胎動
シンカとユタが月に照らされている頃、ダーラ王女はクサビナ王国イブル川河口の街、ゾナハンに訪れていた。
一行はケツァルから河川に沿う様にいくつもの街や村を経由しやっとこの街まで辿り着いていた。
数月掛かった背景には各地で龍について調べていた事もある。
しかし有益な情報は得られなかった。
クサビナ領ゾナハンは北方貴族のアウズンブル伯の領都である。
イブル川を用いた交易で栄えておりケツァル、グレンデーラ、ファブニーラ程ではないが十分発達している。
ダーラは鴎の鳴き声を耳にしながらイブル川を遡る船を眺めていた。
跳ね橋が挙げられて帆船が通り抜ける。
ダーラの亜麻色の髪が潮風に煽られて波打つ。
この数月、肌身に戦前の緊張を感じていた。
早ければ今月にでも戦端は開かれるだろう。
このゾナハンの街も兵糧や武具の搬入出で慌ただしい。
この街から輸入された武具が北方諸侯に流れているのだ。
郊外で調練を行う声が薄っすらと耳に届く。
ダーラは欄干に肘を置き油が所々に浮いた大河の川面を眺める。
戦が始まればこの川を沢山の死体が流れることになる。
しかし問題はそこではない。
龍は死んだと言う。
古の戦士達が龍を仕留めたのはファブニーラの北東と考えられる。
その辺りを調べはしたが何の痕跡も残っていない。
1,000年以上前の話なのだ。当然である。
お告げの龍は文献とは別の龍であり関係無いのか、文献の龍の子孫なのか。
判断はつかなかった。
ぼんやりと思索していると跳ね橋を越えた先、中洲街に見覚えのある男が見えた。
茶の髪に白い肌。端正な面立ち。エッカルトである。
エッカルトは両手を其々女の腰に回し、軽薄な笑みを浮かべて歩いていた。
下らない男だ。顔を目にするのも腹が立つ。
連れ込み宿にでも赴いていたのだろう。
エッカルトは女と別れると橋を渡り始める。
此方に向かっている。
ダーラはそのまま川面を見つめ視線を逸らした。
「ダーラ様!こんな所で何してるんです?」
ダーラは眉間に縦皺が寄るのを堪えながら振り返る。
「エッカルト。どうかした?」
声を掛けるとエッカルトは見え透いた愛想笑いを浮かべる。
「いえ。姿を見かけたんで。相変わらず美人ですね。」
襟元から垣間見える鎖骨から首元を舐める様に見ているのが分かる。
怖気が背筋に走った。
ダーラは気付かない様に努め震えを押し留めた。
この男が龍を退治すればダーラはこの男の妻となる。
恐らく酷い扱いを受けるだろう。
龍を倒した直後に殺してしまおうか考える。
心中でダーラは首を振る。
どの様な屑が相手だとしても、手柄を立てた者に報いず非道に走る事など有ってはならない。
その様なことをすれば国に良い人材は集まらない。
「知ってるわ。母譲りだから。それで?何?皆が河口の龍について調べる中で1人だけ女遊びに耽っている勇者様?」
嫌味を隠そうとせず告げる。
「俺は龍を倒す為に来ましたから。探すのは皆の仕事ですよ!」
にこやかにエッカルトは笑った。
無駄に白く良い並びの歯が憎々しかった。
「あんた、本当に分かってるの?龍よ?死ぬかもしれないのよ?他の者に調査は任せるにしても、少しでも鍛えて生存率上げようとは思わないの?」
「はははっ、ダーラ様。俺は欅の精霊から勇者として御告げを受けた男ですよ?龍を倒す力があるからこそ数ある戦士の中から俺が選ばれた。違いますか?」
この男は欅の精霊を敬わない。それも数あるこの男を嫌う理由の1つである。
無駄な自己肯定は既に腹立ちを通り越し、哀れみすら覚える。
「あんたがそう言うならそれで良いけど。」
ダーラは再び川に向き直った。エッカルトはあくまで保険。どの道真の勇者と思われる混血の男シンカをダーラが探し出す事が出来なかった以上、万が一の可能性に賭けてエッカルトを連れ歩くしか無い。
戦の気配は濃くなり、クサビナ国内は何処も彼処も緊張と苛立ち、恐れに満ちている。
まるで水がぱんぱんに詰められた皮袋だ。
針の一刺しで全てが決壊する。
最も誰かが針を持ち出さなくともファブニル一族が水から袋をひっくり返して仕舞うのだろうが。
ダーラが考えに耽っているとエッカルトが隣に並び、欄干に肘を突いた。
そうして至近距離からダーラの横顔を覗き込む。
「もうすぐアケルエントの白芍薬と名高いダーラ様を妻に迎えることが出来る。俺は幸せだ」
そんな言葉を聞いて鼻白む。
この男はダーラに好意など抱いていない。
高貴な、それも王族の女を自由に出来る程度の薄汚い思いしか抱いていない。
「あんたべつに私の事なんとも思ってないでしょ?もっとあんたの事慕ってくれる可愛い女にしときなさいよ。ま、龍を倒した勇者様が私で良いって言うなら良いけど?」
顔も見ずに答える。
こう言う対応もエッカルトのダーラに対する嗜虐心を煽っているのだろう。
「まさか!ダーラ様程素晴らしいお方を娶れるなんて俺は幸せ者ですよ!」
父のウィシュターはダーラの婚姻に関して基本的に感知するつもりは無かった。
今回の事もエッカルトが生き延びられると考えてはいないが故の選択だ。
ダーラの婚姻は周辺諸国や国内の貴族間の均衡を崩しかねない。
だからこそ政略結婚を考えていなかった。
ダーラ自身軟弱な男に嫁ぎ軟弱な子を産みたいとは思えない。
エッカルトが腕を伸ばしダーラの腰を抱こうとする。
ダーラは察知して触れられる前にするりと抜け出した。
「あんた、分かってる?婚姻前に私に手を出せば勇者だとしても父は貴方を処するわよ?」
「っ…」
エッカルトは顔を引きつらせて硬直した。
仮に生きて帰っても父は好かぬエッカルトが少しでも処するに値する行いをすれば直ぐ様断じるだろう。
しかしこの言葉で怯えるエッカルトの内なる小心さも好かぬ理由の1つだ。
「1つ言っておくけど、怠惰で自ら糧を得る事も稼ぐ事もなく、手当たり次第にそこらの女を抱く男の何処を尊敬して、何処を好きになればいいの?」
「………」
苦虫を噛み締めた様な表情を浮かべる。
「私も将来の伴侶を愛せる様努力するけど、あんたはどう?歩み寄りも無し?少しは私が好きになれる様に努力出来ないの?」
エッカルトが臍を曲げない様多少の歩み寄りも必要と思い告げる。
最も役割を放棄して背を向けると言うのなら斬り捨てるまでだ。
エッカルトはただの保険。役に立たぬだけならともかく、足を引っ張るのであれば殺す。それだけだ。
「俺の、何が駄目ですか?」
ダーラ肩を竦めてその場を去った。
2日後、ダーラ一行はエッカルトを置いて海岸線沿いを調査していた。
何も期待はしていない。
川の飛び龍は春になると川を遡りエリンドゥイラ南の霧笠山に向かった。
何処から来るのか。
河口ではないかと考えてゾナハンを目指して来た。
河口周辺に巣があると考えたのだ。
もし仮に龍が川底や海底に冬眠中の亀の様に埋まって眠っているのならダーラ達に探し出すことはできない。
「ダーラ様!これを」
ディミトリが声を出す。
灰色の砂浜が続き、濃紺の海の向こうにはまだ溶けずに巨大な流氷の陸地が伺える。
アゾルト、そしてランジューへ向けて弧を描く緩やかな湾が延々と見える。
砂浜から陸地にかけて短い芝が生えており、時折浜茄子の低木が繁茂する。
一際大きく浜茄子が繁茂する場所にディミトリがしゃがみ、何かを調べていた。
「何?」
声の届く範囲にいた数名が集まる。
「此処に人の足跡が有ります」
ディミトリが指差した場所は何かに踏まれた様に痛んだ芝とその下の灰色の砂が踏みしめられて抉れ、砂が飛んだ痕跡を見つけることができた。
「この茂みの中に出入りしている様ですね。」
見ると浜茄子の茂みの中に人が這い蹲ってやっと通れるくらいの隙間が続いていた。
「誰かが棲んでいるのか?何故こんなところに」
ミキスが腕を組み唸る。
「気になるわ。ディミトリ、入ってみて」
サンドラが無慈悲に告げた。
浜茄子にの枝には小さな棘がある。
肌が露出しないよう知ったりと外套を着込んだディミトリは最後に皮の手袋をはめて茂みに頭を突っ込み這い蹲って進んでいった。
暫く茂みが揺れていたがその内音もしなくなる。
潮風に煽られながら3人はディミトリを待った。
「地下への穴がある!」
軈て茂みの中から声が届いた。
「誰かいるの?」
「居ません!しかし荷があります。腐っていない食料も!まだ住んでいます!」
ダーラはミキスと顔を見合わせる。
タナシス、テオ、キッサはアゾルト方面に進んでおり此方に気付いて居ない。
そちらは放置して中に潜ってみることにした。
茂みの中を進むと地面から首を突き出すディミトリを発見した。
「此方です」
そう言って引っ込んだ穴はダーラが両手を広げた程度の大きな穴だった。頭を突っ込むと直ぐに手が付く事がわかった。
向きを入れ替えて穴の下に降りると思いの外広い空間に出た。
赤茶けた鉄鉱石の壁、天井、床で、入り口付近は人工的に掘られたものだと考えられた。
しかしその先の壁に割れ目があり、割れ目の向こうは壁面の色も異なり、じめついた風が吹き出ていた。
鉄鉱石を採掘していた先に別の空間に当たったという事なのだろう。
ディミトリはその中きら顔を出していた。
ダーラは岩の裂け目に身を滑り込ませた。
見たことのない橙色の光を放つ石が壁の凹みに置かれて、地下に向けて広がる空間を照らし出していた。
先から水の流れる音が聞こえる。
進むと先は行き止まりで、地下水脈が勢い良く流れている。
地下水脈は殆どが岩壁に覆われている。
ダーラとディミトリは引き返して光る石のそばに置かれた直方体の背嚢に手をかけた。
外套や剣、魍魎素材の防具などがその隣に置かれ、焚き火の跡もある。
簡単に荷物を改めているとミキスとサンドラも現れた。
「これは…」
あたりを見回しミキスが小さく口に出した。
周辺を確認し始めた2人を尻目にダーラは背嚢の上に置かれた皮手帳を手に取った。
「これは!?」
開いた手帳の中身には川の飛び龍との記載があった。
「これは誰の持ち物だ?!我々以外に龍を調べている者が!?」
ダーラとディミトリは驚き声を上げた。
「どうしましたか!?」
ミキスが小走りで駆けつけ、それにサンドラが続く。
「この手帳、川の飛び龍について調べた事が書かれてるのよ!」
そう興奮した調子で話したダーラの背後で大きな水音がしたのだった。
背筋が凍った。
ひたひたと暗闇から何かがこちらに向かってくる音がするのだ。
4人は一斉に腰の剣を抜いた。
「何奴!?」
ミキスが吠えてダーラを守るベく一歩前に出た。
水が大量に滴る音が反響している。
何かが地下水脈から上がってきたのだ。
そしてぬらりと明かりの元にその姿を現した。
男だ。
一瞬鬼と見誤ったが手に抜き身の短剣をぶら下げている。人である。
濡れた衣類が肌に張り付き、同じく長髪が顔に張り付き顔も見えない。
「控えよ!それ以上一歩たりとも動くな!」
構えたままミキスが牽制する。
「…こ、れは……ダーラ、様」
嗄れ掠れた声が男のひび割れた唇から漏れ出た。
「誰なの?!」
ダーラも不気味な風体の男に声を投げる。
「……サンケイ、で…ござい…ます」
男は途切れ途切れに答えながら膝をついた。
地下水脈から上がってきた男はアケルエントで薬師として活動していたサンケイだったのだ。
窶れていた。長く水に浸かっていたのか唇はどす黒く顔は青ざめていた。
サンケイは焚き火を起こして濡れた衣類を脱ぎ去って身体を温める。
鉄の鍋で沸かした白湯を飲んで人心地ついたサンケイにダーラは声をかける。
「それで?色々聞きたい事はあるけど、まずここで何をしているか教えて」
一行はそれぞれ腰掛けサンケイを見遣った。
「……我が一族は、3000年もの間深い森の奥に潜みこの世の様々な事象を解き明かし、人の営みを記録して参りました。時に人への危険を未然に払い、時に愚かに争う人を傍観し、知を継承し長きに渡りなを成す事なく過ごしました。欅様のお告げにあった血と精。即ち経の発生器官と経自体。腐り変質したこれを大量に取り込む事でありとあらゆる生き物は変異します」
サンケイはしきりに大きく呼吸を繰り返し、時折胸を押さえていた。
「分からないわね。人は肉を食べてるでしょ?」
「腐敗した経の発生器官、経包は異質な経をしばらくの間作り続けます。その経を身体に取り込むと身体が徐々に変異するのです。人は腐った物を食べられる程身体が強くない。森の魍魎たちとて身体が変異するほどの異質な経を大量に摂取する事は無いと言っても過言では無いのです」
ダーラはこのサンケイという男が分からなくなっていた。
痩せ細った初老の男だと思っていた。
しかし服を脱ぎ去った身体はよく鍛えられ筋肉で筋張っていた。
先の武器を構え合って見合った時、ダーラはこの男の強さを測った。
ダーラには及ばぬともそれ以外の者と戦えば皆に勝っただろう。
「ダーラ様。ここに来たという事はケツァルの禁書庫で川の飛び龍について調べなさりましたな?」
「…あの足跡、まさかサンケイの?」
「王立書館から抜け道を通る物を指しているのであれば、如何にも。私は同胞か、或いはアケルエントの方が彼処に辿り着き、同じ書物に辿り着けるよう足跡をわざと残しました。」
サンケイの話は続く。
丁寧に淀みなく話す。この場で考えたり嘘を吐いているようには見えなかった。
「川の飛び龍。名を曼荼羅龍。死骸を写し取った絵が正しければそう呼ばれる龍です。鮮やかな複数原色の鱗が混ざり、大きな翼の羽毛も同じく鮮やか。そして硬い。長い胴に棘の生えた尾。とても強力な魍魎です」
「曼荼羅龍……」
サンドラが呟く。
「もし予言の龍と川の飛び龍が関係するなら、それは文献にあった番い龍の子という事になる。曼荼羅龍はサウリィとベルガナの境にある劔山脈西側に棲息する。そして彼らは冬になると川や湖の底に作った巣で冬眠する。私は仕留めてから浜に打ち上げられる数月の間で川の飛び龍の片割れは川を辿って巣に戻り、卵を産み落としたのではと考えています。損壊の激しい死骸は子に己の肉を喰わせたのでは…と」
「でも龍が退治されたのは1200年前でしょ?」
ダーラは問う。
「龍であっても普通は1,000年も生きる事はありません。しかし卵なら別です。過去に700年前に産み出されたと思われる卵が発掘された事もあります。その卵は条件を整えると孵化しました。」
「あんたは此処でその卵を探していたっていうの?」
サンケイは頷いた。
「或いはもう孵化しているのかもしれません。強力な龍が大量の変質した経包を摂取し、体内から異質な経を吸収すれば、それは大変な害となるでしょう。我が一族をもってしても力の足りない者は近寄らせる事も出来ない程に。…クウハン、シンカを筆頭に十指を半分は揃えて他の実力者で小隊5組で連携すれば或いは…」
最後はぼそぼそと呟いた。
「シンカ?」
ディミトリがはっと顔を上げる。
「その笠と外套…さっきの話し、もしかしてあんたは森渡りって奴なの?」
ダーラが尋ねるとサンケイは驚きダーラを凝視した。
「…ご存知だったのですか、我等のことを…。そう。私は森渡りの一族、サンガクの子、サンケイ。森深くを渡り、山に潜み、人から姿を隠す者です。」
「……成る程。居るのね、森渡りは。…ねえ、シンカとは何者なの?」
サンケイは身体を横に倒し、荒く息をし始めた。
「……森渡り3,000年の歴史上最も優れた戦士です。………あの者無しで変質した曼荼羅龍は倒せないでしょう………。」
サンケイは身体を引き摺り背嚢に近付く。
そして中から乾燥した薬剤を取り出し始める。
「具合が悪いのか?爺さん」
ディミトリがサンケイの脇に屈み、身体を支える。
「水に潜り過ぎました……。身体を……損ねて………ぐ、っ!」
「サンケイ!しっかりしなさい!」
ダーラは胸を押さえて苦しむサンケイに駆け寄った。
「薬を飲めば治るの!?あんたには沢山言いたい事があるのよ!しっかりしなさい!」
「……ダーラ様…わたしが…産湯に、浸け…まなばせ……むすめのように…………しんで、は……だめです…。どう……か………」
サンケイはそのまま動かなかった。
虚ろな瞳と開きっぱなしの口が物悲しさを誘った。
「……嘘…」
皆言葉を発する事が出来なかった。
サンケイがどの様な生活をしていたのか分からない。
しかしよくよく見てみれば食料はあまり食べられておらず、横たわるサンケイの肌は酷く荒れていた。
「……サンケイ殿は、病だったのか?」
ミキスが自問する様に口に出した。
「分かりません。惜しい人を亡くしました。」
洞窟の奥に吸い込まれようとするミキスの言葉を捕え、ディミトリが答える。
ダーラは思い返す。
ほんの幼い頃からダーラの側にはサンケイが居た。
少しでも体調を崩せば彼は気付き、ダーラを癒した。
他の大人が教えてくれない様々な知識を教わった。
大陸の事、魍魎の事、精霊の民の事。
ダーラの教育係であったペトロスは幼いダーラを粗略に扱った。
ダーラが成長してその能力を開花させると自分の子供に嫁がせようと企んだ。
他の大人達は王女であるダーラを腫れ物に触るように扱った。
サンケイだけはダーラの元にしゃがみ、目を合わせて話した。
大好きだった。
だがあの時。お告げがあった日、今まで見たことの無い様子のサンケイを見てダーラは酷く衝撃を受けた。
そして知らぬ知識を語るサンケイに裏切られたと思ったのだ。
酷い口を聞いた。
身分的にはそれでも構わない。しかし伯父や祖父の様に思っていた者に取る態度ではなかった。
「……御免なさいっ!」
物言わぬサンケイの亡骸にしがみついた。
娘の様に思っていると最期にサンケイは言った。
ダーラは泣いた。冷えていくサンケイの体に縋ってひたすら泣きじゃくった。
病の中、命尽きるまで卵を探し続けていたのだろう。
それは自惚れでなければ、最期の言葉を聞く限りダーラの為なのだ。
ユタの式から2日後、シンカ一行は1日鷹に乗りイブル川河口の街ゾナハンに赴いていた。リン一族は最後のリンファの式の支度の為に里に帰っている。
シンカ達はゾナハンに2日滞在して時間を開けろということだった。
カヤテはもうじき開戦し兼ねない緊張感漂う空気を肌身に感じながら街を歩いていた。
ゾナハンの街は栄えているがグレンデーラには劣る事に満足しつつ、街の西側を流れる大河の淵を歩いた。欄干越しのイブル川はクサビナの都市大半を流域の範疇に収めている為美しいとは言えない。
昼下がりの川沿いは人気も多い。
カヤテは気が急いていた。
己の生家が、ミトリアーレが危機に瀕しているのだ。
ファブニール一族はグレンデルを追い落とす為ならどの様な手でも使うだろう。
グレンデルが用意出来る兵数はどうあがいても青鈴軍2万と有志の軍勢が幾らかである。
そこにリュギルやガルクルト、ルーザースからの増援を呼び込めば簡単に5倍以上の勢力へと膨れ上がるだろう。
北方諸侯が何処までグレンデルに助成するかもわからない。
ロボクのアゾク要塞や王都モルンパーチに留め置かれた兵、ラクサス、アゾルト、マニトゥー。
不安要素は尽きない。
考えど考えど消えてはくれない胃の腑を締め付けられる様な不安を持て余しカヤテは1人で街を当てども無く歩いていた。
正面から男がやって来る。
シンカに人種的な特徴が似た男だ。
白い肌、茶の髪と目。
よく鍛えられているのがわかる。
そして特筆するべきなのがその容姿だ。
端正な面立ちでありながら何処か甘く、周囲の視線を集めていた。
男はこちらにやって来るとカヤテの前で立ち止まった。
「驚いた!世の中にはこれ程美しい女性が居るんですね!」
「………」
「お嬢さん、俺は貴女と是非お知り合いになりたい!この後お茶でもどうかな?」
カヤテは腕を組み溜息をつく。
苛立つ。
こういう出来事はグレンデーラを出てシンカと旅を始めてから度々起こっていた。下らない。
カヤテは溜息を吐いて左手を上げて手の甲、正確には中指に嵌る指輪だ。
シンカに貰った物と自分で作った物の2つが嵌められている。
「旦那が居るのか。俺よりいい男?」
確かに顔はこの男の方が優れているかも知れない。しかし。
「ああ。そうだな。いい男だ。」
カヤテは少し笑う。
こんな事を面と向かって言えばシンカは照れて頸を掻くのだろう。
そういう所が可愛いのだ。シンカと一緒になり2年が経つが、そういう所は変わらない。
「……へぇ。腕も立つのかな?俺なら何があっても貴女の事守れると思うんだけどな。」
カヤテは鼻で笑う。
この男がケツァル王城に正面から堂々と1人で乗り込めるとは思えない。それに
「私の夫は私よりも強いぞ?」
カヤテは練った経を全身から立ち上げる。
そして男の手を握手の形で握った。
「これから少しずつ力を込める。私の握力、耐えて見せろ。さすれば茶の一杯程度付き合おう。」
右手に力を込め始めた。
強烈な握力に男の指先は直ぐに赤くなり、ふた呼吸後にはどす黒く変じた。
「ぁっ、でっ、ま!」
「私は家族が馬鹿にされる事を好かん。教えてくれ。お前の何処が私の夫に勝るのだ?」
「はっ、はっ、いっ、ああああっ!?」
カヤテの手の内で男の手の骨がごりごりと擦れる感触がする。
「私は苛ついている。私の外見で何故かは予想もつこう?そうやって女はお前の顔に皆靡くと思っているのだろう?……愚かな。さもしい心だ」
「おねっお願いっ!ぎ、ぎ、いいいっ!」
握られた手を引き抜こうと左手で懸命にカヤテの指を剥がそうとするがそれすら叶わない。
身体を押しても引いてもその手が抜ける事はない。
「黙れ。情け無い。これに懲りたら手当たり次第に女に声を掛けるのは辞めろ。特に人妻はな」
最後に一際強く手を握る。
小枝が折れる様な音が響いた。
「感謝しろ。殺しはせん」
「ああああああああああっ!?」
手を抑えて蹲る男の脇を抜けてカヤテは再び川沿いを歩き出した。
10歩進んだ時には男の存在は忘れ去られていた。
当て所なく歩いていると家屋と家屋の間でシンカが1人で何かを探している姿を見つけた。
アゾクでカヤテ達を守った時の、あの鋭い視線だ。
「何をしている?」
声を掛けるとシンカぎ顔を上げる。
鋭い視線に射抜かれカヤテの鼓動が一際高鳴る。
「カヤテか。観光か?」
「ああ、そうだ。見てくれ、短剣を買ったぞ」
カヤテは先程工房で買い求めた短剣をシンカ手渡した。
彼はそれを鞘から抜き刃を見る。
「武鉄鋼の
「1番出来が良かったのだ。……それで?何をしている?」
褒められて嬉しくなる。まるで犬の様だとカヤテは考えた。
「……うん。トウリュウが小隊を率いてこの街に来ている。彼女らに協力してアケルエントから文を送って来たサンケイという同胞を探しているが……春中月迄の痕跡しか確認出来ない」
「そのサンケイという者を探してどうする?」
「それは追々皆が居るところで話そう。……構えなくて悪いが、もう少し探す事にする。すまんな」
「いや、大丈夫だ」
そう答えて左右を確認して人気が無いのを確認するとカヤテはシンカの頬に片手を当て、唇を寄せた。
やや薄いシンカの口を吸う。
「ではな!夕食時には帰るのだぞ!」
「うん」
シンカの短い返事を背にカヤテは歩き出した。
不安が薄まっているのを感じた。
現金なもので、そうなると誰かと一緒に居たくなる。
身体の中の経を毛穴から吹き出すよう意識して大気に波紋状に自身の経を放出する。
近くでリンファの気配を感じ取った。
カヤテはそこに向かう。
出店や屋台の間を抜けて行くと果物を物色しているリンファを見つけた。
「買い物か?」
「…あら。食べた事無い果物があったから。カヤテは何してるの?」
「散歩だ」
「…シンカの匂いがするけど?」
「嫉妬深いな!さっき偶々あっただけだぞ」
リンファは桃色の果物を2つ買い求め、1つをカヤテに手渡した。
果実の皮に毛が生えているようで独特の感触がある。
果肉は柔らかそうだ。
リンファは自分の分を何処からか取り出した短剣でスルスルと剥いてしまう。
白い瑞々しい果肉だけになるとカヤテにそれを渡し、もう1つを剥き噛り付いた。
柔らかく瑞々しい音が此方にまで届く。
「美味しい!コブシ産の白桃って果物なんだって!」
「ふむ」
カヤテも艶々と光る白桃とやらに噛り付いた。
「なんだ此れは!種が大きいのが残念だがこれ程甘い果物が存在するのか!?」
「高かっただけあるわ」
2人で果物の感想を言い合いながらぶらついた。
途中男に二度と声をかけられたが穏やかに拒否して海岸線を一望出来る壁に向かい、階段を上って景色を眺めた。
浜に半里ほど先に浜があり波が打ち寄せては返して行く。
「やはりペルポリスのエシナの白浜の美しさは格別か」
未だにミトリアーレの側にいる自分を想像することもある。
しかしシンカや皆との旅はカヤテの大切な思い出として何とも比べることの出来ない物として積み重なっている。
カヤテは選んだのだ。
グレンデーラに戻れる事になったとしてもカヤテはもう戻らない。
「エシナの白浜は有名よね。あたしも行きたいなぁ」
「頼めばいいでは無いか?」
「…うーん、一回行った場所に行かせるってのもねー」
「以外に殊勝なのだな?」
カヤテはリンファの事をもっと我儘だと思っていた。
「元々はあたしが振ったのが悪い訳だし。いや、振る気は無かったんだけど…」
カヤテにはリンファの気持ちは理解できなかった。自分だったら冗談でもそんな言葉を口にしたくは無い。
しかし男女の色恋の駆け引きにそういったものがあると言う知識は持ち合わせている。
「よく分からぬが、言うだけ言えば良かろう。皆で相談して判断すればいいのだ。……いいのだ…が、彼処ではちと暴れたからな」
「ユタの敵を討ち滅ぼしたんだっけ?」
「シンカの異質さを垣間見たな。片腕片足で手練れ4人を相手取ったのだぞ?私にも無理だ。」
「あたしにも無理よ。シンカはね、17の時にクウハン達手練れ5人を相手に1人で戦って勝ちを収めたのよ!凄い戦いだった。あれは芸術よっ!」
その言葉と表情でカヤテは如何にリンファがシンカを好いているかを推し量れた。
しかしカヤテとて気持ちは負けていない。
「そう言えばリンファ。少し前までは服のボタンを2つも開けていたのに最近は1つしか開けていないな。どうしてだ?」
尋ねるとリンファは頬を赤らめた。
「怪しいな。さてはシンカに何か言われたな?身嗜みを注意されたか?」
カヤテはにやりと笑った。
「…うん。あんまり他の男に見せるなって…」
「ぷぁっ!?あの女誑しめ!」
恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに照れながら告げるリンファの姿は同性のカヤテから見ても魅力的だった。
今えずけば口から砂糖が吐き出されるのではとすら思える。
「シンカはそんな男じゃ無いわよ…。元々付き合ってた時も本当に一途だったわよ。昔は5人と結婚したいなんて言ってなかった。…あいつ、あたしに振られて里を出て、多分1人で寂しかったんだと思う。私達の親みたいに沢山子供作れば寂しくないって思ったのかな」
「全部リンファのせいでは無いか。」
突っ込むものの分からないでも無い。
初めて出会った頃のシンカは今よりずっと厭世的であったと思う。
森の中を歩いていて思う。
太く巨大な樹々に頭上を覆われ、何処から魍魎に狙われているかも分からない薄暗がりを1人で歩けばカヤテなら直ぐに心を病むかもしれない。
誰かと共にいたい。そう思うだろう。
それでも人との深い関わり合いを避けていたのは傷付くのを恐れての事だろう。
それは間違いなくリンファの所為だ。
「言っておくけど、シンカが1人の女と添い遂げるつもりだったなら残念だけどあたしでもカヤテでも無いわよ。」
「うむ。順番的に言ってナウラになるだろうな。ヴィーは微妙な所だな。同時だったらしいから2人という選択肢はあるかも知れん。…だが!それは順番の話し!」
カヤテが言うとリンファは細く溜息を吐いて防壁の狭間に肘をつく。
「あたしは選ばれないわよねぇ」
良くない部分に触れてしまったらしい。カヤテは失敗したと腕を組んで唸る。
「仮定の話はやめよう。今は問題無いのだからな。早くヴィーとも仲良くなれ。気難しいが悪い女では無い。」
「…ほんと難しい。あの人。この前ヴィーって呼んでみたら睨まれたわよ?目も怖いし。あれ、何処見てるの?」
「分からん。ただ睨みで済んでいる内は問題ないだろう。私が初めてシンカに抱かれて帰った時、ヴィーは寝台に固定されていてな?のたうち回っていた。肌が粟だったぞ。ナウラとも1年ぐらいはずっと口論していたらしいしな。」
「そのナウラは何考えてるか読み取るの難しいし。」
「読み取れるだけ良いでは無いか。私は始め全く分からなかった。あれで喜怒哀楽が激しいからな。」
「この前なんてあの顔で、確か人の中では30過ぎても嫁いでいない女を行き遅れと言うのでしたか?おや。最近30になられた未婚の女性を前に大変失礼致しました。だって!?酷く無い?!」
「…それは私も聞いていたが、リンファはもう3日後には結婚するでは無いか。分かってて揶揄っているだけだろう?」
「そうなの?」
「うむ。あの時のナウラはもう結婚するから問題ない、と言う様な返事を求めてそのあと掛け合いをしようと思っていたらしいのだが、黙りこんでしまった其方を見て後で焦って私に相談してきたぞ?」
言葉を発するとリンファはあんぐりと口を開いた。
「彼奴も難しい性格をしているからな。心を許している相手には何のためらいもなく嫌味を言うし、揶揄う節がある。あれは関係を詰める為の彼奴なりの一手と言うことだ。」
「…なにそれ、難しっ!」
分からないでもない。
「普通なのはカヤテとユタくらいね。」
「えっ?」
「えっ?」
「ユタが……普通?」
カヤテは愕然とした。
「まあちょっと…大分目付きは悪いけど、他は普通じゃない?」
「あれが…普通?!リンファ、正気か?!」
「え?え?何?何で?いい子じゃない」
「それは悪い奴では無い。だが、普通?…普通とは何だったか…」
考えていて分からなくなる。
だが間違い無くユタは普通では無い。
「何?そうなると皆んな普通じゃないって事?」
「おいっ、おーいっ!私を含めるなよ?…だがユタの可笑しさは直に分かるだろう。」
食べ終わった桃の種を眺める。これを地面に植えれば桃の木が生えてきて毎年この美味い桃が食べられるのかと考えた。
「ねえ、じゃあ何?あたしの旦那は可笑しな女ばかり集めてるって事?」
しかしリンファの話は終わっていなかった様で先の話を続けた。
そして聞き捨てならない言葉も聞こえる。
「だから、私を含めるなと…」
「あたしは変じゃないわよ!」
「いや、自ら捨てた男を11年待つ女は普通では…」
「捨ててないっ!」
カヤテは肩を竦めた。
「大体あんたも戦いながら脱糞するって聞いたわよ!頭おかしいんじゃないの?!」
「大分語弊がある!私は脱糞などせん!」
その後、ゾナハンの街の防壁の上で下品な口論をする女2人の姿があった。
ケツァル王城玉座の間にてフランクラ・ベックナートは王に謁見していた。
国王レムルバード5世は玉座に座り表情の無くフランクラを見詰めていた。
「陛下。黄迫軍が戦の支度を終えたとの連絡が御座いました。グリシュナク殿からも赤鋼軍の軍備を終えたと連携が。如何致しますか?」
片膝をついたまま告げるフランクラを見たまま国王は暫し固まっていた。
その目はまるでフランクラを透過し、遠くを眺めている様であった。
「シカダレスに文を送れ。グレンデルに先行し領内を制圧せよ。」
「へ、陛下!?ファブニルと同時に挙兵すれば此方に靡く諸侯も増えるのですぞ!?」
「良い。所詮は利害にしか目の無い日和見主義の烏合の集。ファブニルに大義を与えるのも後に差し障る。ファブニルとグレンデルが疲弊した頃に両者を征伐する。」
国王の考えは決して誤りでは無い。
しかしフランクラの顔は青ざめていた。
「…陛下、二公を失えば…このクサビナは周辺諸国に食い荒らされまする」
「勢力を削ぐだけだ。」
フランクラには国王の考えが読めなかった。
ロドルファス・フレスヴェルという男はフランクラにとって極めて操作のし辛い男だった。
彼の事は幼少時から知っていたが、その性質は10歳前後で明確に変わる。
ロドルファスの母、第2王妃はとても心穏やかな女で王族に嫁ごうとも礼儀を失わない女であった。
そんな母親自らに育てられたロドルファスは子供らしく、そして健全な子供として育った。
フランクラにもよく懐いていた。10歳までは。
彼が変わったのはその母が死んでからだ。当然といえば当然だろう。
ロドルファスから子供らしさは消えた。
しかし母の教えを守る為か、周囲に対して礼儀を欠かさず宮中の皆に好かれた。
傲岸不遜な第一王妃とその息子エメリックとは雲泥の差があった。
ロドルファスは王位継承争いをするべきエメリックにも直ぐに気に入られる事になる。
以来比較的仲の良い兄弟として続いてきた。
だがフランクラが王や王子を言葉で巧みに誘導しようとしても必ずロドルファスだけは思惑に乗ってこなかった。
確たる自分の信念を秘めているのだと考えていた。
「陛下…強大なクサビナを存続させる為には…怒りに目を眩ませ王家に背を向けるグレンデルを叩き潰さなければ…。ファブニルの対抗馬はバラドゥーラを据えれば増長は抑えられましょう。」
「爺。余には余の考えがある。これで良い。ヴァルプルガーからの戦況報告は逐一余の耳に入れるように。…考えることがある。余は下がる。」
立ち上がり近衛を連れて居室に向かう国王の背を唖然として見送っていた。
国王の姿が完全に消えるとフランクラは我に返り玉座の間を辞した。
人気の無い廊下を歩いていると何処からともなくヴァルプルガーが現れた。
「耳に入れたい事が。」
「…うむ。儂の自室で聞こうか。」
2人は場所を移し、フランクラの部屋で向かい合う。
「陛下はロボク、マニトゥーでの勝利後、人目を忍んでエメリック様と会合を。」
「…それ自体はそこまで不自然な事ではないのぉ。昔から良く2人きりで会う兄弟であったが。」
「…念の為記録させていた2人の会話を読み直し確認した。単独では気付きにくいが、グレンデルにさり気無く悪感情を持つよう誘導していた事が分かった。」
「グレンデル?陛下は彼の一族に恨みは無いはずだが?」
「特に気になったのが、さり気無くカヤテ・グレンデルがエメリック様の害になると説いていた事。」
「何故そのような事を?陛下はカヤテを失脚させる事でこの様な事になると分かっていたのか?」
ヴァルプルガーは首を振る。
其処まではわからないという事だろう。
「現実にエメリック様は廃嫡。陛下は戴冠し今何かをなさろうと。」
不気味だった。何かが己の足元で蠢いている様にフランクラには感じられた。
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