雪が降り積もる前にクサビナ北方、ゾナハンの街に辿り着いた一行は其処で調査をする間もなく雪に足を取られて立ち往生する事となった。


街に着きトウリュウと合流したシンカ達は其処で情報を交換するべく酒場に訪れた。

久々の酒であった。


「……そう、沢山の同胞が死んだのね…」


「うん。58人だ」


酒を飲む前に黙祷を捧げる。


「今、皆んなは何を?」


麦酒を一息に煽る。

空の胃袋に酒精が染み渡る。


斜向かいでナウラとカヤテ、リンファが同じく杯を乾かした。


「グレンデーラの目前に出来た山を均し、死体を焼き払った後は里に帰らだろう。雪が積もる前に終わらせられたかは怪しいが。迎春の宴で死者を送る必要もある。一部は里に帰っただろう」


「……そうね。良くやったわね、シンカ」


中年となって尚上品な美しさを纏うトウリュウはシンカの頭を撫でた。


ヴィダードが食器を咄嗟に握り締めるが暫し震えた後手を戻す。


彼女も大分丸くなったと考えるシンカの神経も麻痺してしまっているのかもしれない。


「…それで、どうだ?」


主語述語は無いがそれは無論河口の龍についてであった。


「……何も分かっていないわ。今もまだここまで死体が流れ着く。河口の何処かに龍が眠っているとしたら変異は間違いないでしょうね」


弛んだ表情で牛の蒸し焼きを口に運ぶカヤテを何ともなしに見た。


グレンデルが危機から脱した為かなり弛んでいる。

争乱の真っ只中にあった女のして良い表情では無い気がした。


しかしシンカが水を刺す事はない。

シンカはカヤテを甘やかしていた。


「文献等は調べたのか?」


「ええ。貴族の館等にも忍び込んでそれらしい物を探したけど見つからなかったわ。夏の終わりにケツァルの王立書館にも潜り込んだけど。警備が厳しくて直ぐに断念したわ。どうも誰かが忍び込んだみたい。サンケイかしら?」


サンケイは未だに見つけられていない。

途中で何かに巻き込まれたのか、或いは真実へと辿り着き破れたのか。


「何れにせよこう雪が積もってしまえば何も調べられない。冬の間はゆっくりとさせて貰うが、何か協力できる事があれば言ってくれ」


後はただの酒宴となった。


その翌日からシンカ達は戦争中の緊張を流し去る様に怠惰な生活を始めた。


行法でユタの身体に雪を集めて雪人形にして怒られたり、凍った湖面を走って誰が最後となるか争ったりと童心に返った仕様のない遊びをしていた。


酒を飲み、妻を抱き、時に6人でただ雪を眺めた。


トウリュウ隊と意見交換をしたり、戦争の流れを伝えたり。


何の事件も問題も無く雪に閉された街で過ごし、冬下月へと入り年の暮れが近付いてた。


行き付けとなった酒場の最後の営業日、シンカ一行は年越しの準備を終えて酒場に集っていた。


「今日は飲みます」


心浮き立たせながら茶色の麦酒の杯を持ち、白身魚の衣揚げを前にシンカは告げた。


「何よその言い方」


リンファが文句をつける。


「酒は暫く飲めない。全身に染み渡らせておく必要が、ある!」


「いやいや、あんた沢山買い貯めてるでしょ?…もう病気よ」


「既に半分依存症だ。ナウラ程ではないが」


飛び火したナウラは片眉を僅かに上げて遺憾の意を示す。


「良いではないか。シンカは我が一族の為に苦心してくれたのだ。シンカ、今日は20杯まで飲んでも良いと私は思う」


カヤテがリンファに物申した。


「いやいやいや、それほぼ際限無いじゃない!あんたどんだけ甘やかすのよ!」


戦争終了以降カヤテはシンカに駄々甘であった。


だが揚げ芋に手を伸ばそうとするユタの手を叩くなど、シンカ以外にはいつも通りであった。


「その通りです。シンカ、人の寿命は短いのですからお酒は謹んで下さい」


「いや、何を握ってナウラも話してんのよ」


ナウラの右手には酒がなみなみと注がれた杯が握られている。


「はて?これは麦茶ですが?」


やれやれ何を言っているんだ、とばかりにナウラは首を振った。


相変わらず腹の立つ仕草である。


「麦茶って何よ!麦茶にあっちゃ駄目な気泡が湧き出てるのよ!」


ナウラが口角の僅かな上下で微笑した。

リンファの言葉はナウラの望み通りだったらしい。


「本当に煩いわねぇ。身体だけ育っても中身は子供なのよねぇ。ほらぁ、雪も降ってる事だし子供と一緒に遊んできたらぁ?」


外は吹雪だ。


「おいヴィダード」


リンファの顳顬に血管が浮き出していた。


「折角の自慢の身体みたいだし、ついでに脱いで見せびらかしてみたらぁ?」


「死ぬわ!」


リンファは大忙しだ。


漸く宴会が始まる。

ナウラが酒を一息に煽った。


「おいナウラ。手が震えているぞ!」


酒を干したナウラはじろりとシンカを見遣る。


「以前揶揄われましたので同じ手には乗りません」


「いや、ナウラ。杯を持つ手が震えていたぞ!」


「えっ?」


ユタは相変わらず地味に食べ物を漁っている。


「おいお前!」


楽しいひと時を過ごしていると背後から男に声を掛けられた。


険悪な語り口であった。


振り返った先、男の姿を確認する。

女を2人連れた顔の整った男であった。


髪は焦げ茶、肌は抜けるように白い。

アガド人とシメーリア人の混血だ。


何処かで見た記憶があるが酒に霞んだ思考では思い出す事ができなかった。


「…俺か?」


芋を一切れ摘んで男の顔を見上げた。


「良い身分だなぁお前。女をぞろぞろ引き連れて」


「汝が言うな。屑」


男は酔っているようだった。

カヤテの痛烈な言葉に怯みシンカを睨み付ける。


「5人も口と両手と竿使っても1人余るだろ?寄越せよ」


男の卑猥な台詞を聞いてリンファがにやついた。

大方どう返すか楽しんでいるのだろう。


「…さお?」


橄欖の種を積み上げて遊んでいたユタがひょこりと顔を上げた。


「ユタ。反応しなくて宜しい。下らない品の無い言葉だ」


シンカの妻達は表情を輝かせて先行きを見守り始めた。


「俺は足も器用だ。後1人行ける」


酔いに任せてとんでも無く下品な答えがまろび出た。


「無いですね」


「ほんとがっかり」


「見損なったぞ」


「また増えるのぉ?」


「…………?」


冗談にあまりの反応。シンカは心が折れそうになった。

だが妻達には不評でも男には抜群の効果を誇った。


「俺を舐めてるのか?ああっ!?」


男は両脇の女を振り払いシンカに詰め寄った。


「臭い。口臭い。酒くさっ」


鼻を摘んだシンカに男は顔を赤くした後手を引いて息を吐く。


「もういい。お前がそう言う態度ならもう我慢はしない。おい、そこの女、名前は?」


声をかけたのはカヤテだ。

だがカヤテの方を向いた男の顔は首の嫌な音と共にシンカに向き直った。


「俺の妻を見るな。妊娠する」


「おや?」


「あら?」


「出遅れた感はあるが」


「カヤテは其方に行ってもいいのよぉ?」


「んっ……んっ……んっ……ぷふぅ」


酒を飲み干したユタが噯気を吐き出した。


「いってぇ…手前ぇ…俺に手を出してただで済むと思うなよ?!」


何も怖くは無かったシンカだった。


「怖いです。シンカ、助けて下さい」


「やだ。あたし怖いっ」


「シンカ。私を守ってくれ」


「?」


「お腹いっぱいになっちゃった」


3人が棒読みで助けを乞い男を煽る。


ヴィダードは脱落だ。


男は怒りに加えて女達の言葉にシンカを打擲して己の株を上げようと考えたのか上着を脱ぎ捨て腕まくりをした。


なかなか鍛えられている。


「行ってきなさいシンカ!」


リンファがシンカの上着を脱がせる。


「破れたら大変です。これも脱いで下さい」


ナウラがシンカの上半身を剥き出しにした。


「さむい」


シンカは上半身に力を込める。


「?!」


服の上からでは分かりにくい見事な上半身が曝け出され、膨張した筋肉が浮き出る。


だだの筋肉では無い。

発達した筋繊維までが窺える肉体である。


男は怯んだ。


だが酒の力もあったのか首を振り小さくこけ脅しだ、と呟き闘志を漲らせた。


「どうせ見せ筋だろ!?来いよ!」


シンカの右腕がぶれた。


「ぱっ」


男の鼻はひしゃげて仰向けに倒れる。

酔ってはいても店の器物を損壊しない配慮も忘れない。


何食わぬ表情で席に付き手羽の素揚げを齧る。

男の鼻から血が垂れていた。


脇の女達が悲鳴を上げて逃げていく。


「やはりシンカと良い闘いができる者はいないか」


「ま、こんなもんよね」


「カヤテやリンファが闘う方が見応えはありますね」


「シンカ様ぁ?お身体冷えるので服を…それとも…?」


「僕、なんだか嫌な気分になった。僕より弱いのに手を出そうとしてたんでしょ?身の程知らずだよ」


男にとっては無慈悲な言葉が降り注ぐ。


「興醒めだな…よし。2軒目だ」


シンカ達は会場を移動して飲み直す事にした。




アケルエントの王女ダーラは吹雪が小康状態となった時分に宿の露台に出て静かにゆっくりと積もっていく雪をぼんやりと見ていた。


ゾナハンの冬はアケルエントの王都ペルポリスよりもずっと寒い。


そもそもペルポリスは冬は乾燥した風が吹くだけで滅多に雪は降らない。北から吹く海の湿気を含んだ風はコブシの重なる山々で雨や雪となって湿気を落としアケルエントに吹く。


「…姫様」


厚手の上着を持ってタナシスが背後から現れた。

雪の積もったゾナハンは夜でもぼんやりと明るく見える。


ダーラはゾナハンの持つ外套を羽織った。


「今日商人の話しを聞きました。クサビナの内乱はグレンデル及び北方諸侯の勝利に終わったようです」


「っ!?どうやって?!」


ダーラは驚愕に目を見開きタナシスに詰め寄った。

青鈴軍に対し赤鋼軍、黄迫軍、そして中央諸侯が集結しグレンデーラに攻め寄せたと聞いていた。

勝てる兵差では無いはずだ。


「眉唾物の話ですが、大地の精が力添えをして巨大な山を作り出し赤鋼軍を飲み込んだと」


「まさか!到底信じられる話では無いわ」


どの様な山かは知らないが山が出来るなど考えられない。


バラドゥアとエリンドゥイルの結末も最悪の形で知る事が出来ていた。


流れてくる死体という形で。


ゾナハンの町民達は死体を引き上げて身包みを剥いだ後死体を焼く事もあるが、余りの量に到底追い付いてはいなかった。


いよいよ予言が現実の物になる気配を感じていた。


「しかし、欅様の御告げの流れた血と精気という御言葉、グレンデルの物かと考えておりましたがまさかバラドゥアとは」


膨大な量のバラドゥア兵の遺体が川を流れて行く様は悪夢の様であった。


幸い冬であった為腐敗は少なかったが、川の魍魎に食い荒らされたそれらは無惨であった。


ダーラ達は河口周辺の探索を続けたが終ぞ朱雀龍なる魍魎の痕跡を発見するには至らなかった。


サンケイは地下水脈に潜り水脈を辿っていたが、ダーラ一行に泳ぎの達者な者はいなかった。


露台から通りを眺めていると脛まで降り積もった雪を蹴散らして女が2人駆けていくのが見えた。


「……あの男の女です」


見覚えがあると思えばそういう事かとダーラは納得する。


エッカルトが最近連れ歩いている女達だった。


「…あいつ、また何かしでかしたのかしら?」


「念の為事情を聞いてきます」


タナシスは身を翻し宿の中に消えて行く。

少ししてダーラの眼下に現れて女達を引き留めた。

タナシスは少しの間女達と話していたが、軈て2人を解放して宿に戻る。


「エッカルトが酒場で男に絡み返り討ちにされたそうです」


戻ってきたタナシスは呆れを滲ませて口を開いた。


「あいつ……またやられたの?」


鉄柵に積もった雪を払うと肘を突く。


「5人の女を連れた男が酒場におり、その男に絡んだそうです」


ダーラはため息を吐いた。


「…でもあいつ、私が鍛えているしそこらの男では敵わないわよ?」


「はい。相手は余程腕が立つのでしょう」


取り止めも無しにエッカルトのことをのした相手について考えた。


「っ!?女連れ?!4人じゃなくて5人!?」


あの男はカヤテ・グレンデルを含めた4人の女を連れていた。


「5人と聞きましたが…何か気になりますか?」


「……行くわよ!何処の酒場!?」


「ご案内します」


タナシスと共にダーラは雪の中を駆けた。


水を零せばすぐに凍る様な寒さであったがダーラは汗を掻いていた。


駆け付けた酒場はこの町で上等な類の店で質素ながらも品が良い店構えであった。


戸を開けて中に入ると鼻がへし折れたエッカルトが墨に転がされていた。


ダーラは店員に詰め寄る。


「この男を殴った者は?!」


「もう出ていかれましたが…」


「どんな男!?」


「アガド人とシメーリア人の混血の方でした」


ダーラは体横の壁を殴りつけた。


「見つけたっ!」


タナシスは話に付いて行けていない様で困惑気味であった。


「その男は何処に行ったの?!」


食い気味のダーラに給仕の男は身体を退け反らせた。


「に、2軒目と言っておりました…場所までは…」


「行くわよ!」


気絶するエッカルトを捨て置きダーラは酒場を飛び出した。


今は年の瀬。営業している酒場は少ない。

虱潰しに探せば見つかるだろう。


雪降り頻る北町でダーラは駆け回ることとなった。

今のダーラには当初の様な焼け鉢な思いは無い。


肉親の様に慕っていたサンケイが命を賭して成し遂げようとした朱雀龍の退治を成し遂げる。


その強い思いしか存在しなかった。




2軒目で酒を飲んでいたシンカの服の胸元から鳥の顔がひょこりと飛び出した。


「おや」


ナウラが目敏く見付けて声を上げた。

森鶫のヤカだ。


「………今日は終わりだ。宿へ帰ろう」


「いいのか?今年最後なのだろう?」


シンカの言葉にカヤテが口を挟む。


「止めない方がいいわよカヤテ。ヤカが何かする時は大体シンカに危機が迫ってるから」


「なんか…リンファ、シンカのことよく分かってますって感じだね」


「何よ。いいでしょっ」


「…思いの外素直ですね」


一行は騒ぎながら席を立った。


外に出ると小康状態だった雪は本降りとなり露出する肌を寒さと雪の冷たさが刺した。


「ああっ、靴に雪入った。振りすぎなのよ…」


「雪なのにその様な靴を履けばな」


「シンカと食事に行くんだからお洒落くらいしないと。あんた達が無頓着すぎるのよ」


雪を蹴散らして宿を目指す。


「ヴィー。貴女唇が紫色になってるわよ?大丈夫なの?」


「だい、丈夫よぉ。し、シンカ様と一緒ならぁ、わたく、私いつも心が暖かいからぁ」


「心と身体は別では?」


すっかり身体が冷え切った頃、シンカ達は雪塗れで宿に辿り着いた。


「…………」


「シンカ大変っ!ヴィーが啄木鳥みたいに震えてるよっ!」


「あんた本当身体弱いわね。生姜湯入れてあげるわよ」


「私も飲みます」


「僕もっ!」


「私も頼みたい」


「俺も」


部屋に戻ると濡れた衣類を取り替えてリンファの部屋に向かった。


「ちょっと!?」


着替えているリンファを素通りして寝台に腰掛けた。


「あんたねぇ、いくらあたしだからって女の部屋に」


「生姜湯くれ。蜂蜜もな」


「あーもう!熱めでいいわよね?」


雪に濡れた髪を掻き上げてリンファは暖炉に向かう。


手鍋に湯を沸かして蓄えている生姜を木板の上で刻む。


夜着用の筒衣越しに大きめの尻の形が見て取れた。

思わず撫でると手を叩かれる。


「手元が狂うからやめて。そういうのはちゃんと雰囲気出してからにして」


シンカは欠伸をすると濁りの多い歪んだ硝子窓から外を眺めた。


吹雪の中誰かが通りを走っていた。


年の瀬に随分と苦労をするものだ。


それから数日、シンカ達は平穏な年の瀬を過ごした。

朝起きて身体を鍛え、朝飯を喰い今までの出来事や情報を記録する。


昼飯を喰い午後は薬を作り、夕方は妻達と静かに過ごした。


夕飯を喰い酒を飲み、時には景色を楽しみまたある時は妻を抱く。


軈て新年を迎えた。


天気は唖然として雪が続き、気温はさらに下がった。

ユタは爬の様に暖かい寝床に入ったまま出てくることが少なくなった。


カヤテは慣れているのか厚着をするわけでもなく健康的に毎日剣を振るう。

ゾナハンの雪景色を1枚絵に残してもいた。


ヴィダードは相変わらずシンカにべったりで、ナウラは書き物に忙しい。


リンファは編み物をしては手の脂が取れて乾燥するとぼやいている。


穏やかな冬だった。


だらだらと過ごし春の訪れを待った。

気温は少しづつ上がり、雪の頻度が減る。

寒いが晴れた日が続く様になった。


「ナウラ。見えるか?」


防壁の上から北を指差す。

北に続く雪原の先に海が見える。

海には爬の鱗の様に白い氷の塊が無数に浮いていた。


「あれは流氷ですか?」


「そうだ。大陸西のアルアウラーダ川の水が海に流れ出るとその周囲の海水は塩分濃度が下がる。塩の少ない海水は凍りやすく、凍った水面が海流に押し流されてこの時期ここまでやってくるのだ」


「成る程。ですが先生、何故塩分濃度が下がると凍りやすくなるのですか?」


ナウラは昔の様にシンカを呼んだ。

時折気分なのか揶揄いなのかナウラはシンカをそう呼んだ。


「世の理だ。何故、までは我らでも分かってはいないが、納得出来なければ今度二つの器に水と塩水を入れて外に置いておき、どちらが先に凍るか試してみれば良い。下手をすれば凍らないぞ」


2人で冷たい風に髪を煽られながら流氷を見つめていた。


少し離れた所でカヤテが絵を描いており、ヴィダードが左半身に張り付いてシンカの顔を見ている。


ユタはシンカの足元に座り込み途中で購入した焼き芋に乳酪や鮪の油漬けをのせた食べ物を幸せそうに食べていた。


リンファはつまらなさそうに肘をついて同じく流氷を眺めている。

つまらなさそうだがシンカは知っている。

ああいう時のリンファの心は弛緩している。本当に気位の高い猫の様な女だ。


海上を流れている。南からの暖風が強く吹き始めた。

春一番。

春の訪れだ。


「みぃ、つぅ、けぇ、たぁっ!」


甲高い女の声が南風に流されていった。


荒い息を吐くウバルド人の女が防壁の降り口、階段付近に立っていた。


美しい女だった。

切れ長の吊り目に収まった鋭い意志の強い瞳が特徴的であった。


甘色の髪に灰の目、腰には剣。


見覚えがある。アケルエントの王女ダーラである。


「これは殿下。以前は仕官のお話を頂き光栄の至りで御座います」


シンカは膝を折り頭を垂れる。


「辞めなさい。敬ってなどいないくせに。本当、小憎らしい男ね」


瞬間的に苛立つヴィダードの口をリンファが抑え、身体をユタが拘束した。


「…では、失礼を」


礼を欠いた所で此処はクサビナ。

ダーラにシンカを何処こうすることは出来ない。


「貴方をずっと探していたわ。…ずっとね」


「私に御用……ん?」


シンカはダーラの目的を問おうとしたが、その前に男が現れた。

シンカが数月前に酒場でのした男だった。


「ダーラ様。お姿を見かけましたので参りました。…この者たちは?」


すっかり記憶を無くしているのか特に突っかかって来ることはなかった。


「俺の名前はエッカルトだ。貴様、美しい女性を引き連れた上にダーラ様に何様だ?」


「………」


シンカは目の前の男を思い出そうとしたが思い出す事が出来なかった。

シンカの妻達は刻々と変じる状況への興味に瞳を輝かせていた。


「エッカルト。辞めなさい。何処かへ行って」


「ダーラ様、そのお言葉には従えません。この男、見目麗しい女性ばかり連れ、剰えダーラ様にお声を掛けるとは。よもや弱味を握り良からぬ事をしているのでは?」


妄想もいい所であった。シンカは面倒になり欠伸を噛み殺した。


「エッカルト。私は辞めなさいと言ったわ」


「いいえ。止めません。俺は貴女の婚約者でもある。貴女の危険を排除する義務がある。…おい、其処の不届き者。後ろの女性達をどの様にして騙しているのかは知らんが、俺がお前を叩きのめしダーラ様をお守りし、その女性達も解放する」


エッカルトは剣を抜いた。


「……殺さないで」


ダーラが短く言葉にする。

エッカルトはその言葉に頷いたが、その言葉を向けた相手はシンカであった。


「……下らん。時間の無駄だ」


殺した方が早い。


エッカルトとやらが妻達に向ける視線が好色な者であることはすぐに分かった。


女達の前でシンカを下し、己へ好意を向けさせようという魂胆なのだろう。

恵まれた容姿であるこの男は女が己に靡くと信じているのだろう。


シンカは腰に佩いていた翅を抜いた。


ダーラはエッカルトを止めるのを止めた。

シンカという男が並々ならぬ力量を持つ事は分かっていた。


エッカルト程度が敵う相手ではない。

しかしエッカルトも腕が立つ事に間違いは無い。

その力量差で力を見極めようとしていた。


「ばっかみたい。弱い癖にシンカに楯突くなんて。狩幡の鯨海豹だって群の主を決める為に戦うけど、初めから敵わない戦いはしないんだ」


目付きの悪い女がよく分からない理論を展開した。

ダーラはシンカと言う男が連れる女達を観察した。皆強い戦士である事は分かる。


黒髪に翡翠色の瞳の女はカヤテ・グレンデルだらう。

この女にも敵わない。


麦穂色の変わった髪の女もダーラより強いと感じられる。

その女の口を塞ぐ妖艶な女もだ。


目付きの悪い女と褐色肌の女とは互角に戦えるだろうが、勝てるかどうかは危ういだろう。


よくぞ此処まで強い女を揃えたものだと感心した。

それを束ねるシンカであればエッカルト程度が指すら触れずに惨殺できるだろう。


エッカルトが動く。


「おらぁっ!」


千剣流奥義岩断ち。

ダーラ自ら鍛えただけあり素早く滑らかに技は放たれた。


シンカは己に向けて迫る刃に素手を伸ばす。


「?!」


岩断ちは素手で受けられる様な技ではない。

剣ですら直撃を避け、受け流す様に対処する。

上手く受け流した所で骨程度は折れる。


それ程力を込める技である。


シンカは振られた剣の腹に拳を添えて攻撃を流した。


勢いに振られた身体をエッカルトは制御しようとする。

その前にエッカルトの頬が張られた。


「っ!?え?」


胸を押されて蹈鞴を踏んだエッカルトは素っ頓狂な声を上げた。


「ははははははっ!」


カヤテが笑う。


「止めなさいよカヤテ。相手は馬鹿なんだから逆上するわよ?」


妖艶な女が笑うカヤテを諫める。


「……リンファ。その台詞も逆上するには十分では?」


褐色肌の無表情の女が更にそれを諫めた。


言葉通りエッカルトは歯を剥き出しにして怒りに燃えていた。

まるで子供扱いだ。


矢張り役者の格が違う。

ダーラは確信する。

この男が勇者だ。


「糞がああああああああああああっ!」


シンカにエッカルトが駆ける。剣を振りかぶるエッカルトに対しシンカは手を突き出す。


シンカの指は振りかぶったエッカルトの剣の柄頭を正確に捉え、エッカルトの武器は彼の手からすっぽ抜けて街の外に飛んで行った。


そして唖然とするエッカルトの頬が再び張られた。


「お前みたいな面の男が俺は嫌いだ。恵まれた容姿に胡座をかき、劣った容姿の者を馬鹿にするのだ」


再び頬が張られる。


「俺にっ、ぁっ!?」


話そうとしたエッカルトの頬が張られる。


「俺の妻に色目を使ってただで済むと思うな。不愉快だ」


「おおおおおっ!」


リンファと呼ばれた妖艶な女が拍手をした。


「今のは良かったぞ。うん。自尊心が満たされるな!」


カヤテ・グレンデルが賛同する。

ダーラの中の赫兵像が崩れ始めた瞬間だった。


齢10前後から戦場に立ち二つ名を得た赫兵。

戦場の権化の様な冷たくそして激しい女だと思っていた。


エッカルトは顔を真っ赤にして侮辱に怒っていた。


「俺を……馬鹿に?……勇者の俺を…?」


勇者と言う言葉がこれ程滑稽に聞こえる瞬間は今まで無かっただろう。


「矢張りこの前は酔っていた様ですね。私も悪く無い気分です」


褐色肌の女がうんうんと無表情で頷く。

何処か人を揶揄う様な稍苛立つ仕草だ。


麦穂色の髪の女は顔を赤らめて内股を擦り合わせている。

鳥肌が立った。


目付きの悪い女はシンカの動きを見終えるとすぐに手元の食料に注意をを戻した。


これ程癖のある女達を従えている男が只者の筈がない。


教養があり類稀な武を持つ男。

改めて確信した。


「エッカルト。止めなさい。止めないと斬るわよ?」


「しかし!ダーラ様!この男はこの俺を!」


「これ以上この男との関係を悪化させる様な事をするなら私が貴方を斬る」


ダーラは本気だった。

その本気を悟ったエッカルトは言葉を飲んだ。


「私の前から消えなさい。突然現れて交渉を邪魔した貴方に対し私がどれだけ怒りを堪えているか察するので有れば」


それは嘘であったが、エッカルトは慌てて背を向けて早足で去って行く。一度振り返りシンカを睨み付けると尻尾を巻く様に去っていった。


「…さて、私の連れが迷惑を掛けたわね」


「……止めなかった事は分かっていますが、まあそれはいいでしょう」


「此処では何だし、何処かお店でも行きましょう?奢るわよ」


ダーラがその言葉を後悔することになるとはその時は考えていなかった。


ダーラ、タナシス、ミキスの他ディミトリ達傭兵4人に対しシンカ一向と美しい中年の女が夕刻の酒場に集っていた。


こじんまりとした店だが質の良い酒や食事を出す。

ダーラ達は店の奥の半個室に陣取り顔を突き合わせていた。


「……何で、お酒頼んでるのよ…?」


並び順は奥からダーラ、タナシス、ミキス、ディミトリ、サンドラ、テオ、キッサ。


シンカ側はシンカ、麦穂髪、中年女、三白眼、カヤテ、ナウラ、リンファと言う順だ。


ダーラ側は皆茶を頼んだのに対しシンカ側は酒の注がれた杯を皆握っていた。


ユタだよー。と名乗った三白眼の女に至っては店員を呼び止めてダーラに断りも無く勝手に高そうな肉料理を矢継ぎ早に注文していた。


「何でとは…?奢って貰えると聞いていたのだが…」


シンカが小首を傾げた。


ダーラは己の顳顬に苛立ちによって血管が浮き上がるのを感じた。


ダーラの左手の方でディミトリとサンドラが頭を抱えている。

後で何か聞き出さなければなるまい。


「…まあいいわよ。それじゃ、まずは巡り合わせに宿して」


ダーラは茶の入った杯を掲げる。

皆が杯を掲げた。


そしてシンカ側の半数が杯を一息に呷った。

杯を干したシンカが手をすらりと挙げる。


「麦酒、お替り」


「私も麦酒を。カヤテは?」


「私は果実酒の水割りを頼もう」


可笑しな女達を束ねる男の神経が真っ当であるはずがないのだとダーラは理解した。


唯一常識人かと考えていたトウリュウと名乗る中年の女ですら上品に葡萄酒に口を付けている。


「そこの給仕、シンカ様が麦酒を所望しているわぁ。早く持ちなさい」


シンカにべったりと張り付くヴィダードと紹介された女が背筋の凍る視線を給仕に投げかけた。


「私も麦酒を。それと果実酒をお願いします」


シンカ達の配分に酒好きなダーラ側の男達がそわそわし始めていた。


「……はぁ。貴方達もいいわよ」


今日で一体どれ程の金が失われるのかダーラは頭を悩ませた。


「おや。この店にはラクサス産の白葡萄酒、糖度4級の瓶が?…頂きましょう」


褐色肌の女、ナウラが給仕に明らかに高級酒であろう品を頼んだ。


「それって私が好きなお酒ぇ?」


「ええ。普段は流石に手が出ない高級酒です。殿下に感謝しましょう」


「ありがとうねぇ」


ダーラが管理する金が湯水の様に失われ始めた。


「うん。他人の金で飲み食いする宴ほど気分の良いものはないな」


「貴方、本当にいい性格してるわよねっ!」


ダーラは茶を飲み干して酒を頼んだ。

金の事は最早脳裏から抹殺するしかない。


「酔い潰れる前に聞きたいのだけど、貴方達は森渡り…でいいのよね?」


「うん。よく調べられたものです」


「サンケイが…」


ダーラがサンケイの名を口にした瞬間シンカ、トウリュウ、リンファの気配が変わった。


「私共は同胞サンケイの消息を追っておりました。彼は今どこに?」


「…河口の地下水脈を捜索しているところを見つけたわ。その後直ぐに死んでしまったのよ…」


「キッ、キッキキッ」


突然トウリュウが口から何かの鳴き声の様な声を発した。


「キキキキッキッ」


それにシンカが答える様に鳴いた。

ダーラには知る由もないが、事の時2人はダーラの言葉の真偽を確認していた。


「サンケイはどうして死んだのでしょうか?」


リンファが尋ねる。


「突然胸を押さえて苦しみ出して…どうすれば良いか分からなかったわ」


「キッキッキッキッ」


再びシンカが声を発する。

ダーラはそのやり取りを訝しげに見守っていた。


「…私が彼に危害を加えるなんてあり得ないわよ?…彼は私にとって……」


それ以上は口に出来ない。

王女であるダーラは他者に弱味を見せる事が出来ない。


「……我等にもサンケイから欅の精による御告げは届きました。しかし以降彼からの便りは無く消息はゾナハン迄しか追えませんでした」


シンカ、トウリュウ、リンファが手を握り合わせ目を閉じた。


祈りを捧げているのだとダーラにも分かった。


そしてこの寒々しい町で自分達にしか知られる事なく命を終えたサンケイが同胞にも認知された事に妙な安堵を覚えた。


「これはサンケイの手帳よ。河口の龍の正体が書かれていたわ。龍自体は見つけられなかった様だけど」


ダーラは手帳を差し出す。

シンカがそれを受け取り捲り始めた。


「…………………曼陀羅龍…!」


「なんですって?!」


「不味いわね…」


2人の森渡りがシンカの言葉に声を上げた。


「シンカ。曼陀羅龍とは初めて聞きました。普通の龍とは異なるのでしょうか?」


龍は出現すれば街を滅ぼしかねない罔害を催す。


アケルエントでもダーラが15の時分に出没し、多くの兵と共に父のウィシュターとダーラが退治した。


サンケイはその龍を四羽龍と呼んだ。

四羽龍の退治によりダーラは二つ名を得た。


「曼陀羅龍。名の語源は色とりどりの鱗が象る不気味な紋様から来ている。最後に確認されたのは200年程前のメルセテだが、緑と赤の鱗と羽根の中に黒い鱗や羽根が混ざり見る者の背を粟立たせたという。龍の中でも獰猛で動くものを見境なく襲う習性がある。しかし此処までは些末な問題だ」


シンカは唇を触りながら話す。


「問題は此処からです。曼陀羅龍は龍の中でも極めて産卵数が多いの。椋鳥の群れの様に無数の卵から小さな幼体が産まれるわ」


シンカの後にトウリュウが続いた。


「数が…それは、不味いわね」


ダーラの言葉にリンファが首を振った。


「問題は数の多さに直接繋がりません。今回、バラドゥア兵の死体がイブル川に流されました。腐った死体の経は変質しそれを摂取した人、魍魎、植物に関わらずそれを返事させます。ですが小魚がそれを摂取したところで摂取濃度は低く、変化はたかが知れています。しかし食物連鎖が進むにつれその蓄積量は増し、変化は大きくなる。龍は幼体の内から餌の摂取量が多く、変質した経を蓄積しやすいのです」


トウリュウの後にリンファが続けた。

経の話しは死際のサンケイが語っていた為、ダーラは違和感無く話を聞く事ができた。


「そして今回の問題における曼陀羅龍の難点は、この無数の幼体が共食いをしあって成長していく事です。曼陀羅龍は最後の一体になるまで隠された巣穴で共食いを続けつつ成長し、最後の一体になると住処を出ます。それまでに蓄えられる変異した経の量を考えると恐怖しか感じません」


トウリュウはそう口にすると身体を震わせた。


「その変異した経を蓄積し過ぎた曼陀羅龍はどうなるの?」


ダーラは尋ねる。


「想像もつきません。何も受け付けない程鱗や羽根が硬質化するのか、途方も無く巨大化するのか、炎を吐き出す器官を体内に作り出すのか」


「増援を呼ぼう」


リンファが説明を終えるとシンカが短く言葉にする。


「でもこの雪よ。次の街まで合図は届かないわよ?」


「分かっている。ヤカもこの気候では保たない」


「私も鳥の従罔は連れてないわ」


「仕方無い。雪が溶けるのを待つしか無い。気温が上がったらヤカを飛ばそう」


ダーラは3人の森渡りの深刻そうな遣り取りを伺っていた。


この仏頂面でのらりくらりと此方を躱す男が浮かべる表情に事の深刻さを改めて認識した。


「しかし、ダーラ様は何故遠いクサビナまで?」


顔を突き合わせる3人を尻目にカヤテが尋ねる。

思いの外気さくな赫兵にダーラは動じた。


「それは…欅様の御告げの通りになればアケルエントも無事では済まないもの。知った以上、国を守るのは王族の義務よ」


「なんと素晴らしい…その気持ち、良く分かります。貴女のような為政者が居られるからこそアケルエントは栄えているのですね」


勇明轟く赫兵カヤテに褒められてダーラは照れた。

しかし今や自国を守るという目標の他に半ばでその命運尽きた慕うサンケイの仇討ちも心の半分を占めていた。


宴会そっちのけで深刻な話し合いを始めた3人とそれ以外の対比が激しい。


ユタという女は先程から手当たり次第に食事を頼み一口づつ順繰りに手をつけている。ナウラという女はミキスに酒を次から次へと注ぎ、酒好きのミキスを酩酊寸前まで追いやっている。


ダーラの心は気付けば軽くなっていた。


アケルエントを使命を帯びて出てから1年と半分。

肩に乗っていた重荷を漸く下ろせた。

その様に感じていた。


「……久しぶりに良いお酒が飲めそう…」


1人小さく呟き高級白葡萄酒の入った瓶を見る


「…え?もう無いんだけど…?」


空の瓶を見てまたしても呟いた。



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