壁の前
青金山脈地下遺跡から抜け出しブナハーオに挨拶を告げると直ぐに元来た坑道を目指した。
晩餐に誘われたが石ころや砂など食べられるはずもない。
3日かけて不時着した峰まで辿り着いた。
鷹に餌をやり自分達も食事を取る。
少し早い夕食となった。
食後は射し込む夕陽を浴びながら、白山脈の冠雪が陽に照らされて橙色に輝いている様子を皆で見つめた。
夏中月も下旬に差し掛かり、地上は汗ばむ陽気の筈だが此処は風も強く肌寒い。
皆の外套が強風に煽られてはたはたとたなびく音が耳についた。
一晩を過ごすと鷹に籠をつけ再び旅立った。
アルアウラーダ川を越え白山脈を越え、イブル川を越えて鈴紀社のある張高山3合目に舞い降りた時、季節は夏下月に入っていた。
青緑の門と縞状岩石で作られた高い壁。懐かしい限りだ。
メルセテ風の建築だが鈴紀社の門人達は皆コブシ風の装いをしている。
不思議な文化である。
4年前此処に訪れた時、シンカは1人だった。
ユタに連れられこの景色を見た時何を思ったか思い出そうとした。
何にも期待はしていなかった。
カヤテに諭され大陸中の景色を記憶に残そうと朧げながらに考えていたのだったか。
それは心の傷を癒す過程だったのかもしれない。
自覚はなかったが、リンファによって自分ではどうする事も出来ない傷を心に負い、それを癒そうと足掻いていたのだろう。
しかしそれもナウラによって癒された。
リンファは罪深い女だ。
後で意地悪をしてやろうと下らない事を心に誓った。
社の中に足を踏み入れる。
縞の石畳に黒の石材の家。窓枠は門同様青緑に塗られている。
以前と変わらぬ光景だ。
一行はユタの家へと向かった。
相変わらず良い家だ。
「え?これがユタの家?!大きいわね。」
「そうだよ。僕は前に住んでた外れにある小さな小屋で良かったんだけど、仁位になった時にそれじゃ示しがつかないって。」
小さな部屋でずぼらに暮らすユタの姿を想像するのは容易かった。
「シンカは此処でユタを手篭めにしたのか?」
「失礼な。この様な重そうな女に迂闊に手を出す程危機意識が低い男だと思っているのか?」
以前のユタをあまり知らないリンファは小首を傾げた。
リンファはユタの事を修練に熱心ではあるが穏やかな女だと思っている節がある。最近のユタには重いという印象は抱けないだろう。
当時のシンカは初対面の自分に粉をかけるユタに恐れを抱いたものだ。
しかしシンカに粉をかけた結果、復讐を果たす事が出来たのだこら彼女の目、直感は間違っていなかったのだろう。
家の中に入る。ユタ自身此処に戻るのは3年ぶりだろう。
しかし家の中は3年空けていたにしては埃が積もっていなかった。
妹弟子が定期的に掃除をしているのだろう。
焦げ茶の木製の落ち着いた家具も配置1つ変わりない。
今から思えば全て自分で選んだものでは無いのだろう。用意してもらったに違いない。
「良い家です。ユタ。此処に戻っても良いのですよ?いつも勉学も遺跡探索も付き合いたく無さそうにしていますし。」
「もう!意地悪しないで!」
ユタの返事にナウラが僅かに目を細める。
傍目からは無表情に見えるが、これでナウラはにやついている。
ユタの家で荷を解くとシンカはユタと2人連れ立って質素だが異国情緒あふれる街並みを歩いた。
千剣流の総本山があるグレンデーラ南の千峯堂よりは規模は小さいがそれでも十分な広さのある街だ。
街の最奥にその建物はあった。
縞状の岩石に青緑の塗装は同じだが、周囲の建物に比べ一際大きい。
中から剣士たちが鍛錬を行う踏み込みや掛け声が散発的に聞こえてくる。
これが千峯堂だと型を行なったり素振りをする掛け声が揃っているのだが、この様な所で流派の差が出るのかと面白く思った。
ユタが先立ち、青緑の重厚な門を開き足を踏み入れる。
玄関があり靴を仕舞う下駄箱が傍に立っており、上がり框の向こうにもう一枚引き戸が見受けられた。
靴を脱いで揃えると框を上がる。
ユタが気負いなく引き戸を開いてすたすたと躊躇いなく踏み入った。
「ガンジ様いる?僕結婚する事になったから少し時間欲しいな?」
騒がしく鍛錬に勤しんでいた門弟達の動きが止まり暫しの静寂が訪れた。
「何だと!?ユタ姐さんが、結婚?!」
「馬鹿な!?俺が修練の果てに打ち勝って娶るつもりだった筈が!?」
「お前には無理だ!俺が!」
「あいつ、絶対行き遅れると思ってたのに私より先に!?」
「あのユタ姐さんが・・どんな男の人なんだろう?」
「自分より強い男って言ってたもん。強いんじゃないの?」
「格好いい人かな?」
爆発でもしたかの様に門弟達が口々に話し出した。
そろそろと気配を消して入場したシンカだったが、その身を隠せる筈もなく好奇の視線に晒される。
「馬鹿な!?あれは相当腕がたつぞ!?勝てる気がせん!」
「彼奴と戦場で相対したら迷わず逃げるな・・」
「え・・・彼奴、上手いことやりやがった!私も修行やめて男探しに行こうかなぁ」
「凄いよ!見てあの前腕筋!筋が!筋が凄い!」
「皆んなは分からないと思うけど・・あの人の経、濃くて多くて・・何あれ?」
「嘘。ユタ姐さん、男の外見なんて興味ないみたいな事言ってたくせに大分いけてる面してるよ!?」
騒ぎ立てる声にシンカは居心地悪く感じていたが、ユタは気にせずつかつかと修練場の床板を踏み、奥に腰掛ける初老の矍鑠とした総髪の老人に向かった。
ざわつく中シンカもそれに続く。
修練用の袴を纏ったその男が鈴剣流・徳位であり鈴紀社の場主を務めるガンジ・ハイネンなのだろう。
座る姿、視線の動きで相当腕がたつことが分かる。経も扱える筈だ。
「ガンジ様聴いてた?僕結婚するから前にサナ達にやってたやつ、やってよ。」
「・・ユタ、お前と言う奴は・・」
ガンジが額に手を当て唸った。図らずしもシンカは全く同じ動作をしていた。
ガンジと視線が合い、気まずさに手を下ろす。
シンカはガンジの前に座り頭を下げる。
「お初にお目にかかります。シンカと申します。」
「ご丁寧に。ガンジ・ハイネンだ。」
「早速ですが。貴方がユタの親代わりと聞き伺いました。ユタと夫婦になります。挙式を挙げさせてもらいたく伺わせて頂きました。」
ガンジはふむ、と顎鬚を扱きユタを見遣る。
「少し見ぬ間に強くなった。・・シンカ。ハンタという名に聞き覚えがあるか?」
「妹の夫の祖父にその名の男がいます。」
「その男の妻の名はヨウカと言わんか?」
「その通りです。俺の槍の師の伯母です。」
「・・そうか・・・お2人は壮健か?」
「ハンタは十数年前に死去しています。確か柿を食いすぎて腹を壊しそのままだった筈。ヨウカは5人の子供と13人の孫と同居しながら釣りを嗜んでいます。」
リンスイの夫、ハンケンの祖父がハンタ。ヨウロの伯母がヨウカである。
「・・そうか、そうか・・・。ハンタ殿に儂は師事していた。お主はハンタ殿に似た雰囲気を持っていたからもしやと思ったが・・・。矢張り年をとっても食い意地が張ったままだったか・・。ヨウカ殿も相変わらず釣りがお好きなのだな・・」
ガンジは昔を思い出しているのかぼんやりとシンカの後方を眺めていた。
「・・え?なに?」
隣でなされている会話すら聞いていなかったと思われるユタがシンカとガンジを交互に見較べていた。
「森渡りの師を見つけたのならその腕のあげようも納得いく。」
ガンジの対応はとても親しげだった。
ユタを強姦しようとしていたとは言え息子を殺したとはとても口にできない。
「ねえガンジ様。」
「みなまで言うな。」
ガンジは立ち上がると手を叩く。
それを見た門弟達は一斉に修練場から去っていった。
残ったのは3人。皆なのある剣士だ。
3人が間隔をとって立つ。審判だ。
「ユタはこれでしょ?」
ガンジの面影を持つ女が木刀を2本投げ放つ。
ユタは其々左手を逆手に、右手を順手に握った。
何処か惚けた表情が崩れ、不気味なにやつきを浮かべ舌なめずりをした。
「どうやら悲願を達した様だな。その剣、血に汚れ錆び腐っていないか確かめよう。」
「ひひひっ、ひっひっひっ、けっけっけっ」
だらし無く垂らした下から唾液が糸を引いて垂れた。
「嘘!?自分の旦那にそんな変態じみた顔普通見せる!?」
木刀を投げた女の高弟が己の血尿を眺めるが如く目を剥いた。
「ユタ。舌を出すなと言っているだろう。」
シンカは指で小石を弾きユタの尻に当てた。
「痛っ!」
慌てて尻を撫でている。
それを見てガンジが淡く微笑んだ。
「成る程。良い師で夫の様だ。3人目の子供と思い育てたユタを任すのに嫌はない。・・さあユタ、見せてみろ。」
ガンジは木刀を構えた。
左足前、足幅は大きく腰は低い。
無手の左手を突き出し、木刀を握った左手は頭上にあてがった。鋒は水平に寝かされ背後に向いている。
刃の構えだ。これだけでもガンジの腕が分かる。
対しユタは身体を小刻みに動かし始めた。振り子の構えだ。
ユタは普段の愛らしさとは打って変わったにたにたとした気色の悪い凶貌でガンジを見遣る。
「行法無し!死傷不可!勝負判定!始め!」
普段なら直ぐに突撃するユタが足を踏み出さない。
それもその筈。鈴剣流刃の構えは視野の範囲の間合いに入った敵を上段からの一撃で屠る攻防一体の構え、技である。
纏経を行えるであろうガンジの刃の構えから放たれる奥義、顎門はシンカですら簡単には近寄らせないだろう。
鈴剣流最強の名は伊達では無い。
ユタはガンジの構えを崩そうと身体を動かしながら移動を始めた。
ガンジは回り込もうとしても構える向きを変えてそれをさせない。
突如、ユタは深く沈み込んで加速した。ガンジは体勢低く間合いに入ったユタ目掛けて即座に奥義を放つ。
剣はユタの肩を激しく打つ。
ゲンジはそう確信した。しかし現実の剣はユタをすり抜けた。
違う。ガンジはすぐに悟る。錯覚だったのだ。
ユタは深く沈み込み一歩踏み出すや否や経をまとわりつかせた強靭な脚力で方向を転じていた。
更に方向を転じる直前に本来の進行方向に纏っていた経の一部を飛ばしていた。
経は目に見えない。しかし気配に敏い者にとって無視できるものではない。
緊張に支配された空間で刹那の時間しか思考を許されない緊張下でガンジはユタが直進したと認識したのだ。
だから空ぶった。
無手・小槌。
それがその技の名であった。
「それはっ!」
左方から斬りつけるユタの一撃を剣を立てて何とか受け、ガンジは踏鞴を踏んだ。
更に逆手で逆袈裟に切り上げる一撃を石突きで防いだ。
ユタの渾身の不意打ちを防ぐ素晴らしい防御であった。
「うへへっ、げっげっげっ」
下品を通り越して気色の悪い笑い声をあげてユタは次の技に移る。
逆袈裟に切り上げた左半身の動きを利用し素早く独楽のように回転しながらガンジへ跳ねたのだ。
柳斧流奥義・松鞠。
本来で有れば斧の勢いを利用し回転して数度打ち付ける技をユタは剣で再現した。
4度の斬撃がガンジを襲った。ガンジは素早く後退して3撃を交わし、最後の1撃を剣を立てて防いだ。
そして直ぐに反撃に移った。
頭目掛けて振られる斬撃をガンジは自身の剣を振り上げがてら当てて弾いた。
王剣流・滝割り。
ガンジから王剣流の技が出た事に3人の高弟は驚き小さな声を上げた。
ユタの頭部目掛けて放たれた斬り放ちを彼女は半身で交わし左の剣で抑える。
そして右の剣を横薙ぎにした。
ガンジは屈み躱しながらユタの左足を狙った。
ユタは3尺程跳び上がり躱しつつ眼下のガンジの首を狙う。
ガンジは動かなかった。
周りで見ていた者はガンジが易々と打たれると見て取っていた。
しかし、先の焼き直しの様にユタの1撃は空を切った。
着地の直後にはユタの正面にガンジの姿は無かった。
鈴剣流秘奥義・霞不知火。
秘匿されるその技をガンジは放った。
「な、なんだ、今の技は・・」
高弟の1人がうわごとの様に呟いた。
ガンジは止まらない。
ユタの脇を駆け抜け通り過ぎるや否や背後に飛んだ。
後方宙返りに3回の捻りを加えた奥義、天誅であった。
背後、頭上からの3連撃。
秘奥義に加えたそれは確実な勝利を期したものだった。
実戦で有れば胴を断ち、頭部に深い3つの傷を刻む必殺の4撃であった。
高弟達はガンジの術に見惚れた。
ユタの敗北として手を上げようとした。
だが、勝ちを収めた筈のガンジは空中で驚愕に目を見開いていた。
ユタは全てを凌いでいた。
ガンジの手にはある筈のない肉を打つ感触がただの1つも無かったのだ。
ユタがそれを防げたのは霞不知火という技を知っていた事が1つと、何よりも己の身体から経を噴き出して周囲に漂わせ、目、耳、肌の延長として扱う術をシンカより学んでいたからだった。
ユタの目は確かに霞不知火を放ったガンジの身体を見失っていた。
目の仕組みと死角を利用した錯覚現象を用いた技が霞不知火であるが、それは目に限った話。
物が動けば空気は動く。
この空気の動きを感知したユタは的確に己の木刀で駆け抜けながら胴を斬り放つガンジの1撃を防いでいた。
そして間髪入れぬ背後からの奥義も感じ取り間合いぎりぎりに体を沈め一歩下がって己の間合いを作っていた。
胴太貫。
右手を眼前に掲げ、剣を水平に構える。
腰は低く、顎を引き、足に力を入れていた。
ガンジの着地直前、ユタは動いた。
緩やかな動きだった。袈裟に動く鋒を見てガンジは防ぐべく木剣を立てた。
だが気付けばガンジは腹を打たれていた。
ユタはその場で残心を取っていた。
対して鈴剣流最強の剣士と名高いガンジ・ハイネンはその場で腹を抑えて立膝を着いていた。
「・・・・ユタ、あんた・・・」
ガンジの長子であるアンジ・ハイネンは姉妹同然に育った妹弟子の残心を見ながら唖然として独り言ちた。
元々己よりも腕は立った。数年鈴紀社を離れてどうなるものかと高をくくっていた。まさか父に勝るとは思わなかった。文句無しの勝利に愕然とするしかなかった。
高弟の1人、オレッグも同じくあまりの結果に呆然として立ち尽くしていた。
「まさか・・・」
「・・素晴らしい師を得たのだな。そして徳位に至った訳か。ユタ。お前は師、夫の力添えの元に悲願を達したのだ。代わりに夫に生涯尽くせ。お前にとって己を捧げるに値する物を与えてくれた相手である筈だ。」
ユタは握りっぱなしの木刀を眺めていた。
そしてガンジの言葉に小さく頷いたのだった。
「もうガンジでいいよね?」
「・・・・・。」
「ガッ・・・場主様を呼び捨てにだとっ!?」
3人目の高弟マクシムは頭を抱えた。
高弟達はがやがやとユタを責めたが悪びれることはなかった。
その様子を見てガンジは口元だけで微かに笑みを作った。
「クチェは、ユタが討ち取ったのか?」
尋ねられてシンカはメルソリアでの出来事を掻い摘んで話した。
クチェとケルゴという者が鈴紀社に席を置いていた事があり、高弟達も名を知っていた。
リンジの話はしなかった。彼等からも聞かれることはなかった。
ユタの目付きの話を聞いた。
9歳で親族を殺されたユタはクチェに連れられてこの鈴紀社に足を踏み入れた。
ユタは常に彼を睨みつけていたという。
アンジ・ハイネンの話ではふとした時に緩んだユタの顔を見たそうだが、くりくりとした目の少女だったと言う。
アンジはあのまま成長していればさぞかし美しい娘に育っていたろうと言ったがシンカはそうは思わなかった。
昔の事は知らない。
シンカは今のユタを愛していた。それで十分だった。
ガンジ・ハイネンにシンカは仲人を頼んだ。
鈴紀社の結婚式はメルセテ式という事で、その場で儀式が始まった。
「ユタ。お前の名を申せ。」
ガンジが重々しい声でユタに名を尋ねた。
「ユリアータ・クベリーク。ユタだよ。」
そんな本名だったのかとぼんやり考えた。
「うむ。ではシンカよ。社の裏の滝を潜り御劔に其方とユタが夫婦として相応しいか祈りを捧げ、占いにより罔象の声を聞け。」
無言で頷き社から出る。建物を出ると回り込み裏に向かう。崖沿いに歩くと細い滝が流れており、小さな飛沫を辺りに飛ばして周囲を冷やしていた。
エラム太湖の遺跡を見つけられたのはユタがこの滝の存在を思い出せたからだ。
あの時のユタはこの滝を思い返していたのかと考えた。
飛沫を浴びつつ滝の裏の洞に足を踏み入れた。
足元を音も無く水が流れている。
染み出し集まったものだろう。
松明に火を付けて洞窟を進んだ。
直ぐに行き止まった。
正面に小さな岩壁に掘られた社があり、3尺程の扉を開いた。
中には剥き出しの曲剣が収められていた。
鞘に収められていないどころか鍔や柄すら無い剥き身だ。
コブシ様式の美しい曲剣だ。
シンカは両手を組み合わせて祈る。
ユタと共に老いて足腰が弱り命を失うまで共に居られるようにと。
そして脇に備え付けられた木棚に並べられた
軈て熱された甲羅がひび割れる。
亀卜である。
しかしシンカにはその占いの吉凶は分からない。
占いを信じることも無い。
甲羅を棚に片付けると踵を返した。
そうして鈴紀社に戻る。
「占いはどうであったか?」
「問題無かった。」
よくわからなかったがそう答えた。
「ふむ。式の日取りは占いではどう出た?」
「3日後と。此方の親族もそれには間に合うだろう。」
また適当に返す。
シンカは用意していた贈り物をユタに差し出す。
シンカが打ったユタ用の湾曲剣だ。
鎢鉱に黒烏鉱の粉末を混ぜ込み光を映さぬ漆黒の剣に仕上げていた。
「三日月丸を持っているから要らぬかもしれんが。」
「要る!もう貰ったもん!返さないよっ!」
そう言ってシンカから剣をひったくった。
その手の速さは
そして鞘から抜き放ち光を吸い込むような黒い刃を掲げた。
3人の高弟とガンジもその刃に目を奪われた。
「鉄の3倍近い重さのある金属だが、その分薄く打ってある。硬度は黒烏鉱で上がっている。安心していい。ユタに合わせて三日月丸よりも重心を手元に近付けた。それと引っ掛けない様に反りを少し浅くした。振って身体に慣らすといい。以前より使い易いはずだ。」
ユタは大分喜んでいた。
「見て見て!もし悪霊がほんとに居るならこんな剣持ってそう!」
「・・・あんた、良くこの人に娶って貰えたわね。いくら顔が良くてもこんなにあんたの事考えた贈り物にそんな評価する女・・・」
「・・なんで?僕褒めてるのに・・」
「いや悪口だろ。」
アンジとマクシムがユタに突っ込んだ。
シンカは己の感性が誤っていない事を確信した。
「・・この剣の名前は臓物抉り!」
「酷い!あまりにも酷い!」
「これ程の剣に下品な銘・・そんな銘にするくらいなら俺にくれ!」
「シンカさん・・貴方は何故ユタと結婚するのですか?確かに見てくれは大人しくしていれば良いですが・・」
ユタも酷かったが言われようも中々だ。
「・・ユタ。俺が時間を費やして打った剣にそんな銘を付けるなら2度と剣はやらん。」
2度目の会話の様な気もするが、多分気のせいだろう。
「そんなのずるいよっ!」
何が狡いのか全くわからない。
「えっと、えっと・・じゃあ暗殺丸。」
「・・じゃあ・・だと・・?」
「あっ!あっ!待って!怒んないで!」
怒ってはいないが釈然としない。
腕によりを掛けて清く正しく打った剣を暗殺丸とは此れ如何にとは思うが。
「ユタ。ユタ。・・俺は本当にがっかりだ。空丸の件で学ばなかったとはな。」
「・・あれ?ほんとにちょっと怒ってるの?」
何を怯えているのかユタは額から一雫の汗を流し、着崩した小袖の袖で拭った。
その小袖を洗うのもシンカの役目だ。
「凄いわね。ユタをしっかり躾けてる。奔放で傍若無人の代名詞を・・。」
矢張りシンカは何処からおかしな女を好いてしまう癖でも有るのだろうかと考えた。
答えは出ない。
「・・炭流し。・・・どうかな?」
最後に中々良い銘が出てきた。
「案外まともじゃない?あんた、そう言う所あるわよねー。」
「うむ。昔からぼんやりしている様で最後に美味しい所を持って行く所がな。」
「アンジ!オレッグ!シンカに変な事言って怒られたら僕ほんとに怒るからねっ!」
「変な事をしていたのか?」
「し、してるわけ無いよ!・・多分ね。」
ユタはえへへと笑って誤魔化した。
「兎も角、ユタはシンカからの贈り物を受け取り此処に婚約が成立した。双方これより後戻りは出来ん。良いな?」
「問題ありません。」
「・・いいよ。」
シンカは生真面目に、ユタはのんびりと答える。
ガンジは頷く。
その日はそれで終わり、ユタは門弟達と旧交を温めるべく酒を飲みに連れ立っていった。
シンカはユタの家に帰り、残っていたナウラ達と連れ立って周辺を散策し、食事をしてその日を過ごした。
日が落ちて酒臭いアンジとユタと肩を組んで帰って来てシンカの寝台に2人で突っ込みそのまま寝始めた。
気を許せる友人が居るのは良い事だ。
10数年間復讐をするべく憎しみの黒い炎を心に灯してきたユタだが、それでも道を踏み外さずに生きて来れたのは同門の友人の存在が大きいのだろう。
2日後の朝、シンカは鈴紀社を囲う高い壁に登り北に見える海を眺めていた。
海は朝日で輝いて見える。
小さく森の向こう、海の手前に港町が見える。
ランジューの首都、狩幡だ。
リンファがやって来て朝日に目を細めつつシンカの見る方向を見遣った。
「彼処が狩幡だ。少し東の浜が崖で隠れている所。彼処でナウラを拾った。背に斬り傷を負って死にかけていた。」
「ふうん。なんであんなところに行ったのよ?」
「散歩だ。」
リンファは呆れた表情で肩を竦めた。
リンファは薄着で胸の谷間が僅かに見えた。
「・・何?」
「お前・・なんでそんなに胸を出しているんだ?」
言うとリンファは片眉を上げて怪訝さを表現する。
「変な言い方しないでよ。ほんの少しでしょ?あたし、身体には少し自信があるから。あんたも連れてる女が魅力的な方が自慢できるでしょ?」
にやつきながらそんな事を言った。
「女を、況してや伴侶を装飾品の様に考えた事などない。そう言う考えは好かん。知っているだろ。」
「まあねー?あ、分かった。もしかして他の男にあたしの身体見せたく無いとか、そう言う事?独占欲?」
揶揄う様に顔を覗き込んできた。
「当たり前だろう。他の男に見せたい訳があるか。さっさと隠せ。」
斬り捨てる様に言うとリンファはきょとんと惚けた顔をした後耳まで顔を赤らめた。
北から柔らかく吹いた風が潮の匂いを鼻先に届け、そのまま2人の服を煽って去っていった。
シンカとリンファは失った時間をゆっくりと埋めて、再び元と遜色無い程の関係を取り戻していた。
11年振りに身体を求め合った時、リンファは呼吸を損なう程に泣いた。
自分の何が良いのか。そんな疑問はいつでも脳裏の片隅にある。
しかし彼女らがそれで良いと言うのなら自分があれこれ考えても詮のない事だ。
自分の眼下のリンファの泣き顔を見て少し興奮した事を思い出し首を振る。
「あ。」
リンファの声に意識を戻すと東の空に奇妙な影を認める事が出来た。大きな鷹が足に籠を括り付けられ、其処に人を載せている。
リン家のお越しであった。
リンレイを筆頭とした親族達は総勢50名で鈴紀社の宿を取った。
ガンジの指示でシンカはユタの家から宿に移り、翌日の式を待った。
そして翌日、夏下月の8日、シンカは花で飾られた馬車にガンジと共に乗り宿からユタの家へ向かった。
その道すがらガンジは口を開く。
「儂の息子のリンジを知っておるか?」
そんな問いだった。
「以前此処に訪れた4年前にユタと2人、泉で会いました。」
「ああ。その時の・・。あの後息子はユタと自分を結婚させろと騒いでおった。何を勘違いしたのか、儂に門下の者の人生を自由にする権限があると、本気で考えていた。儂はただ鈴紀社で鈴剣流が途絶えぬ様知識を継承する為にある。来る者も去る者も拒まず。その風の如く気儘な様子こそが鈴剣流のあるべき姿。」
「正しく。」
「ユタは其方と出会い広い世界を知った。己の目的の為、この狭い世界では目的を達成出来ぬと考え、夕方の風の様に此処を去っていった。ユタに懸想していた息子は失意の後、尊敬していたクチェを頼って狩幡から船で旅立った。クチェとユタが対峙したのなら、リンジとも対峙したのだろう?」
シンカは逡巡した。
この暖かい男に息子を殺した事を告げるのか。
彼がユタに何をしようとしたのかを告げるのか。
「あれは、心の弱い男だったら。儂の息子だと言う事を傘にきて、伸び悩み、眼前に現れた壁を打ち壊すでも登り越えるでもなく、壁の下で大きな顔をしておった。周りの同年代の者に遅れ、歪んでおった。儂はそれを正しきれなかった。」
淡々と語るガンジの言葉に耳を傾ける。
どんなに人の心を捨て去った敵にも親や子はいる。
そんな現実を突きつけられていた。
分かっていた事だ。
その事実は複雑な想いを湧き起こしはすれど、シンカの中心にある芯を曲げさせるほどの力は持たない。
家族を守り、敵を討つ。
それだけだ。この森に覆われ、魍魎に囲まれ、そして僅かな恵みを人同士で奪い合う世でシンカに出来る事はそれだけなのだ。
「貴方の子を俺は斬りました。」
ガンジは暫く無言でいた。
深い皺の刻まれた眉間がその心中の苦悩を物語っていた。
「其方が無益な殺生をするとは儂には思えん。であれば其方が斬るに値する事を息子はしようとしたのだろう。・・・其方は息子の仇で、娘の恩人なのだな・・。」
石畳の上を騒々しい音を立てながら馬車は進む。
無言の中、ユタの家の屋根が目に入った。
「あれば3人目の儂の子。娘だ。ユタを頼む・・・。」
それが悩んだ末のガンジ・ハイネンの結論だった。
シンカは決して謝罪しなかった。
馬車が停まると家の扉を勢い良く開けてユタが現れた。
慌てて追い縋ったアンジが家にユタを引き摺り込む。
ガンジに続いて家に入ったシンカの前にユタが立つ。
ユタはコブシ式の婚礼装束を纏っていた。
まず目を惹くのは真紅の衣装、色無垢である。
本来であれば白無垢が主流であるが、ユタが着る無垢は木瓜や梅の様な鮮やかな赤だった。
赤い打掛に綿帽子。掛下は純白で綿帽子の下から白粉を叩かれた顔と衣装と同じ色の紅が唇に差されている。
手に閉じた扇子を持ち、胸元には袋に入った小刀が見える。
鈴紀社はメルセテの文化を持つにも関わらず、衣類はコブシ系なのだ。
元々鈴剣流の開祖であるヤカクはメルセテ出身である。
親族や門弟を引き連れランジューに移り住んだが、その後メルセテで汎用的な食材や衣類を手に入れることが出来なかった。
しかし多少の文化の類似を見せるコブシの首都ベラと狩幡との間では定期船が出ており、その経路で入手できるコブシ産の衣類を彼らは好んで身に纏う。
故にコブシの者なら純潔を表す白無垢を選ぶが、メルセテの文化は赤を縁起の良い色として扱う為赤い打掛が選ばれているのだろう。
それに加えてユタ自身碌でもない発想に基づきこの赤を選んでいるのだろう。
元々ユタは赤という色に良し悪しの感情を持たない。
しかし、そんなユタの仕様もない思惑が透けて見えたとしても、着飾った彼女の美しさを損なわせる事はない。
楽しそうに微笑するユタは美しかった。
強烈な三白眼もこうして微笑んでいれば愛らしく映る。
いや、この表現はシンカにとって嘘に当たる。
シンカはユタの三白眼ですら愛らしく感じているのだ。
ユタの前に立ったシンカは紋付袴の胸元から木の小箱を取り出した。
箱を開けて取り出したのは鳶色の珠だ。
珠は銀細工で彩られ、繊細な鎖で首飾りに加工されている。
「わ!」
ユタの瞳と同じ色の鳶色。
以前この珠で指輪を作ったが、やはり母から子に残すものとして未加工の珠は持っておくべきだ。
シンカは何日もかけて経をこの珠に込め、ユタに贈る。
「なんか貰いすぎでよく分からなくなったよ。」
「メルセテでは財を女性に示し豊かな生活が送れる事を示すのだろう。」
シンカは首飾りをユタの首に当てて留め具で襟元から見える長さに調節した。
「ユタってば墨流しを佩こうとして大変だったのよ。嬉しいのは分かるけど・・」
えへへと笑うユタの手を取り腕に導く。
連れ立って家を出ると門弟とその家族たちが様子を見るべく集っていた。
そして2人歩き出した2人の足元に少し遅い牡丹の花びらを撒き、披露宴会場までの道を彩っていく。
拍手の中2人で赤い花びらの道を辿った。
そして道場の中に2人で足を踏み入れた。
シンカの親族やユタと親しかった門弟や門人たちが盛大な拍手で出迎える。
普段は門下生達が稽古をしている板の間には円卓が複数並べられ、豪勢な食事が盛られている。
リンドが古琴で優雅な音楽を奏で始めた。
シンカとユタは上座に辿り着く。
そこでシンカは演説を行わなければならない。
当たり障りのないつまらない挨拶を終えると今度はリンレイが新郎の父として挨拶を行う。
続いてガンジの音頭で食事が開始された。
皆食って飲んで騒いで好き放題する。
結局の所、皆鬱屈した日々に彩りを求め、こうして事あるごとに理由をつけて宴を開き騒ぎたいと言うことなのだろう。
ちょこんと2人して上座に座り、挨拶に来る人々と会話を交わし時が過ぎる。
日が暮れるとぽつりぽつりとユタ側の出席者がはけていき、最後はガンジとアンジ、そしてシンカの親族が残った。
残った者たちに見送られ、2人でユタの家を目指す。
ユタは眠気で不機嫌だ。
「・・暑いこの服!」
「もう少しの辛抱だ。」
「・・鈴紀社のお式は今一。いっつもお腹一杯になったら帰ってたからこんなに面倒だって知らなかった。」
「そう言うな。式は己だけの為に行うものではない。けじめであり、お互いの親族への意思表示なのだろう。」
「でもナウラの時もヴィーの時ももっと楽しかった。」
カヤテの式はユタにとっては楽しくなかった様だ。
「だがこの衣装を着て俺と歩いた事は忘れんだろう?」
「・・そうだけど。」
「結婚式は儀式に過ぎん。する事が大事なのだ。だが、今日の1日がお前にとってつまらなかったとしてもこの一連の儀式のお陰で剣を一振り得られたわけだろう?」
夜道を歩きながら不貞腐れるユタを慰めた。
「そうだった!早く名付きと戦って血を吸わせたいなっ!」
「そんな汚いものを俺の剣に着けるんじゃありません。本当に腕が立つ剣士は血も脂も剣に残さないものだ。」
「そっか!僕、返り血を浴びても分からない様に赤の服にしたんだけど、浴びちゃ駄目だよね!」
赤の色打掛が選ばれた理由は本当に仕様もない理由であった。
シンカは空を見上げ、月に向かって嘆息した。
本当にぶれない女だ、
しかし機嫌は治った様だった。
不思議なものだ。
ユタとは縁も所縁も無い赤の他人だった。
それが師弟となり今はこうして寄り添って歩いている。
どの様な出会いがどの様な結果になるのかは人には分からないのだ。
この月が今何処の誰を照らし出しているか分からない様に。
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