罔象の杜

またんご8

森渡り

光の届かぬ深い森。

光源の一つもない闇の世界。奥深い森は風すら吹かない。


目が慣れれば薄ぼんやりと周囲の様子が読み取れる。

下土したつちも樹木の根も、大振りな岩石すらも、何かを覆い隠す様に暗緑色の瑞々みずみずしいこけが一面蔓延はびこっている。

苔が生える前の風景を想像する余地すら与えぬ隔絶した世界であった。


大木はともすれば檻の様に聳えそびえ立ち、見る者に拒絶感を与えている。一本一本踏鞴牛たたらうしの鼻先から尻程の半径がある。時折熊の爪で分厚い5寸もの苔の層が切り裂かれている箇所がある。芋熊いもぐまの爪研ぎであろう。しかし下地の大木は半寸もえぐれては居ない。石化した硬質な砥木とぼくは大型の鬼がぶつかっても倒れる事は無い。芋熊程度ではさしたる影響も与えられないだろう。


人を拒む、億年を経たよわいの森。


人里からは年は優に離れた深層である。


強塩基の分泌液をにじませる障苔さわりごけ絨毯じゅうたんを踏みしめ、音も無く人型の影がく。


鬼ではない。人の、それもまだ若い男である。


男は緑褐色の膝丈までの外套がいとうですっぽり身を包み、同素材の三角頭巾で頭部を覆い隠している。丸く抉られた二つの穴は視界を確保する為の物だが、何か透明な素材で空気に眼球が触れないよう工夫が施されている。の鱗であろう。


男の素肌は1寸足りとも外気に触れない様あつらえられていた。


男は砥木に刻まれた爪痕を観察する。抉られた障苔の上に白い目の細かい粉がこびり付いている。それを腰の道具袋から取り出した小箱の中の半透明の容器に採取する。


芋熊は2本の爪先から強酸を分泌する。芋熊は砥木の森の王者である。


強塩基の森に住むには塩基に耐性を持つか、芋熊の様に酸を分泌出来るかの2者に限られる。


鬼、獣、虫、爬、鳥が住む浅層、中層を超え、芋熊が障苔のこびり付いた砥木で爪を研ぐことによって反応し、生じる塩を採取しにはるばる深層のさらに奥、この齢の森よわいのもりに赴いていた。


苔の色と同化し、滑る様に森を渡る。彼は森渡りもりわたりと呼ばれる、森と共に生きる一族の末裔まつえいであった。


男は何かに気付き、頭上を見上げた。


周囲を眼球の動きのみで素早く確認するとその場から飛び上がる。


1間いっけんも上の砥木の枝に飛びつくと勢いを利用して枝に軽業師かるわざしの様に飛び乗り、太い幹に身を寄せ、外套の内側、彼の背中に固定していた短弓たんきゅうを構えた。


灰色の木製の短弓である。長さは3尺強しかない。この弓は樹齢50年の硬化し始める直前の砥木の若木を乾燥させた強弓ごうきゅうである。若木とは言え砥木の弓を扱える人間は多くない。


その弓に土鬼どきの背毛をったげんを掛け、砥木から削り出した矢を筒から取り出しつがえる。矢はただ削り尖らせたもので羽も付いていない。代わりに後ろから握りこぶし一つ分の位置に返しがあり、そこを持ちつがえていた。


常人にはけぬ弓と弦だ。

見通しの悪い闇の中で狙いを定め、射る。

矢が空を切る音と何かに突き立つ鈍い音。

男は見事、虫の右複眼を射抜き仕留めていた。障苔と体色を同化させ、潜み獲物を狙っていた蝋灰蟷螂ろうばいかまきりの頭は砥木の矢により地に繋ぎとめられていた。自由にならぬ身体をきちきちとばたつかせていたが、やがて動かなくなった。


男はじっとその動きを窺っていたが、蝋灰蟷螂が事切れた事を確認すると音も無く地に降り立った。1間もの巨大な虫だ。ではあれど、虫の中では小さい方である。折り畳まれた鎌は鋭い棘が連なり一度捕まえた獲物を逃さない。


遺骸いがいに近寄ると右手で右腰の小振りの刃物を引き抜き横たわった蟷螂の腹部に差し込む。胸と腹の境目に握り拳大のたまが埋まっており、傷付ける事のないよう丁寧に取り出した。


珠はやや濁り気味ではあるが、深い赤みを帯びつつ透き通っている。


魍魎もうりょうは森の精気せいきを蓄え、こうして体内に珠を宿すと言われる。


珠の元は森の精気と言われているが、森渡りの一族では人で言う結石けっせきに当たるのではないかと考えられていた。


男は利用した道具を片付けると歩みだし、更に奥深くに分け入った。


森は暗く、静寂に満ちている。

だが其処彼処そこかしこに魍魎の気配が満ちている。

人は生きるに当たり魍魎にあらがうのではなく、逃げる事で営みを続けている。


大地は多くを森が占め、畠を耕す地も多くはない。

生活する為の資源の殆どを森から得る。

生きる為には森が不可欠であり、そしてその森によって死が与えられるのだ。


国々は町を高く厚い岩壁で覆い城塞都市を築く。

各国の首都周辺は軍による魍魎の駆逐くちくが進み畑が広がっているが、獣の達が夜な夜な若木を森の境界に植え、森林を増やそうとする為これ以上の拡大は望めない。


そして僅かな領土を巡り国々は争う。


人々は森の恵みにより食うに困る生活は送ってはいなかったが、多くの力の無い人々に取っては生きづらい世であった。

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