嚇怒
ナウラは矢が放たれようとする直前にそれに気付いた。
だが応じる余裕は無かった。
正確に首に狙いは定められていた。
「……シンカ…」
譫言の様に、喘ぐ様に愛しい夫の名を読んだ。
直後その男の腕に黒い獣が飛び掛かり噛み付いた。
「何諦めてるのナウラ?僕ナウラが死んじゃうなんてやだよ?」
山渡りの1人の首を撥ねてユタが言う。
黒狐に腕を噛まれて矢は明後日の方向に飛んでいった。
直ぐに離れてアギは別の者に飛び掛かり喉笛を食い破る。
ユタは三白眼で周囲を睨みながら左脚前で腰を落とし、左手を突き出す雉構えを取った。
外套に包まれて剣は見えない。
「お前達は今直ぐに死んだほうがいいんだ!お前達みたいな奴らが!人の幸せ奪って踏みにじって!何も悪く無い人を不幸にして!いつだって争いの種を撒くんだ!お前達は!お前達が!」
ユタは自身の生い立ちを思い出しているのか、山渡りを罵倒し近くの男を空丸で斬り伏せる。
「あんなに綺麗だったこの里を血で汚して!僕は絶対に許さない!」
ユタと斬り結ぼうとした男は予想外の剣圧に押し切られて頭部を断ち割られる。
ナウラはそんなユタの背後に迫る男の足元から岩の槍を生やして串刺しにする。
自身に近寄る山渡りを斧で吹き飛ばし更に近寄る山渡りに蹴りを放つ。
胸を蹴られた男は肋骨を破砕され肺と心臓を肋と共に潰されながら吹き飛ぶ。
「…ユタ、シンカは…」
「わかんない。でもシンカは自分よりナウラの事助けて欲しいと思ったから」
「………」
ユタは憎しみに顔を歪めながら涙を流している。
自分はどの様な表情なのか。ナウラはふと考えた。
悲しい。悔しい。そして憎い。
一体森渡りが山渡りに何をしたと言うのか。
始めに笠山で自分達が山渡りを撃退した事が悪かったのか。
分からない。分かりたくもない。
自ら進んで人を傷付ける人間の気持ちなど分かりたくもない。
ナウラは大きく背を逸らす。口腔から吹き出された焔は始めから赤でも青でも無く、白炎が近寄っていた山渡りを舐めた。
山渡りの蓑が激しく燃え上がり、地面をのたうちまわる。
ユタは次々に敵に肉薄し多彩な剣技で山渡りを斬り伏せていった。
ナウラは斧で吹き飛ばし、炎で焼く。
アギは2人を援護する様に的確に山渡りの喉笛に食らい付いた。
どれ程時間が経ったか、軈て周囲の山渡りに立っている者が居なくなる。
「…どうする?」
「……助けられる人がいないか探します。ユタは?」
「ヴィーかカヤテを探す。心配だから」
言うとユタはさっと駆け去っていった。
戦闘の音、人の悲鳴、雄叫びは未だ至る所から聞こえて来る。
その中に子供達の声を聞き付けてナウラは駆けた。
リンドウは腕の治療を終えると母を残して幼い子供達を追った。
子供達の中には幼い妹のリンビンも居る。
何がなんでも駆け付けて助けなくてはならない。
子供達の痕跡を追い駆け付けた先でリンドウは茫然とした。
崖の手前で追っ手に追い付かれたのだろう。
戦闘の痕跡があった。
山渡りが2人倒れていた。
幼い子供達が倒れていた。
生死は分からない。
だが中で年長のセンバの胸に槍が刺さっていた。
「……こんな事が……こんな、小さな子供を……?!…お前達は、本当に人間なの?!」
山渡り達が振り向く。
更に悪い事に別の隊が近付いている気配を感じた。
「ふん。小僧共が抵抗するからだ」
1人が忌々しいと言った様子で吐き捨てた。
「大人しくしていれば殺す事も無かった」
別の男が口にする。
リンドウはあまり里を出ない。大陸を巡った事などない。
知識として戦争や賊の略奪で幼い子供まで殺されるという事実は持っていた。
しかし自分達の里で起こるなど想像した事も無かった。
「上玉だぞ!捕まえて楽しもうぜ!」
粘つく視線がリンドウに纏わり付く。
怒りで、憎しみで何も考えられなかった。
怒りによるものか手足が震えた。制御出来なかった。
「……赦せない……外道共ぉぉぉ!」
背後から山渡りの一隊が現れる。
「何をしている?」
背後から現れた一隊の中から男が声を上げる。
「イルカイ様!これからこの女を生捕りにしようとしていた所です!」
「はっ。味見でも企んでいたのだろう?…ふむ。美しいな。目溢ししてやる。その代わりまず俺が抱く。殺すなよ」
武器を構えた山渡り達がじりじりと包囲を縮め始めた。
リンドウに恐怖は無かった。怒りに全てが塗り潰されていた。
多くの山渡りを殺す事が出来るだろう。
だが、全ては無理だ。何は捕まるか、殺されるだろう。
外道共にくれてやるものなど何一つとしてない。
しかし、逃れ得ない事は明らかだった。
第一陣が駆けた。
リンドウの髪が揺れる。
目が赤く光り光線が迸る。
リンドウが首を振ると3人の胴体が上下に泣き別れた。
「押し潰せ!」
即座に背後から山渡りが駆け寄る。
指の間に挟んだ小さな刃を3本投げ付ける。
全てが敵の急所に突き刺さる。
「必ず!」
更に3本。そして熱視線。
瞬時に15人を仕留めた。
だが其れ迄。
左腕を1人に掴まれる。
振り払い抜いた短剣で喉を掻っ切る。大量の返り血を浴びた。
今度は右手を掴まれる。
僅かに遅れて背後から頭髪を掴まれ膝を背後から蹴り折られ、膝間付いた。
「仲間の礼はたっぷりしてもらうぜ!」
犯せばいい。そんな事で己は最早止まらない。
自害などしない。生き残り、1人でも多く敵を殺す。
リンドウは目を血走らせながら山渡り達の顔を1人1人記憶する。
「あ?」
鳶が鳴くかの様な甲高い音が耳に届き、暖かい液体が首に掛かった。
「ああああああああああああああああああああああっ!?」
頭髪を掴んで嗜虐的な笑みを浮かべていた男が地面で腕を押さえてのたうちまわった。
腕の先が無かった。
「リンドウ。無事ですか?」
白髪に褐色肌の女が近寄って来る所だった。
「お義姉さん!?」
拘束が僅かにゆるんだ隙に転がる剣を拾い上げ、自分を抑える男の腕を切断し即座に立ち上がり首筋を斬り払った。
驚愕の表情で男は傷口を抑え、呻き声を上げながら崩れ落ちた。
「…そんなっ!?……こんなに幼い子供まで…?!」
ナウラは倒れる子供達を見とめて声を上げた。
「此奴等は人外よ」
戦争で昂った精神下であれば人間はどの様な残虐な行為でも行い得る。
そんな事は知識としては知っていた。
リンドウはナウラと背合わせになり山渡り達を睨み付ける。
「上玉が増えたぞ!2人捕らえろ!」
2人に増えたとて劣勢に変わりは無い。
それでも最後まで争うとリンドウは誓った。
理不尽に争う。
己は人間だ。
辛い事、苦しい事、悲しい事。不条理、絶望、理不尽。
それ等に争い戦う。其れこそが人間として他の生物に勝る能力だ。
逃げずに立ち向かうのだ。
結果は最早どうでも良い。
その後の自分がどうなろうと山渡りに深く致命的な傷を付ける。
リンドウは誓った。
波状に行われる雷系統の行法にシンカは抗っていた。
自身のすれすれに雷の膜を作り出し複数人の雷を受け止め続けていた。
それは絶技であった。
必要最低限の経で行法を行い続け稲妻を防ぎ、矢や礫、風の刃を体術で交わしていく。
長い時間だ。
「此奴!底無しなの!?」
「落ち着いて。必ず経は途切れます。私達は其れを待てば良いのです」
イリアは周囲の部下を諭し指示を出し続ける。
驚異的な精神力だ。
大量の脂汗が見て取れる。
この男を逃す事はあってはならない。
彼をここで逃せば山渡りにとって多大な犠牲が生じる事になるだろう。
仲間が死んで行く。
シンカの心中は憎しみに深く澱んでいた。
経を無理に練り長い間行使していた。背骨に強烈な痛みが走っている。
全身が無理に動き血管が切れた様な痛みを発していた。
激しい頭痛に目眩、視界も曇っていた。
経を練る事が出来なくなれば即座に雷撃を浴びて死ぬ事となるだろう。
時間の問題であった。
それで良いのか?
自問自答する。
常識的にシンカが此処から逃れる術は無い。
仲間が死んで行く。1人、1人と倒れていく。
この山渡り達はシンカを殺す為だけに訓練を積んでいる事が窺えた。
ラクサスで邂逅した折の戦闘情報を基に戦術を組み立てたのだろう。
抜け出す手立てが無かった。
だが。むざむざと此処で倒れる事を許容出来なかった。
必ず復讐する。
必ず滅ぼす。
それを為さずに倒れる事は許されない。
血溜まりに倒れる同胞に想いを馳せる。
旅の土産に菓子をくれた男を、川辺で幼いシンカを気遣った女を。共に木剣を振るった若者を。
彼等の無残な遺体を思い浮かべる。
ナウラの仕草、カヤテの笑顔、ヴィダードの鼻の感触、ユタの髪質、リンファの肌の温かみ。
それ等が失われる事を想像する。
いや、或いは既に失われているのかもしれない。
浜辺で背を斬られて血を流していたナウラの姿。その背景が浜辺から里に変わる。
牢に閉じ込められたカヤテの姿。それが男達に檻の中で陵辱された姿に移り変わる。
華奢なヴィダードが手足を折られ玩具の様に代わる代わる男達に回される姿。
ユタがあのエシナの時の様に斬られて力尽きた後にその身体を使われる姿。
ラクサスで幽閉された時の様に奴隷の様に鎖に繋がれ、男達の性欲をぶつけられるリンファの姿。
それ等が脳裏に浮かんでは消えていく。
目の前が真っ赤に染まった。
経が生み出されている。
背筋が激しく痛む。
何かが両の眦から零れ落ちる。
涙。いや、違った。
それは赤かった。
シンカは両眼から血液を流していた。
「必ず殺す!1人として逃さん!許さん!許さんぞおおおお!」
背を逸らした。
シンカは経を用いて稲妻を発しながら、余剰の経を用いて肺の空気にそれを混ぜ込む。
頭痛が更に激しくなった。
身体を折り曲げる。
シンカの口腔から白い乳の様な霧が吐き出された。
水行法・鯉霧はシンカを中心に広がり周囲を覆う。
「なんて事!?2つの行法を同時に行使するなんて!?…慌てないで下さい!目眩しです!そのまま攻め続ければ意味はありません!」
霧はシンカを覆い尽くすがアレサ隊とゾヤ隊は攻撃を続けていた。
霧は更に広がりイリアの配下達に届く。
「あああああああああああああああ?!」
「ぎっ!?」
複数の絶叫が上がった。
行法を行っていた女達が身体を痙攣させて一同に倒れた。
「な、何が!?…来ます!散開!」
霧の中から血涙を流す男がゆっくりと歩み出て来る。
「死ね!」
男が悪鬼にも劣らぬ形相で左手を突き出した。
近くにいた1人の喉から赤い氷柱が突き出し崩れ落ちる。
「イリア様!此処は一度撤退して態勢を整えましょう!」
「ですが!」
弓矢を向けられたシンカは後退し霧の中に沈んだ。
直後霧を斬り裂いて水乗が水平に走った。
複数の女隊員の首が転がる。
「退がれ!防壁を築きつつ後退!」
イリアは考える。
何故突如として包囲が崩されたのか。
霧だ。霧は小さな水滴の集まりだ。
自らの雷撃が霧を伝って帰って来たのだ。
男の手管を推理しイリアはそれを思考から振り払う。
今は撤退して態勢を整える必要がある。
一つだけ明確に理解できた事がある。
自分達山渡りは間違い無く目覚めさせてはならない悪霊を目覚めさせた。
目前で数人の同胞の命を奪った男だけでは無い。
この戦いで山渡りは森渡りを完膚無きまでに敗北させ、その手綱を握る予定であった。
山渡りが今まで交戦した事のある者は目前の男とその取り巻きだけであった。
この男が特別なのだと、そう考えていた。
確かにこの男は特別だ。
だが他の森渡り達も多少は劣るものの予想だにしない武力を持ち得ていた。
もっと簡単に蹂躙できると山渡り達は考えていた。
最早後に引く事は出来ない。
此処で森渡りを屈従させる事が出来なければ、最強最悪の山渡りの敵を自らの手で作り上げるという結末になるだろう。
霧が更に広がる。
男が再び霧を吐き出したのだろう。
範囲外から霧に向けて雷撃を行わせるがその勢いは止まる事はない。
雷撃に対する対策を行っているのだろう。
「東側を開いて霧を風で払います!ヴラダ!」
「皆!行え!」
数人が両手を突き出す。
強風が霧を押し流す。
居ない。
男の姿が無い。
「一体どっ!?」
ヴラダのはらから不可思議な模様の剣が突き出た。
曇天下に水滴が煌いている。
イリアは知らない。
水行法・水鏡を。
シンカは水膜を張り光を屈折させて森渡りから姿を隠した。
そして不意を突き隊長格に致命傷を負わせたのだった。
イリアの目の前で男はヴラダの腹から剣を引き抜く。
剣を持つ右腕を切り落とし後頭部の髪を掴み直して喉に剣を当てがう。
そして背中から再び剣を突き刺した。
「かっ?!…が、く……ぎ、ぎ、いあああっ!?」
刃を上向きに突き出た剣がゆっくりとヴラダの身体を上に登る。
「必ず、滅ぼす。必ず、根絶やしにする」
刃は心臓に届き、ヴラダは立たされたまま息を引き取った。
「弾幕を張って下さい!交互に展開しつつ後退!」
男に行法が殺到する。
しかし素早く逃れる男の影をイリアは捕らえていた。
「いっ!?」
声が上がりそちらを確認すると首の無い死体が血を吹き上げながら倒れる所であった。
男の姿が見えない。
イリアは周囲を確認する。
「安心しろ。お前は最後だ。1人づつ縊り殺す。待っていろ」
平然と男が直立していた。
まるで散歩にでも出ている様な自然体であったがその左手には女の首がぶら下げられていた。
「……許しません」
「俺は許す。俺が決める事だ。お前の許可など求めぬ」
男が左手を振るう。
猛烈な勢いを持って投げられた同胞の頭部が別の同胞にぶつかり2つ一緒に破裂した。
飛び散った脳漿と血液が形を変えて小さな刃となり岩戸の影に隠れていた山渡り達に降り注ぐ。
いくつもの絶叫が上がる。
イリアは唾液を飲み込む。
気付けば口内は乾き切り、緊張と恐怖を自覚した。
「……………後で必ず殺しに行く。待っていろ」
男は虚空を見つめた後そう言い残しあっという間に駆け去っていった。
気付けば一瞬にして20近い同胞を殺されていた。
「……撤退します」
イリアは29名の生き残りを従え足早に撤退を開始した。
その背筋には怖気が走り、全身に不快な汗を掻きつつも表情は部下の手前変えずに足早に、素早く目立たぬ様に戦場から離脱を開始した。
山渡り、土長のイルカイは目の前で追い詰められて行く2人の美しい女を見遣っていた。
里で最も美しい謡われるイリアにも劣らぬ容姿であり、加えてイリアよりも男を蠱惑する肢体に既に興奮して股間を熱くさせていた。
特に褐色肌のドルソ人は白く輝く頭髪を持っており、是が非でも手に入れたいと考えていた。
これまで屠って来た森渡りと同様一対一では到底敵わない力量であったが、多勢に無勢。
イルカイは配下を屠られながらもその時を心待ちにしていた。
始めに褐色の女が倒れた。
行法を行いながらシメーリア人の女を庇った彼女を配下が殴り倒し昏倒させた。
土行法で四肢を拘束し捕らえた。
1人倒れれば残りもすぐであった。
武術よりも行法に長けたシメーリア人は1人で囲まれて直ぐに取り押さえられた。
「…ふん。てこずらせおって」
苦々しく言葉に出すが、その視線は褐色肌の女に捕らえられ、離せなかった。
戦闘中揺れる女の乳房にイルカイは視線を固定していた。
小さな頭に女にしては大柄な体格。肉付きの良さは服を脱がすまでも無く明らかであったが、しかし均整が取れており衣類を着ていて尚唾を思わず飲み込むほどだ。
女が目を開く。
体内で経が高まるのを感じるとイルカイは槍の石突きで女の鳩尾を突いた。
「っ!?ぐ、ぉぇっ!?」
涙を流しえづく女の表情を見てイルカイは嗜虐心を高めた。
服を斬り裂く為に短剣を抜き、口角を上げながらイルカイはゆっくりと近寄った。
「……シンカ……助けて……」
苦痛に喘ぎながら女は小さく呟いた。
「ははははっ!その望みは叶わぬな!この人数相手にお前を助け出せる者などおるまい!」
女は表情一つ変えなかった。
その顔が苦痛と快楽に歪むのを早く見たいとにやつく。
仰向けに拘束された女の頬を掴む。
本当に美しかった。
それに加え男好きのする豊満な肢体、異国情緒溢れる肌と髪。
心折れるまで苦痛と快楽を与え傅かせると決めた。
薬で調教などつまらない。どれだけ時間をかけてでも手に入れて見せる。
しかしイルカイは直ぐに違和感を覚えた。
女の頬を掴む指に違和感がある。
硬いのだ。
「…愚かですね。私達エンディラの…民は……伴侶…以外の…おとこ…に…からだは……ゆるし………」
イルカイの目の前で女は石像へと姿を変えた。
精巧な衣類を纏った石像がただ横たわっていた。
「…何が……」
答えるものは居ない。
しかし女はもう1人居る。
「………兄さん……」
シメーリア人が小さく呟く。
その台詞と同時に感じた異様な気配にイルカイは振り返る。
男が1人無造作に立っていた。
近寄ってくる気配を全く感じとる事が出来なかった。
まるで其処に自然発生したかの様に立っていたのだ。
白い肌に焦げ茶の頭髪。
苔色の外套と菅笠を身に付けたアガド人とシメーリア人の混血であった。
その両眼からは倒れた同胞の無念を一身に背負ったかの様に血涙を流し、無手の両手は血濡れてだらりと下げられていた。
男は無表情であり、血涙との対比に最早悍ましさすら感じる外見であった。
「死ねえっ!」
最も近くにいた若い山渡りが男に向けて斬りかかった。
イルカイの率いる部隊は黒土。
天海山の山渡りの中で最も腕の立つ部隊の一つ。
黒土はイリアが連れた水銀隊、白雲山の白草隊と比肩する最強の部隊である。
若くともその力量は世間の名付きに勝るとも劣らない。
だが、黒土の若者は斬りかかった勢いのまま大地に倒れ込んだ。
何が起きたかイルカイには分からなかった。
ただ、いつのまにか若者は四肢を失っていた。
方々に2対の手足が転がり短い下草を揺らした。
「…俺の妻と妹に手をかけたのか。お前は何をした?」
男は地に沈んだ若者の袂にしゃがみ込むとその後頭部の頭髪を掴み顔を持ち上げた。
そして血涙を流す両の眼で覗き込む。
「…っ!?…ひっ?!」
若者は恐怖に小さく声を上げただけで、答える事ができなかった。
男は激しく若者の頭部を顔面から地に打ち付けた。
そして再度顔を覗き込む。
「お前は何をしたのだ?教えてくれ。俺は知りたいのだ。頼む。この通りだ」
言うや否や強く顔を地面に打ち付ける。
誰も身動き一つ出来なかった。
若者の鼻は潰れ、小石が顔に刺さっていた。
前歯も折れている。
「…無視とは酷い。この通りだ。この通りだ。この通りだっ!」
何度も顔を地に打ち付ける。
若者は答えられない。
軈てぐしゃりと耳を塞ぎたくなる様な瑞々しい音とともに若者の頭蓋は潰れた。
しかし男は血と脳漿を辺りに撒き散らしながら延々とその行為を続けた。
「…鬼だ……」
誰かぎ呟いた。
軈て動きの激しさに首がねじ切れると体液が滴る襤褸布の様な頭皮を無造作に地に放り捨てた。
「脆いな」
イルカイの全身が粟立った。
正に鬼だ。
男がその場で足を強く地に打ち付けた。
イルカイと黒土全員を岩壁が囲う。
最早この鬼から逃れる事はできない。
「…………殺せええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええっ!」
叫んだ。
イルカイの叫びに黒土達が漸く身体を動かす。
複数人が同時に斬りかかる。
男は動かなかった。
3本の剣、2本の槍が男に食い込む。
しかしその音は肉を斬り裂いたにしては酷く硬い音だった。
水が弾ける音と共に男の身体が岩へと変わる。
男はわずかに離れた位置で無表情で様子を窺っていた。
そして徐に近付き1人の頭を剣と槍が喰い込んだ岩に打ち付けた。
ぐしゃりと地に落ちた瓜のように頭部が潰れる。
慌てて武器を岩から抜こうとするが、それは叶わない。
その小さな隙に男は2人の頭を捉える。
そして自身の目の前でぶつけ合わせた。
空気を捕らえた紙袋を破裂させた様な音と共に様々な頭部を構成する血肉が飛び散った。
「な、何をしている!?この男を殺せえ!」
黒土隊が再度動く。
彼等はたった1人の男に恐怖を抱き浮き足立っていた。
男は始めに斬りかかった残る2人の首を掴み吊り上げると遅いくる凶刃の盾とした。
2人の背中に次々と穴が開く。
「本当に殺しが好きな愚か者共だな。味方まで殺してしまうとは」
2人を投げ捨てる。
男は襲い掛かる山渡りの攻撃を躱しその体に素手を当てる。
緩やかな動きにも関わらず轟音と共に身体が吹き飛び血反吐を吐いて息耐える。
僅かな時間で10人が屠られた。
男は無傷だ。
イルカイにはこのまま戦い続けてこの男を仕留め得る光景を想像する事が出来なかった。
「…わ、分かった!落ち着け!我等はここで手を引く!手打ちとしないか!?」
イルカイの言葉に男は笑う。
「何故その必要がある?」
「………あ?」
男の言葉にイルカイは惚けた声を返すしかなかった。
イルカイは理解した。
この男は山渡りを皆殺しにするまで止まらない。
男は口から水を吹き出し血に塗れた手を洗い流すと剣を抜いた。
そして圧倒的な速さで黒土隊員に肉薄し剣を振るう。
始めの1人は反応できず首筋を斬られ血を撒き散らした。
「かっ!?……き………っ…」
流れ出る血液を抑えようと呻きながら首を抑えた。
2人目は剣を立てて防ごうとした。
だが剣ごと同じ様に首を斬られてのたうちまわる。
「…待てっ!話しをしよう!…落ち着くのだ!」
「今尚同胞が一人一人と倒れている中どうして落ち着けようか?」
「分かった!撤退する!だから辞めろ!」
男の動きは止まらない。
次々と浮き足立った黒土隊を屠り、シメーリア人の女を取り戻しイルカイに近付く。
「うん。まだ撤退する気はない様だな?」
イルカイは慌てて懐から竹笛を取り出して吹き鳴らす。
男はその間も動きを止める事なく次々と山渡りを斬り倒していく。
「撤退の指示は出したぞ!?何故約束を守らん!」
「汝等の合図等俺が聞いた所で分からん。現に里に侵入した汝等は撤退などしていない」
イルカイは額から脂汗が滴るのを感じた。
イルカイは己の命惜しさに撤退の合図を出した。
だが同胞達は止まらなかったのだ。
勝馬に乗っている山渡り達は戦闘の熱に浮かされイルカイの指示を無視しているのだろう。
当初100人以上存在した黒土隊は此処までの戦闘で20を失い、女達に30倒された。
それでも尚60近い数が残っていたが到頭20を切り、男に向けて槍を突き込み躱され接近と共に首を飛ばされた中年を除き、遂に10人となってしまった。
男は嗤う。
表情の変化と共に乾いた血涙が剥がれ落ちた。
醜悪だと思った。
憎しみに取り憑かれ彼は最早山渡りを皆殺しにする事しか考えていない。
イルカイは後悔と共に確信した。
頭目の決定とは言え森渡りを襲った事は誤りだった。
いくら続けた所で森渡りを屈従させる事は出来ないだろう。
彼等は山渡りには分からぬ怪しげな合図で遠くの同胞と連絡を取り合っていた。
里の外に向けても発信されている事だろう。
里の危機に彼等が駆け付ければ山渡りは直ぐ様皆殺しにされるだろう。
その前に制圧する必要があった。
「……お、お前の女に手を出そうとした事は謝罪する。どの様な償いが出来るかは分からぬが、必ず償いをする。だから、命だけは…」
「ぐあああああああああああああああっ!?」
目前で部下の1人が腕を引き千切られた。
「…これまで奪ってきた同胞の命を返せ。老人も、子供も。男も女も」
「……無理だ………」
黒土隊の最後の1人が武器を奪われ頭髪を掴まれた。
勢いよく引かれて首が千切られた。
「返してくれ、同胞を…。皆が家族なのだ。彼等はどの様な罪を背負い汝等に殺されたのだろうか?」
男はイルカイの頭髪を掴んだ。
「や、やめてくれ…お願いします…助けて、下さい……」
イルカイは齢40を越してさめざめと泣いた。
「嫌だ」
「娘がもう直孫を産むんです…。初孫の顔を見たいのです…」
「いい事を聞いた。お前の娘から生きたまま胎児を引き摺り出し、臍の緒が繋がったままくびり殺してやる」
「嫌だあああああああっ!」
男は暗く笑いながらイルカイの顔を強かに地に打ち付けた。
衝撃に、痛みに視界が明滅した。
「嫌なら死した同胞を生き返らせてくれ。頼む」
出来ない。生き物を蘇らせる方など知り得ない。
「頼むっ!この通りだっ!お願いするっ!この通りだっ!」
シンカは周囲の山渡り達を肉塊へと悉く変えると我に帰り、倒れる子供達に駆け寄った。
倒れ伏した3人の子供。
中には7歳の妹のリンビンも含まれていた。
「リンドウ!」
髪が解れ、顔も殴られて腫らしたリンドウがシンカが戦闘子供達の容態を確認している。
「兄さん!センバが!ナウラ義姉さんも石灰岩に!」
「ナウラは問題無い!」
少年の容態を確認する。
胸に刺し傷。胃を貫かれている。漏れ出た胃液が周囲の臓器を損傷させている可能性が高い。
それに大量の流血。動脈が裂かれているのだろう。
「……みんな…は……?」
ぐったりと横たわるセンバが意識を取り戻して口にした言葉にシンカは目頭を熱くさせた。
まだ10かそこらの子供が年下の少年少女を身を挺して守ったのだ。
「貴方のお陰で3人とも無事よ!ねえ兄さん、治せる?!」
「……やってみるが…」
麻酔様の粉末を鼻から吸わせて酒精で傷口を消毒しながら止血と胃の縫合を行う。
縫合は胃の損傷が激しく難航した。
何とか縫い合わせて切れた血管を縫い合わせる。
体内の胃酸を洗浄し切り裂いた腹を縫合した。
「……シンカ、さん……さむい…です…」
それでも彼は助からない。
血液を多く失いすぎていた。
飲ませた増血薬も効果が出るまでに時間がかかる。
「頑張ったわね。私が温めてあげる」
リンドウはセンバの頭を膝に乗せて彼の頭を撫でた。
「…おれ、しぬのか…?」
青ざめた顔で、彼がどう思っているのかシンカに推し量る事は出来なかった。
「…俺は、お前を尊敬する」
そんな言葉がシンカの口から気付けば零れ落ちていた。
「…そんな…どうして…?」
「治療を施したが、お前は血を失い過ぎていた。輸血する血液も無い。俺はお前を助けられない…。しかし俺も死ぬのであれば、お前の様に同胞を守って死にたい」
シンカの眦から涙が零れ落ちる。
握った少年の冷えた手にそれが滴った。
「……ひっしで…そんなに……なにも……。でも、さとでいちばんの…しんかさんに……そういってもらえるなんて、おれ……」
「お前は立派だ!まだ若いが一人前の戦士だ!敵は取ったぞ。苦しかったな?辛かったな?」
「……みんなが…ぶじで……よかった……」
シンカは虚に曇天を見上げるセンバの瞼を掌で閉じた。
「兄さん……私たちが…この子が何をしたって言うの?!こんな幼い子が死ぬなんて!そんな理不尽があってもいいの?!」
リンドウはさめざめと泣きながらシンカに問うた。
「………薬を飲ませてくれ」
「…ナウラ義姉さんが…私のせいで…」
石像となったナウラを見る。
シンカは血濡れた手を洗い流しナウラに歩み寄った。
「……」
横たわる石像の頬に手を当てる。
身体を固定する岩を練土で退かし固まった身体を抱き抱えた。
ヴィダードがそうであった様に、ナウラの身体も徐々に温かみと柔らかさを取り戻していった。
生き物らしい身体に戻ったナウラは泣いていた。
「…何故、人間はこれ程酷いことが出来るのですか?!」
「……魍魎も、徒らに同種を弄び殺す種がある」
狒々、狐、狼等の獣も、魚も爬も虫も。
「存じております」
「…人は増えすぎたのだ」
ナウラが起き上がる。
「また、助けてくれましたね」
ナウラのごく僅かな微笑にまた守れた事を実感する。
安堵する。
そしてだからこそ憎悪を滾らせる。
頭部からは血が流れ、殴られたのか頬に痣も見受けられた。
「ナウラ。俺は許せない。奴等を根絶やしにせねば気が済まん!」
蝙蝠の鳴き声が聞こえる。
はっと3人は顔を上げた。
「リンドウ。お前は子供達を安全な所に。人を集めて子供を守れ。ナウラ!ついて来い!」
野に遊ぶ子供達の姿がふとシンカの脳裏に幻視された。
必ず、何があろうと復讐する。
シンカは誓う。
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