火種

浅い森の中で樹のうろに身を潜めて雨をしのぐ。


体に獣が嫌う青草の汁を塗りたくり、物音を立てずに樹の息づきを感じ、自身を樹に同化させる。


30間程離れた位置を大型の二足歩行の鬼が横切って行く。


頭頂部の2本の角が木々の間から垣間見える。

角は10尺程度、じれていないので喰鬼がきだろう。喰鬼は好んで人を食すが個体数は少なく浅層には殆ど出ない。

何か喰鬼を触発する事態が付近で起こっているのだろう。


近寄らぬが吉と判断した。鬼が向かった方角を針で確認する。

真西だ。

男は洞から出て南へ向かう。


苔色の外套は渡竜わたりりゅうの腹の皮であつらえた物で、雨水を弾く。背嚢はいのうの木材が水を吸って重くなるのは目に見えていたが、喰鬼が向かった先に人間がおり、そこへ鬼が向かった事を考えると少なくない人死にがあった事が予想できる。


血の匂いを嗅ぎ付けて他の鬼や獣が寄ってくるだろう。

雨が上がるのを待ち、その場に留まれば無事では済まないだろう。

今は南が風下だ。

幾ばくか歩き、斑紋狼まだらもんろうの群れと出くわし撃退した後、街道がようやく見えた。

だがそこには争いの気配があった。


つい今しがた争いが始まった様で、気配に気づけなかった。

男は左の腰に差していた刃物を抜く。

その刃は4尺もある蜻蜓とんぼの羽の縁を研いで刃物と成したものであった。

虫の体は固い物が多いがこの流蜻蜓ながれやんまの羽もその一つである。

経脈や形状そのものを損なう事無く誂えられた剣は自然や生命の美しさすら感じられる。何より、薄く軽く固い。


持ち手を握り山毛欅やまかがしの大木の幹に寄り添い様子を覗う。

まず、金属の擦れあう音と剣戟けんげきの音が耳につく。剣が割る空気の音で使い手の腕も類推できる。


人同士の争い。片方は使える。精鋭だろう。それもかなりの腕だ。振られた剣の速さ。空を切る音。足の運び。千剣流せんけんりゅうだろう。鎧が擦れる音。全身鎧。数は13。


対する勢力は悪くはないが優れてもいない腕前。数は32。時折飛来する矢。間隔からして射手いての人数は4人。


そこまで確認し木陰から目視にて様子を窺う。

精鋭は鋼に青く染めた布で所々を飾った美しい設えの全身鎧を装備している。

観察しているうちに一人が眼窩がんかに矢を受け、一人が3方向から槍に刺されて倒れる。

対する勢力は黒い皮の装備に急所のみ鋼の当てで覆った装備である。傭兵だ。


精鋭はクサビナ王国北西に領地を持つ公爵、グレンデル公の手勢であろう。精鋭達が守る背後には絢爛けんらんな装飾の馬車が往生している。

尊い身分の人間が乗っているのであろう。


対する傭兵は黒地に白抜きの十文字の腰布を巻いている。

有名な傭兵団、鉄鬼の団てっきのだんの構成員であろう。

鉄鬼の団の構成員は現在北のロボク王国に雇われていると風の噂に聞いた事がある。


とすれば国家同士のいさかいと見て間違いないだろう。

関わらぬが吉だ。


しかし今移動しては露見する可能性がある。魍魎が血の匂いを嗅ぎ取って押し寄せる可能性があるが、留まるしかないだろう。

山毛欅ぶなの大木に寄りかかると、大樹の息吹を感じ取り、気配を完全に同化させた。


闘いの趨勢すうせいは動く。グレンデル勢に腕の良い者が2人いる。2人が安定してロボク勢をほふって行く。1人は驚く程に腕が立つ。千剣流の仁位じんい。いや、徳位とくいにすら手が届こうという凄まじい腕前だ。しかし2人以外のグレンデル勢は次々と倒れ、やがては2人を残して皆倒れてしまう。ロボク勢は剣士が8名と射手が4名。

矢の掃射そうしゃと8名の連携攻撃に、2名の内大柄な者の動きが目に見えて悪くなっていく。音に集中する。恐らく片足を負傷している。肩もか。


しかしそれでも4半刻はんときもの間2人はねばるに粘った。だが大柄の方がとうとう倒れてしまう。ロボク勢は4名まで削られていたが、ここまでだろう。もう一方の中背痩せ型の疲労が色濃い。あとはなぶり殺しだろう。


突如、西方から男の悲鳴が響いてきた。矢の掃射が止まる。動揺したロボク勢の隙を見逃さず、中背の剣士は半数を斬り倒した。西方に意識を向ける。


でかい。まずはそう思った。


5丈はある巨大な鬼だ。木々を突き抜けた頭部がここからでも窺える。

単眼、縦長の瞳孔、青白い皮膚、小さな角。眼鬼がんきだ。

眼鬼は視力に優れる。この戦場は当然視野内であろう。

おまけに大食いだ。魍魎も家畜も人も隔てなく食す。逃げても大柄な為追い付かれる。今の内に撤退するべきか。


グレンデルの残党に姿を見られるがやむを得ない。

判断すると直ぐさま南へ向け木陰を出る。

当然中背の剣士に姿を見られる。


「待たれよ!」


鋭く男にしては高めの声が届く。

厄介ごとだ。足を止めるわけがない。


相手が女とて何も変わらない。


「山歩きの薬師と見受けた!薬を売って欲しい!」


背後を見ると眼鬼は逃げ惑う射手を追っているのか、こちらから離れて行くところであった。

これならば少しの間は会話も可能かと判断する。


「良いが、急ぎこの場を離れるのが先だ。車中のお人は歩けるのか?ここでは何もできん」


言うと女剣士は頷き、傍に倒れた手練の剣士の手から剣を取り、亡骸の腰から鞘を抜いた。


「……ナツネ……」


女剣士が遺体の瞼を下ろしている間に馬車の様子を窺う。

立ち往生していることから予測がついたが、馬車を引く二頭の馬は事切れていた。

鈍く輝く大きな黒目が物悲しい。

御者ぎょしゃの男もまた息はない。

眼鬼は遠ざかって行くが、やがてこちらに戻るだろう。

女剣士は立ち上がると馬車に向かい、声をかける。


「ミト様、恐れ入りますが馬が潰れてしまいました。ここからは歩いて行かねばなりません。下車をお願いできるでしょうか」


ミト様。グレンデル公の精鋭。グレンデル公の息女、ミトリアーレ・グレンデルなのであろう。男はひざまずくと頭を垂れた。貴族を敬ってはいないが万難を排すべきである。

静々と衣擦れの音を立てながら人が現れる気配。


「カヤテ。腕の治療もせずですか?」


治療。腕に怪我をしているのか。その薬が必要。そういう事か。


「大きな鬼が出て居ります。5丈は有ります。今はここからは離れねば」


「5丈……そんな鬼が実在するのですか?御伽噺おとぎばなしでしか聞いたことが有りません。……して、誰が私を運ぶのですか?輿こしは無いようですが」


公爵子女ともなれば自分で歩くという選択肢は無いのか。

この様な状況で悠長な事だ。


「私以外、皆討ち死に致しました。ナキは……」


「ナキは私の盾となり死にました。血が付きましたが、替えの衣は無いのですよね?」


「ミト様、衣を変える余裕など有りません。今すぐここを立たねば。ミト様をおぶる事も出来ません。魍魎に襲われた際は私が剣を振らねば……」


「そこの奇妙な出で立ちの男は?何も出来ぬのですか?」


奇妙な出で立ち。確かに全身を外套で多い、植物の茎を纏めた広いつばの笠を被り、大きな背嚢を背負った姿は奇妙ではあるが、その言い草は腹に据えかねるものがある。一般的な薬師の姿と大差は無い筈である。


「この者の身なり、薬師でございましょう。落ち着いた場所で矢傷の治療を任せようと……その様な言いは……」


「事実でしょう」


どうやらカヤテと言う女剣士は平民に対する蔑視があまり無いようである。身形は騎士である。それも高位の貴族と思われる。


高位のグレンデル一族。類稀たぐいまれな剣士。世に名高い赫兵かくへいカヤテ。


遠くで何かの吠え声が聴こえる。

眼鬼のものが、先の喰鬼の物かは分からないが早く立ち去るべきだろう。

女騎士カヤテも同じ判断を下したようで、令嬢の手を引くと早足で歩み出した。


「右手の森に入るのが宜しい」


ここで初めて男は口を挟んだ。


「何故だ」


「風は南から吹いております。南へ向かえば血の匂いに釣られた魍魎を避けられますが、道沿いでは追っ手に見つかる恐れが。どうやら追われている御様子。この道の先は大きく湾曲し東南に向かいます。騎士様もおられます。多少の魍魎は撃退できるでしょう。森へ入るべきです」


「ふむ。薬師の言う事にも一理ある。ミト様。恐れ入りますが」


令嬢は頷く。女騎士に信頼を置いている様だ。


森へ分け入る前に男は馬車から先の痕跡を消した。それから森へ3人で踏み入った。森へ入った途端濃い草木の吐息に包まれ、男は何処か落ち着いてしまう自分に内心で苦笑した。


令嬢はもとより女騎士も森は歩き慣れていないようであった。

腐葉土に足跡を残し、剣の鞘を幹にぶつけ、四方に痕跡を残している。

優秀な斥候せっこうであれば走りながらでも追うことができるだろう。


半刻程歩いた後、目に見えて令嬢の移動速度が落ちた。


現れた当初は高飛車な様子であった令嬢であるが、思いの外耐え忍び、泣き言を言う事もなく付き従っていた。

女騎士も女騎士で、重装備で慣れぬ森の移動に汗をかき、息を切らせてはいたが歩調は乱さず男の後を付いて来ていた。普段から大層鍛えている事が窺えた。彼女は令嬢に気を使いながらついて来ていた。

鎧を捨てれば良いと思うが、誇りだなんだと琴線きんせんに触れるのを避ける為敢えて告げはしなかった。

最悪2人を置いていけば少々の罪悪感と引き換えに生命も永らえられる。


更に1刻も歩けば令嬢は完全に歩けなくなってしまった。

男はここで初めて二人の顔を見た。

何と無しに想像は出来たが、二人の容貌は美しかった。


男の持論ではあるが、高貴な身分の者はその身分や財産を基に美しい女をめとる。

であれば生まれる子供も容姿に優れる筈である。

それが何代も続けば言わずもがなである。


令嬢は細く柔らかそうな黒く長い髪を結う事なく流しており、額飾りひたいかざりを付けていた。額飾りは透明度の高い美しい青色の、恐らく珠を削って誂えたであろう涙型をしている。瞳の色と同じ色だ。


この青の珠は獣の魍魎から取れる。透明度からして強力な種と思われる。しかしけして大きくはない。恐らく20年程生きた八牙猩々やつがしょうじょうだろう。


衣服は薄桃色の襟ぐりが大きく丸く抜かれたくるぶしまでの高価そうな礼服を身にまとい、足元は踵の高い先の尖った靴を履いている。

平地でも歩きにくそうであるが、ましてや森。良く一刻も歩いたものだ。


顔付きはつり上がったまなじりにすっと伸びた眉。鼻は小ぶりだが高くも低くもなく程よく、顎は細く唇は花弁のように控えめで愛らしい。

人形のような、と形容できる17.8の少女であった。


対して女騎士は黒く輝く艶やかな髪をしており、それを眉上できっちりと切り揃えていた。兜により短髪なのかまとめあげているのかは分からぬが、凛々しい印象を与えられる。衣服は甲冑かっちゅう。顔付きは翡翠ひすい色の眼光鋭く、鼻はやや高め。頬骨は張っておらず顎は短刀のように鋭利。薄い唇は酷薄こくはくそうに見えるが実直さも見て取れる、鋭く且つ何処か包容力のある容姿であった。


あまりじろじろ見て咎められても仕方がない。直ぐさま視線を逸らすと周囲を見渡す。

背嚢にある程度の水は蓄えてあるが、ここで出すべきではないだろう。

出したところで直ぐに消費されてしまうに違いない。

この水はいざという時までは取っておきたい。


離れた位置に滑らかな樹皮の、丈の割に幹の細い樹木が立っている。

近寄り右腰の小振りな刃物を抜くと、幹に突き立てた。ひねり込み、1寸程の深さの穴を開けると澄んだ水が流れ始めた。

この木は水辺近くで地中の水分を多く吸い上げ、乾季に備える樹木である。

森渡りはこの木を水筒代わりによく利用する。


椀を2つ取り出すと、一度軽くすすいでからこぼれ出る水を注いだ。


「水を」


2人が休む場に戻り、女騎士に椀を渡す。


「有難いがこの水は飲めるのか?……いや、飲めるのだろうが……」


「人によっては飲みすぎれば或いは腹を下すやも知れぬが」


「む……致し方ない……のか」


受け取った椀を悩んだ挙句あおった。中々の度胸である。


「ん。甘い?特に身体に害がありそうな気配は無いが」


「多く飲まなければ余程体が弱くなければ。だがその味だからな。初めて飲む者は飲み過ぎてしまう」


「分かるぞ!その気持ち」


切れ長で、ともすれば不機嫌にも見えかねないまなこを驚きと喜びで丸め、カヤテは飲み干した。


「ミト様、喉が渇いていればお飲みください。今この椀の毒味を致します」


一口すすり、問題ない事を示すと椀を令嬢に渡した。


この段になり男は女騎士に対してある程度の好意を持つに至った。無論男女のそれでは無いが、この女騎士に対してであれば自分の命を危険に晒さぬ範囲であれば協力もやぶさかではないと考えていた。

令嬢は午後の茶でもたしなむかのように椀を呷る。

一息で全てを干してしまった。


「その者にまだ飲めるかどうか、聴きなさい」


目の前にいるにも関わらず、直接会話は行わない様だ。

そういうものかと考える。この令嬢と自分は何が異なるのだろう?

貴い血。同時に血を流せば片方は輝いて見えるのだろうか。

見えないだろう。人は、いや、動物どころか魍魎でさえ死ねば同じ。

土の肥やしだ。


周囲の気配に不穏なものは無い。追っ手も魍魎も眼鬼に翻弄されたのだろう。

男は笠の鍔を持ち上げると女騎士に顔を合わせた。


「薬を所望しているとの事だったが」


「そうなのだ。ミト様、腕を」


強い血の臭いはしていなかった。微かな血臭。大きな傷が有るとは考えられない。

令嬢は袖を捲る。

僅かでは有るが二の腕の肉が抉れている。出血は少ない。


「強い痛みが有りますが、傷口を清潔に保つ薬があります。それともう一つ、頭痛と眠気を催しますが一晩で完治する塗り薬も」


「誠か!?傷が残らないのか!費用は言い値で払う!あ、しかし今は手持ちが無いな……」


「痛みます。カヤテ。金銭はグレンデーラに着けば払うと伝えなさい」


グレンデーラとはグレンデル公爵領の領都である。

男の足であれば森を直進し2日で辿り着ける。


「姫様。我ら貴族とは異なり市井のものは後払いでは……致し方ないか」


女騎士は最後につぶやくと甲冑の隙間から懐に手を入れ弄ると、美しい翡翠色の珠の付いた首飾りを取り出した。透き通った翡翠色の珠だ。


これも強力な魍魎から得たものだろう。

緑の珠はの体内から取れる。翡翠色は一般的な緑に比べやや青味がかった色合い。恐らく大爪蛟おおつめみずちの、大きさからして25年の歳月を経た個体から取ったものだろう。


大爪蛟は蛇の体に余り使わない四足を持つ大蛇だが、獲物の息を止める際にその大きな爪を利用する。森の中層やや奥寄りを縄張りとする木棲もくせいの蛇だが、極めて攻撃的で鱗が硬く、退治が難しい。


「カヤテ、それは……」


「ミト様。ご心配には及びません。このような物私が持っていても持ち腐れでしょう。薬師よ。この首飾りでお代は足りるであろう?」


勿論足りる。であるが自身の瞳と同じ色の珠が貴族の子女に取って如何なる意味があるかは人生の大半を森で過ごしてきた男でも、それが母から娘が生まれ、その娘が成人した折に贈られる、一度だけの特別な贈り物であることは知っていた。


「騎士様。その首飾りは受け取れない。その首飾りには値段は付けられない。確かに売れば高く付く薬だが、しかし唯一無二の宝ではない。お代は機会があればで構わない」


そんな特別なものを主の軽傷と引き換えに手離すという。

男はこの女騎士を素直に尊敬出来た。なかなかできることではない。


「む……うむ。有難い。母の形見なのだ。そうだ薬師。其方の名前は何と申す?名も分からねば礼も出来ぬ」


騎士が市井の者の名を尋ねる事など早々無い。

余程男を気に入ったと見える。


「シンカと」


「変わった名だな。私の名はカヤテ・グレンデル。グレンデル公爵の姪に当たる騎士である。出身は?」


「定かでは」


森渡りの一族の末裔、シンカの生れは何処の国にも当たらない森の中の隠れ里である。森が何処までが何処の領土であるなど定まってはいない。


従って、定かではない。


それどころか人の手に負える土地ではないのだ。

線引きなど出来ようはずもない。


しかし当然のことながらカヤテはシンカを孤児であると判断した。

生まれも分からぬ孤児など、掃いて捨てるほど存在する。


渡りの一族にとって、その出自を語る事は避けるべき事柄である。


森や山、川、海の詳しい知識を持つ渡りの一族は10世紀前に諸侯の生活を潤すべく捕らえられ、傷付けられていた。一族は数を減らし、残ったものも街に住む者として多くが帰化し、薬師や行兵ぎょうへいに転向し、知識を失伝して行った。


森で生きる力を無くし、深い森の糧を得られなくなった。


だが僅かな者が森や山に残り、知識を継承していた。

隠れ里の人口は今でこそ増加し里も潤っているが、旅の薬師の風体で出生を誤魔化し生きていた。


「では触れさせていただきます」


清潔な手袋をめると怪我をしている右腕を取る。

浅い矢傷である。

血管を逸れたのか出血は少ない。恐らく馬車の仕切り布で威力が削がれたのだろう。運がいい。


「グレンデル卿。傷口に目に見えぬ良くない物が付いている可能性がある。それを排する為に黒蓬くろよもぎの搾り汁を塗り込みたいが……痛む。とても」


「ミト様。とても痛む薬を塗るとの事ですが如何致しますか」


「構いません。傷口を不潔にして腕を失うという話を聞きます。一時の痛みなど腕を失う事に比べれば些末なものです」


その後令嬢が痛みにもがき苦しんだことは言うまでもない。

清潔な布を巻き、都合半刻程休むとまた歩を進めた。

魍魎と出会うことなく夕刻を回ると途端に森は闇に包まれる。

シンカは日が沈む前に青草の群生地を見つけると、近くの大樹付近で夜を越すことに決めた


ここまで貴族2人は文句も無く付いてきていた。


道具袋から握り拳大の石を3つ取り出す。白濁色の石が1つ、何の変哲もない灰色が2つ。

灰色2つを両手に持つと打ち合わせ始めた。

カンカンと周囲に音が響く。


「その音は魍魎を呼ばないのか?」


「そこの青草は獣が嫌う臭いを放つ。鳥と鬼は夜目が利かない。爬は大概が日中しか活動しない。魚は陸には住めない。だが虫は違う。この石同士をぶつけ合う音を虫は嫌う」


気丈な装いを保っている2人ではあるが、内心は夜の森におののいているのだろう。


一般的な夜の森での過ごし方は、出来るだけ森から離れたところで大勢が一晩中火を炊き、見張りながら行うのだが、森渡りからすればそれは愚の骨頂である。大きな火であれば獣は避けるが、鬼に視力を与えてしまうし、何より浮翔系と甲殻系の虫達の突撃を誘う。

反面軍隊程の規模であれば大抵の魍魎は姿を見せない。


後は蛇系の爬に気を付けさえすれば無事に一晩を過ごせるだろう。


昼過ぎ同様の手段で水を得て、シンカ手持ちの干し肉にて夕食としたが相変わらず文句は出なかった。

貴族では珍しいだろう。

やがて木にもたれて令嬢が寝てしまうとカヤテが口を開いた。


「本当に、かたじけないな。市井の者は貴族を嫌う。其方程森に慣れていれば我々を置いて逃げ去ることも容易だろう。謝礼が目当てにも見えない」


「金が幾らあっても森には持って入れん。街で財を蓄えても蟻や蜂の巣替えや鬼蝗おにいなごの大移動の前では糞の役にも立たない。分相応な行いをして身の丈にあった生活をする。それでも十分だと思っている。今回は俺の手の届く範疇で出来る事だったから協力しただけだ」


「無償でか?」


「まあ薬代程度は頂くが。しかし貴族のその考えが気に食わん。何かが手に入らなければ何もしない。利益がなければ目を向けぬ。世の中は其処まで無価値か?」


「身につまされるな」


シンカは背嚢から木の容器を取り出すとカヤテに向け投げた。


「とても希少で強力な薬だ。雨粒一つ分を取り薄く御令嬢の傷口に塗るのだ」


カヤテは指示の通りに薬を塗り、蓋を閉めた容器を手渡しで返して来た。


「しかし、本当に森に詳しい。薬師とは皆そういうものなのか?きっと我らだけであったら今頃命は無いのだろうな」


「薬師は森の糧を拝借して生きている。知識がなければ糧は得られない」


僅かに見える空は完全に光を失っている。

闇の帳が下りる。

ここからは人の世界ではなくなる。

しかしシンカにはカヤテの顔が見えていた。

この程度が見えなくては深層には立ち入れない。


貴族。大衆御用達の酒場で貴族について良い噂を聞くことはなかった。

恐れと妬みが混ざり合った複雑な感情にてその名は語られる。

しかし。目の前の女は想像していた化粧くさく薄っぺらで虚栄心の張りぼての様な印象とはかけ離れていた。


大地は狭く、人の心もまた狭い。


だが、自分の何と無知なことか。

世界は自分が思っていたよりずっと広い。

シンカは己の未熟さを痛感していた。


「グレンデル卿はクサビナ王国以外の国を訪れた事は?」


「ミト様の護衛としてマニトゥー、ロボクに居たが……この国とさして変わりはない。だが冒険家と言うものに聞いたのだが、世界には至る所にこの世のものとは思えない美しい景色があるそうだ」


確かにそういった絶景は各地に存在する。

しかしあまり意識して来た事は無かった。

冒険家と意見を交える機会を持った事は無いが、絶景の為に各地を巡るというのは一族の掟にさしさわる事も無いし、見聞を深める機会にもなる。

それに純粋に見てみたいと思った。


自分の生活をまずはそこから変えてみようと。


その晩は特に何事もなく、無事に夜が明けた。


一晩で令嬢の腕の傷が治るという薬の効能に流石の彼女も瞠目どうもくする事態もあったが、平穏に出発し、休憩を挟みつつ一日中歩き続けた。

順調に行程を消化できていた。


夕刻までは。

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