燃えてかへらむ

木漏れ日が暁に染まる頃、遠くで鶫つぐみが一声鳴く声が聞こえた。


シンカはハッと視線を上げるとおもむろに跪き、大地に耳を当てた。




「どうかしたか?」




令嬢とカヤテは立ち止まり問いかける。




「静かに」




目を閉じ地面から伝わる振動に集中する。




「三方から軽装の足音。進行方向から20、後方から35、左手から20」




「何っ!?確かなのか!」




「おおよその数だが。1人であれば森に逃れるが。お二人を連れてとなれば人から逃れる代わりに魍魎に喰われてしまう。…時間がない」




「何か手立ては無いか?流石に2人を守りながら75は私でも………」




「森の奥へ逃れるか、追跡の35を食い破るか。二択かと」




カヤテはもとより薬師に剣を振らせる気は無いらしい。




「ミト様と其方の事を考えれば森へ逃げたいところだが、森は私には未知数だ。敵と当たる方を取りたいが、ミト様を守ってはくれまいか?」




「程度にもよりますが、できる限りは」




「カヤテ。35人を1人で相手取れるのですか?」




「かなり厳しいでしょうが、この立地。囲まれないよう立ち回れば何とかと言ったところでしょう」




先の戦闘でカヤテの腕は確認済で、相当の手練で有る事は分かる。


だが森の中で戦えるか如何かは疑問だ。


彼女の装備は重い。足場の不安定な森の中で軽装と思われる傭兵と戦うのは至難だろう。




「して、シンカ。何故後方を叩く?」




「前方から此方に向かう部隊の方が後方に比べ距離が遠い。先に後方を壊滅させられれば全部隊が合流するのを防げる。街道からの部隊はやや南に流れている。我々の動きを予測して動いている筈」




「成る程。足音の件が確かであれば、確かに後方の部隊を先に撃破するのが最善手か。ではミト様を頼んだぞ」




カヤテを先頭に引き返す。シンカは笠を僅かに上げ、腰の蜻蜓の翅に手を伸ばす。




 




薬師シンカの言に従い引き返し初めて四半刻も経たないうちにシンカから合図が飛ぶ。虫の羽音を真似た合図であった。




カヤテは立ち止まると剣を抜き、大きな木陰に身を潜めた。シンカはミトリアーレを茂みに隠すと背嚢を降ろして大きな岩陰に潜んだ。




カヤテは薬師や霊媒師の類いと交遊を持った事は無かったが、あれ程豊富な知識を持つものと一言も会話を躱かわした事が無かったと言うのはある種の損失にも感じられていた。




またシンカ自身も貴族を臆する事無く意見を堂々と述べ、それでいてミトリアーレに無礼を働かぬ様気を掛ける社会性を持ち合わせてもいた。




恐らく王宮の貴族達の深慮遠謀しんりょえんぼうをもするりと切り抜ける事が出来るだろう。




大陸は広い。野にはまだ此の様な有能な者が数多く居るのだろう。




カヤテはグレンデーラに戻ればグレンデル公の私兵である青鈴軍にて数千人規模の部下を持つ副長の位を預かる事になっていた。自分の部下に彼の様な男が来てくれればとも考える。




声を掛ければ来てくれるだろうか?




それもこの難局を乗り越えてからだと考えて首を小さく振る。


今やカヤテの耳でも人の立てる物音が聞こえてくる。


此の様な状況に陥ったそもそもの原因は国内にある。




ミトリアーレ公爵令嬢はグレンデル公爵の唯一の子だ。


国内に4家存在する公爵家の内青鈴公せいりんこうとも呼ばれるグレンデル家の現当主は10年程前のロボク王国との戦争で負傷し、陰嚢を失ってから子を作れなくなった。




幸いミトリアーレが居た為直系の血筋が断絶する事は無かったが、好ましい事態ではない。




しかし直系以外の跡継ぎを考え跡継ぎを巡る抗争を行った事例など掘り返せば切りがない。グレンデル一族はミトリアーレに跡継ぎが出来るまで全力で彼女を守る意思で固まっていた。




そこにロボクとの和平条約更新の大使の任が回って来たのである。




和平条約は1年置きに更新されており、確かにグレンデルと対を成す大家、ファブニル公爵家と交互に大使の役を仰せつかってはいるが、まさか唯一の嫡子ちゃくしのミトリアーレに白羽の矢が立つとは誰しもが思わなかった。




王国宰相フランクラ・ベックナートの名指しであった。




第三国のマニトゥー王国での調停式であったが、まさかマニトゥー大使が何者かに殺害されるとは思わなかった。




いや、何者も何も無い。ロボク王国国王であるユリウス3世は10年前にたった一人の息子をクサビナとの戦争で失って以来、その憎悪を煮えたぎらせ、煮詰めて保持して来た。悪名高き難攻不落の大要塞アゾクがその最たる例だ。




あの場でミトリアーレも殺されていればクサビナはどのような難癖を付けられたか分かったものではない。概ねの予測だが調停式で中立国大使を殺害したとして複数国を敵に回す事になっていただろう。




同時に跡継ぎを失ったグレンデルで後継者を巡る内乱が起きてもおかしくは無かった。




カヤテはマニトゥー大使が殺害された折に下手人に遭遇し、その者を切り伏せ犯行に用いた短刀を奪い取っていた。




これには何と愚かな事にロボク貴族の家紋が施されていた。これを土行使いに渡す事で付着した血液と死亡した大使の血液の一致不一致を確認し、ロボクの者がマニトゥー大使を殺害した事を証明出来る。




追っ手を何としてでも撃退しなくては、国が、民が、ミトリアーレが失われてしまう。




道中出会った無愛想だが心優しい薬師も。




丹田たんでんに活力を集中させる。抜いた剣が淡く赤く輝く。


ロボクの過ちはこのグレンデルの赫兵カヤテ・グレンデルの腕を甘く見た事だ。




目前を黒い皮鎧の鉄鬼の団の剣士が通過して行く。


横目でカヤテを視認するが遅い。続く2人目が通過する前に飛び出しすれ違い様に脇を切り払う。




赤く灼熱に輝く剣は重い抵抗感を右腕に残しながら男の肋骨を斬り断ち、臓器を破壊する。


人間が焼ける異臭が鼻につく。




まだ剣を抜ききっていない3人目を袈裟懸けにして屠る頃には残りは停止して武器を抜いていた。




カヤテは左脚を前、右脚を引き八相に己の剣を構える。


鈴剣流・竹林の構えだ。




後ろの右脚を大地に擦り付けるがその足は柔らかく積み重なった落ち葉に柔らかく押し返される。




本来の力は出せそうになかった。




剣兵が16人、槍兵が7人、弩ど兵が5人、弓兵が3人。そして最背後に無手で両手を組み合わせている者が2人。


行兵ぎょうへいだ。




「喰らえっ!」




行兵の一人が徐やおら叫ぶと両手を地に着く。


この仕草、土行どぎょうである。


直様前に出ると目前の剣兵の首に突き入れる。


虚を突かれ、目前の剣兵は何か不思議な物を見たかの様な唖然とした表情でたったままこと切れた。




カヤテはそのまま流れる様に槍兵の槍を潜り両足を力ずくで斬り払った。




「あぎっ!?」




足を失った槍兵が患部を押さえてのたうち回る。




背後で土が槍状に迫り出しでいる。土槍どそうだ。


前に進んだ事で足元からの行法による攻撃をカヤテは躱していた。




カヤテが二人目の槍兵に向おうとすると矢が立て続けに2本飛来する。1本を躱しもう1本を切り払う。奥でもう一人の行兵が両手を突き出す。




咄嗟に体を地に投げ、転がりながら剣兵の片足に斬りつける。




「おっ、あああっ!」




片足を急に失い男が倒れ込む横で大木が切断されギシギシ音を立てながら倒れ始める。風行法ふうぎょうほう・鎌鼬かまいたちか。




切り掛かってくる剣兵の剣をなやし、体勢を崩したところで首を跳ねる。




どさりと腐葉土の上に革兜を被った首が落ちる重たい音がやけに耳に残った。




唐突にぱんと空気を裂く音と伴に土行兵が眼窩がんかに矢を受け倒れた。




矢は兜すら吹き飛ばし、背後の大木に深く突き刺さった。


敵兵の頭はほとんど原型がなかった。


濃い灰色の羽の無い矢。シンカが放ったものか。


恐ろしい威力であった。




「糞。取り囲む筈が。虎の子の行兵も一人失ったぞ!?ルシンドラ様は何処におられるのだ!?」




再度空気が避ける音。今にも弩を放とうとしていた男の首に矢が刺さり、照準がカヤテからそれる。




「ぴっ」




逸れた矢はカヤテに対峙していた槍兵の背に付き立ち、矢尻が胸部から突き出している。




「何処から撃って来ている!?」




当初先頭を走っていた剣兵がカヤテの背を狙うのを辞めて矢が飛んで来た方へ向いだす。




「待て!汝等うぬらの相手はこの私であろう!」




追おうとするも切り掛かられて機会を逃してしまう。


弓は撃てても剣が使えるかは分からない。なんとか凌いでくれ、と心中で念じた。




繰り出される槍を躱して真っ二つに切断すると返す刃で首を落とす。




矢が飛来する。




躱し槍の一撃を往なす。行兵が手を翳かざす。素早く跳躍し、躱しつつ剣兵の頭部に一撃を落とす。


兜を断ち、頭蓋を断ち、首までも断ち割った。




また飛来する矢を兜で弾き、死体に突き立った剣を引き抜き様左手で突き出された槍の穂を掴んで固定すると、首を跳ねる。




「………これが、グレンデルの赫兵か………………」




「勝てぬのか?」




「打ち合えば武器が斬られる。…おのれっ」




「副長がいれば………………」




「糞。女に敗れて生き恥を曝せるものか!」




剣兵が残り12。槍が3、弩兵が4、弓兵が2、行兵が1。




内剣兵3人が薬師の方へ向かっている。




「ぐっ」




背後から男の呻きが聞こえる。それと伴に矢が放たれ、弦を引き絞っていた弓兵の喉に突き刺さる。番えていた矢はその場で地に落ちた。




躍りかかって来た剣兵二人を立て続けに切り伏せ、次に剣を向けると背後から増援の気配を感じる。




どうか持ち堪えてくれ、と心中で祈る。




「増援か!これで………」




「この女、よくもっ!手足切り落として厠女にしてくれる!」




勢い付いた男達に攻め入る機会を作れず立ち往生してしまう。


そうこうしていると一際威圧感がある男が森をかき分けて現れる。




精悍な顔立ちだが鼻が無い。鉄鬼の団の副長ルシンドラ。ロボク王国の王剣流おうけんりゅう剣術指南役サルバトーレ・カルヴァンを破り、鉄鬼の団を王国お抱えの傭兵団にまで押し上げた千剣流仁位を持つ男だ。




カヤテも同じ千剣流の仁位を得ているが、勝てる確証の無い相手だ。




「包囲網を察知するとはな。しかし抵抗もここまでよ。ミトリアーレを何処に隠した?口を割れば我らの奴隷として生かしてやる」




「愚かな。私が命の為に主を売る人間であれば、マニトゥーでとっくに売り渡している。首だけになろうと戦ってみせる」




ルシンドラの背後には50程度の兵がいる。


ざっと剣兵が25、槍兵が10、弩兵が5、弓兵が7、行兵が3か。


先に戦っていた剣兵10、槍兵3、弩兵4、弓兵1、行兵1も相手取らなければならない。


平地であれば行法も使いなんとか打ち倒せるかもしれない。




だが足場も悪く遮蔽物しゃへいぶつの多いこの場所では千剣流剣士としての腕は十全に発揮できない。


どうかミト様を連れて逃げてくれとシンカへ念じながら柄を強く握る。




再び何かが破裂する様な高い音が周囲に響いた。




「何だ?」




ルシンドラが疑問の声を上げた。




行法を行おうとまさに手振りを行おうとした行兵の頭が吹き飛び、身体がどさりと仰向けに倒れた。




その身体はまだ死を受け入れていないのか痙攣しながらも何やら手足を動かしている。




「そっちの茂みだ!もう1人居るぞ!射掛けろ!」




弩兵と弓兵が一斉にミトリアーレと薬師が潜む茂みに矢を射た。




カヤテは岩陰に2人が隠れている事を祈り、先に戦っていた部隊に踊り掛かる。




矢を装填する弩兵2人に駆け寄り立て続けに斬り伏せた。


背後から槍兵2人が槍を突いてくる。




カヤテは気配を察知し振り向きざまに千剣流の奥義を放った。


カヤテの振り向きざまの千剣流奥義岩断ちは2人の槍を切断し、隙を見せた2人に返す刃を首に放った。




1人は腕で防ごうとしたが、腕ごと首が宙を舞った。




その時、カヤテの周囲が俄に明らむ。




身体からぽつりぽつりと赤い燐光が滲み出した。




「何だ…その行法は…」




「見た事がない。何だ?!」




「身体を遮蔽物に隠せ!」




ルシンドラの指示に彼の兵達が従う前に、カヤテの身体が次々と燐光が立ち上り、彼女の周囲を覆う。




「我等グレンデルを貶めようというその魂胆!無傷で成せると思うな!」




火行法・万両千実




カヤテが右手を振るう。


周囲を漂う燐光が一斉に全方位へと放たれた。




燐光が鉄鬼の団員にぶつかると中規模の爆発を起こす。


無数の燐光が次々と人や樹々にぶつかり、周囲を激しい爆音と共に薙ぎ倒した。




樹々の幹やその枝葉、人肉、血液、骨片が舞い散り、周囲は土煙に覆われた。




その煙の中からカヤテに向けて踊り掛かる人影があった。




ルシンドラだ。




ルシンドラは重心低くカヤテに素早く寄り、カヤテに一文字の横薙ぎを放った。




カヤテの炎剣は先の万両千実行使の為解除されている。


2つの方を同時に行う事はできない。




「女風情が俺の部隊をよくも!」




精悍な顔を醜悪に歪め攻撃を放つ。




「黙れ下郎」




剣を受け、逆に斬り掛かる。




「我が一族の!命を!奪った汝等に!言われたくない!」




立て続けに4撃を放つ。




ルシンドラは千剣流の太刀筋でカヤテの剣に己の剣をぶつけて上手く衝撃を逸らしながら攻撃を受けた。




カヤテは内心歯噛みする。


足場の不安定さ故に剣戟に力が乗り切らないのだ。


此方は重装の鉱石製の鎧。敵は軽装の革鎧。




足捌きに差が出ていた。




「はっ!大層な二つ名が付いているからどれほどの物かと思えば、所詮は女。軽い剣だ」




撃ち合いを続ける。体力消耗が激しかった。


慣れない環境に肩で息をしていた。




情けない。しかし此処で倒れるわけにはいかない。


何としてでもミトリアーレを領都グレンデーラに送らなければならない。


例え自分が命を失ったとしても。




土煙が落ち着き始める。


方々に敵の死体が転がっている。万両千実により原型を留めないものも多い。




倒れた肉塊の向こうから武器を構えた生き残り達がルシンドラとカヤテを囲みながら近寄ってくる。




ミトリアーレとシンカが潜む茂みの周りにも死体がいくつか転がっている。




あの薬師はそれなりに腕が立つらしい。




それならば。




ルシンドラとの攻防に行法を行使するゆとりは無かった。




敵の数は未だ多い。ざっと30以上は見て取れる。


カヤテの体力は限界に近かった。




この状況を無傷で打開する術はどう考えてもなかったのだ。




ルシンドラの逆袈裟斬りを左側に打ち落とし、ルシンドラの腰位置に横薙ぎを放った。




渾身の力を込めた強撃だ。


ルシンドラは真っ向から受けるのを嫌い攻防に跳ねながら受け、力を流した。




「うおおおおおおおおおおおお!」




丹田に更に力を込める。体力が消耗されているのが分かる。


額から汗が噴き出し前髪が張り付く。


急激な経の消耗に全身の力が失われて行く。


全身が痛む。


急激に経を扱った身体が壊れて行く。


火行法を行う為の急激な練経は体内に火傷を負わせる。


全身の痛みは血管が裂けている証だろう。


赤く輝いていた剣に炎が纏わり付き、その長さをのばして行く。小手の金属が熱され、剣を握っていた右手が焼け爛れて行くのが分かる。




「ルワン!水膜すいまくだ!ニダは岩戸いわと!間に合わせろ!」




「邪悪な者共め!滅びよっ!」




カヤテは持てる力を費やし数丈も伸ばした灼熱の剣を全方位に一回転振るった。周囲の木々が倒れ、森の中に空き地が形作られる。地の枯れ葉に火がつく。




カヤテは膝を突いた。




20近い兵士が上半身と下半身を切断され、その場に転がった。


至る所でうめき声が聞こえる。


臓器と血が溢れ、異臭が周囲に蔓延していた。




周囲の敵兵は軒並み倒した。


いや、離れていた増援の弩兵、弓兵、行兵とルシンドラが生きている。




「………………俺の部下を………おのれっ!生きている事を後悔させてやる!」




剣を引っさげてカヤテにルシンドラが迫る。


この男に捕縛されれば屈辱を味わう事になるだろう。雑兵なら兎も角、経を急激に行使し、右腕を失った今仁位の剣士相手では赤子の様にあしらわれるのがおちだろう。




いずれ増援もやって来るはずだ。


カヤテの意思はシンカに伝わったはずだ。


此処まで敵の数を減らせる事ができれば後は彼がミトリアーレを連れて逃げてくれるだろう。




自分は最早手遅れ。このまま生きていても彼の足枷になる。




丹田に経を集中させる。


最早これまで。だがただでは死なない。


始めに誓った。首一つになってもミトリアーレを助けると。




身体は外も内もずたずた。しかし経は練ることができる。


取るべき手段は一つ。グレンデル一族の最期の法、火行法かぎょうほう・槍鶏頭やりげいとうだ。




後は頼む。そう念じて。




右手を振ろうとする。だがその前に体が力を失う。




「か………はっ………………」




ルシンドラの拳が甲冑に突き立っている。


青鈴軍の甲冑は凹み、衝撃はカヤテの体内にまで伝わっている。




「は。女戦士はいつでもこうだ。分かりやすい。おい、こいつを拘束し………………お?」




ルワンと呼ばれていた水行すいぎょう兵に灰色の羽の無い矢が突き立ち、鎧ごと胸を抉り取って1人を葬る。




「…い………かん………に、げ」




呼吸がうまく行えない。


シンカにミトリアーレを連れて逃げる様伝えたかった。


しかしそれは叶わない。




その時、ギギギ、ギギギぃという思わず生理的な嫌悪感を抱く気色の悪い鳴き声が、キシキシと何か大質量の物体が擦れ合う音と伴に耳に届く。




「何だ?」




傭兵の一人が呟いた。




何かが森の奥から木々を倒しながら向って来ていた。




地響きが迫る。足から伝わる振動が徐々に大きくなっていく。しかし森が深く、その姿は未だ見えない。




気配が近づくが傭兵達は身じろぎもせずも森の奥に顔を向けていた。


一様に表情に緊張を貼り付け、汗を滲ませている。




突如間近の大木がへし折られた。


姿を表したのは茶色くてらてらと光沢を持った巨大な虫だった。




その蟲は森の中の薄暗がりに更なる影を落としていた。




横幅は10尺ある。縦は何れ程だろう。


足は多数。巨大なつぶらな目が両脇に一つずつ。口蓋脇には長さ1丈も有るぎざぎざのはさみ。




その鋏が大きく開き一番近くに突っ立っていた弓兵をガッチリと咥え、器用に口内へと運んだ。男は断末魔すらあげる事無く咀嚼された。




「引け!引けえ!」




ルシンドラの号令で傭兵達が引き上げて行くが、男達よりも圧倒的に早い速度で移動する巨大な虫に一人また一人と呑み込まれて行く。




カヤテも虫に食われまいと立ち上がるが、ふらついて倒れてしまう。




「大丈夫」




地面に倒れ込む前に体が男に抱えられる。


シンカだった。




「ちと大きいのを引っ張った。なんとか助かったな。あれだけの行法を急に起こせば身体も痛んでいるだろう」




抱えられたまま運ばれて行く。


見上げたシンカは笠を冠っていない。


口元は黒い口当てで隠されたままだったが、凛とした面差しが見て取れた。




「…いい…………おとこ…………では、ないか。さぞかし、面妖な、面構えなのかと…………思っていたぞ…………」




胸が高鳴ったのを茶化して誤摩化した。


一時の感情だ。




「卿の火行で笠が燃えてしまった」




シンカは俯き、責める語調でもなしにそんな言葉を呟いた。




シンカは虫が突撃して行った方向を避け暫く歩くと慌てた様子でミトリアーレが飛び出して来た。




「カヤテ!怪我をしたのですか!?薬師!カヤテは重傷なのですか!?」




公爵令嬢たるもの無闇に市井の者と口を聞くべきではない。


ましてや男なら尚更である。




その禁を破ってでも自分の身を慮ってくれているのだと考えると、右手を失った甲斐もある。




「姫様………経を急に使いすぎただけです。ただ、右腕はもう使い物にならないでしょう」




「右腕………………右腕だけですか?命に別状は?これからも私の側に居てくれるのですよね?」




それは、厳しいだろう。


カヤテは軍人だ。力が無ければ軍に居場所は無い。


仮に生きながらえたとしても女で利き腕を失っては軍には居られないだろう。




経の酷使は全身をずたずたにした。肺は焦げてしまったのか息苦しい。呼吸の音も濁っている。立てるようになるかどうか。それすら定かでは無い。或いはこのまま命を落とすだろう。その可能性は高い。




だが、まだ言う時ではない。




「応急処置をしてやる。街に着いたら詳しく見てやろう。それまで篭手こてははずさない方がいい」




カヤテが記憶を保てたのはここまでだった。








シンカは気絶したカヤテに飲み薬を処方する。


口角から流れ出た血の泡は身体を損ねている証明である。


その後女騎士を肩に抱え、令嬢を連れて森を進んだ。




令嬢にとって余程この女騎士が大切な存在なのだろう。どんな褒美でも与えるからカヤテを助けてくれと何度も懇願されたが、そう言う問題ではない。




褒美などシンカは要らない。


地位も土地も金も、渡鳥の様に各地を放浪するシンカにとって、それらは文字通りの重しだ。




シンカは好きな人間や恩のある人間に力添えし、嫌な者からは逃れ、或いは打ち倒して旅を続ける。




着の身着のまま旅をする。




カヤテの右手は兎も角として急激に強力な行法を行った影響は大きい。目には見えないが彼女の臓器は一部損傷しているはずだ。それに加えて体力の消耗もある。




元々かなり疲れていたのだろう。甲冑を着込んだまま森を渡るなど愚の骨頂である。それに、あの火行。


時間を掛けず急に発した為、本来質量を持たない経が身体に影響を与えたのだろう。




威力に見合った経の錬成は必須だ。




怠れば経は体内で行法へと変質し全身を傷付ける。火を使えば体内で経が熱を持ち、土を使えば小石が体内に生じて組織を傷付ける。


その時に経は行おうとした属性に変化を始め、体内で事象を起こしてしまう。




シンカが茶鯨天牛ちゃくじらかみきりを誘導出来たからいい様なものの、あのままでは悲惨な事になっていただろう。




カヤテに治癒力を上げる飲み薬を飲ませ、皮膚の炎症を押さえる塗り薬を水で希釈して篭手の隙間から流し込むとあたりが暗くなる中再度歩を進めた。




令嬢は流石に闇に包まれると歩けなくなってしまうので手を引かせてもらった。抵抗はされなかった。月が真上に上る頃、漸く青草の群生地にたどり着き、そこで一夜を明かした。




翌朝になってもカヤテは目覚めなかった。令嬢は心配そうに頬をなでる。




ただの主人と臣下という間柄ではないのだろう。


それは姉を案ずる妹の様に見えた。




森で取れた果実を朝食にするとまた歩き出す。


鎧を着た人を背負い森を歩く事は至難である。




しかしシンカは表情を変えずにそれを熟す。




「………カヤテは大丈夫なのですか?」




余程心配なのだろう。今まで頑に直接会話を行わなかったシンカに声を掛けてくる。




「体は、ゆっくりまともな寝具の上で寝れば直に良くなるでしょう。右腕は………………恐らく指が炭化していると思われます」




「私の腕に塗って頂いた薬では治りませんか?」




「あれでは欠損部位は戻りません」




「なんとか出来ませんか」




同じ会話が続く。


正午過ぎの事だ。街道まで僅かと言うところで街道から森へ分け入ってくる人の気配を感じた。




「誰か来ます」




カヤテを横たえ、背嚢を置くと令嬢を置いて前に進んだ。昨夜繕って修繕した笠を冠ると先を見通す。




現れたのは鉄鬼の団の副団長と呼ばれていた男であった。


部下は連れては居ない。


目が血走り、落ち着きなく周囲を見渡していたが、離れた位置で横たわっているカヤテに目を止めるとニタリと嗤った。




「薬師か。ちょっとあそこの女に用があるんだが、そこぉ通してくれるよな?」




顔や装備は所々土で汚れ、一部破損も見られる。




「彼女は怪我人だ。出直して欲しい」




「薬師風情が嘗めた口利きやがって!洒落臭い!」




抜刀し、即座に切り掛かって来た。


早い。


その速度は人類の高峰に位置づけられるだろう。


駆け引きなしの早く、強く繰り出す事を念頭に置かれた剣術。




千剣流。




数百年前の剣豪オルンを起源とした剣術で、戦争にて一人で千人斬ったという眉唾な伝承を元に命名されている剣術である。




この男はその中でも上位の階位である仁位程度の実力はあると思われる。




しかし。


シンカにとっては




「虫より遅く、鬼より弱い」




一撃をいとも容易く右の拳で、素手で払いのけた。


そして裏拳を顎に打ち込む。体勢を崩した男ではあるが、シンカは追撃を仕掛けなかった。




副長、ルシンドラはこの段になり漸く目の前の薬師の異質さに気付いた。薬師にしても奇妙な出で立ち。焦げ茶の片目だけが笠の下から覗いている。




肌の色は象牙色。シメーリア人とアガド人の混血。北方出身との想像がつく。




千剣流の上から二つ目の仁位であるルシンドラを素手であしらうその技量。これ程の腕の者が名もない筈が無い。




「千剣仁位、ルシンドラ」




「………」




「何処の、何流だ。名前は」




「無い。名も名乗らん。女を手込めにする為に襲う様な輩と尋常な勝負などせん。俺は今疲れているのだ。さっさと去ね」




ルシンドラにとってこれ程の屈辱は初めてだった。仁位。誰もが一目置く剣の腕だ。上には徳位しかない。




ルシンドラは言葉にならない雄叫びを上げると、自身の持てる全力をつぎ込み、大きく踏み込んで薙ぎ払った。奥義を放った。割波。波を割る素早い一撃である。


ルシンドラは薬師の体が二つに分かれて崩れ落ちる光景を疑わなかった。




トスっ、と地に刃が突き立つ。


それはルシンドラの愛刀だった。


右腕に熱を感じる。


押さえる。ダラダラと血が溢れている。腕の先はそこに存在していなかった。




地に刺さった剣を見慣れたルシンドラ自身の手が握っていた。




それは直ぐに力を失いとさりと下草の上に落ちた。




「…う………で………」




シンカは翅を仕舞うと令嬢の元に戻る。


波割の軌道を外に避けて腕を斬り払った。


それだけの事だった。


しかしルシンドラはシンカの動きを見切る事が出来なかったのだ。




その翅には血の一滴も付着していなかった。




「殺さないのですか」




「生かして逃がせば、彼が逃げた方向に魍魎が向います」




「ああああああああああああああああっ!?」




ルシンドラが己の切り落とされた腕を抱き絶叫を上げた。


剣士にとって腕は何よりも大切な物だろう。その腕一本で生きているのだから。




他人を害するつもりはあれど、自らが失う事は許容できないのか。


愚かな事だ。この時勢自らの身を守れる保証など何処にも無い。


害意を振りまけば、何れそれは己に帰ってくるものだ。








カヤテが目を覚ましたのは夕刻だった。


窓から喧騒と共に柔らかい夕日が差し込み、カヤテの顔を橙色に染め上げていた。




柔らかい寝台に横になっている。


右手が猛烈な熱を発している事に気付きそちらを向くと、凛とした面差しの深い茶色髪の男が真剣な表情で右手に薬を塗り込んでいた。




「目覚めたか。気分はどうだ?」




「熱い」




大量の汗をかいている。




「汗は後で宿屋の女性に拭いて貰えるよう頼んでおく」




意識がはっきりとしない。朦朧として思い出すべき事を思い出せない。




「二日もすれば良くなるだろう。良く頑張った。もう大丈夫だ」




それにしても落ち着く声音だ。毎日でも囁かれたい。


頭を撫でられるが無礼とも感じなかった。


強烈な眠気を堪える事が出来ず、直に意識を失ってしまった。




次に目覚めた時、部屋には誰も居なかった。


意識ははっきりしており、気怠さも痛みも微塵もない。




痛みがない?




右手を上げると傷一つ無い指が現れる。


そんな筈は無い。腕一本失う覚悟で行法を放った。


籠手の下は炭になっていてもおかしくなかった。




「シンカ?」




声を出すと隣の部屋から物音が聞こえた。


隣の部屋の住人は慌てた様子で部屋を出てこの部屋に向かい、戸を開いた。


木製の扉が軋みながら開かれた。




「ミト様………」 




「カヤテ!」




ミトリアーレは目に涙を貯めて駆け寄ってくる。


随分と心配を掛けてしまったようだ。




「体は何ともないのですか!?」




「ええ。ご心配をお掛け致しました。シンカのお陰なのですよね?」




「そうですね。権力者としてはあるまじき事ですが、返しきれない恩を受けてしまいました。ここはグレンデーラです。漸く、戻ってまいりました」




「ではシンカは私を担いでここまで?」




「愚直な男です。恩着せがましい素振りもなく貴女を担ぎ、私の手を引き、ここまで来ました。そして宿を取って治療を。なかなか出来ない事です」




ミト様は手首をさすりつつ窓の縁を眺めて言った。




「けちが付きましたがこのまま問題なく私が副長に就任できるのであれば彼を副官に据えたく考えています」




「そうでしょうね。貴女が不要と言っていれば私が雇っていたでしょう。………話は変わりますが、これから厳しい立ち位置に立たされます。これ迄十分尽くして貰ったと思っていますが、支えて貰えますか?」




「勿論です。ですが、先日の様にずっとそばに居てと泣いて下さればより気合も入るのですが………」




「あれは!………カヤテが私を心配させるのが悪いのですっ!」




カヤテにとってミトリアーレは忠誠を誓う主であると共に、幼い頃から面倒を見て来た従姉妹でもある。口に出すのは不敬であるが、妹の様に思い接して来た。


また共にいることが出来て嬉しい。彼女が輝いて行く軌跡をすぐそばで見守ることができて喜ばしい。




右手をしげしげと眺める。もう剣は握れなかったはずなのだ。


それどころか彼がいなければカヤテもミトリアーレもどんな目にあっていたか分からない。




こうしてミトリアーレの側に変わらずに立つ機会を与えてくれたあの男に感謝の気持ちが尽きない。




この後カヤテは今後の対応策を相談し、翌朝にはグレンデル城に戻る事に決めた。


その際には恩人である薬師も連れ、彼の恩に少しでも報いる方向で2人の意見は一致した。




しかし、夕刻になっても街へ出たというシンカが宿に戻ってくることはなかった。




彼が取っていた部屋にはルシンドラが所持していた欠けた剣が残されていたが、書き置きも何も残さず綺麗に姿を消していた。




城に帰還し、2人が直ぐに行ったのは風変わりな薬師の捜索であったが一月経っても彼を見つけ出すことは叶わなかった。


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