軈て虚しくなりにけるかな

王女ダーラとの会合を終えたシンカは戦時中に戻ったかの様に緊張した日々を送り始めた。


トウリュウ、リンファと共に記憶を辿り曼陀羅龍について、腐敗した経を摂取し遷移した魍魎について議論を重ねた。


そしてナウラも加えて対策についての議論を日々重ねていった。


曼陀羅龍は極めて凶暴な龍だ。

だがそれだけでは手に負えないほどの魍魎では無い。


しかし変質した経を蓄積した魍魎の変異は計り知れない。突然空を覆い尽くすような龍が現れても何の不思議はないのだ。


対策は思うように進まなかった。


緊張に包まれるシンカ、リンファ、ナウラと比較してカヤテは無事にグレンデルが生き延びたせいか気が抜けた日々を過ごしていた。


ミトリアーレから返却された翡翠の短剣を眺めたり、コンドールから賜ったグレンデル岩の剣を振ったりと覇気のない有様であった。


ヴィダードは相変わらず会話内容に興味は無くともシンカの周辺を彷徨き世話を焼こうとしたりじっと見つめたりとある意味で忙しい。


そしてユタはいつも通りだ。


軈て黄水仙の芽が伸び始め、雪も溶け始めるとシンカ達はダーラと共にサンケイと出逢ったという穴を訪れた。


水は冷たく凍えており人が潜水できる温度では無い。

曼陀羅龍の痕跡を見つける事は出来なかった。


サンケイの墓を参り、丁重に同胞を葬ってくれた事に感謝をした。


雪がより溶けて地表が現れ始めるとダーラ一行と協力して地面へと経を浸透させ地下の様子を探り始めた。


ゾナハン一帯は広い平野である。地下水脈は広大な範囲に広がる可能性があった。

一方でシンカはヤカを飛ばし火急の応援を要請していた。


しかし偶々近くにいた数人が合流するのみで多くの同胞はグレンデルの復興支援を行うか、里に帰って葬儀を行った為合流まで時間がかかる事が予想された。


到着迄一月はかかると考えられた。




ダーラは曼陀羅龍の捜索をシンカ達森渡りに託し寒々しい海を見ものしていた。


流氷は既に流れ去り濃い群青色の広大な海が眼前に広がっていた。


「……私の役目は終わったのかしら…?」


ぽつりと呟かれた言葉にタナシスが無言で頭を垂れた。


騒々しい波の音を聴きながらぼんやりとしていた。


「後は彼等がなんとかするのでしょう。ダーラ様は今迄ご苦労をされました。街でゆっくりと過ごしましょう」


ミキスがそう口にする。

海を眺めるダーラを4人の傭兵も背後から見守っていた。

そんな所へエッカルトがやってくる。


「こんなところで何をしているんです?風に当たっていてはお身体を壊しますよ?」


ダーラは辟易とする。

エッカルトの中身の無い会話に苛立ちしか浮かばない。


エッカルトはダーラの身など心配していない。

ただ枕詞の様に口にしただけだ。

最早考えなくとも分かる。


この男への苛立ちに思考を乱される。

何かを考えなければならない気がしていた。

何かが足りていない。そんな気がして燻る炭火の様に心中をじわじわと炙られていた。


その霞んだ思考の先の答えが遠のくのだ。

しかし真の勇者を見つけ出し情報を伝える事が出来たのだ。


この蒙昧で鼻持ちならず、不愉快な男と婚姻しなくとも済むという思いがダーラの心を縛る不安という名の紐を緩めた。


エッカルトはダーラに近付くとへらへらと笑い隣に立った。

ミキスが怒りに顔を歪めた。

しかし彼への危害を加える事はダーラが許していない。


「ん?」


エッカルトが屈む。

砂浜から何かを拾い上げる。

曇り空の下でもそれは鮮やかな若竹色に輝いていた。


ダーラは考える。

何故今なのかとふと考えたのだ。


曼陀羅龍が現れるのはクサビナで内乱が起こり、バラドゥアが大敗を喫した事が直接的な原因である。


そのバラドゥアの敗因は森渡りの話では赤鋼軍の参謀ウルリク・ヴィゾブニルが寝返った事に起因する。


では何故赤鋼軍は寝返ったのだろうか?


不可思議なエリンドゥイルの動き。赤鋼軍を出し渋るレムルバード5世。端からエリンドゥイルとウルリクが通じていた事は想像に難く無い。


エリンドゥイルはバラドゥアが持つ何かを欲していたわけでは無い事はその後の動きを慮れば分かる事だ。


怨恨と考えるのが筋だ。


エリンドゥイルがバラドゥアに恨みを抱くに足る出来事を近代の出来事を辿り推理すると、先先代の王ラムダール8世の第2王妃の早世に辿り着く。


今の情勢を知った上で考えれば、この早世がバラドゥアの陰謀による物と考え付くのは容易い事だ。


ならば先の内乱を裏で操っていた人物がその子であるレムルバード5世である事も理解できる。


だがレムルバード5世は死んだ。自死と伝わっているが、何故死ぬ必要が有ったのかダーラには分からなかった。


加えて彼だけではなし得ないであろう出来事も多い。


グレンデルへの陰謀を企むには第二王子という身分は些か物足りない。


だがレムルバード5世の怨恨に端を成したこれまでの出来事が何か目に見えぬ悪いものが道を辿り這いずって来ているかの様に感じられるのだ。


道は何処までも繋がっている。


反対にその何か悪い物が這って来る時分に合わせてダーラとシンカが会合した事にも何かの道が繋がっている様に感じられた。


ダーラがシンカに情報を渡す為にはサンケイの存在が不可欠であった。


そして精霊との類稀な親和力を持つカリオピが居なければ話しは成り立たない。


そのカリオピの生まれた地に遥か昔から聳える欅が存在している事。


全ては欅がペルポリスに芽を出した数千年前から決まっていたのではとダーラには思えてならなかった。


全ての道は繋がっているのだ。


自分の役目はここで終わるのだろうか?


シンカに情報を伝えるのは自分である必要があったのだろうか?


自分がここにいる意味。

それがダーラには思い至らない。


「……まだ、役目が……?」


ダーラは考える。灰色の空に群青色海。

若竹色の鱗。


「………エッカルト、貴方それ……」


「え?」


砂浜が割れた。

周囲の浜砂を飲み込み割れ目が広がる。


「うわぁっ!?」


エッカルトが駆けて逃れる。


そしてそれは現れた。


若竹色の鱗に赤い冠毛、爬独特の細長い瞳孔、金の目。

砂浜から首を突き出したそれは甲高い咆哮を上げた。


「お逃げ下さい!」


タナシスが叫ぶ。

ダーラは背を向け駆け出した。

振り返る。


鋭い鉤爪の腕が現れ砂浜に空いた穴から龍が這い出始める。

僅かに混ざる黒い鱗が模様を象っている。

緑と赤の鱗と混ざったその模様はダーラの目に不気味に映った。


極彩色の長大な翼を広げる。


再びの咆哮。

ダーラは耳を塞いだ。


広げた翼から羽根が幾らか舞い落ちた。


曼陀羅龍。


大きい。ダーラが父ウィシュターや多くの兵と共に倒した龍より。


その背は赤い肩羽に覆われ、隆起した背筋を尾までそれが伸びる。


長い尾は痛々しい棘に覆われている。

完全に這い出た曼陀羅龍が3度目の咆哮を上げた。

ダーラ一向は動かなかった。


寒空の下嫌な汗を大量に掻いていた。


そんな中動く者があった。

エッカルトだった。


「出たな邪龍め!この勇者エッカルトが成敗してくれる!」


曼陀羅龍が翼を広げる。空を覆い尽くすかの様な翼だ。

そして4度目の咆哮。

駆けるエッカルトの足が止まる。

耳を抑え背を丸めた。


曼陀羅龍が動く。大きく口を開き這いずり迫る。

エッカルトは何の抵抗も出来ず丸呑みされた。


最期まで愚かな男だった。


曼陀羅龍はエッカルトを咀嚼し鎧や武器ごと首を擡げて丸呑みした。

断末魔すら無かった。


「散開!固まらないで!互いが互いを援護!狙われたものは逃げに徹して!」


サンドラが手を振るう。

炎弾が龍の鼻面に打つかる。

龍は煩わしそうに首を振りサンドラの方を向いた。


「全然効かない!?」


サンドラが龍に背を向け逃走に移る。


「サンドラを援護!テッサ!ミキス!」


テッサが矢を放つ。

しかし龍の鱗は矢を弾き、見向きもされない。


「うらぁっ!」


横あいからミキスが剣を叩き付ける。


「なっ!?」


剣は弾かれミキスは手を痺れさせた。

テオが地に手を着く。

地面が隆起し無数の槍が突き出たが、曼陀羅龍を貫く事は出来ず無為に終わる。


ダーラは駆け出した。

外套を棚引かせて迂回する。

砂浜に足が取られかける。


「やっ!」


龍の斜め前から剣を突き出す。

狙いは左目だ。


ダーラの剣は見事に曼陀羅龍の眼球を貫いた。

直後龍が絶叫を上げる。

ダーラは耳を塞ぐ。


ぬるりと左手に何かが付着する。

あまりの音に鼓膜が破れ血が出たのだろう。

龍がダーラに向けて大きく口を開いた。


「ダーラ様!」


身体が突き飛ばされた。

ミキスがダーラの身体を突き飛ばしたのだ。

砂浜に倒れたダーラの直ぐ脇を巨大な足が踏み付け、巨体が通り過ぎて行く。

ミキスの身体が龍に呑まれる。


「ミキスっ!?」


返事は無い。

ぼたりと剣を持ったミキスの左手が砂浜に落ちた。


傭兵達が遠距離から様々な行法を行う。

痛痒程度にしか影響は無いのだろう。


ミキスはダーラが見出した戦士だ。

今まで良く支えてくれた。だがその死を悼む暇も無い。


「テオ!サンドラ!引き続き攻撃!タナシス!直撃を避けつつ引き付けて!」


鋭く長い棘が無数に生えた尾を振りつつ龍が振り返る。

サンドラの火球が再び鼻面を捉える。

キッサの矢が飛ぶが瞼を閉じた龍には届かない。


龍が腕を振る。

タナシスは盾で防ぐが吹き飛ばされた。

転がる盾は見事に裂かれていた。


龍がダーラを向く。


「……こんな所で…?」


振り返った龍が大きく翼を広げ咆哮を上げた。

周囲で再び地割れが起きた。


滑らかな海砂が吸い込まれ禍々しい配色に紋様の龍が顔を突き出し鼻息を吐く。


都合4箇所。


絶望的だった。新たに現れた1頭が咆哮を上げた。

大きすぎる音に耳を塞ぐ。


耳を塞いでおり反応が遅れた。

龍の口が開かれた。


ダーラ目掛けて一直線に曼陀羅龍が迫った。

この誰かに決められたかの様な、定めとも取れる道程に何の意味があったのか巨大な顎門を見詰めながら考えた。


答えは出ない。

だが、これが己の死だというのなら、其処から目を背けはしない。


最早回避は間に合わない。

潔く。

ただそれだけを思った。


だが、巨大な顎門の前に岩が迫り上がった。

岩に顎を殴られて龍の動きが止まった。


「ナウラ!」


曇り空の下、何かが影を落とす。

男が外套をはためかせて宙を舞っていた。


苔色の外套に菅笠。

その瞳は強い意志に満ちており、微塵の怯えもなく眼下の龍を見据えていた。


灰色の短弓を構え、同じ色の矢を番えている。


腕の筋肉が膨らみ1本1本が太い筋繊維が浮かび上がっていた。


太い綱が切れるかの様な音と共に灰色の矢が射られた。

まるで流星の様にそれは降り、龍の顎を上下に縫い止めた。


周囲の龍達が威嚇の声を上げた。

男は宙で回転しダーラに背を向け着地する。


守られたのだ。

タナシスやミキスに比べれば小柄で広い背中とは言えない。

しかし知識と力、経験に裏打ちされた自信がその背中からは漂っていた。


とても頼もしく感じたのだった。


「成る程。こう来たか…ヴィー!」


遥か遠方で何かが煌めいた。

風を纏った矢だ。それは猛烈な勢いで飛来した。


射手の姿すら見えぬ遠方から迷い無く、振れ無く飛んだ。

怯む龍に向けてそれは進み、眼球から龍の頭蓋内に滑り込む。

矢は曼陀羅龍の脳を掻き乱し、脳幹を引き千切った。


呆気なく一体が動きを止めた。


「鱗は全ての行法を通さない!剣もきかん!」


シンカが叫ぶ。

指示は無い。


だが女達はそれでも思い思いに動く。

積み重ねた互いへの信頼が見て取れた。


4体が唸りながら此方を取り囲む。


「此方で相手する!早く此処から去れ!」


シンカが叫んだ。


「でも!」


逃げ道は無い。

隙を見て逃げろと言うことだ。


この男は何故自分を守るのか。

ダーラは王女だ。

だが彼には関係の無い国。

敬ってもいないだろう。


何処でダーラがのたれ死んだとしても些かの痛痒も感じない筈だ。


それでもダーラはその背中に惹かれた。


彼は勇者だ。

勇者とは何かの位では無い。


勇ましい者。それが勇者だ。

強大な敵の前にあって怯える事なく、背に弱きを庇い勇しく抗う者だ。


男は苔色の外套をはためかせ、体を落として駆け出した。

砂浜の砂が蹴上げられる。


シンカは1頭の龍に向かう。

龍は迫るシンカに口を開き、首を伸ばして噛み付く。

シンカは直ぐに背後に飛んで回避した。


龍の顎門が噛み合わせられる背筋の凍る音がした。


シンカと龍の隙間の砂が浮き立つ。

砂嵐が起こった。


海砂は勢い良く龍に向けて叩きつけられた。

目に砂が入った龍は首を振る。


シンカを喰らおうと動こうとしたもう1頭の頭上に突如巨大な白球が生まれた。


「旭火!」


凛とした女の声が響く。

笠の下で黒髪を風に巻かれながらカヤテが手を突き出し指を組み合わせていた。


上空に生まれた白球、旭火は直下の龍の頭に叩き付けられた。

離れているにも関わらず白球が放つ熱がダーラの肌を炙る。


龍は白球に押さえつけられて身動きを止めた。

周囲の砂が溶けていた。

しかし全てを焼き尽くしそうな熱量を持つそれであっても龍の鱗は依然として健在であった。


「これで倒せぬか!?」


カヤテが驚愕の声を上げた。

シンカが向き合う曼陀羅龍に向けて太い水流が打つかる。


三白眼のユタが両手を握り合わせている。

水流は大質量の龍を押し流す事など到底出来ない。

曼陀羅龍の不気味な色合いの鱗が水に濡れて曇り空の下で輝いた。


シンカが両手を突き出した。

指先から黄色の稲妻が迸り龍に触れる。

龍の全身を稲妻が駆けるがやはり反応1つせずシンカへと這いずった。


大地が隆起する。

何の合図も無かった。

目線すら合わさなかった。


それでもナウラが砂浜に手を着いていた。

岩戸の突き出る勢いでシンカは高く飛び上がった。

そして再び灰色の短弓を構える。


シンカを喰らおうと突進した龍はその姿を見失っていた。

小さく鋭い流星が再び降った。


それは曼陀羅龍の脳天を貫き沈黙させた。

タナシスやミキスの剣を弾く鱗が砕かれ、矢が龍の脳天から頭蓋を砕き、脳幹を吹き飛ばした。


ダーラは唖然と立ち尽くしていた。

逃げる事など忘れていた。


気絶したタナシスを除きディミトリ達傭兵も逃げる事を忘れてその鮮やかな連携を見遣っていた。

芸術的な連携であった。


2体を屠られた龍の兄弟達は生存本能に忠実に翼を広げる。


「逃げるぞ!不味い!」


「分かってるわよ!」


リンファが独特の動きをする。

左手を突き出し広げた指を握る。

砂が渦巻き一体を引き摺り込み始める。 


しかし龍が飛び上がろうと翼をはためかせる力の方が強い。

ナウラが空中に赤い粘液を吐き出した。

溶岩だ。


溶岩は飛び上がろうとする龍の上に広がり巨大に絡み付いた。灼熱の粘体は曼陀羅龍の鮮やかな翼幕を焼き、墜落させる。


龍が悲鳴を上げた。

2体が飛び上がる。


「槍!」


短く、強くシンカが言葉にする。

地面から土槍が突き出る。

ナウラの法であろう。


シンカはそれを腰の奇妙な剣を抜いて斬り折ると肩に担ぎ構える。


更に砂地が岩に変わる。足場を得たシンカはそこを駆けて渾身の力でそれを投擲した。


春槍流奥義、落雷であった。

春槍流奥義の落雷は突きのと投擲の2種が存在する。

内突きは仁位への昇格基準であり、投擲は徳位への昇格基準である。


シンカは少なくとも春槍流の徳位を持つと言う事なのだ。


龍はシンカ達に背を向け飛び去っていた。

落雷は飛び立った1体の翼幕を貫通する。空中で龍は悲鳴を上げたが落ちる事なく2頭は南東へと飛び去っていった。


シンカは諦めず両手を握り合わせて口から細い水条を吐き出したが離れ過ぎたのか効果は無く追撃を断念した。


遠距離から渦巻く風に乗り矢が高速で飛来する。

砂に捕われた1体の眼窩に矢は潜り込み、脳を傷付けて3体目が息を止めた。


圧倒的だった。

死を覚悟していたダーラは難を逃れたのだった。飛ばされたタナシスも首を振って起き上がる所だった。


シンカは難しい顔をしていた。

2頭の曼陀羅龍を逃してしまったからだろう。


暫し考え込んでいたが、軈ダーラの元まで歩いてやって来る。


「うん。怪我は無い様だな」


ふっとシンカは小さく笑った。

彼は汗を掻いていたが何やら良い匂いが香った。

ダーラの心臓が一際大きく鼓動した。


緊張が解けたせいか、原因は分からない。

ダーラは胸を押さえた。


「…これで欅の精霊からの頼みは遂げられた訳か」


ダーラの知る限りシンカがペルポリスの王城を訪れたと言う事実は無い。

欅の精霊からの頼みが何を指すのか分からなかった。


「何それ?」


やって来たリンファも同様なのだろう。質問をしたが、シンカは首を振り話を切った。


「いや。…しかし、しくじったな」


しくじったとは龍を逃した事だろう。

これ程巨大な龍3頭を仕留めて尚苦々しい表情のこの男にダーラは呆然とするしか無い。

3頭も屠ったのだ。

それもたったの6人で。


「ええ。不味いわね。でも渡る経は5分の2で済んだと考えれば少し希望ももてるわよ」


シンカとリンファが会話を続ける所にダーラは近寄る。

そして王女としてはあるまじく、ダーラは頭を下げた。


「やはり貴方が勇者だった様ね。助かったわ。勧誘なんてしないから今度はゆっくりペルポリスに訪れて」


嘗ての出来事を思い返す。

焦りに煽られて彼の宿に突撃した事。

幾ら王女とは言え人として無礼な行いであった。強い羞恥心を抱く。


カヤテとの情事の後であったと思われる記憶を思い返してダーラの胸が強く痛んだ。

その痛みの理由が分からずダーラは首を傾げた。


ダーラは懐から以前倒した龍の爪を加工した短剣を取り出す。

アケルエント王家の印が彫られたものだ。

これを門番に見せれば王宮にいつでも訪れる事ができる。


「……有難いお申し出ですが、我々は権力には近寄らない様にしております。御気持ちだけ頂戴させて戴きます」


仕官させようと手を尽くした事も思い返す。彼等には権力など必要無い。

そんな物がなくとも身一つで何処にでも行く事が出来るのだ。


案の定ダーラの提案は素気無く断られてしまった。

心がずくりと更に痛んだ。

初めての感覚であった。


それでも無理矢理ダーラは短剣をシンカに押し付けた。


「…その、だったら……ダーラという私一個人と…だったら?」


何故そんな事を口にしたのかダーラには自分が理解できなかった。

顔が熱い。赤らんでいるのだろう。何故そんな事になるのかさっぱり分からなかった。シンカは落ちそうになった短剣を慌てて手に取った。


「シンカ。ちょっとこっち来て」


リンファがシンカを引きずって行く。


「何だ急に。ダーラ王女の心拍数に異常が見られる。体温も上昇しているぞ」


「はいはい。これ以上は困るのよ。これからの事考えるわよ」


ダーラはタナシスと顔を見合わせる。

タナシスは何故か複雑そうな眼差しでダーラを見ていた。


シンカ達の武力は凄まじいものであった。

それに輪を掛けているのが連携能力だろう。

声ひとつ、仕草ひとつ交わさずに互いの必要な行動を取ることができるのだ。


しかしそれでも2体の龍は南東、白山脈を目指し飛んでいってしまった。

3頭を仕留めただけでも偉大な業績だ。


しかし欅の精の御告げの通りの出来事が起きてしまった。

ダーラが抗った所で防ぐ事は出来なかったのだ。

欅の精霊の御告げ通り大河に流される木の葉の様に、ダーラは足掻けど踠けど望む方には辿り着けないのかもしれない。


終わりの始まり。

そんな言葉が脳裏に浮かんだ。


何かが終わりに向かっているのか。何かが始まるのか。

ダーラには何も分からなかった。


だが、襷は繋いだ。

今はっきりとそれが分かった。


ダーラは必要な事を成し遂げた。己の領分を遂げた。その確信があった。


それが何だったのかは分からない。サンケイの情報を渡した事か。もしかすれば龍が眼前に現れた事がそうなのかもしれない。


エッカルトの存在、ミキスの存在、ダーラの存在、シンカの存在。


疲れているせいか、うまく思考はまとまらなかった。

何故か全てが答えでは無いような気もした。


ダーラは砂浜を歩きミキスの腕と剣を拾う。


「…有難う、ミキス。貴方のお陰で私は生きながらえた。勇敢で勇猛な私の戦士」


膝を着き祈りを捧げる。

森渡り達が龍の腹を引き裂いた。


無残な2人の死体が現れる。

他にも大量の人骨が腹から転がり出て来た。

バラドゥアの鎧が見て取れた。


一行は大量の死体を集めた。


「ミキス、貴方の魂が精霊に抱かれてこの広き大地の新たなる精霊へと至れます様に」


サンドラが火を起こす。

ミキス達が火に焼かれて行く。

煙が上がる。


黒い煙が細く上がり、春の南風に煽られて海の向こうへと消えていった。

死した身体は焼かれその煙に乗って空へと登ることが出来る。

道を見失わぬ様はっきりと。


思い出したかの様にダーラの右耳に波の音が届いた。


ダーラの長い旅が漸く終わりを遂げたのだ。

いつの間にかダーラは涙を流していた。


それが自分の中の如何なる感情に由縁する涙なのか、ダーラには終ぞ分からなかった。




シンカ一向はゾナハンに戻りトウリュウと共に今後についての議論を重ねた。


里へ文を持たせたヤカを飛ばし状況を報告し、白山脈の再度の調査を打診した。


曼陀羅龍は極めて凶暴ではあるが、人の武器を通さない程の硬度をもつ魍魎ではない。


本来であれば最期の1頭になるまで共食いを続ける曼陀羅龍であるが、変異した経を摂取し続けて身体が大きく変化を遂げた為か、最期まで共食いをせずに姿を現したものと考えられた。


砥木の弓が無くとも無手を修めた森渡りであれば時間をかけて体内を外から傷付ける事で退治は可能であった。


曼陀羅龍自体はさしたる強さとは考えていなかった。

だが彼等が蓄積した経を他の魍魎が摂取するとなれば話は別だ。


霧の罔象、王種が2頭を喰らうのか、1頭しか喰らわないのかは分からないが、最悪の事態は防げたものの、危険性は極めて高いと考えられた。


昔倒した鬼羆の王種にナウラの火行法が効かなかったらと考えればその危険度は測り知れない。

3頭の変異した龍を倒して尚、シンカ達は陰鬱とした空気を纏っていた。


一方でグレンデーラに残った森渡り達は時間をかけて経脈を利用して起こした山を均し、死体を焼き払い、破壊されたグレンデル領の町村を復興し終えていた。


グレンデーラに集った領民達は雪解けと同時に生まれ育った故郷へと戻り始め、グレンデーラは戦前の状態に戻り始めた。


壁は綺麗に修復され、無理矢理作られた青鈴城の尖塔も消え去った。

戦乱を乗り越えたコンドールはミトリアーレに跡を継がせる為、本格的に引き継ぎを始めた。

マトウダ・グレンデルは戦後冬の間に体調を崩し床に臥せる日が増えていた。


グレンデルも多くの将兵を失った。

本格的な代替わりを考える時期であった。


またケツァルではビョルン・エリンドゥイル公後見の元、幼年のハインデルト9世が即位した。


戦乱に疲弊した諸侯達であったが、事実上の敗戦を喫した中央諸侯達は挙って戴冠式に参列しエリンドゥイル公に阿ろうとしたがその効果は芳しく無かった。


ベアーテ・エリンドゥイルの仇の為バラドゥアを滅ぼしたエリンドゥイルではあるが、その元来の気質は公明正大であった。


貴族達の袖の下やおべっかに左右される男では無い。


焦げた白亜城も清掃が進み、元の美しさを取り戻しつつあった。


大きな情勢の変化としては春先に電撃的な攻勢を仕掛けたベルガナ軍により到頭ラクサス王国が滅びる事となった。


残党軍は壊滅し、王族は皆処刑され、貴族も財産を没収されることとなったが ラクサス人の殺戮は起こらず、圧政を行なっていたラクサス王政に対する反動から好意的に受け止められる事となった。


女王サルマの政治手腕は類稀な物であった。

彼女はその地位にも関わらず人格者であり、民を顧みる心に溢れていた。


ベルガナ王国が列強に名乗りを上げた、5大列強となった瞬間であった。


国土として見ればクサビナに次ぐ広さではあるが、豊かさで見れば他の4国には劣る。


特に森が少なく肥沃な大地を手中にするクサビナと比較すれば隔絶した差が存在した。


しかし最早大国クサビナをしても無視は出来ない勢力であった。


内乱が終結したばかりのクサビナに対しベルガナ女王サルマは和平の使者を送り、新体制ぎ発足したばかりのクサビナもこれに合意した。


クサビナに次ぐ大国であるメルセテは依然として内乱を続けておりベルガナ等相手にしていなかった。


その隙にサルマは国境に巨大な要塞を築き、国を守る基盤を整えつつあった。

荒れた辺境に支援を行い、群を割いて森を伐採し魍魎退治を進めた。


そんな巨大化したベルガナ王国を通過しダーラ王女がアケルエントの王都ペルポリスに辿り着くのは秋口の事であった。


旅立つ前にシンカに耳の治療を施して貰ったダーラは目を潤ませてシンカとの別れを惜しんだ。


そして再開を誓って背を向けたのであった。


帰国したダーラに対しウィシュターは喜びを露にした。

最早娘とは生きては再開出来ないと考えていたからだ。


ダーラは全てを解決出来なかった事を詫びたが、己が責務を全うしたと強く信じていた。

娘の表情を見たウィシュターは幾ばくか残っていた子供らしさが眼前に消えた事を悲しみつつ、成長を喜んだ。


そしてダーラは再会したカリオピと抱き合い夜遅く迄その旅路について語った。


最後にシンカ一行は足を東に向けてガルクルトを通過。

白山脈山中の隠れ里に向かった。


道中は平穏なもので、途中ガルクルトの王都ゴールを経由しつつも寄り道無く里へと向かった。


一行が里に無事到着したのは春半ば、花の咲き誇る季節であった。


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