その手は裂け、掴むに悪く
時は森暦196年、冬中月1の週、3日目の事であった。
天気は晴れ。羊雲の漂う涼やかな朝の事だ。
前日にグレンデーラ南方2里の位置に陣を張った赤鋼軍は早朝に進軍、被害は地平線と頂上の中間に位置する頃に四半里の位置に着いた。
率いるは怒涛のグリシュナク。グリシュナク・バラドゥア。
本隊5000を率いる。
構成は2500を赤将ヴェルナー・ヘイズルが指揮。残る半数を鋼将ヘルベルト・ハティアが。
1万の兵は2000づつ5連隊に別れ其々を名高い武将が務める。
ルーファス・エイクスル、ウルリヒ・セフリール、マンフレート・スレイプル、ヒルデガルト・ヨルド、クラスウ・ウトガルザ。皆三傑には劣るとは言え他国まで武名轟く優秀な武人達だ。
先の青黄戦線から始まりグレンデーラに追い縋った黄迫軍はシカダレス・ファブニルを筆頭に二男のトウヒ・ファブニルが指揮を取る。
彼等は諜報工作部隊の鬼火を失い、最精鋭のウラジロ・ファブニル率いる1万を失い既に矜持だけで行軍している様な状況であった。
同道するはルーザースより派遣された青嵐のアシャ率いる雨月旅団とウィルフレド・ヴィゾブニル侯爵を筆頭とした諸侯軍、しめて1万5000。
最後に両者と相対するグレンデルはマトウダ・グレンデルを団長とし、副団長にネス・グレンデルとダフネ・グレンデーラが防壁南側を軸に位置取り赤鋼軍に備える。
別働隊のゲルト・グレンデーラ率いる5000が防壁西側で黄迫軍達を相手取る。
「畏れ多くも陛下に弓引く行為!それが忠臣と謳われたグレンデルの行いか?!開門し投降せよ!さもなくば逆賊として一族郎党処刑の上末代まで逆賊の汚名の謗りを受けようぞ!」
風行法で赤将ヴェルナー・ヘイズルの声が響き渡る。
舌戦が始まった。
「王家の威を借りグレンデルを徒に害そうとせしは其方也!王家に忠誠を誓い我が身を犠牲に滅私奉公して来たグレンデルへの扱い!裏で謀将グリシュナクが糸を引いていたというなら筋が通る!我等は我等の名誉を守る為!街を!民を守る為!最後の一兵まで血を流す所存也!」
マトウダが城壁の上から叫ぶ。
「将軍グリシュナク閣下を謀将と謗るとは暴言甚だしい!グレンデルとは思えぬ発言!グレンデルは最早腐り果てかつての高尚さを失ったか!?」
「我等は数年の間、幾たびのの危機を迎え自力で道を切り開いた!其れは誰の仕業か!?救済すら無く足掻く我等に兵を差し向けるがその証!我等を弱らせ潰そうと企む不届き者の証也!最早語るに及ばず!降りかかる火の粉は今まで通り己の力で払うのみ!」
地響きが起こる。
青鈴軍が一斉に声を上げたのだ。
全ての音が塗り潰され台地と空が揺れる。
対し赤鋼軍が続く。転がる小石は振動に揺れ跳ね、鳥が落ちる。
1000年前、嘗てはクサビナ王国を建国するべく手を携えた三軍がここに相対し、戦いの火蓋が切って落とされた。
「放てええええええええええええええええええええ!」
マトウダの脇に佇んでいたランバート・グレンデーラが張り叫ぶ。
巨石が南と東に向けて打ち上げられ悠々と青空を引き裂く。
「放てええええええええええええええええ」
鋼将ヘルベルト・ハティアが剣を振り翳して声を張り上げる。
僅かに遅れて赤鋼軍からも投石が始まる。
鋼将ヘルベルトは20年以上に渡りグリシュナクの元で戦い続けてきた勇士である。
彼の心中は複雑である。
青鈴軍とは幾度も肩を並べ戦って来た。
彼等が謀反を企むなど考え難かった。
だがこれが貴族だ。グレンデルはヘルベルトの及びのつかない権力闘争に敗れたのだ。
しかし、どの様な事情であれ最早敵である。
兵を上げた以上進むべき道はグレンデルを滅ぼす道一択である。
クサビナ安寧の為全力で叩き潰さねばならない。
「進め!進軍せよ!投石の射程から離脱せよ!」
トウヒ・ファブニルは指示を出す。
打ち鳴らされる太鼓の音と共に黄迫軍は動き始める。
トウヒの心中には進軍しグレンデーラの壁を崩し、街を蹂躙する事しか頭には無かった。
まるで馬鹿にするかの様に黄迫軍を削り、罠にかけてグレンデルはファブニルに致命的な損傷を与えた。
本来であれば黄迫軍は尻尾を巻いて逃げ帰るしか無かっただろう。
だがここで赤鋼軍が動いた。
勝ち筋が残った。
トウヒの瞳には狂人じみた怪しげな光が宿っていた。
最早彼を含めたファブニルの人間には目前の街を蹂躙し街のグレンデル一族の女を犯し、男は無残に殺して彼等の財を手中に収める事しか考えられなかった。
トウヒはそれを為すためだけに優れた頭脳を回転させていた。
「投石着弾位置を予測。回避せよ。………回避確認。進軍開始!」
赤鋼軍の将、マンフレート・スレイプル、一刺のマンフレートは自軍に指示を出し軍を進める。
直後回避後に着弾した巨石が爆発し、近くの赤鋼兵を吹き飛ばした。
爆音に一時的に耳が潰れる。
「な、何だこれは……」
次々と着弾し赤鋼軍を蹂躙する巨石を見て喘ぐ様に声を絞り出した。
「…着弾位置予測後、回避は通常の三倍の距離を取得せよ!」
そしてマンフレートは見る。此方の投石が跳ね返されて転がるのを。
「…これが、青鈴軍……」
呟きは戦場の怒号と絶叫に掻き消える。
マンフレートは名高い一族が落ちぶれて行く所を間近で見る事ができる事に仄暗い悦びを見出していた。
王政府直轄軍である赤鋼軍を差し置き武勇名高い青鈴軍。
決して快くは無かった。
その彼等を今、自らの手で磨り潰す事ができるのだ。
だが彼等の反攻はその勇明さに違わぬ苛烈なものであった。
イグマエアは連隊長としていつもの様に矢継ぎ早に指示を出していた。
「早く射程範囲から抜けろ!攻城兵器なんぞ捨て置け!ミラ!次は矢が来るぞ!盾で密集陣形を組め!オランシス!クラシカ……は死んだか。シンク!カカール!行法に備えろ!進め!進め!とろとろしてると尻引っ叩くぞ!」
黄迫軍の中からイグマエア連隊は抜きん出る。
「イグマエア様!敵弓兵の攻撃激しすぎます!直に進めなくなります!」
「あ?とにかく進め!吹き飛ばされるよりましだ!射程から出たら直ぐに岩戸で斜線を塞げ!」
矢が盾に当たる激しい音が耳障りに響く。
底上げされた威力に時折盾を抜いて黄迫兵を射抜く。
イグマエアは考える。
今度は何人の部下が死に行くのか。
或いは己の番が来るのか。
だが死ぬわけにはいかない。
此処からなるべく多くの部下を生き残らせて故郷に連れ帰る為には最後の瞬間まで死ぬわけにはいかないのだ。
不毛だった。
争うべき相手はグレンデルでは無い。
彼等は放っておいてもファブニーラを襲う事はないのだ。
ガルクルトやオスラクに目を向けるべきだとイグマエアは考える。
しかし既に坂道を転げ落ちた石は周囲の岩を巻き込み大きな土砂崩れを起こしている。
己だけ止まる事は出来なかった。
グレンデーラ内部では街の路、石床の上に設置された投石機に青鈴兵が巨石を乗せている。その脇で黒尽くめの森渡り達が巨石に手を当て土行法・火栗によりその組成を変えていた。
「放て!」
グラハム・グレンデーラが合図を出す。
投石機は唸りを上げて火栗化した巨石を次々と打ち出す。
かつてカヤテの部下であったグラハムは謀略によりその主人を失い、強い怒りと共に出来る限り多くの赤鋼兵を殺す事に心血を注いでいた。
敬愛する主人であった。
一族の為、ミトリアーレの為。たった9歳で戦場に立ちクサビナを、グレンデーラを守って来た。
生きてはいたとはいえ、彼女の名誉は汚され二度とグレンデルの名を名乗る事は許されない。
あってはならない事だった。
名誉ある武人が悪戯に貶められる世であるなら、誰が剣を持ち敵に、魍魎に立ち向かうものか。
努力が踏みにじられるなら、何を糧に立ち上がれば良いのか。
目の前でグレンデーラを攻めるのはグレンデル一族の魂を汚し踏みにじらんとする魍魎の手勢である。
断じて許す事は出来ない。
この一族の拠り所である街に爪先すら踏み入れる事は許さない。
例え敵兵が命じられるまま戦っているだけであっても、グラハムは許す事ができない。
眼前の全てを焼き尽くす。
青鈴城に作られた一際高い尖塔。その頂上で狼面のクウハンが風に衣類を靡かせながら右手を高らかに上げる。
八方位の尖塔に位置取る森渡り達がそれを確認して各隊に指示を出す。
南側の部隊が飛来する巨石に向けて腕を突き出す。
悉く弾き返されて巨石は地響きと共に大地に突き刺さり、或いは激しく転がった。
クウハンはクサビナやグレンデルの趨勢に興味は無かった。
だが里が決めた方針に嫌も無かった。
クウハン自身多くの地方を巡り、国や貴族、民の興亡を幾度も見てきた。
森渡りは内に向かい過ぎていた。
何は血が濃くなり何らかの病で壊滅する可能性や、技術の向上が止まり蹂躙される未来もあり得る。
何処かの勢力に着こうという判断は誤りでは無い。
その相手がグレンデルと言うのも悪くは無い選択肢と言えた。
だがグレンデルに執着があるかと言えばそうでは無い。
溺れるものに力を貸す事でより良い立場を得られる。
その程度の考えであった。
しかし参じた同胞に危害が加わるとすれば別だ。
なるべく森渡りが傷つかぬ様努力しなければならない。
判断の誤りが同胞の死に繋がる。
クウハンは細心の注意を払い全方位を観察する。
膨大な量の情報を取得し、対処の優先順位を判断。
八方の観測者に信号を送る。
強い風が吹く塔の上にあってその全身は緊張により汗で濡れそぼっていた。
「投石の射程外に進軍!外壁に取り付け!慌てるな!急げ!これ以上一方的にやられるのは天下の赤鋼軍の名折れぞ!」
クラウス・ウトガルザ、二つ名は雷撃。
長剣を振り回して飛来する矢を落としながらクラウスは檄を飛ばした。
巨石が一つ緩やかに回転しながらクラウスに向けて落ちてくる。
「猪口才な!この落雷を甘く見るな!」
唸りながら経をクラウスは練る。
「単竜角!」
突き出された掌より青白い長大な雷が走る。
それは飛来する巨石に当たり中空で爆散させた。
粉砕された礫が辺りに降り注ぐ。
その時クラウスは周囲に向かい風が吹くのを感じた。
「来るぞ!盾を前に出せ!斜角四半!そのまま速度落とさず前進!」
赤鋼軍が進む。
イーヴァルンの民の長距離射撃を受けてばたばたと倒れて行くが、盾を角度を付けて翳し弾いて進む。
クラウスは力こそが全てと考える武者である。
グレンデルに対し含む感情は無い。
彼等が此処で敗れ、滅ぶのであれば其れは定めだ。
彼等の命運、武運がそれまでだったという事。
赤鋼軍が追い返されるのであれば彼等には存在する価値がある。
グレンデルの攻撃は苛烈であった。
強力な火行法、正確無比な弓の技術。
挙句此方の攻撃が効いていない。
進み壁に取り付き、破壊し乗り越えなければ赤鋼軍は追い払われるだけだ。
「全てを跳ね除けろ!進み!蹂躙せよ!我等赤鋼軍にはその力がある!」
胴間声が響く。
此れは戦争だ。どちらかぎ敗れるまで続く、軍の、一族の矜持がかかった闘争である。
振り返る事、慄く事、退く事は許されない。
ただ進みただ戦う。
この後に及んでできる事はそれだけだった。
背を向ければ背に矢が突き立つ。
脚を止めれば頭を射抜かれる。
なれば歩を止めねば良い。
だがグレンデルの反撃は苛烈であった。
クラウスは多くの諸外国を相手取って来た。
無論グレンデルと肩を並べた事もある。
彼等の戦いは間近で見て来たが、此度の戦いは過去と比較にならぬ苛烈さであった。
其れは当然の事だ。彼等は窮鼠。己の巣と己自身を守る為最後の一兵まで戦い抜くだろう。
クラウスは歯を剥き出して戦う。
それでこそ戦い甲斐がある。生半可な気持ちのちょっかい程度で侵攻してくる脆弱な他国の軍より、戦い続け研ぎ澄まされ、優れた鋼の名剣の様に鍛えられられた死に物狂いの軍と戦う方が生を実感できる。
イーヴァルンのファラは防壁の狭間から鋭い眼光で狙いを定める。
狙いは指揮官。強い経を感じる。
だが同胞の伴侶と比べれば大人と子供以上差がある。ファラはシンカと言う同胞の伴侶の男を思い出す。
エシナであの男と出会った時ファラは震えた。
荒れ狂い唸りのたうち回る経。
到底敵わない事を一瞬で悟った。
奴に比べればそれ以外は他愛無いとすら思える。
細く目を窄める。イーヴァルンの民は視力に優れる。
皆10で飛ぶ鳥を射落とす。
森渡り達が起こした追い風を読み狙いを定める。
相手は敵指揮官の女。
中年手前の女だ。
その眉間を狙って矢を放つ。
風を斬り裂き風に煽られ矢は進む。
驚くべき事に女はそれを掴み取った。
「へえ?人間もなかなかやるのね」
ファラは薄く笑う。
この戦いでイーヴァルンの価値を人間にしらしめる。
それがファラの目的だ。イーヴァルンの民は閉鎖的に過ぎる。
長い年月をかけて緩やかに人口は減少している。
もし森が切り開かれでもすれば、イーヴァルンの民は数の多い人間に蹂躙されるだろう。
シンカと言う男と対峙しその気持ちは更に強くなった。
数が多い人間には時折あの様な特異な者が生まれてくるのだ。
人間を味方に付けてイーヴァルンを守る。
人間と触れ合いその知識や技術を取り入れる。
その為にグレンデルの戦争に堂々し恩を売る。
例え人数が少なくとも参じたイーヴァルンにグレンデルは恩義を感じるはずだ。
ファラの考えに賛同する同胞は多かった。
しかしそれはファラの説得が功を奏したと言うよりはヴィダードの影響が大きい。
里とシャハラの民に人一倍執着し、侵入する魍魎や他里の者を殺す事に心血を注いでいたあのヴィダードが。
1人里を出て人間の男を伴侶としたのだ。
外に目を向ける者が多く出た。
ファラは再び弓を引く。番えた矢は風を纏う。
イーヴァルンの力を見せつける時だ。
ファラは矢を放った。
纏った強風により矢は回転し、緩い螺旋軌道で目にも留まらぬ速さで飛んだ。
矢は女将ヒルデガルトの4間前の兵士の頭に吸い込まれ頭部と兜を貫いて脳漿や頭皮をばら撒かせる。
そしてそのまま螺旋軌道でヒルデガルトの鼻面に迫った。
ヒルデガルト・ヨルド。二つ名は雪原のヒルデガルト。
ヒルデガルトは近くで兵士の頭が爆ぜたのを見て取ると右手を掲げる。
「っ?!滑る!」
血潮と脳漿に塗れた矢を掴み取るが手の中で回転し、暫しして漸く止まる。
「なんて矢!?」
ヒルデガルトは長距離曲射を止めた。
しかしそれを皆ができるわけでは無い。
凄まじい速さの矢が飛来し将兵を射殺していく。
「進みなさい!我等は天下の赤鋼軍!この雪原のヒルデガルトの麾下よ!矢に怯え尻込むは国辱!」
ヒルデガルトの両手が握り合わされる。周囲の温度が急激に下がる。
大気に小さく光輝く小さな物体が浮き陽光をちらつかせてイーヴァルンの民の狙いを妨げる。
水行法・細氷華である。
ヒルデガルトは捕虜を取らない事で有名な女将で有名であった。
雪原の二つ名は水行法・氷系統の行法を扱う事だけが所以では無い。
彼女は敵に容赦が無く敵対した相手は必ず殲滅する。
投降は許さず凍らせて命を奪う。
其れは単に愛国心故であった。
クサビナを害する者に二度とその気を起こさせない為に苛烈に徹していた。
此度の戦についてもヒルデガルトは容赦の無い考えを持っていた。
原因などどうでも良い。クサビナという国を乱すグレンデルを滅ぼす。
二度と内乱など起こらぬ様に徹底的に叩き、滅し反乱の芽を摘む。
其れこそがクサビナの国民の幸福に繋がるからだ。
そして再び経を練り両手を握り合わせる。
「く、ああああああああああああああああああ!」
大地から巨大な氷柱が突き出る。
それは見る見る伸びて防壁に迫る。
そのままぶつかれば城壁を破壊する事が出来る。
角笛が鳴り響く。
壁上で禿頭の男が手を振る。
サルバだ。
「火行法、灼壁!」
野太い声が法の名を告げる。
直後耀かんばかりの赤い壁が大地より立ち上がりヒルデガルトの氷塔を迎える。
ヒルデガルトは笑う。
「私の氷はその程度では溶けない!」
手を握り合わせたまま更に経を注ぎ込む。
防壁上、サルバの横に女が立つ。ウルクだ。
ウルクは防壁に手をつく。
土壁が立ち上がり灼壁を覆う。
氷塔は轟音と共に土壁を破るが土が絡み付きその直進は止まる。
絡み付いた土は炎で固まり、同時に氷塔は灼熱した土と炎で溶かされていく。
轟音を耳にしたアシャは兵を鼓舞する。
「進め!進めえ!倒れた仲間の命を無駄にするな!グレンデルを落とせ!」
雨月旅団は岩が着弾し爆発する中を縫って進む。
範囲内の兵達が吹き飛んで肉片と共に降る。それでも止まる事はない。
雨月旅団の、アシャの未来はこの壁を超えた先にある。
場所はどこでも良い。
クサビナ北方の土地を得て武功をもとに瑣末でも爵位を得るのだ。
アシャの目は血走っていた。
己に地位が、権力が有れば。
「……っ………」
口元で小さくあの時失った少女の名を呼んだ。
ゲルト・グレンデーラは迫り来る連合軍を睥睨し剣を抜く。
「これ以上我等が祖国に足を踏み入らせるな!やるぞ!赤波!」
ゲルトに続き行兵達が右腕を振る。
青白い防壁の元から燃えたぎる溶岩流が高波の様に立ち上がり連合軍を飲み込む。
人の焼ける異臭が漂う。
絶叫が周囲に蔓延した。
「放て!」
エリヤスの号令のもと青鈴兵が矢を放つ。迫り来る連合兵を射殺し、替わりに射られて命を失う。
「壁に触れされるな!我等の青き壁!青き街!我等の身の!心の帰る場所!」
ゲルトの檄に兵士達が雄叫びを上げる。
己らを目の敵にする黄迫軍を睥睨しゲルトは頬を痙攣させる。
憎い相手だ。グレンデルがファブニルに何かをしたわけでは無い。
過去を遡ってもその様な事実は無い。
ゲルトには分からない。何故ファブニルがそうまでしてグレンデルを憎むのか。
心中ではずっと腹を立てていた。
己らを悪しく言う彼の一族を捻り潰したいと考えていた。
その機会がとうとう訪れたのだ。
中々に強かな兵であった。
前線を指揮しこの秋口から何度も矛を交えた。
惜しい。そう感じた。精強な兵であった。
オスカル・ガレの策略でどれほど痛めつけられようと黄迫軍は前に進んできた。
肩を並べて戦えていれば尊敬に値する兵達であった。
そして憎かった。このグレンデルの土地を踏み荒らす黄色い蛆虫を駆逐せねばならないと経を高める。
青鈴軍の雄叫びを聴きながらケルヴィン・スジルファルは歯噛みする。
青鈴軍は窮鼠である。その名高い武力が己を守る為襲い来る障害に牙を向く。
最後の一兵まで戦い続けるだろう。
ヴィゾブニル侯からの伝令は再三防壁の早急な突破を指示してくる。
不可能だ。
先の大規模行兵により諸侯軍は更に兵を失った。
それでも尚、引く事はできなかった。
「グラントル!梯子を掛けられるか?!」
「敵弾幕激しく被害多数!援護が必要です!」
この戦に参じ失ったものは多い。
自領の兵達、資金、兵糧、時間。
それでも尚ケルヴィンは引き返す事ができない。
スジルファル家は弱小貴族でしか無い。
3年前に発生した黒雲蝗による罔害から領地を立て直す為、ヴィゾブニル侯から多大な援助を得ていた。
老いた父は病に倒れており援助の一部にてその命を長らえている。
ヴィゾブニル侯の援助なくしてスジルファルは存在し得ないのだ。
ヴィゾブニルが進むと言うのならケルヴィンは兵を率いて付き従うしか無い。
ならばこそ如何にして自軍の被害を少なくするかが唯一ケルヴィンに出来る手立てであった。
その時黄迫軍の中から1人の男が盾で守られながら進み出てきた。
「子爵様、レイスロット・ファブル様です」
ケルヴィンはその男に目を向ける。
鷹の目レイスロット。
ファブニルに於いて2番目に高名な軍人である。
盾に守られたレイスロットが大弓を引く。
周囲の盾兵が数人炎弾に吹き飛ばされるが直ぐに代わりの盾兵が代わりレイスロットを守った。
そして狙いを定め矢が放たれた。
飛び交う矢や行法の合間を鋭く突き進み矢はゲルト・グレンデーラの喉元を目指した。
「!?」
ゲルトは避けた。
だがそれは即死を避けただけであり矢は彼の左肺を射抜いていた。
致命傷であった。
隙が出来た瞬間であった。
「今だ!押せ!押せええええ!」
ケルヴィンは叫ぶ。
スジルファル兵は雄叫びを上げて足を早めた。
防壁東側で負傷兵の手当てをしていたジュガはグレンデルの将官ゲルト・グレンデーラが致命傷を負った瞬間を見上げていた。
「あぁあ、治すの面倒だなあれ。やられるならもっと治しやすくやられてよ」
「やっぱりあんた、お義父さんに似てるわ」
ジュガのぼやきにソウカが答える。
「言い過ぎだよっ!あんなに頭おかしくない!」
下らない会話を垂れ流しながらも豚の腸を縫い合わせた手袋をはめた手は止まる事はない。
手に張り付く薄い手袋は鮮血で染まっている。
「ヒンギ!あの指揮官が自爆する前に気絶させて連れてきて!ランポ!其処の10人は適当に粉掛けとけば治るから任せる!ソウカ!其処の重傷者3人頼んだよ!」
ジュガは腕を組み矢継ぎ早に指示を飛ばす。
「東の守備は僕らの支援にかかってるよ!死んで無ければ治せる!優先順位を間違えないで!」
ジュガは運ばれて来たゲルトの容態を確認する。
貫通した矢尻を風行法で切り落とし、酒精を傷口に掛けると一気に引き抜いた。
「ヒンギ!5人追加で処置して!…いい腕。肋骨の間を射抜いてる。残念だったね、まだ死ねないよゲルトさん」
矢を抜き取ると消毒し粉末薬を患部に処方する。
黄迫軍団長グネモ・ファブニルはその男を目にして瞠目した。
連合軍全体がグネモと同じ様に震撼するのが空気を伝わって届いた。
先程胸を射られて崩れ落ちたゲルト・グレンデーラが防壁の上に立ち指揮を取り始めたのだ。
歓声が上がった。
青鈴軍の士気は明らかに上がっていた。
「どういう……?」
口から漏れ出た疑問に答えるものはない。
「致命傷だった筈だ!私は胸を射られて死んだ兵士達を幾人も見て来た!立てるはずがない!」
喚き散らすもの周囲の者は皆顔を青ざめさせて黙り込んだ。
グネモはレイスロットを投入し指揮官ゲルト・グレンデーラを狙撃する事で突破口を切り開こうとした。
始めは高まり勢い付いた黄迫軍であったが、ゲルトの復活は兵の勢いを始めより衰えさせる事となった。
気がつくと剣を強く握りしめ過ぎ、掌の皮膚が破れて血が滴っていた。
この数月、グネモ達は良い様にグレンデルにあしらわれてきた。
どんなに兵が削れようと、もはや引く気はなかった。
仮に当主のシカダレスが撤退を宣言したとしても、
グネモは最早グレンデルに背を向ける位なら自害を選ぶだろう。
「滅びよ…悲鳴を振り撒き……臓物を晒し……苦痛に喘ぎ、血に溺れよ……」
憎悪の塊であった。
その凶相は最早鬼と呼んで遜色は無かった。
ウルリヒ・セフリールは赤い重歩兵を率いてグレンデーラの防壁ににじり寄っていた。
重鉄のウルリヒはアゾク大要塞攻略時にエメリックの指揮下で青鈴軍と肩を並べた武将であった。
ウルリヒはグレンデルに敬意を抱いていた。
気高く忠実で、何より敬服に値する部を持つ。
「ぬううぅぅぅ!なんと苛烈な!」
激しい砲火にウルリヒの部隊は少しずつ削られている。
「ウルリヒ様!前に進むにつれ敵圧力が増しています!」
「はははっ!当たり前であろう!盾を掲げ受け流せ!我等の部隊はこの程度か?!部のグレンデルに喰らいつくのだ!」
ウルリヒは惜しむ。
カヤテ・グレンデルは光であった。
戦場の中で彼女の居場所ははっきりと分かる。
荒れ狂う炎、圧倒的な剣技。
赫兵とは言い得て妙だ。
ウルリヒは彼女にかけられた嫌疑が偽りのものであろうと考えていた。
惜しい。だがこれが貴族だ。
カヤテは輝き過ぎたのだ。
盛者必衰。名門グレンデルもまた然り。
「歯痒い!押し負けるな!進め!お前らが進まんのなら俺が行く!」
巨大な盾を頭上に掲げウルリヒは進む。
砲火を盾で受け流し進んでいく。
ウルリヒにひきずれられる様に配下が突出し始めた。
武勇名高いグレンデルであるからこそこの戦いで滅ぼす事が情けである。
謀略の果てに捕らえられて下らぬ刑にかけられて彼一族が滅ぶのは労しい。
一想いに戦で滅ぶが情けである。
一片の容赦もせず彼等が剣を握ったまま死なせてやることこそがウルリヒが考えるグレンデルに対する慈悲であった。
雪原のヒルデガルトと行法戦を繰り広げるサルバ、ウルク夫妻を横にネス・グレンは進み来るルーファス・エイクスルの部隊を相手取っていた。
「流石エイクスル卿。心躍りますね」
ネスは薄らと笑い攻城兵器を押し迫る破城のルーファスを見下ろす。
「敵進路に黒弾を撒け!火龍箭をルーファス・エイクスルへ向けよ!……放て!」
轟音が鳴り響く。
グレンデルが開発した黒色火薬を用いた兵器、火龍箭が火を噴いた。
同時に周囲に散布された黒色火薬に引火し方々で爆発を引き起こす。
「次弾用意!その間に大筒を用意!引火に気を付けよ!」
第一次ヴィティア・ベルガナ戦線で用いられ、ヴィティア王都スライの防壁を破壊した大筒がグレンデルの手にあった。
ネスはこの戦を楽しんでいた。
人間死ぬ時は死ぬ。軍も敗れる時は敗れるし、大貴族も滅ぶ時は滅ぶ。
長い歴史を誇る国ですら興亡するのだ。
人の命など時の流れの前では瑣末である。
グレンデルが滅ぶのが今か、まだ先かは誰にも分からない。
刹那の時の中で必死に争い己の価値を歴史に刻み付ける。
その結果としてグレンデルの存亡がついて来る。
ネスはそう考えていた。
ネス・グレンは名の通りグレンデル 一族の中では傍流であり、その血は薄い。
しかし巧みな用兵術や兵器開発で今の地位を得ていた。
能力が有ればどの様な者でも地位を得られるグレンデル を好いていた。
「僕はどんな死に方をするんですかね?」
薄らと笑いながらそう呟く。
それまでにどれだけの敵兵を殺すのか。多くの兵の死に紛れて死体すら見出されないのか。
「まあ今そんな事を考えていても仕方が無いですね。敵を最後の瞬間まで斬っていれば、そう悪く無い死に方ができますかね?………火龍箭次弾用意!放て!」
轟音と共に再び眼前が火炎に包まれた。
炎により空気が熱せられ風が起こる。
ネスの前髪が煽られ、それを億劫気に払う。
一族も土地もどうでも良い。
ネスは己の存在意義を求めて剣を振るう。
ルーファス・エイクスルは攻城塔の背後に隠れてグレンデーラ防壁に取り付くべくにじり寄る様な行軍を行なっていた。
あまりにも苛烈な防衛であった。
至る所で起こる爆発。
大地はめくれ、人と地面を巻き上げる。
何某かの兵器を用いた攻撃によりクラウス麾下の兵がまたしも火に飲まれる。
結果は無残だ。
至る所に誰のものか分からぬ四肢が転がり臓物を晒した屍が点在する。
矢で死んだ綺麗な屍もその砲火に巻き込まれて無残にその見た目を変えていく。
「進め!進めええええええ!兎に角進め!前だけ見つめよ!手がもげれば口で綱を引け!足が無くなればその場で行法を使え!我等天下のクサビナ!その王家直轄、赤鋼軍ぞ!」
直後耳が余りにも大きな音に耳鳴りと共にそれ以外の音が一切聞こえなくなる。
十基の攻城塔の内3基が崩れ倒れる所が見えた。
「何が…?」
己の声だけが大きく聞こえた。
前衛が巨大な龍の息吹に襲われたかの様に薙ぎ倒されている。
「体勢を立て直せ!すぐさま行進!敵兵器との間に岩壁を作り塔を守れ!敵がどの様な手立てを保とうとも接地すれば此方のもの!進めええええええ!」
耳が聞こえぬ中ルーファスは叫んだ。
破城のルーファスは上昇志向の塊である。
赤鋼軍に置いても猛将として名高く、不退転の用兵術を持って多くの砦、城を落として来た。
この戦いでもいの一番に防壁を抜き手柄を立ててゆくゆくは赤将・鋼将を襲名し、将軍の地位に至る。
そう考えていた。
ルーファスにとってグレンデル は己の出世の為の踏み石に過ぎない。
青鈴軍の攻撃が苛烈で有ればあるほど己の手柄を輝かせる付加価値となる。
そんな事すら考えていた。
「遅ぇ!ちゃっちゃと進め!」
小柄な兵士を突き飛ばし攻城塔を自身で押し始める。
突き飛ばされた兵士は斜線に躍り出た為、数舜後には首を失っていた。
オスカル・ガレは9人の森渡りから次々と伝えられる戦況を集積し近隣の地図を確認していた。
「…オスカル殿、聞く限り我等は優勢。このまま凌ぎ切れるだろうか?」
コンドールが尋ねる。
「……難しいでしょう。確かに此方の攻撃に敵は翻弄され、現在此方の被害は少ない。しかし攻撃を受けてからの立て直しの早さは目を見張るものがある。敵を削れても精々が2割。これでは防壁は持ちますまい」
「…ふむ。しかしどうにかせねば我等が滅ぶだけ。手立てを考えねば」
「リンレイ殿、南正面が押されています。南西のネス殿の大筒を2門支援に充てる様に指示を。東側の黄迫軍の進みが早い。行法で支援できますか?」
オスカルの言葉にリンレイは応え、手信号で伝達係の森渡りに指示を出す。
オスカルは地図上に並べた駒を鋭い目付きで見据える。
一手遅れるだけで被害が増し、今後が不利となる。
趨勢を逐次確認し誤る事なく最善手を取らなければならない。
空気は張り詰めただ盤面を見据え立っているだけのオスカルの全身から真夏から止め処なく汗が湧き出る。
断続的に鳴り響く爆音が神経に触った。
妻のアイリがオスカルの額を布で拭った。
彼女達を守る為死力を尽くさなければならない。
青鈴兵が、グレンデル一族が、森渡りが、シンカ達が武器と手足を振るい死力を尽くすならオスカルが振るうのは知力だ。
敵軍の動きを読み、指揮官の機微を推し量り、敵の攻撃を凌いで反撃を与え、跳ね返す。
オスカルは己の命運をグレンデルに預けた。
ならばその船が沈まぬ様最後まで漕ぎ続けるだけだ。
共に乗った家族が沈まぬ様に。
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