思い出の青い街



「私は如何しても納得がいかない!」


カヤテが口惜しそうに部屋の卓を殴り付けた。

重厚な樫の天板が拳の形に凹んだ。


グレンデーラの青鈴城の一部屋での出来事である。

自分の実家とはいえやりたい放題だ。


ナウラは訝しさを表情に表すべく片眉を上げる。

しかし実際のところその眉は髪の毛1本分しか上げられてはいなかった。


「また仕様もない話ですか?いいでしょう。拝聴します」


不満たらたらのカヤテの顔を見据えた。


カヤテはナウラを一瞥すると蒸かし芋を貪るユタに視線をやる。


「戦いの後、何故始めがユタなのだ?私とて血の滾りを鎮めたい!」


仕様もない話だった。


芋を喰らうユタの表情は酷く爽やかで何の悩みも無さそうであった。


性欲に多くを支配される人間のさもしさを感じ取る事ができた。


カヤテすらその頸木からは逃れる事ができないのかと内心虚しい気持ちとなった。


だがナウラ自身、さしてカヤテとそちら方面の欲について差が無いことはお首にも出せない事実である。


「そう言う慣例がいつの間にか出来上がってしまったのです」


この話題はナウラにとって触れられたくないものであった。


「そうであろうな!始まる前は必ず…ナウラ!其方だからな!」


案の定であった。

カヤテはずっと不満に思っていたのだろう。


彼女は一見の凛とした佇まいからすれば意外に、貴族出身として見れば案の定我儘なところがある。


「私に言われても困りますね。シンカに言えばいいのでは?」


寝台に横になり脚を組むリンファがちらりとカヤテを見た後、爪を鑢で磨く作業に戻った。


仕草一つ、同性から見ても何処か妖艶さが見て取れるリンファであった。


爪を見る節目がちな目と伏せられた長い睫毛、集中しているのか僅かに開いた口と垣間見える白い前歯。


「リンファ!其方は何とも思わないのか?!」


カヤテの威勢の良い問いにリンファは脚を組み替える。

夜着の裾が乱れて艶かしい太腿が露出した。


「そうねぇ。でもシンカがユタを求めてるのに無理やりっていうのも無粋よね?」


リンファの眉が僅かに歪む。

複雑な思いがあるのだろう。

しかし彼女は過去の出来事からかこう言う話に割と弱気である。


何故自分が、と思わなくもないがこの辺りをナウラが調整している。


ナウラはシンカが誰をどう思おうと彼に着いて行くだけだ。


彼の気持ちが離れない様努力する。それしか出来ることはない。


反面シンカが自分の伴侶達に好かれ続ける様努力している事も理解している。

そんな事を考えている内にナウラはカヤテを揶揄って見たくなり内心うずうずし始めた。


「しかし意外です。淑女淑女と小煩いカヤテが何とも下世話な話を大声で。淑……はて?」


「喧しい!」


案の定過敏に反応されてナウラは楽しくなった。


「あれでは駄目なのですか?」


カヤテは怪訝な顔をする。


「……あれ…?」


嫌な予感も覚えているだろう。

ナウラはにやりと笑う。だが実際は口角が塩粒1つ分吊り上がった程度の変化しか出なかった。


「…口にするのも恥ずかしいのですが、この前私は見ました。シンカの胸元に鼻を擦り付けてくぅんくぅんと乳を求める子犬の様に」


「やめろおおおおおおおおおおおっ!恥ずかしいなら口にするなっ!」


案の定吠えるカヤテが愉快でナウラは笑う。

その横隔膜は震えていたが表情には出なかった。


「そう言うナウラだってよく甘えてるよ?2人になると良く懐いた川獺みたいにくっついてる」


ナウラの顔が途端に火がついた様に熱くなる。

カヤテを揶揄いユタに返り討ちにされる。よくある流れだ。


この流れはナウラの中で一連の儀式の様になっている。

そして最後に必ず


「何か問題でも?伴侶に甘える。妻の当然の権利です」


そう答えるのだ。


「もう。恥ずかしくて顔真っ赤なのに強がって」


ナウラの肌は顔の赤みを判別しにくい。しかし彼女達はお構い無しに指摘する。


此処までの一連の流れをナウラは楽しんでいた。それと同時に自分の事を理解してくれる人達が周囲にいる事を再確認していた。


「でもカヤテが男にはあんな風に甘えるとは初見では想像できなかったわね」


「カヤテはこれで乙女ですから。私は覚えています。グレンデーラで再開した時、卑猥な服を着てまでシンカを誘惑しようとしていました」


「……ゃめろぉ………………卑猥とはなんだっ!」


ナウラは会話を楽しんでいた。

そんな中ヴィダードだけはシンカがいるであろう方向、つまり壁をじっと見つめて微動だにしていなかった。


「でもナウラも意外と甘えるわよね?男なんて歯牙にも掛けないって表情してるのに」


「ナウラってちゅーが大好きなんだよっ!抱きしめられるのも大好きなんだって!」


ユタが余計な事を言う。しかし恥ずかしくとも否定はしない。


人間はこういう時羞恥心で否定することもあるらしいが、エンディラの文化では否定はお導きを軽視する悪行である。


「其方はこういう時否定しないな。その潔さ、恐れ入るぞ」


文化であっても周囲にはそう映るらしい。気にすることでは無い。


「しかしユタ。今回は以前の様に人様に話せぬ様な卑猥な行いはしていないだろうな?」


以前とはエリンドゥイラの宿で行った行為の事だろう。


ユタの性癖は度し難い。高級な宿とは言え鍛えられた聴力だ。

2人の下世話な台詞は聞くに耐えなかった。全てユタが悪い。


「今回はねっ、捕まった僕が鎖に繋がれてシンカに」


「辞めなさい」


流石のナウラも静止する。これを酒の席でカヤテが漏らしたのなら喜んで手帳に書き写し後で質問をする体で揶揄いもするが、ユタには何の効果も無い。嬉しそうに報告するだけだ。手に負えない。


「あー…」


リンファが脚の爪を磨き終わり赤い爪用の化粧品を塗りながら声を漏らす。


「あれは酷かったわね…」


エリンドゥイラでの事だろう。あの頃のリンファの気持ちを想像するとその絶望感は計り知れないだろう。ヴィダードなら自害しかねない。


そんなヴィダードは微動だにせず壁を見つめている。

始めは不気味に思ったがもう慣れた。慣れて数年が経つ。


「そう言えばみんなはいっつもどうしてるの?」


ユタが鈴剣流剣士らしくナウラ達の会話に火栗を投げ込んだ。


「な、なんだ?いつも?1人で部屋にいる時は剣の手入れをしているぞ?」


誤魔化そうとしたカヤテの目は泳いでいた。

今回ばかりはナウラもカヤテを突かずに大人しく無表情を装った。


「何言ってるのカヤテ?閨での話だよ?やだなぁ。カヤテが部屋で1人の時何してるかなんて興味無いよ?」


酷い事をさらりと言うユタである。


折角カヤテが話を逸らそうとしたのにユタにはまるで通じなかった。


「ねえねえ、リンファはどうなの?シンカとどんな事するの?」


尋ねられたリンファは唇に人差し指を当てて少し考える。

綺麗に塗られた爪化粧が赤く輝き艶かしい。


「あたし?そうねぇ。あたしは上に乗って」


「やめろっ!」


賺さずカヤテが会話を阻止する。

普通に答えるリンファもやはり頭の螺子が何処かに飛んでいると判断せざるを得ない。


シンカの伴侶は皆そうだ。自分が最後の良心であるとナウラは気を引き締めた。

ナウラは自覚していなかった。


「えぇ?でも強い男に跨って見下ろすの、興奮しない?」


捻じ曲がった性癖が思わぬ所から飛び出して来た。


「分からないなぁ僕は。その気持ち。でもリンファ?最後は大分負けた感じの声してるよ?」


「……まあそういう事もあるわよね…?それに女は声が出てしまうものじゃない?ずるいわよね」


リンファが顔が赤らまない様に経を使い、血流を操作している事をナウラは見破った。


「私はずっと抱き締めて貰うの。ずっと離れないのよぉ?」


壁を凝視したままヴィダードが徐に答えた。


「カヤテは知ってるよ。すっごく甘やかして貰うのが好きなんだよね?お姫様みたいに」


「何故言った!言わんで宜しい!」


「ナウラも知ってる。丁寧に」


「辞めなさい。流石に下品です」


「……自分の時だけ……何て奴だっ」


ナウラの性癖は秘匿された。


その時ひくりとヴィダードが身動ぎする。

僅かに遅れてカヤテの耳にも微かな足音が届く。距離と音の大きさの比較でシンカだと分かる。


特に気配を殺す事なく歩いて来て部屋の戸を開けた。


自分の部屋に集う5人を見ても全く反応しない。いつもの事だからだ。

何処か釈然としないものがある。


「っおい、リンファ。俺の寝台で爪の粉を落とすな。相変わらずだらしの無い…」


「何よ。いきなり文句?」


「身を清めて来たばかりでお前の粉が着くだろうが」


「粉って!女の身支度に文句付けるなんて無粋よね?」


そうリンファは宣ったがシンカの方が正しい様にナウラは感じられた。


ナウラはリンファを揶揄いたくなりうずうずし始めた。今までは距離感を測りかねて口を噤んでいた。しかし今は場の空気もそこそこ温まっている。行ける、と判断した。


「シンカ。その粉はリンファの頭垢です」


「大分悪質な嘘っ!」


ナウラの言葉にシンカとカヤテが驚いて視線を向けていた。

ナウラはしてやったりと口元を吊り上げるが、其処は蚤1匹分しか動かなかった。


「ねえ!信じて無いわよね?!違うわよ?!」


騒動を尻目にヴィダードがそそくさとシンカの背中に張り付いた。相変わらずだ。


「成る程、自身の身体の一部を伴侶に付ける。身の安全を願う加護の………いえ、申し訳ありません。流石に庇いきれません」


「こわい」


ナウラの発言にシンカが指を加えながら短く被せる。

シンカのこういう真面目な顔で繰り出す茶目っ気がナウラは好きだ。


「だからっ!えっ?皆も見てたわよね?違うわよ?」


きょろきょろ皆を見回すリンファを見てナウラは微笑する。


「あっ!ナウラが悪い顔してるよっ!」


何のことか全く判らない。弄り甲斐が有るなどと全く思っていない。


「申し訳ありません。私の口からは……」


「いや、あんたっ!」


とぼけるナウラにリンファがいきりたった。


「シンカ…私は…悲しいです。リンファが私に怖くするのです」


「何だと?それは本当か?…リンファっ!」


「辞めなさい阿呆垂れ!指加えるの辞めろっ!腹立つ!」


親指を咥えて目を瞬かせるシンカにナウラすら僅かな苛立ちを覚えた。

リンファは相当だろう。


「こわい」


「ああああああっ!」


吠えるリンファの頭をシンカが撫でる。


途端に膨れっ面なままだがリンファは大人しくなった。


この2人の力関係をナウラは未だに測りかねている。

姉とシンカからは聞いていた。しかし歳は全くと言っていいほど変わりない。


数月程生まれたのが早い程度だ。

今のリンファもそうだが、カヤテも、ヴィダードですらもシンカに構われると大人しくなる。


納得がいかないと思う事もある。上手く手懐けられている気がする。


いや、気がするのではない。事実であった。ほんの少しだけ腹立たしい。


「…おやおや。シンカ。その右手を研究させては貰えないでしょうか?」


「……何故?」


胡乱な表情だ。また何かナウラが仕様もない話で火に油を注ごうとしていると考えているのだろう。その通りだった。


「いえ、たった一撫でで女性を大人しくさせる精霊の手。これは研究のしがいがあるというものです」


シンカは額に手を当てて天を仰いだ。


「よく言ったぞナウラっ!シンカは女たらしなのだ!」


案の定カヤテに延焼した。自分という妻がありながら何人も妻をこさえたシンカへのささやかな罰だ。女に囲まれれば姦しいのだ。自業自得である。


「危ない。騙される所だった」


リンファがそんな事を言うが、やり込められていた事実は覆せない。


後で真似してみるのも面白いかもしれない。

シンカは寝台に陣取るリンファを転がして隅に追いやると爪の粉を払い落として寝台に腰掛けた。漏れなくヴィダードも寝台に乗る。


シンカは手拭いを取り湿った頭を拭き始める。直ぐにヴィダードが手拭いを奪いシンカの頭髪を乾かし始めた。

緩い癖毛が掻き乱される。


「そろそろ女性が行水をする時間だろう。行って来たらどうだ?」


勢いよく手に持っていた芋を口に詰め込みユタが走り去っていく。


カヤテもじっとりとシンカを見た後部屋を出て行った。


リンファは爪化粧に息を吹き掛けながら出て行く。


「ヴィー。行きますよ」


ナウラはシンカの袖を引っ張り連れて行こうとするヴィダードを引きずって部屋を出た。


大きな木の盥に溜められた湯を浴びて身体を清める。ナウラは素早く行水を終えて刷子を自室から取るとシンカの部屋に急いだ。


シンカは自室で左手に嵌った5つの指輪を眺めていた。


大方先の戦闘にナウラ達を同道させた事を後悔し、同時に誰も欠けなかった事に安堵しているのだろう。


ナウラはシンカの隣に腰掛けるとその手を包む。

大きくて暖かい手だ。そして努力を欠かさぬ硬い手だ。


それでもその大きさはナウラとさして変わるものではない。


蟲の甲の様に硬くはない。腕は広げても人の身長も無い。


ナウラとさして変わらぬそれで家族や同胞を守ろうと戦っているのだ。


逞しく愛おしい手だった。


「何処へでもお供します。これは私の我儘です」


貴方が気にする必要はない。そう思いを込めて手を握った。


「これでいいのかと何時も考える」


これとはナウラ達を戦わせている事だろう。


「グレンデーラは私にとっても思い出深い街です。踏み荒らされるのは見たくありません。それにカヤテは勿論、サルバとウルク、シャーニの為にも力になりたいのです」


ナウラはシンカの首に腕を回す。

気遣いは嬉しい。大切にしてもらって嬉しく無いはずが無い。


だが同時に自分の事で悩ませている事は申し訳なく感じる。


ナウラとて幾らお導き相手の言う事であっても嫌な事は嫌と言う。


「ずっと、一緒です。身体が離れていても心は常に一緒にいます」


シンカはナウラの肩に額を落とした。


気が張り詰めているのだろう。


シンカは他人を導く事が出来る人物だ。

だが他人を導く事に向いている訳では無い。


元来狭い人間関係の中で穏やかに、強く自己主張する事のない気質である。


ナウラを始め、一族やグレンデルの人間の命を背負う今の環境には心を苦しめられているに違い無かった。


ファブニルとの戦争はひと段落ついたが青鈴兵も多く死んだ。

責任感のあるナウラの伴侶は心を痛めている筈だった。


「私がずっと支えます。ずっと隣で、貴方が死ぬまで。歩けなくなれば杖となり、起きられなくなれば口付けで貴方を起こします。だから、どうか貴方自身を大切にしてください。私の事を大切に思ってくれるのと同じ様に、私も貴方を大切に思っています」


シンカは無言でナウラの頭を撫でた。

頭頂から頸にかけて何度も。


思えばシンカに導かれる前から彼にはこうして頭を撫でられていた。


親にそうして貰った記憶の無いナウラだったが、はじめてのそれは心地よく感じたものだ。

導かれていない男に触れられて拒絶しない自分に驚いたものだった。


今から思えば導かれるのは当然の結果だったのだろう。


体を離しシンカの頬を掌で挟むと接吻をした。

それに応えて貰えて幸福感が胸に湧く。気持ちのまま頬を撫でた。


「懐かしい街です。始めて2人でゆっくりしたのはこの街でしたね」


本当に懐かしい。4年も前の出来事である。

あまりの人の多さにシンカの袖を掴んで歩いた。

恥ずかしい思い出だが、良い思い出でもある。


「…うん。お前は変わらないな。俺は老けただろうか?」


あまり意識した事はなかったが、頬を斜めに走る線がやや深くなった様にも感じられる。


「良いではありませんか。老いてなお隣には若い嫁。男性の理想ではありませんか?」


「……またそうやって余計な一言を。……一緒に皺を深くしていくのも醍醐味だろう…?」


「………」


何も言えなかった。

胸が熱くなり目尻が痛む。

嬉しさと悲しみで涙が零れ落ちそうだった。


見た目では無い、ナウラという聖霊の民個人を求められる喜びと、共に歳を取ることが出来ない悲しみだ。


「…泣いたか。本当に繊細な奴だ。寿命の伸びる薬でも開発してくれれば付き合えるぞ?」


そんな雑談をした。


ナウラがグレンデーラで逢引の約束を取り付けた頃、ユタが機嫌よく跳ねながら帰ってきた。


「……?……何?変な空気」


「ナウラは油断も隙もないからな。何か良からぬ企でもしていたのだろう」


否定の余地も無かったが、こういう時にナウラの鉄面皮は役に立つ。


口を開かず立ち尽くしていれば探られないのだ。


「あーあ。髪が長いと乾かすの大変なのよね。暇なら乾かしてよ」


「自分でやれ」


「あーあ、昔は何でも言えばしてくれたのに」


「捏造するな。そんな事実は存在しない」


リンファとシンカの応酬が始まる。

2人のやり取りを聞くのがナウラは好きだ。

大体最後はリンファの恥ずかしい出来事が晒されて終わる。


やはりというべきか、シンカは幼い頃からしっかりしていた様で粗が見つからないのだ。


「ほんとけち臭い。何よ。他の子達にはしてあげてる癖に」


リンファが言うとカヤテが驚いた顔をしたが、ナウラとユタはそっと視線を逸らした。


2人は知っている。シンカは甘えると大体何でもしてくれる。


リンファは圧のある頼み方だったので拒絶されたのだ。


付き合いの長いリンファがシンカの押さえ付けられると反発する性格を知らないとは思えない。


何処か妖艶で物憂げな様子のリンファが男に甘えている姿を見てみたい。


ユタを誘ってみれば乗り気になるだろうか?怒られるだろうか?

そんな事を考えた。


最後に遅れてヴィダードが戻って来る。

相変わらずシンカの事しか見ていない。

梟の様に凝視している。


唐突にヴィダードが鼻をひくつかせる。


「嫌な臭いが近付いてるわぁ」


最後にぼそりとヴィダードが呟いた。

その呟きの意味を理解するのは翌日の事だった。





翌日の夕刻。

少し風が出て肌寒さを感じる。

シンカは城の外周を流れるイブル川で釣り糸を垂らしていた。

既に鯏が2匹かかっている。


塩焼きにして酒の肴にしてやろうと考えていた。

城壁の上から釣り糸を垂らすシンカの姿は異様であったが、位置が高い事と辺りが暗い為人目についていなかった。


カヤテも誘ってみようかと考えたが彼女は今リンレイと共に軍議に参加している。


考え事をしているとまた糸が引かれる。

3匹目だ。夕まづめに気分が良くなる。良い気分転換だった。


釣った鯏から針を外していると松明を持った男が懸けてくるのが見えた。

何か騒ぎが起きたのか、風に乗って喧囂が耳に届く。シンカは釣りを辞めて立ち上がり、城壁から飛び降りる。


続いて東門に向かう為、民家の屋根によじ登り其方へ向かった。


門まで辿り着く。

歩哨が外壁の上から声を張り上げていた。


土行法を用いて家守の様に壁を昇り興味本位に街の外を覗き込んでシンカは額に手を当てた。


城門の前に50程の兵士の一団が佇んでいた。

鎧は ラクサスの物。薄汚れており長く纏い続け、手入れがされていない事が分かる。


そして知った顔が2つ見受けられた。


1人は2度も剣を交えた ラクサス出身の女戦士である白激のアクア、もう1人が黄迫軍鬼火隊所属のマルギッテであった。


「だから、危害何て加えない。早く入れて。おなかぺこぺこ」


「敵兵を街に入れるなど有り得ん!矢を射掛けられなかっただけ感謝しろ!」


「本当、分からない奴。もう敵じゃない」


「いや、お前ら…… ラクサス人だろ?何度も国境侵犯しやがって!同胞がどれだけ死んだか!」


「困る。私やってない」


「いや……」


口論する彼等を林檎を齧りながら観察する。

すると遠目にもかかわらずアクアが此方を向いた。


「あ」


口をあんぐりと開けて此方を凝視した後シンカを指さした。


「あいつ!あいつに聞いて!あいつが入れてくれるはず!」


全く意味がわからない。

兵士達が此方を向いた。


「誰だ?」


「わからん」


青鈴兵達が顔を見合わせる。


「何?誰なの?」


マルギッテがアクアに尋ねた。


「貴女が探してる狐面。頭のおかしい薬師」


「?!」


マルギッテが目を見開いた。


「良い!やっぱり結構格好良い!有り!」


「理解できない。ルイヒの方が男前だった。ルイヒは女たらしだし好きじゃなかったけど。なんか暗そうだし好みじゃない」


「男は寡黙な方がいい。見てあの鷹みたいな目。私今服の下透視されてる?」


シンカは林檎を食べ終えると芯を指で弾いて捨てると身を翻す。


「待って!格好良いお兄さん。私が間違った。ラクサス1の色男」


アクアは悪い事を言っていた自覚があったらしい。

シンカは防壁上を歩いて彼等に近付く。


「帰れ!其処の女はファブニル一族だろう!?グレンデーラで工作活動でもするつもりだろう!?」


「我等を侵略する汝等を街に入れるわけが無い!」


青鈴兵が叫ぶ。

その内容は至極真当である。


「貴方達なんかに私は興味無いので。私は運命の人に会いに来たの。其処の人よ」


シンカは指差される。

場が混沌として来た。


そうこうしている内に青鈴軍の将校とセンヒが現れた。


「敵が現れたと聞いたが」


将校が守衛に尋ねる。


「はい。何を言っているのかさっぱりで…顔がどうとか運命の相手とか…気が触れているとしか」


「失礼な奴!私はこっちに着くべきだって思っただけ!マルギッテと一緒にしないで!」


「私は戦場で出会った狐面のお方に会いに来たの」


「……またおまえか………」


センヒが低い声で呟きシンカを睨め付けた。

誤解も甚だしい。


「そいつの連れてる女に2回も酷い目に遭わされた。目付きの悪い頭のおかしな奴!面倒見るべき!」


その時センヒの脳裏には涎を垂らして雄鶏の如く奇声を上げるシメーリア人の姿が浮かんでいた。


「……きちんと話さないと撃退するぞ。巫山戯るのは辞めろ!」


将校が顳顬に血管を浮き上がらせて怒鳴った。


「そうだ!妄想を垂れ流すな! 今は戦争中だ!巫山戯るな!」


シンカも便乗して外の集団を糾弾した。

しゃくっとすぐに林檎を齧る。


「シンカ。巫山戯ているのは貴方よ」


センヒが怖いので大人しくする事にした。


結局集団は武装解除され、経を発する事が出来なくなる丸薬を処方され青鈴軍の監視下に置かれる事となった。


アクアとマルギッテは加えて尋問される事となる。

アクアの尋問はセンヒが担当する事となったが、嘘を見破る事が得意なカイマが呼ばれる事となる。


「それで?貴女の目的は?」


土行法で手足を固定されたアクアにセンヒが尋ねる。


「お金とご飯」


カイマが鼻を啜る。真実であるという合図だ。


「他に理由は?」


「こっちに着いた方がいいと思った」


カイマが再度鼻を啜る。


「グレンデーラやグレンデル一族、我々森渡りに危害を加えるつもりは?」


「無い。…森渡り。二度と忘れない。手は出さない。脇腹の傷に賭けて」


センヒはガジュマ王城でシンカの嫁がアクアを負傷させていた姿を思い出した。


「此方は貴女達を受け入れる利点を見つけられないの」


「関係無い。あの頭と目付きのおかしい女、あいつ狐男の女でしょ?女を傷物にしたんだから狐男に責任取らせて。具体的には養っていい男を紹介」


センヒは苛立つ。いい男なら自分が紹介して欲しい。

舌打ちをした。


「…あんまり巫山戯てると処刑するわよ」


「………巫山戯てない。当然の権利」


「違うわね。傷付く前に逃げていれば良かった。相手の力量を見誤った貴女の罪よ。剣を抜いた以上その責任は己にある」


アクアは暫し押し黙った。


「じゃあ私が悪いから養って」


センヒは頭を抱えた。


マルギッテを尋問したのは十指の1人、コクリとカイガであった。


「ねえ、何処?あの人。狐面の人」


コクリとカイガは狐面と聞いて直ぐにシンカの仏頂面が頭に浮かぶ。


「何故狐面の男を探す」


「私の運命の人だからよ」


コクリは椅子に深く腰掛けて顎髭を撫でる。

まるで訳がわからなかった。


「何の運命だ?」


「私とあの人は結ばれる運命にあるの」


話が通じない。コクリは内心で溜息を吐いた。


「あれ?コクリさん、シンカさんって結婚してますよね?」


若いカイガが口を滑らせた。


「けっ………………?!」


マルギッテが固まった。


「結婚!?私という女がありながら………?!…でも大丈夫。シンカ様と仰るのね。私はり、理解のある女だから…ふ、ふた、2人目でも問題無いわ……」


明らかに問題大有りの様子だったがそんな事を口にした。


「え?シンカさんは奥さん5人一度に娶りましたよね?」


お前はいい加減に黙れ。コクリは内心でカイガの鼻っ面を殴った。


「ごっ?!……………ろ、ろ、ろ、ろ、6人目……でも……私は理解のあるお、お、女だから……」


コクリにはマルギッテの身体の変化を感知出来ていた。

激しい心拍、血流の異常、脂汗。

本当に衝撃を受けているのは間違いなかった。

カイガは良い仕事をしたのかもしれなかった。


「いやあ、でも今まで名前も知らなかったんですよね?あの人がそんな人を相手にするかな?僕だったら息抜きの欲求解消相手くらいにしかしないなぁ」


下衆極まりない発言をカイガはした。コクリは今後、この男に厳しくしようと誓った。


そんな内心は他所にマルギッテは全身を震えさせて何か呟いている。


「…………嘘よっ!合わせて!あの人に合わせてっ!私と話せばきっと私に夢中になる筈よ!私、美少女だもの!見て!この美しい髪!肌の白さ!可憐な唇と円らな瞳でしょ!?ねえ!?貴方達もそう思うでしょ?!」


コクリはマルギッテの剣幕に怯えた。

目が可笑しい。シンカの嫁のイーヴァルンの女と同じ狂った瞳だ。


「ははは。君は可憐だと思うよ?そうだ、僕とちょっと遊ばない?楽しいと思うよ?シンカさんは綺麗な奥さんが5人もいるしさ。忘れて僕と試しに……さ」


「ああああああああああああああああああああああああああっ?!」


発狂するマルギッテを尻目にコクリは口を開く。


「カイガ。この後俺と修行だ」


「……え?……何で?」




ある昼下がり、シンカとナウラは2人連れ立ってグレンデーラの街を歩いていた。逢引である。


以前訪れた際と比べると街には難民が溢れているが、軍により管理され治安の悪化は見られない。

人の中を2人して歩く。


以前と異なる点はまだある。あの時は袖を通してナウラと繋がっていたが、今は腕が組まれている。

衣類越しの二の腕に暴力的な大きさの柔塊の気配を感じた。


一見何時もの凍てついた表情であったが、シンカには大層楽しそうに、嬉しそうにしている事が分かった。


頭髪を隠す為にランジューで買い与えた毛皮の帽子はこの時期のグレンデーラには幾分か季節が早いが、本人は気にせず被っている。


髪が上げられて服の襟から覗く艶やかな頸に唇を落としたくなる誘惑に耐えた。


白い襟足の後毛に、耳の上の帽子からはみ出した白い髪。

些細な一つをとっても愛おしく映る。


鼻筋も、僅かに吊った眦も、退紅色の唇も、白く長い睫毛も、綺麗な形の白い眉も何も変わらない。


いや、眉毛は整えてやっているので僅かに異なるか。


白い釦止めの襟のある長袖服に、折り目付きの長い筒布、上から綿の上着を着込みシンカに寄り添っている。


ふと道の脇に赤鼈甲の髪飾りを買った店が有る事に気付いた。

無言で指差す。


「入りたいです」


あの時は遠慮をして興味が有るのに断ったナウラだが、今度は素直に意思を示す。

2人で時を積み重ねて来た証だ。


ナウラが扉を開け、シンカが続く。

扉につけられた鈴が軽やかに音を鳴らす。


「おや。お久しぶりですね」


店の女はシンカ達を覚えていた様だった。


「ご婦人。久方振りだな」


シンカは口角を吊り上げ直ぐに戻す。


「あの時売って頂いた髪飾り、大切にしています」


帽子を脱いだナウラの白髪に女は目を奪われる。

帽子の下、頭頂付近で団子に結ばれた髪の麓に赤い髪飾りが付けられていた。


「…こんなにその髪飾りが似合う人はきっと居ないでしょうねぇ…。貴女にその髪飾りが渡った事が私は誇らしいです。良かったら他の物も見ていってくださいね」


シンカは店内を見回す。ナウラに何か買ってやりたい。そう思った。

もし自分が死ねば、それを大事にしてくれるだろうか?


そんな事を考える。

燈明や食器、首飾り、指輪。何処か手に取りたくなる色合い、形の物ばかり置かれている。


「…お」


暖色のやや暗い照明に照らされ輝く杯に目が止まる。

子供の拳よりも小さな杯だ。


非常に珍しい事にそれは硝子で出来ており、更に緻密な模様が刻み込まれていた。

切子である。

大きさ的に強い酒を注ぐ用途だろう。


明かりを浴びてきらきらと光を振り撒いていた。


「ナウラ」


呼び止めて視線を誘導する。

声と視線に釣られてナウラがやってくる。


「これを2人で買って酒を楽しむか?」


恐らくジャバール産だろう。値はかなり張る筈だ。


「旦那様、それは精霊の民からランジューの商人が仕入れた珍しい杯です」


「うん。ジャバール産の切子細工の硝子杯だな。深い青は黒い鉄粉と満俺まんがんを混ぜる事で色づく。良く入手出来たな?」


「相変わらずお詳しいですね。これを売った商人は道すがら鬼に襲われて商売を続けられなくなりまして、本当はもっと高値で売りたかったのでしょうが、グレンデーラはこうした嗜好品を買う人が少ない物で、随分と安い値段で売りに来ました」


シンカは杯を手に取る。

本当に緻密な細工だった。


「……これ程の細工、我等でも無理だ。300年前にジャバールには精霊の手という二つ名を持ったマイマクルーアと言う男がいたそうだ。この男が作る硝子細工はこの世の物とは思えない美しさだったと言う。彼の作品の1つが年月を経て流れついたのだろう。


「金貨で50枚で2脚。どうだろう?」


「確かにそのくらいの値はするでしょう。ですがこれはもっと安く仕入れました。そんなには貰えません」


「いや、いい。いつになるかは分からんがまた来る。その時まで商売を続けていてくれ」


かなり高い買い物だが飲食以外に余り金を使わないシンカ達だ。余り気にならなかった。

1脚をナウラに見せる。


「良い酒を買って2人で飲もう」


ナウラは嬉しそうに微笑んだ。



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