリン家、酸を吐き出すシャ家、皆で大気を操り敵を地に貼り付けるラン家、空間の温度を下げて瞬時に人体を氷結させるセン家。


その他一族が集結し森渡りを里から追い払う為にその技術を駆使し始める。


イルカイの命令を無視して、浮かされた高揚感に流されて森渡りの里を攻め続けていた山渡り達は、増援により生まれた余裕に態勢を整えた森渡りによって、手痛い反撃を受けて多くの命を散らして行った。


総勢1500人による侵略行為であったが、6割もの山渡りがこの段階で命を失っていた。


「………」


血濡れた大地に無数の死体が転げ、地や草は血を被り美しかった景色は跡形も無くなっていた。


点在する設備は消火されたものの未だ燻り黒煙を上げて、まだ襲撃が終わって幾らも立っていないことを表していた。


生き残った者たちは無傷の者も怪我人も、重傷者の手当てに奔走していた。


シンカは数人の処置を終えると惨憺たる光景に目を走らせ自身の胸に刻み込んだ。


シンカの足元には満身創痍のヨウキが血の泡を溢しながら這いずっていた。

両脚は失われ、片手だけで這いずっていた。

身体中穴だらけで這いずった跡に残された流血で最早長く無い事が一目瞭然であった。


ヨウキは助からない己の治療を拒み、他の危機的容態の者を治癒する様告げていた。


ヨウキはその動きを止める。


「……たのむ……あの、ひとの…ところまで……」


ヨウキが見つめた先に、シンカが捕らえナウラが助けたレミと言う山渡りの半身が横たわっていた。

当に息はない。


シンカは無言で親友の身体を抱える。

中身や足が失われた身体は軽かった。


レミの亡骸の横にヨウキを並べてやると、彼は動く左手で彼女の手を握り柔らかい微笑を浮かべた。


「……おんにきる………」


シンカは無言で側に腰を据えた。


「…おれは…おまえにしっと、していたんだ……。しんゆうと…たいとうに…ありたいと……いつも……」


「……何時だって対当だった。そうでなかった事は無い」


「…おまえは…いつもそうだ。じぶんに…しょうじきで」


ヨウキは咳き込む。

咳と共に鮮やかな血液が飛び散った。

細い呼吸が隙間風の様に音を鳴らしていた。


「ひとの…ひょうかをきにしないで……。おれは…おまえに…かちたかった……」


「俺は早くに気付けた。何があっても失いたく無い物など思いの外少ないのだと」


「…おれは、こうなるまで……きづけなかった……。こうかい…ばかりだ…おれの、せいで…このひとも…さとの、みなも……」


「俺は…悪いのがお前であるとは思わない。全て山渡りの仕業だ」


「…おためごかし、は…いらん…。おれがよけいなことを、しなければ…」


そうなのかもしれない。

しかしそうで無いかもしれない。

選ばなかった選択肢による未来など誰にも分からない。


「…おねがいだ…ずうずうしいのは、わかっている…。それでも…たのむ…。みなの、かたきを……」


ヨウキはレミと繋いでいない方の肩を動かした。

ヨウキの腕は二の腕でちぎれかけており、手には武器が布切れで縛り付けてあった。


翅だ。

2人で対峙した流蜻蜓の翅。4枚のうちの1枚。


「…無論だ」


シンカの短い返答を聞きヨウキは身体から力を抜いた。

シンカはヨウキの翅を受け取る。これは形見だ。


ヨウキの歯の根はあっていない。

血液を失い体温が下がっているのだ。


「…ずっと、おいかけていた…しんゆうだと、おもっていたんだ…」


「……俺は今でもお前を、親友だと思っている」


その言葉がシンカの本心だったのか、死にゆくヨウキへの嘘だったのか。

それはシンカ自身にも分からなかった。


ヨウキがその言葉をどう捉えたかわからなかった。

しかし彼は笑った。


「…おれもだ……。ありがとう…。ありがとう…しんか…」


ヨウキは嬉しそうに、涙を流しながら笑った。

そしてそのまま凍り付いた。

ヨウキの刻は止まった。

もう2度と動く事はない。


穏やかに微笑み、レミと手を繋いでヨウキは命を失ったのだ。


シンカの心は傷付いていた。

里の一人一人の死が心に深い傷を刻み込み、傷口が発熱していた。

火が付いていた。憎しみと言う名の炎であった。


周囲で負傷者の移動と治療が進む。


「何をしておるか!この腰抜どもが!?」


胸の治療が終わったジュコウが目を充血させ怒りを露わにした。


「生きている怪我人なぞ!儂等が皆治す!貴様らは口惜しく無いのか!?今すぐ奴等を追え!追いすがり皆殺しにせんのか!?」


複数の森渡りが拳を握りしめ、歯を食いしばる音が聴こえた。


「怪我人は此処に集められておる!我等だけで問題は無い!今すぐ行かんか!?」


目を剥いて叫ぶジュコウ。本当は彼も行きたいのだろう。


「行くぞ!皆着いて来い!」


シャハンが大鉞を振り上げて気炎を吐いた。彼が大猪に跨ると動ける殆どの者が賛同した。


皆外套と菅笠を身に纏い、如何なる精鋭軍より素早く、如何なる暗殺者よりも静かに。


シンカは彼らに続かなかった。

しかしその目から憤怒と憎悪の炎は消えず、小さく数度舌を鳴らすとその場で火が消える様に姿が掻き消えた。




森渡りの里から一際早く撤退を開始したイリアは隊員を率いてガルクルトを目指していた。


急勾配の斜面を素早く下山し1刻の事であった。

襲撃開始から既に4刻。日は傾き山中は既に光を殆ど失っており、イリア達は事前に発見しておいた休息地点に日没前に辿り着くことが出来ていた。


「…イリア様、今更ですが、イルカイ様率いる本隊は制圧に成功したのでは?」


ダニエラが尋ねる。

イルカイが森渡りの制圧に成功していればイリア隊が敵前逃亡の誹りを受ける事となる。


だがイリアには一つの確信があった。


「あの男を仕留められなかった事が痛いのです。あの男を仕留められず野放しにすれば必ず里に害をなします。あの男なら里周辺に潜伏し1日50人を殺す事が可能でしょう。イルカイが勝とうが負けようが私達は里に帰り危険性を伝える必要があります」


イリア隊の面々は顔を痙攣らせて夜営の支度を続けていた。

男に対し恐怖を抱いているのだろう。


剣、体術、行法、練経。凡ゆる技能が常人を隔絶しており、それら全てが複合的に合わさって戦士の精霊と謳われても不思議は無い力を扱っていた。


侮ってはいなかった。万全を期してあの男に臨んだ。

彼の力量の片鱗はラクサス王都にて垣間見ていた。

しかし山渡りの雷撃を風行法雷系統で防ぎながら反撃を行った手段がまるで分からない。

突如流し始めた血涙が関係するのだろうか。


口から吹き出した乳液の様な濃い霧は間違いなく行法だ。

だとすればあの男は2つの行法を同時に行使したと言うことになる。


あり得ない。その代償が血涙と言うことなのか。


イリアは考える。

長く戦う中で一度しか使われなかった技術。行使にはそれなりの危険が伴うか、条件が整わなければならないのだろう。


「イリア様!本隊からの連絡です!」


ツィポラが慌てた様子でイリアの元に駆け付ける。


「…聞きます」


イリアは立ち上がり、やって来る山渡りに視線を送った。

その男は満身創痍であった。

額から斜めに走った切り傷で片目が失われているのがまず目に付く。


全身余す事なく傷付けられつつも致命傷を避けた様子から敵の激しい憎悪を感じ取る事ができた。


イリアは急に余りにも嫌な予感に襲われた。


「イリア様………………襲撃、失敗に終わりました………。イルカイ様も死亡……同胞は散り散りに東へ向けて撤退しております……」


敗れた。

あれ程の戦力を揃え、戦前から森渡りについて調査を重ね漸く決行したこの作戦が。


「…残存の勢力数は?」


「850程かと」


「6割を切りましたか…。イルカイは鈍土を連れていましたが、どの様な敵に敗れたのですか?」


「…信じ難いのですが、血涙を流した男1人に全滅させられたと…」


イリアは直ぐ様手を叩き合図を出す。


「急ぎ撤退します!此処に残れば直ぐに襲われます!急ぎガルクルトの王都、ゴールを目指します!あの男が来ます!急いで!」


装備を纏める。纏めながら考える。

何処で失敗をしたのか。

そもそも第一次ヴィティア・ベルガナ戦線の前より計画が進められていた森渡りの略取が誤りだったのだ。


計画の初段階としてヴィティア王都スライに滞在していた森渡り数名を略取しようとして計画は実行部隊の壊滅という結果に終わった。


彼らの力量を読み違えたのが敗因であった。


耳に挟んだ報告を今になって思い出す。

対峙した森渡りは頭の可笑しい三白眼の鈴剣流剣士、ドルソ人の斧使い、イーヴァルンの民と思しき風行兵、そして素手で金剛狼をねじ伏せたというアガド人とシメーリア人の混血。


ラクサスであの男と対峙した時、その側には白眉のドルソ人斧使いとイーヴァルンの民、頭の可笑しな鈴剣流剣士がいた。


嗚呼とイリアは声を漏らした。


全てあの男が関わっていたのだ。

あの男は森渡りの中でも特別だ。


山渡りは己らよりも腕の立つ森渡りを獣狩りの延長程度に捉えていた。

狼と思い込んで仕掛けた相手はその実鬼であった。そこに更に龍が掛かったとでも考えれば表現が容易い。


イリアの指示の元、30名が支度を終える。


「皆、枯葉蟇の眼球を服用しなさい。行きます」


枝跳び枯葉蟇の眼球は一時的に夜目が効く様になる秘薬である。

そこに一時捉えていた森渡りより奪った目薬により更に暗闇での視力を上げる。


薄暗闇程度に視界が効く様になり一行は直ちに出発した。


しかし出立して直ぐに伝令を担った男が泡を拭いて悶え苦しんだ末に絶命した。


「…遅効性の毒物ですか。恐らくとは考えていましたが、我々の居場所まで案内させたのでしょう。既に捕捉されている可能性が高いです。ゾヤ、アレサ。2隊で殿を務めてください。行方不明者が出た場合は敵の攻撃として対応する様に。此処は森渡りの庭です。無事に逃れる為には1つの油断、1つの誤ちが致命的な結果に繋がります。各自注意を払って下さい」


「は!皆!アレサ隊と相互に連携!周辺への索敵を怠るな!僅かでも違和感を感じれば即報告!各自判断で攻撃を許可!」


「了解!ゾヤ隊に隣接!適度に距離を保ち周囲を警戒!経の感知を怠るな!緊急時は攻撃を以って合図となせ!」


ゾヤ、アレサ隊が散開しつつ撤退を開始する。

イリアは隊列の中央部に位置取り、撤退しつつ全体の様子を窺う。


そんなイリアに隊の南方を偵察させていたツィポラが近寄る。


「イリア様!南方を移動しつつ目視及び経の感知を行いましたがっ……」


突如、ツィポラの頭部が弾け飛んだ。

彼女の脳漿や血液がイリアに降り掛かり不気味に染め上げた。


「……っ……」


唐突に失われた大切な部下、大切な妹分にイリアは言葉を失う。


「ツ、ツィポラっ!?」


ダニエラが崩れ落ちるツィポラの肉体を抱きとめる。


「…………、付近に潜伏しています!水行法です!何故感知ができないのですか!?」


ダニエラの頭部が吹き飛んだ様子から敵の攻撃位置を把握する。


誰もいない。


薬剤で強化されたイリアの視界に映るものは無い。

鬱蒼とした針葉樹林が続くだけだ。


射角から想定した位置は巨大な幹と幹の合間であり身を隠す場など存在しない。

あの男が常軌を逸した手練れであっても流石に動きを見落とす事は無い。


「……っ……」


また1人隊員が頭を失い倒れた。


「皆さん!円陣を組み全方位を警戒して下さい!あの男が居ます!」


矢張り攻撃位置に姿が見えない。

都度攻撃位置も変更されている。

しかし移動の気配も姿も見受けることができない。


「皆さん、警戒しつつ陣形を保ち西進して下さい!次より攻撃を受けた場合その方向に無条件で攻撃を仕掛けて下さい!」


微速での移動が始まる。

その音は北側の樹上から聞こえた。

何かが弾ける様な大きな音であった。


音源に視線を向ける前にタチアナ隊周辺で地面が爆発して土砂や苔が巻き上がり周囲に降り注いだ。

灰色の矢が抉れた地面の中心に突き刺さっていた。


3人の山渡りが胴に大きな孔を穿たれて倒れ伏した。

1人目に至っては負傷範囲が大きすぎて上下半身が泣き別れていた。


恐るべき事だ。矢の一撃で複数人にを葬る事も、その被害も。

イリアの配下達は音の発生源に行法を行うが巨大な杉の幹を削るだけであった。


「…………全速撤退!」


27人が一斉に走り出す。

イリアは周囲を走りながら窺う。

いくら常軌を逸した手練れとは言え深い森の中で気配無く走る事は不可能。


だがイリアが如何に気配を探ろうと立ち止まっていた時と変わらず草木の揺れも葉が擦れの音も聞こえる事は無い。


しかし確信はある。

間違いなくあの男が自分達を追跡していると。


先頭を走っていた者の首が三度笠ごと舞った。

如何なる移動手段を使ったのか、敵は前方にいる。


しかしイリアは停止の指示を出す事は無い。

敵の狙いは足止めと判断した。

此方を逃さずその場で痛ぶるつもりなのだ。


「止まらないで下さい!止まれば敵の思う壺です!」


「しかしイリア様!?」


タチアナが走りながら口を挟む。


「進む以外に逃れる術はありません!」


イリアは周囲を鼓舞しながら駆けた。

1人づつ仲間を失いながらも山渡り達は道なき山路を進んでいった。


深い森を西のガルクルトへ向けて走る。

このままでは全滅する。


どの様な手段かは分からないが敵は姿を消している。

同時に移動の気配も無く、経も感知させない。

手段について悩んでも最早仕方がない。


ならばどう対処するかだ。

イリアは此処まで仲間の犠牲を見つつその法則性を探っていた。


敵がイリア達を嬲ろうとしている事は最早明確。

イリアは最後の標的となるだろう。


そして部下が20人を切ったところで漸く考えに至る。

距離感だ。

物理的な距離ではない。

イリアとの心の距離が遠い者から殺害されているのだ。


始めのツィポラだけが例外だが、恐らくそれはイリアの心に衝撃を与える為に態と先に狙ったのだろう。


イリアの心に大切な者を失いたくないと、恐怖心を抱かせその後に奪い去る。

その様な意図を感じる事が出来た。


一体どの様にして心の距離を推し量っているのかは分からないが、確かにそれは正しかった。

しかし次に誰が狙われるのか概ねの予測を立てる事ができる。


イリアは親密度愛の関係でハイディと言う隊員が狙われると予測を立てた。

ハイディはエカテリーナ隊に所属し、イリアの前方を走っている。


みすみす殺させたくは無いがこのままではどの道全滅する。

更なる復讐を誓いイリアはハイディが狙われる時と場所を算段する。


正面の大木を避けて右を通り抜けた瞬間と想定する。

正面からだろう。

高さは予測出来ない。


イリアは位置を調整して前方の視野を確保する。

その瞬間は確と確認できた。虚空から突如水弾が現れた。


僅かな気配を捉える事ができた。同時に違和感を覚える。

僅かに空間が歪んでいる様に感じられた。

歪みが移動する。


「捉えました」


ハイディが顔面に風穴を穿たれて倒れ伏した。

しかしイリアは違和感を捉えて離さなかった。


その時、一行は森の中の巨大な倒木に辿り着く。

倒れたばかりの倒木の上に曇天が見受けられた。

その曇天がゆっくりと避けて半月を覗かせた。

月光が差し掛かり僅かに森に降り注ぐ。

筋となって差し込んだ月光に照らされて虚空が光った。


それは目だった。


目が宙に浮いていた。

其処には手も足も胴も頭も無く。


イリアは経を練り固唾を飲んでそれを伺っていた。

僅かな月光に照らされて眼球が炯々と輝いた。

そして徐々に鼻が現れ額が現れ、口が現れ頭髪が現れる。


男を透明な何かが覆っていた。

ぬるりと腕が突き出され、男は身を乗り出す。

何かをこじ開け、しゃがんだ全身が現れた。


途端にイリアが違和感を覚えていた空間の歪みに色が着く。


「……龍?……いえ、蜥蜴?」


金色の大きな目が見開かれる。

縦長の瞳孔が恐怖心を煽った。


周囲に擬態する蜥蜴の口腔内に男は潜んでいたのだ。


「行え!」


深い森の中にイリアの高い声が響き渡った。

山渡り達から行法が一斉に行われた。


対し男は無手の両手をおおきくひろげ、右開きの半身となって胸を反らせる鈴剣流・飛鳥の構えを取った。


行法が届く直前大地が隆起する。

土行法・岩地蔵

巨漢の男を象った岩が攻撃を防ぐ。


岩に遮られ男が隠れる。

ご丁寧に巨漢の像の表情は憤怒を表している。


直後強い経を感知した。

岩地蔵の向こうに影が現れる。


大きな影だ。

それは岩地蔵を飲み込みこちらに押し寄せる。

水行法・大潮だ。


「水に触れてはいけません!木に飛び移って!」


イリアの部下、水銀隊の生き残りは素早く周辺の樹々に飛び移る。

イリアは男の様子を窺う。


男は岩地蔵の頭に飛び乗り両手を突き出していた。

風行法・一角の白雷が広がる大潮に突き刺さる。

逃げ遅れて足が水についていた1人が絶叫を上げて倒れると大潮に押し流される。


「千の年を幾度も繰り返し、帰るべき場としてあり続けた我が郷を」


小さく男が呟く。

岩地蔵の上で男が手を握った。

大潮が鋭く凍り、樹上にまで伸びる。


「上部へ退避!」


水行法・氷塔原は巨木に突き刺され薙ぎ倒した。


「弾幕を張るのです!敵の行法は強力!行わせてはなりません!」


思い思いの行法が行われる。男はふっと岩地蔵から飛び降りて姿を隠してしまう。


「散開!広く回り込み包囲して下さい!」


タチアナ、エカテリーナ隊が右から、アレサ、ゾヤ隊が左から回り込む。

ダニエラ隊がイリアを守るりつつ行法を放ち牽制する。


昼の焼き回しだ。

人数は減ったが交互に白雷を行い男を仕留める。

だがイリアは像の背後から湧き起こる霧を見とめる。


「第一派中止!皆さん!伏せて下さい!」


霧を斬り裂きアレサ隊、ゾヤ隊に向けて水条が走る。

屈み遅れた2人の首が宙を舞った。


「霧に向けて十字砲火!」


立ち込める乳の如く濃い霧に礫や炎弾、鎌鼬が吸い込まれていく。

しかし手応えはない。


依然として射し続ける月光に霧が煌めく。

刹那の後無数の何かが霧から飛び散った。


「かっ!?っ!?」


「ああああああああああああああああっ!?」


5人が顔や喉を押さえて地に伏してもんどり打った。

それ以外の者も煌めく針が無数に突き刺さっていた。

水行法・針時雨

霧の水分を針状に氷結させて周囲に放ったのだ。


のた打つ同胞を治療する事は出来ない。

一瞬の油断が即、死につながる。


霧で肌がべたつく。

虫の声ひとつ聞こえない、暗く静かな夜だ。


動ける者は11人。

敵は1人。

しかし相手は強大。


「仲間の仇!」


緊張に耐え切れなくなったゾヤ隊のロミーが霧の中に斬り入った。


岩地蔵の左から霧の中に突入したロミーは右側からばらばらに分解されて転がり出て来た。


隊員達の半ばが恐怖で怖気付きじりじりと後退していた。

突如右方に向けて経が発される。

足元だ。


「タチアナ!エカテリーナ!」


イリアは2人の名を呼ぶ。


「後退!」


「土行法くるぞ!」


慌てて退く5人。

その瞬間がイリアにはゆっくりと映った。

大地が平たく隆起した。


広い範囲だ。隆起した大地は瞬時に硬質化し土から岩へと変じる。

其処に凹凸が刻まれる。

それは巨大な岩の掌だった。


「許しません!」


イリアは指示をやめて駆ける。

短槍を持ちつつ両手を突き出す。

風行法・突風が霧を吹き飛ばす。

男は屈み地に手を着いていた。


「それを止めろおおおおお!」


槍を顔に向けて突き出した。

男は首を曲げて躱す。

躱される事など想定済みだ。

素早く連撃を放った。


春槍流・五駿を男はぬるりと身体を地に伏せて躱す。

気色の悪い動きだった。


掌が閉じ合わさる。

特に腕の立つタチアナとエカテリーナ、それにシーナが範囲から逃れるが、閉じ合わされた巨大な手にバルバラとエイリンが挟まれた。


岩同士が激しく打つかる轟音と肉のつぶれる音が周囲に響いた。

土行法・柏手であった。


手の皺まで再現された岩が佇立する。

その岩肌に人面が幾つも浮き出て怨念を宿した表情を浮かべた。


「援護を!」


最早隊長格5人と隊員2人だ。

イリアは槍で挑む。

地を這う男に穂先を薙ぐ。

山猫の様に這ったまま後退し躱される。ダニエラとマンディがイリアの背後から礫時雨を行う。


やや広範囲に及ぶ攻撃を男は不気味な動きで隙間を縫う様に動いて躱し、イリアに躍り掛かる。


しかし足の平の動きだけで方向を転じタチアナに向けて駆けた。


「私の相手をしなさい!」


イリアは叫ぶが男は止まらない。

跳ね飛ぶと空中で回転し踵を振り下ろす。タチアナは槍の柄で受けるが枯れ枝でも折るかのように蹴り折られた。


直ぐに傍からエカテリーナが剣を突き込む。

男は背を逸らして避けると逆立ちするかの様に地に右手を着き脚を跳ね上げた。


男の爪先がエカテリーナの拳にぶつかり剣がすっぽ抜けた。


「この!」


直ぐ様エカテリーナは予備の剣に手を伸ばす。

不安定な体勢の男に折れた槍でタチアナが斬り付ける。


男は倒立状態から立ち上がり回避する。

更にイリアが駆け付け男に五駿を放った。

男は素手の左手でイリアの奥義を裁き、右手でタチアナの二撃目を捌く。


背後に回り込んだダニエラが背中から剣を突く。

男は肩の高さまで飛び上がりそれを避けると宙で大きく開脚した。


左右への同時の蹴りがイリアとタチアナの胸に突き刺さり2人を吹き飛ばす。


更に前後からエカテリーナとダニエラが斬りかかる。


男は宙。仕留められるかに思えた。

男は素早く菅笠を外すと背後に回す。

ダニエラの剣が菅笠に傷を付けながらも逸らされ、エカテリーナの剣は男の爪が腹に添えられて逸らされた。


2人の二撃目を屈んで避けると男はエカテリーナに足払いを掛けて転ばせる。


しかし背後からダニエラが頭部目掛けて竹割に剣を振り下ろした。男は屈んだまま素早く後退しダニエラの間合い内に滑り込むと振り下ろされる腕を振り向かずに掴み、身体ごと投げ飛ばした。


転げた4人に代わりシーナ、マンディ、アレサ、ゾヤが四方から駆け寄る。始めに辿り着いたアレサの袈裟斬りをすれすれで躱すと男は拳を突き出す。拳を剣の柄で受けたアレサであったがそれは爆音と共に吹き飛ばされた。


男が僅かに残心を取る。

ゾヤが残心を取った男に斬りかかると男は飛び込む様に地に身を投げた。


すかさずシーナが斬りかかる。

脚に負傷を負わせる事ができる。


皆がそう考えた。


しかし男は右手を地に着くとシーナの剣を両足の平で挟み動きを止めたのだった。


腕の力で剣を挟んだまま飛び上がり、シーナから剣を奪う。

器用に脚を動かし男は剣を足で飛ばした。


回転した剣が男に向かっていたマンディの胸に深々と刺さった。


「がっ……、イリア、さま……かたき、を……」


胸に刺さった剣を握りマンディが崩れ落ちた。

男は樹の枝に捕まると腕の力で身体を振って掴んでいた枝に飛び上がる。


そして即座に頬を膨らませ、水条を吐き出した。

水条はシーナの股から頭頂部まで一気に走り抜けて薪か何かの様にシーナを真っ二つに分けた。


分かってはいた。

男は余りにも強かった。


だが、これまで倒れて来た同胞、部下に報いる為にも殺さなければならない。

イリアは男を確実に仕留める時を待つ。

技は落雷。技の起こりが速い刺突の落雷を放つと決める。

狙うは胸部。

男は視覚からの攻撃をどの様な手段か感知している。


視野内にて戦う。

イリアは考察する。


男は枝の上で菅笠を被りなおすと飛び降りる。

纏っている外套をはためかせながら笠の鐔を抑えている。


ダニエラが着地を狙い土槍を起こした。男は伸びる土槍を両足の裏で挟んで着地し猛烈な勢いでダニエラに突進した。


直ぐにイリアはダニエラを守りに入る。

男が腰を落とし拳を握る。

先程あれを剣で受けたアレサは未だに腕を抑えている。

折れているのかもしれない。


受けることを避けて飛び退る。左右から斬りかかるタチアナとゾヤの攻撃を両手で受け流すとその場で飛び上がり身体を回転させて蹴りを放った。


ゾヤは腕を差し込んで防ぐが飛ばされて転がった。

着地直前にタチアナの袖を掴むと背を丸めて彼女を投げ飛ばし近寄るアレサにぶつけた。


イリアは戦略を立てる。

この男に攻撃を当てるのであれば認知できない攻撃を放つしか無い。

この男とて人間だ。


顔を血涙で汚し気色の悪い動きでぬるぬるとこちらの攻撃を躱し、2つの行法を同時に行おうと人間であることに変わりは無い。


腕を痛めたアレサが両手を突き出す。風行法・星痕

3つの風刃が重なり星状を象ると男に走る。


男は左に避けると腰の剣を抜いた。

ヴラダを殺した紋様入りの不可思議な剣だ。


「その剣は武器を切断します!絶対に受けてはなりません!」


この男が憎い。

多くの同胞を屠ったこの男が生きていると思うと憎しみに臓器が焼かれているかの様な感覚を覚え、それは何度寝て起きても治らない。


アレサに向かおうとする男をエカテリーナが牽制する。


「穏やかな路を辿り静かの中に生きた我等を、清の日々を営み柔らかな夢に包まれて来た我等を、踏みにじり、嘆きの雨を振らせた事。即ち其れ汝等の滅亡に値する物也」


「やめっ!?」


エカテリーナの逆袈裟斬りを潜り込んで躱し懐に入った男が彼女の首を掴んだ。

斬りかかろうとするダニエラに男はアレサを振り回して牽制する。


「死ね!魍魎!仲間の仇!」


首を掴まれたエカテリーナが武器を振るう。

だが刃が男に到達する前にエカテリーナの手首は切断されて武器と共に明後日の方向に飛び、羊歯の茂みに落ちた。


「っぐ、ああああああっ!?」


悲鳴を上げるエカテリーナを助けようと左右からダニエラとタチアナが駆ける。

男の口腔が膨らんだ。


「タチアナ!避けてください!」


タチアナの方向を向いた男が口から鋭く水を吐き出す。

水行法・水蜘蛛針がタチアナの関節を次々に撃ち抜く。

手首、肘、肩。

タチアナの手、腕が飛び散った。


ダニエラが奥義の挙動を取る。

王剣流奥義・鎧斬り

袈裟懸けに強力な斬撃が振るわれる。


男は案の定軌道を見切って半身となって躱すと流れる様に左腕を突き出す。

その腕はダニエラの装備を貫き腹を突き破った。


直ぐに振り返り左腕を振るう。

血糊が飛び散ると共に赤い刃となってアレサへ迫る。

アレサは地に飛び込み回避する。

イリアは負傷した3人を守る為に男に迫る。


「…汝等を許さぬ」


牽制に五駿を放ったイリアに対し男は4撃目までを素手で捌き、最後の突きを奇妙な模様の剣で逸らしつつ穂先を切断した。


「…っ」


男の口腔が膨らむ。

男は横を向き腕を失って呆然とするタチアナへ水を吹き出した。

足首、膝に着弾しタチアナは手足を失って地に伏した。


「よくも!」


ゾヤが怒りに叫びながら剣を振るった。男はエカテリーナの首根っこを捕まえ彼女の頭でゾヤの斬撃を受けた。


「ぎっ!?」


「な、あ!?そんな!」


「ゾヤ!引いてください!」


イリアは叫びながら短剣を抜き男に迫った。

アレサが崩れ落ちる。

男が腕を伸ばす。

イリアが男に迫る。


猛烈な勢いだ。蹴った土が背後に舞い上がり体勢は低く逆手に持った両の短剣を顔の前で構える。

正拳突きの要領で右の拳を突き出した。


首筋を狙った一撃を男は身体を横に傾けて躱す。

イリアは空ぶった右腕を右へ振るう。ゾヤへ伸ばされた手が引かれた。


イリアは勢いを利用し回転しながら男へ向けて跳ぶ。

左短剣による斬撃、更に回転し右短剣による斬撃、更に左短剣。

3連撃を放った。男は後ろずさりながら全てを躱す。


そして着地したイリアの左脚に足払いを掛けた。

イリアは左脚を取られたが直ぐに右脚で着地し地面に身を投げ出して距離を取る。

賺さずアレサが行法を行う。

風行法・鼠車にて負傷を狙うが男は広範囲に起こる小さな風の刃を避けてアレサに迫った。


「このっ!」


エカテリーナが短剣を振るう。右手の一振りを手首に掌底を当てて防ぎ膝に鋭い回し蹴りを放った。


「ああああああああああっ!?」


耳を塞ぎたくなる生々しい破砕音と共にアレサが絶叫を上げて地に転がる。

膝を蹴り折られたのだ。アレサは叫びながらも右手の短剣を男の脚に向けて振るう。


だが男は狙われた軸足で飛び上がって変わると宙で蜻蜓を切り、そのまま踵落としをアレサの頭部に打ち付けた。


アレサの顔面が陥没した。


イリアは再度突撃する。

悲しみは今は消し去る。

だが男は近寄ろうとするイリアの眼前で両手を組み合わせた。


背を逸らし口腔を膨らませると大量の水を吐き出し、イリアを押し流す。イリアは感電する事を恐れて慌てて離脱する。


イリアが立ち上がり再び身体を向けたその時には男はゾヤの目前まで迫っていた。


親しい者を自らの腕で殺してしまったゾヤは未だ呆然としていた。


「ゾヤっ!?」


叫ぶが間に合わない。


「終に止まらぬ浮世と言えど、誰そに侵す権利なぞなし」


ゾヤは剣を振り男を排そうとしたがぬるりと背後に回り込まれてしまう。

そしてイリアの目の前でゾヤの下腹部から剣が突き出た。


「かっ!?い、ぎ、ぎ…いりあ…さま……」


「辞めなさい!」


剣がゆっくりと下腹部から引き上げられていく。


「我等の怒り、推して知るべし。この怒りで天海山を焼き尽くそうぞ」


ゾヤは尿を漏らし脱糞をし泡を吹いた。そして到頭心臓に到達した剣により白目を向いて息絶えた。

あまりにも無惨な死に様であった。


ゾヤの死体を投げ捨てると男はイリアに迫る。

迎え打とうとするが右の短剣の刃を切断され、左の短剣を拳を押さえられ、鳩尾に激しい膝蹴りを喰らって吹き飛ばされ森の下草の上を転がった。


直前に腹筋に力を込めたが衝撃は内臓を揺さぶりイリアはその場で嘔吐した。


「……やめ、なさい……」


えづき、苦しみに涙を流しながら懇願する。

男はイリアを見る事なく地にうつ伏せに沈むタチアナに近付いた。


「…汝がこの者を大切にする気持ちと、我等が家族を大切にする気持ち。何が異なる?先に手を出したのは汝等だ。最早止まらぬ。我等は止まらぬ!火をつけたのは汝等だ!」


男はタチアナの髪を掴み宙に吊るし上げた。


「………やめて……」


「本当は生きたまま皮を剥いでやりたいが、血に魍魎が寄ってくる。良く、見ていろ。汝の選択が大切な者の死に繋がるのだ」


男はタチアナの頭を地に叩き付けた。


「スライの北方で汝等は俺達を襲った。下手人は殺したが、それでも山渡りに報復はしないでやった。妻が死線を彷徨ったが、死ぬ事はなかったからな」


「………」


男は再度タチアナを地に叩き付ける。

歯が折れ鼻は潰れている。


「汝等は性懲りも無くガジュマで我等を虜とした。幾らかの犠牲を出し、我等は同胞を奪還した。我等は汝等と敵対する事を決めた。しかし報復はしなかった。それはこれまでで事が収まるならば、更なる犠牲を出してまで報復する事を厭うたからだ」


男がタチアナを叩き付ける。

みしりという何かが軋む音が聞こえる。


「…汝は我等が汝等を許すと思うか?」


「…………いいえ」


「ならば!責を担え!」


タチアナが叩き付けられ、頭部が熟れて地に落ちた赤茄子の様に潰れた。


イリアは涙を流す。

この男を赦せなかった。

ガジュマの王城で同胞を討たれ、必ず報復すると自身に誓った。

人を呪わば墓穴二つ。

山渡りの復権への妄執。火を点けようとした森渡りの里から向かい風が吹き、山渡りの身を焼いていた。


男は血濡れた手から血を滴らせつつ腹に穴を開けられ悶え苦しむダニエラに迫っていた。


「…ああ、お願いです……」


イリアの心中は最早何も形をなさない程にぐちゃぐちゃであった。

鍋料理を煮詰めて箆で掻き回したかの様に。

内臓の苦しみに立ち上がる事が出来ない。


「後悔するくらいなら、初めからやらねばよかったのだ。お前は里に帰れ。里の頭目、確かラングと言ったか?伝えておけ。皆殺しにしてやる。逃げても無駄だ。我等から逃れる事はできない。我等から隠れる事はできない。我等はこの恨み、この憎しみ。必ず、晴らす」


男はダニエラの肩を踏みつけると両手で頭を掴んだ。

そして力を込める。


イリアの頬を涙が伝う。


里には父母が、妹がいる。

守らなくてはならない。

部下を1人も守れなかった自分が何を守れるのか。疑問が浮かぶ。


しかしそうしなければならないのだ。


男はダニエラの頭を胴から引きちぎった。


深い憎しみを感じた。それは己らが育てた憎しみの炎だった。

過去に戻れるなら戻りたいとイリアは思う。

その時は2度と森渡りに手は出さない。


そんなイリアの目の前で男は掻き消えた。


不自然に落ち葉が舞う。


月が再び雲に隠れようとしていた。

森の闇の中でイリアは慟哭した。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る