交差

カヤテと2人、肌を合わせた翌日。

2人は繁華街を歩き、旅に必要な物を買い集めていた。

シンカはケツァル手前の森の中に装備を隠し、カヤテの救出に望んだ。

撤収後それをきちんと回収して居るので問題は無いが着の身着のまま逃亡したカヤテは何も持っていなかった。


追っ手を躱す為に途中の村や町にも立ち寄っていないカヤテは一番体型が似ているユタの予備服を着てヴィルマまで辿り着いた。


「こう言う何も持たずに男と逃げる事を駆け落ちと言うのだったな。」


「・・おい。流石にその様な低俗なものと一緒にしないで欲しいのだが。」


粗方必要な物を買い揃えるとナウラ達の待つ宿へ戻る。


まずシンカの部屋に戻ると寝台の上でヴィダードが拘束されていた。鼻息荒く血走った目で暴れて居る。


「ふーっ!ふーっ!」


「おや、朝帰りならぬ昼帰りですか。」


ナウラがのたうつヴィダードの猿轡を外す。


「己れっ!己れ小娘ぇ!私の旦那様をっ!私の旦那様を誑かしてっ!」


「す、すごく怒っているぞ、シンカ。」


「いつもの事です。」


釣られた鯰の様に激しく暴れる様が妙に可笑しく笑ってしまう。


「その腹筋で誘惑したのかっ!?ふざけるな!脂肪も筋肉も無い私はどうすればいいっ!」


「鉈蜂に胸を刺させて腫れさせるのは如何でしょう?」


「馬鹿にしないでよぉっ!」


「私の腹筋の事は言うなっ!」


シンカはヴィダードの脇に腰掛けると頰に手を当てて撫で摩る。

途端に目が潤んで大人しくなった。


「私が言うのもなんだが、凄いな。凄い女誑しだ。」


「誑しの意味を知っているか?宥め賺す事、騙す事、誘惑する事。あまりいい意味ではない。」


「うむ。悪い感情がある訳ではないのだ。だが、ヴィダードは貴族の舞踏会でも稀に見る・・・うむ。まあ個性的な女性だ。正直暴れているのを見て鳥肌も立ったし今後を不安にも思ったが、1撫でで大人しくなってしまった。これを誑かすと言わず何と言うのだ。」


「あらぁ?ヴィーは喧嘩を売られているのぉ?」


「そう言う訳では無いぞ。同じ男を夫としこれからを過ごして行くのだ。宜しく頼む。」


「カヤテは複数の妻がいる事を厭わないのですか?」


「私の親族は平均で3人の女性を娶っている。確かに独り占めしたいと思うこともあるが、神経質になるほどでは無いな。ナウラとは面識もある。その人品は好ましいと元々思っていたし、仲良く出来そうだとも思っている。」


「そうですか。ヴィーもできの悪い妹と思えば愛着もわきます。問題ないでしょう。」


ヴィダードは到頭妹扱いされるのに慣れてしまった様で反応すらしなくなった。

そんな彼女の拘束を解き細く柔らかい毛質の頭髪に指を差し入れ手櫛で髪を梳かしてやった。


その日はそれ以後、5人でゆったりと残りの1日を過ごした。


翌日、シンカはカヤテの剣を作る為に調べ物を始めた。

まずカヤテの腕を取り、筋肉の付き方を調べ、握力を図り適切な重量を把握する。


街から出て木の枝を削り、剣を振るにあたり得意とする距離を測った。


千剣流は斬れ味より頑丈さを剣に求める。

今回は鉱石で剣を削り出す事とした。


シンカは3日かけて森に潜ると目的の鉱物を探した。鉱物の分布はある程度知識にある。


鉱床の位置も把握している。


見つけた火山性残留物を5貫ほど採取し引き返した。


採集した鉱物は鈍く紅い色をしている。

巷では存在すら知られていない鉱物で、経の伝導率が良く温度の影響に強い。

硬度も極めて硬い代わりに研磨が難しく斬れ味の良い剣には向かない。


炎剣を使うカヤテにあった材質だろう。

街に戻ったシンカは白糸で時間を掛けて鉱石から剣を切り出し刃を形作ると砥木を加工した握りに刺し、同じく砥木の鍔で固定する。

握りに紅い組紐を編んで丁寧に巻き付け完成させる。

鞘も砥木で同じく赤い組紐で下緒を拵える。

握り、鍔と鞘を砥木で誂えるのはシンカの拘りである。


鍔や柄で攻撃を受ける事を考慮して硬い材質を用いる。

握りと下緒に組紐を用い、色を揃えるのも拘りだ。


切り出したカヤテの剣は両刃の直刀。両手、片手のどちらでも扱える様に柄は長い。

刃は三尺半とやや長い。重量は半貫。

この重さ、この長さがカヤテに最も合うと判断した。


同じ拵えで短剣も用意した。

作製には4日を要した。


それをカヤテに与えると大層喜んだ。

その様子を見ていたユタは目付きは悪いままに半泣きとなり必至にシンカが出していた宿題に向き合い始めた。


残るカヤテの装備を整え旅支度を全て終えたのはそれから3日後の事だった。酒を抜き、垢を落として西へ向けて街を出て行ったのはその2日後の事である。


夕刻の橙色の日差しが天空へと伸び立つ幾本もの尖塔にかかり、街に影を落としている。

夕日は煉瓦造りの街並みを柔らかく染めている。

緩い風に麦色の髪を柔らかく煽られながらヴィダードは街並みを見下ろしていた。


純白の長衣は肌に馴染み、風に吹かれると彼女自身まで飛ばされてしまいそうな、そんな儚さが滲み出ていた。

ヴィダードは伏し目がちに眼下を身動ぎもせず眺めている。

長い睫毛が時折瞬きで上下する。

体の動きはたったのそれだけであった。


3日前からシンカが1人で街を出ており、必死にシンカの課題を熟そうとするユタに付き合ってナウラも宿に詰めており、カヤテは1人体を鍛えている。


ヴィダードは暇を持て余し目的も無く街へ出て景色を眺めていた。

シンカの居ない時間はつまらない。

何もやる気が起きないし、全てがどうでもよくなる。


シンカと出会い既に8年。結ばれて1年。

今もこうして景色を眺めながら彼の姿を思い描いている。


「すみません。少しいいですか?」


「・・・」


声を掛けられる。煩わしい事だ。

ヴィダードは返事などしない。

自分の伴侶以外はどうでも良い。


「すみません。あの・・・」


「・・・」


話す事などない。話をしたければ高台の欄干に凭れ掛かり1日を過ごしたりなどしない。


「無視、しないでください。」


「・・・」


3日間何度か声をかけられる事はあった。

無視していれば居なくなる者、強引に振り向かせようとする者、様々だ。


ヴィダードは聞こえない物として緩く風に吹かれながら眼下の街並みを眺め続けた。


「ちょっと少しは」


肩に手がかけられそうになりヴィダードは横にずれて躱し振り返った。

そしてその澄んだ空の様な水色の2つの瞳で話しかけて来た男を覗き込んだ。


「許可もなく私に触れないでくださいな。貴方と話す気など無いから返事をしなかったのよぉ。」


ヴィダードに声を掛けた男は蛇に睨まれた蛙の様に動きを止めた。顳顬を汗が流れている。


ヴィダードの目を見た人は大体同じ反応をする。

自分の何がそうさせるのか分からなかったが、シンカはその様な反応は初めからしなかった。


そういう所も好ましいと思っていた。


街でも森でも彼は自分達を庇う様に前に出る。

頭や頬を撫でる手つきは優しげで、鼻を摘まれると可愛がられているのだと感じられた。

抱かれる時に両の腕で強く抱き締められるのも好ましい。


力強く、自信に溢れ、自分達を守ろうと力を尽くす彼が愛おしかった。


それに比べて目の前で己が声を掛けた相手にすら怯える男に如何程の価値があるのか。


人間は男も女も伴侶を得た後に浮気という物をすると言う。


ヴィダードには理解出来ない。伴侶さえいれば何も必要無い。


「い、いえ、昨日から貴女が1人で立っているのを見ていたもので。」


「私が1人でいる事が貴方にどう関係あるのかしらぁ?」


底が浅い。何故自分に声を掛けてきたのかも分からないが、シンカは街で声を掛けてくる人間に注意を払うよう説いていた。


具に様子を観察するが危害を加えようという素振りは見られなかった。


ヴィダードには分からなかったが声を掛けてきた男は大層見目の整った男であった。


ヴィダードは美しい。1人でいれば声を掛けてくる男などいくらでもいる。

金や権力、況してや顔の良し悪しなどイーヴァルンの民の判断基準にはまるで無価値だ。


導かれたヴィダードはシンカに指示されれば自害すら辞さないだろう。

それ程までに盲目的に彼を愛していた。


「1人で貴女が寂しそうにしていたので声をかけました。」


男は人好きのする笑みを浮かべる。

無愛想で険のあるシンカと比べれば町娘は目の前の男を好むだろう。


「夫のいる女に声をかけるなんて感心出来ないわぁ」


「貴女を1人にする夫ですか?」


食い気味に男が反論する。

夫という言葉を自分で紡ぎ、ヴィダードは興奮した。


漸く手に入れた自分の伴侶。諦めず探し回って漸く心の平穏を手に入れたのだ。


彼に触られるとそこがじんわりと暖かく感じる。

導かれるた男女は初めてお互いを求め合い触れ合う時、その暖かみを感じ涙を流すのだという。


ヴィダードはそれを妹に聞いた時は大して興味を持っていなかったが、砂漠で彼と結ばれた時、ヴィダードはナウラと共に涙を流した。


森の中を進んでいるであろうシンカを思い眼下の町の向こう、シンカがいるであろう森の方角を見つめた。


「ちょっと、」


再び肩に手をかけようとする男を一瞥すらせずに躱す。


「・・・・」


「僕だったら貴女を1人置いて何処かへ行ったりなどしません。」


「私の旦那様は明日帰ってくるの。早く会いたいわぁ。」


匂いはまだ感じ取れない。

早く頭を撫でて抱きしめて欲しい。それしか考えられなかった。


「貴女の様な美しい人を置いて何処かへ行くなんて。其奴には貴女が尽くす価値なんてっ」


「旦那様の悪口かしらぁ?」


ヴィダードは男へと振り返り至近距離からその目を覗き込んだ。


邪な目だ。

伴侶を持つ里の民に手を出す事はイーヴァルンの里では極刑である。

伴侶を持たない者に手を出す事も極刑ではあるが、罪は前者の方が重い。


そもそも旅人が少なく里の者は伴侶以外に興味が無いので実施された事のない刑ではあるが。


ヴィダードは男の心臓に短剣を突き付けていた。

それは衣服を斬り裂き肌まであと少しの所まで進んでいた。


「女の匂いが濃いのよねぇ。貴方の言葉には重みがないわぁ。遊びか何か知ら無いけれど、私の夫は敵には苛烈よぉ。」


ヴィダードは再び森に目を向ける。

着いて行けばよかった。寝坊して出発に気付けなかったのだ。


共に歩み、同じ物を見て、同じ空気を吸い、見つめ合いたかった。


「僕は貴女に一目惚れしました。そんな貴女が1人で寂しそうにしているのを見て僕が癒せればと」


「お前の事などどうでも良いけど、覚悟があるなら私の夫にそれを伝えなさいな。身体中から女の匂いを振りまいて1人の人妻に声を掛けて・・・人妻・・・」


そうだ。自分は人妻なのだ。なんだか首輪か何かを付けられてシンカの所有物とされた様な気持ちになる。


「貴女の御主人に話せばいいのですか?そうすれば貴女は解放されるのですね?」


男が何やら気炎を上げているがヴィダードはどうでも良かったので彼方の森を見つめていた。

夕日が徐々に落ちあたりが黄昏ていく。


「ヴィー!こんな所にいたか!」


名を呼ばれ振り返るとカヤテが立っていた。

切り揃えられた前髪の下から翡翠色の意志の強い眼がこちらを見つめている。


「ん?この男は?」


「知らない人よぉ。」


「そうか。行くぞ。食事の時間だ。」


踵を返すカヤテに続き歩み出した。


「必ず貴女を助けに行きます!」


背後で男が声を上げた。


「矢張り知り合いではないか。」


「知らない人よぉ。執念いから旦那様に話す様に言ったわぁ。」


「・・・あの男、身なりからして貴族だぞ。私が言うのも何だが、確実に厄介事だろう。」


「本当に貴女が言うのは何ねぇ。」


ヴィダードは言葉を切ると帰って来たシンカと何をするか考え始めた。


旅装を手ずから解いて手拭いで身体の汚れを落とした後、隣にぴたりと座り頭を肩に乗せるという結論に達する。


きっと髪の毛に指を差し入れて頭を撫でてくれるだろう。


その時のことを想像してヴィダードは一瞬で背後の男の存在を忘れ去った。




夜半の事だった。


夜更けまで執務を行なっていたサルマの部屋の扉が許しも無く開かれた。


大層慌てた様子のシルアであった。


「サルマ様!お逃げください!謀反です!」


「謀反?・・・旧ヴィティア王政ですか?それともルドガーですか?」


「何方もです。ルドガーが旧ヴィティア王政の残党を取りまとめ、3歳のカイウス王子を旗頭にして旧ヴィティア軍を組織、ベルガナ軍も掌握しております。この城にも攻め寄せており、少ない近衛で防いでいますが時間の問題でしょう。」


「最悪の想定として考慮はしていましたが・・今とは・・。逃れます。・・・山渡りはどうなりましたか?」


サルマは表情こそ変えることはなかったが、内心は苦い思いと足元を崩された衝撃で混乱していた。


「白雲山脈から連れて来た私の配下、草の者共はあまり離脱は有りませんでした。ヴィティアには青草、灰草、黄草を連れて来ていますが、10名程の離脱で済んでおります。天海山脈出身の土の者はサルマ様に敵対すると考えて宜しいかと存じます。元々ヴィティアには白土が別件で潜入していたようですがこれは壊滅、ヴィティア侵攻に辺り引き連れていた赤土、青土、黄土、灰土、茶土の内赤土が消息を絶ち、戦線の影響で10名程が死傷している為残るは30といったところでしょう。」


とはいえ丸裸に変わりはない。


「主だった者は?」


「皆ルドガーに付いたようです。大分前から調略を仕掛けていたのでしょう。」


サルマの重臣達は皆ベルガナに残っている。

苦楽を共にしていない物達が皆寝返ったということだ。


「シルアはどうしますか?私に着けば貴女も部下も身を危険に晒すこととなります。」


部屋の外より喧騒が聞こえる。城門を破ろうと兵が押し寄せているのだろう。

それとは別に剣戟の音が近くから聞こえる。

山渡り同士が鎬を削っているのだろう。


「私の上役はルドガーではありません。土長のイルカイでも。白雲山脈の副頭目、ウーヴェ様より私はサルマ様をお守りするよう申しつかりました。ルドガーではありません。」


「・・ありがとうございます。」


とても心強かった。

涙腺が緩み涙を零しそうになるところを堪えて無表情を保った。

サルマが混乱した様を見せるわけにはいかない。


「では、行きます。」


シルアはサルマの手を引き歩み出した。

城の廊下を早足で進む。

前方には5人の山渡りが。後方からも同数。


「脱出は可能なのですか?」


「問題ありません。古い抜け道を王城の地下に見つけました。」


「脱出した後は急ぎダルトへ向かいましょう。馬などは用意が難しいでしょうが、私の足で辿り着けるものでしょうか?」


「赤草をダルトに向けて走らせましょう。サロメ様への書をお認め下さい。黄草は先行させベルガナ領土にて食糧や馬の手配をさせます。」


「ありがとうございます。急ぎヴィティアを出ましょう。」


その日スライに押し寄せた軍勢は打倒サルマを謳い王城を占拠した。


特筆すべきはそれがヴィティアとベルガナの混成軍であったことだ。


しかしながら女王サルマは辛くも難を逃れ姿を消す。


第2時ベルガナ・ヴィティア戦争の幕開けであった。



「おのれ灰土。イルカイは本気でルドガーなんぞに付く気か?!」


中年の山渡りが唸るように憎しみを垂れ流す。


森に逃れ幾日も進んだ。足は靴擦れし、薬を塗りながら進んでいる。


何度も追撃を受けた。


その度に戦闘となりサルマに着いた山渡りが少しずつ死んでいった。

今やシルアを含めて6人しか残っていない。


そして今サルマ達は15名の敵に囲まれて立ち往生していた。


1人ずつ男達が倒れていく。

彼らに申し訳が立たない。


中年の山渡りの胸に矢が突き立つ。

皆倒れた。


後はシルアだけだ。

だがサルマの目の前でシルアの左手が断ち切られ、赤茶けた土の上に重たい音を立てて落ちた。


「・・ぅ・・・」


それでもシルアはサルマを背に庇い、荒い息を吐きながら槍を構えた。


襲撃者達は油断無く弓を構えてシルアを狙っていた。

ここで終わる。

焦りは絶望へと転じ、胃の腑が重りをつけられたかの様に鈍く痛んだ。


「何処かで嗅いだ事のある匂いかと思えば。」


それは唐突だった。


何の予兆もなく、耳に声が届いたのだ。

男の声だった。


深く落ち着いた声は今にも命を落とさんとするサルマにとっては場違いで現実味が無く、聴き間違えかと一度は錯覚するほどであった。


視線をやる。


一抱えもある木々の合間に笠を被った男が立っていた。


笠で顔は見えず、外套で肌も見えない。


「お助け下さい!」


直ぐにサルマは叫んだ。

見覚えのある姿形であった。

サルマの考える通りの相手ならこの窮地を逃れる事が出来るかもしれない。


敵対する山渡りの1人が菅笠の人物目掛けて駆けた。

体勢低く、両手に逆手に持った短剣を眼前にて構える。

その動きはサルマには目で追うのがやっとであった。


菅笠の人物に動きは無い。

殺されると思った。


菅笠の人物が笠を上げる。

白い肌に茶の瞳。アガド人とシメーリア人の混血だ。


男の頬が突如膨らむ。

何かが口から吐き出される。

唾では無い。数度鋭く水が吐き出される。

山渡りは左右の短剣で2発を防ぐが3発目が身体に被弾した。


水行法 水蜘蛛針。サルマは知らないが男が使った行法はそう名付けられている。


口腔内で圧縮された水の針は迫った山渡りの心臓を射抜き、赤茶の乾いた土にぶつかって散った。


「お前・・シンカ、か。」


シルアが唸る様に言葉を紡ぐ。


「苦戦している様だな。シルア。5年ぶりか?」


手強しと見てか3人の山渡りがシンカに向けて駆けた。

2人は迂回し、1人は正面から。

右からは剣持ちが、正面からは槍持ち、左からは短剣持ち。


森渡りが大きく息を吸い込んだ。


手の動きは外套で確認できない。

刹那の後、男は首を振った。


口腔から白い糸が吹き出す。首を一振りすると一条の白い糸が左右に走った。

剣持ちは剣を眼前に構えて防ぎ、残る2人は飛んで躱した。


サルマにはその様に見えた。


剣持ちの剣が2つに切り裂かれ、刃先が地に落ちた。

遅れて上半身がずり落ちて蓑の藁片を撒き散らしながら土煙を上げた。


跳んで躱した男の内短剣持ちの両足が膝下から切れ飛んび着地が出来ず強く体を打ってのたうち回った。


残る槍持ちが正面から槍を突き出すが穂先を左手で捕まえると急に持ち主が体勢を崩した。

直ぐに目にも留まらぬ速さで右手を振るい、3人目も地に伏した。


「助けて、くれるのか?」


「情報と引き換えなら加勢しよう。どの道山渡りは我らの敵だ。」


「・・わかった。話せる事なら話す。」


シルアの返答を聞いてサルマとシルアを狙っていた弓が放たれた。


4本の矢が弦から放たれる。

しかし矢がサルマ達に突き立つことはなかった。


突如として沸き立った豪風が土と共に放たれた矢を巻き取り弓使い達に迫った。


彼らは後退して竜巻から逃れる。

振り返ると華奢な骨格の森渡りが初めの森渡りの左手に現れ両手を突き出していた。


7人の山渡り達が同時に動いた。

一糸乱れぬ動きで森渡り達に向け駆け出した。

サルマは一連の出来事に唖然としたままそれらに見入っていた。


山渡りが駆け出すと同時に森の闇から滲み出る様に人影が更に現れた。

合計5人が迫る山渡りに対峙した。

2人が剣、1人が斧。風行法士は弓を背負い、始めの男は奪い取った槍を構えている。


「駄目だ。この人達全然強く無い。やる気でないなぁ。」


剣使いがぼやく。


「またそんな事を言うとシンカに怒られるぞ、ユタ。」


剣使い2人は声からして女の様だ。


「僕、これでも無益な殺生は好まないんだけど・・。ひひ。でも降り掛かる火の粉は払わなきゃいけないもんね?」


早いがサルマでも辛うじて見極められる動きだった。


向かう男の脇に沈み込むと剣を横薙ぎにした。

見極められる筈だった。


しかしあっさりと山渡りが1人沈む。


「逆戸斬り!?」


切り口から血と臓物を零しながら驚愕の声を上げる。

気を取られた別の山渡りがもう1人の剣使いに斬りかかられる。


「ふんっ!」


「ぐ、があああっ?!」


山渡りは剣で防いだが、防いだ剣が断ち切られ袈裟斬りにされる。


「炎弾!」


法の名を口に出して剣ごと右手を振るうと火球が生み出され別の山渡りに突き進んだ。


狙われた者は飛び退って躱すが、着地した場所に飛来した矢が喉に突き立っていた。


遠方より竜巻から逃れた4人が斉射を始める。

斧使いが地に両手を着いた。

隆起した大地が矢を防ぐ。


「ふんっ!はっ!」


「えへへ。ふへへへへへ。ひひっ」


残る山渡りが次々に斬り伏せられていく。

はじめに現れた男が手に持っていた槍を山なりに投げた。遠方の弓使いの側に突き立つ。


「・・・」


無言のまま両手を突き出した。

刹那、轟音が響き渡った。


少し遅れて雷であると気付く。これほど近くに落ちた事は初めてだった。


落雷の跡を見ると槍がひしゃげて黒ずんでいた。

弓使い達は横たわり呻き声を上げている。

よく見ると破片が体に突き刺さっていた。


「一瞬で倍以上を・・・これが・・」


思わず呟く。

呻く弓使い達を火行法を使う剣士がとどめを刺した。


森渡りの男、シルアがシンカと呼んだ者が近寄って来る。


「腕をやられたか。」


「助かった。我らはお前達を害したと言うのに、済まない。」


「ランジューへの抜け道は非常に有益であった。あの様な情報を得られるのであれば安いものだ。・・腕を着けてやろう。」


「・・は?」


「ナウラ。来い。」


シンカはシルアの腕を拾うと土の付いた断面を生み出した水で洗い、背嚢を下ろして別の液体をかけた。


「私の腕に何をかけた?」


シルアは止血した傷口を抑えながらたずねる。


「酒精だ。目に見えぬ悪い物を殺す。」


小走りでやって来た斧使いが背嚢を下ろす。


「そこらに初めから転がっていた山渡りを治療してやれ。」


「良いのですか?」


斧使いも女であった。

笠の下に見える肌はドルソ人と同じであったが、眉が白い。

美しい女だ。サルマに引けを取らぬ絶世の美女だ。


「此奴、シルアは信頼出来る。それに落ちぶれて尚主人に付き従う者達だ。悪い事にはならんだろう。恩を売っておけ。」


「ナウラ。私はシルアだ。この通りだ。私の部下を救ってくれるか?」


シルアが頭を下げる。

ナウラという女は小さく頷いた。


シンカは先程切り取られた腕にかけていた液体をシルアにかける。


「っ!?ぐ、ううう、ああっ!?」


シルアが呻く。

シンカは背嚢から粉を取り出すと切断面に振りかけた。

そのまま傷口の様子を伺いながら断面を合わせた。


「あ、反対だった。」


「お、おい・・」


「冗談だ。血管を繋ぐのは容易いが、神経は気を張る。痛むのは分かるが力を入れるな。下手をすれば神経が接続されないままくっ着く。」


「着くのか?!斬り落とされた腕が着くと言うのか?!」


「大人しくしていろ。暫くこのまま動かさずにじっとしていろ。直に指先が動くようになるはずだ。動いたら声を掛けろ。」


シンカは立ち上がり胸を押さえて横たわる中年の山渡りの元へ向かった。


「シルア。あの男と旧知なのですか?」


「はい。サルマ様。5年前にメルセテで知り合いました。若いですが知識も武力も我等が束になっても敵わないでしょう。森渡りの中でも当代随一と言われているとか。私はあの男を知っていたので森渡りと争いたくありませんでした。」


「以前私の部屋に忍び込んだのはあの男です。」


「・・・よく、生き延びましたね。・・いえ、初めから殺す気は無かったのでしょう。本気であれば気付かずに殺されていたでしょう。運が良かった。」


シンカ達はサルマ方の山渡り達を治療して回っていた。


「シルア。私はあの男が欲しいのです。何とかなりませんか?」


「・・それは。」


シルアは口籠った。

表情も難しい。


「以前に断られました。それでも・・」


数ヶ月前の自室での事を思い出す。

ルドガーに追い落とされた自分には森渡りが必要だった。


「彼等は地位、土地、金に執着しません。一部の者が帰化し各地に住みますが一般の薬師と区別も付きません。」


「諦めきれません。」


山渡りの殆どがルドガーに付き従い、シルア麾下の別働隊とこの場の合わせて2.30程度しか今のサルマには残されていない。


「私は腕の治療をしてもらった身です。これ以上は恥の上塗りになります・・」


「では、私が直接頼みます。」


サルマは歩き出すと治療を施すシンカに向かい歩み寄る。


「シンカと言うのですね。この度はお救い頂き有難うございます。」


いつも通り、慇懃な態度仕草で礼を述べた。

サルマが常日頃から丁寧な態度を取るのは幼い頃からの癖でもある。

サルマに流れる王家の血筋にいかほどの価値も無かった当時は横柄な態度を取れば周りに見捨てられた。


「お前を救ったわけでは無い。既知のシルアを交換条件で助けたまで。お前の出る幕はない。」


サルマは此れほどまで痛烈な物言いをされた事が未だ嘗て無かった。


だが無礼とは思わない。

彼はサルマと敵対しているのだ。憎い相手に礼を払う必要があるとサルマは思わない。


虫の息だったシルアの部下達が治療により息を吹き返し始める。

サルマの目から見ても重傷であった者達が起き上がる様は奇跡のように感じられた。


この知識が欲しい。


「あの女性達は貴方の伴侶でしょうか?」


「そうだが、それが何か?」


「彼女達に断れば貴方を連れて行く事は可能なのでしょうか?」


男の雰囲気が変わった。

空気がひりついている気がする。


「サルマ様!その辺りでおやめください!シンカが経を練っています!」


「これだから王侯貴族は。望めば全てが手に入ると思っている。煩わしい。お前は我等一族の未来の為ここで殺しておくのが良いだろう。」


「シンカ!辞めてくれ!サルマ様は自国の民を思って行動されているのだ!決して利己ではない!」


「自国の民の為他国の民を殺す。悍ましい。幾ら大層な名目を掲げようと、結局成されるのは戦争と言う名の大量虐殺だ。戦争が起こらぬよう努めるのが為政者の義務であると俺は考える。それが出来ない事が罪とは思わぬ。だが少なくとも、誇る事ではあるまい。」


「頼む!まだお若く融通が利かぬのだ。だが、このお方が国を収めれば必ず将来ベルガナも、周辺の国々も平和になる!そう信じてサルマ様に尽くしている!・・頼む。」


シンカはサルマを一瞥すると背を向けた。


「お前程の女がそう言うのであれば。」


張り詰めていた空気が弛緩するのがサルマにも分かった。


何が琴線に触れたのだろう?

直前の発言を思い返すとシンカと伴侶を別ける発言をしていた事に思い至る。


4人の女性の内誰を伴侶としているのかは分からないが、自分が変われるのなら、と考えたのだ。

顔には些か自信があった。


だがナウラという女も相当美しい。自分に見向きもしない理由が分かった気がした。


それにしてもシンカという男のサルマとシルアの態度は雲泥の差がある。


彼とシルアとの間に何があったのか気になった。

後で聞いてみようと考える。


全員の治療が終わる。

5人の内1人が死亡した。

シルアの手は半刻程で指が動くようになり、重傷だった者も立ち上がれるようになった。


シルア曰く未知の薬剤だと言う。


「これからどうしますか、シンカ。」


ナウラと呼ばれた斧使いが発言する。


「長峰山脈の西南端を超えてシアス王国へ入る。」


「初めての西大陸です。植生や魍魎が気になります。」


今後の予定を5人で話し合い始めた。


「シルア。私達は如何しますか?」


「このまま南下してベルガナを目指します。先行させた部下が無事にダルトへ辿り着いていれば迎えの軍が向かっているはずです。合流出来れば安全でしょう。」


「ルドガー。ただでは済ましはしません。浅ましい男です。」


「・・・」


シルアは言葉を返さなかった。

初めから分かっていた事だと考えているのだろう。


「ルドガーはサルマ様をベルガナまで逃さぬ様、力を尽くすでしょう。ヴィティアを出てベルガナのバリグリンダに辿り着くまでが生死の分水嶺となる筈です。」


「貴女の部下が大分死んでしまいました。私の為に。申し訳ありません。」


「皆サルマ様を慕っておりました。私の命令ではありません。彼らの為にも落ち延びて下さい。」


サルマでも分かるほどに森がざわめいている。


「血の匂いを嗅ぎ付けて魍魎どもが集まっているようです。すぐに出ましょう。」



山渡りの治療を終えたシンカ達は旅立とうと匂いを落としていた。

そこへシルアが近付いてくる。


「1つ提案がある。」


「うん。聞こうか。」


シルアとは5年前にメルセテで出会った。

王都シウレイに滞在していた一月の間に何度か酒を飲んだ。


彼女の人となりは知っている。

他人に流されぬ強い芯を持った女だ。

律儀であるし敵対した今となっても信頼できる。


「長峰山脈の西南端を超えると言っていたな?」


「うん。」


「実は彼処は2年前より翼蛇龍の番いが住み着いているのだ。全長7丈もある。お前なら退治出来るのであろうが、安全を考えて迂回するのも手かと思う。バリクリンデまで同道してもらえないか?」


「バリクリンデか。椰子酒の名産地だな。」


「勿論奢る。情報も提供する。頼む。翼蛇龍よりも人間の方が危険も少ないだろう?」


「うん。お前達、進路変更だ。バリクリンデで此奴に酒を集る。」


様子を伺っていた仲間達に告げる。


「椰子酒ですか。ヴィティアには有りませんでしたね。」


酒に食いつくのはナウラだ。


「椰子酒は棕梠の果実を傷付けて滴る果汁を自然発酵させた酒だ。甘酸っぱく飲みやすい。ヴィーでも飲めるだろうな。」


「エラム湖に辿り着く前に垢を落とせるのは助かるな。色々な街も見てみたい。」


「そこそこ大きい街だ。気色悪い木彫りの像が名産品だ。黒曜石の産地でもある。短剣を探してみるのも良いかも知れん。」


「ねえカヤテ。街に着いたら僕と死合いしてよ。僕の直感だけど、君はもう徳位に昇格できる実力があると思う。死合いしようよ!」


「暫くはそんな気持ちにはなれん。」


「!?なんでっ!?そんな悲しい事言わないでよ!」


「お前は私の一族でも無いのにどうしてそこまで剣狂いなのだ・・」


カヤテとユタが騒ぎ出す。


「シンカ。カヤテと言ったか?・・まさか、赫兵?歳の頃も肌の色も目の色も・・何故こんな所に!?」


シルアが口角をひくつかせる。


「あの鈴剣流剣士・・シンカ!ヴィティア戦線でヴィティア勢に加勢していたな!?此方まで噂が出回っているぞ!」


「噂?」


「お前と鈴剣流剣士、水行法使いの女薬師、中年の薬師の4人は2つ名で呼ばれているぞ。」


「2つ名!?僕の2つ名!?」


ユタが食い付いてシルアに詰め寄った。


「ポルテ砦で暴れていた鈴剣流剣士は飛燕と呼ばれている。水行法使いは青波、中年の薬師は風柳、そして背後で3人を援護し自身もベルガナ兵を蹴散らした薬師は懸崖と。」


「飛燕!飛燕のユタ!僕気に入ったよ!」


「ユタ。怒られるぞ。やめておけ。」


興奮するユタがカヤテに諌められる。


「お前は問題児だ。我等のあり方は世に名を馳せる事とは真逆にある。喜ぶことでは無い。」


「青波よりも飛燕の方が格好良いよね?」


「聞けよ。」


漸く移動が始まる。

なるべく痕跡を残さぬように配慮するが、サルマだけは多くの跡を残してしまっている。


「シルア。姥度谷という地名に覚えはあるか?風に纏わる土地だと思うのだが。」


「ウバド?・・む。覚えが無いな。風に纏わると言うのは?」


「風の強い土地、或いは風を祀る土地。はっきりとしなくて悪いが。」


「風が強い・・強いだけなら幾らでもあるが。」


「そうだな。クサビナとルーザースの国境やリュギル南部、マルカのマルカ半島、数えればきりが無い。」


「・・・ルーザース・・ルーザース西の霧笠山脈にウバド峰という峰があるな。その脇に巨大な龍が這った様な谷がある。谷は樹々が覆い尽くしているから風は感じられないが、樹々が無ければ風の通り道になったかも知れないな。」


「良い情報だ。助太刀の駄賃に値する。」


「お前の求める場所では無いかも知れないぞ?」


「問題ない。なんの目処も無いよりは遥かに良い。」


ナウラが歩きながら手帳に書き物をし、それを傍からカヤテが覗き込んでいる。


「そのウバド谷には何があるのだ?」


「遺跡があります。古い遺跡です。」


ナウラがカヤテに太古の遺跡について説明を始める。


「遺跡を調べてどうする?何か宝でもあるのか?」


シルアが不思議そうな表情で訪ねた。


「太古の記録を読み解くだけだ。」


「シンカ。エラム湖の次はウバド峰に向かいましょう。貴方が生きている間に全てが明らかになるかも知れません。」


極彩色の爬、赤実矢毒蛙が生息する沼地を避け南下した。


樹の根元に転がっていた被甲鼠をナウラが持ち去ろうとするのを止めながら特に障害もなく数日後にヴィティアを出た。


ベルガナに入っても当然ながら植生は変わらず蒸し暑い日々が続く。


大噛蟻の兵隊蟻を見つけ急ぎ縄張りを抜け、馬頭を数頭倒してベルガナ国内に更に踏み込む。

途中上空遠方より鋭い咆哮が聴こえた。


進行方向右手、西の山岳方面。

翼蛇龍。咆哮の音程も低い。大きな個体だ。シルアの言うことは嘘ではなかったと言うことだ。


最も体温変化や視線、脈拍で嘘を付いていないことは分かっていた。

シンカがサルマを避け、非協力的である理由はただ森渡りと敵対している事が理由では無い。昔にカヤテとの接触を避けた様に、王侯貴族と関わる事を避ける事は権力を持たない出自にとっては重要である。


彼等は状況が変われば容易に周囲を切り捨てられる。


カヤテが一族から切り捨てられた様に。


サルマは人品も若さの割に優れているし、見た目も美しい。

人気のある国王なのであろうが、自身が望めば望む通りの結果が出ると無意識に考えている節が見受けられる。


能力がある為今まではそうできたのであろう。

サルマの思惑、計画に周囲が努力して状況を引き寄せてきたのであろう。


しかし、それに付き合う気は無い。戦争に参加し、歴史書にも乗らぬ事態を間近で体験する事も興奮はする。だが駒となるのは違う。


そうした立ち位置にて彼女を観察してみれば、そこに立つのは頭が大きく若く未熟で世間知らずの誇大妄想家の女であった。


この女王はこれから幾度も戦を行うだろう。

戦争など勝手にすれば良い。しかし付き合う気は無い。


「しかしシンカ。こうして2人で歩いていると何時しかの事を思い出すな。」


「・・2人?」


「並んで、と言う事だ。」


視線を感じてちらと横を見ると無表情の中に不機嫌さを僅かに垣間見せたナウラが視線を送っていた。


「あの時のカヤテは全身鎧を着込んでいたな。脱ぎ捨てるべきだと言う言葉を何度飲み込んだか。」


「気を使ってくれていたのだな。」


「貴族の矜持を傷付けたと剣を抜かれても堪らないのでな。」


「恩人に剣など抜かん!その様な事を考えていたとは!あー、もう知らん。怒ったぞ。」


不貞腐れた様子で顔を背けた。

構って慰めろという意思がありありと見て取れたので無視することにした。

シンカから何の動きも無いと見て取るや態度を引っ込めて再度口を開いた。


「しかし見た目は厚手だがこの装備は軽いな。森を歩くのが苦にならない。」


「それはカヤテに元々体力が備わっていたからだ。」


「それにこうしていて思う。シンカはやはりあの時私達を助けてくれたのだな。あの鬼を従えて。」


「・・・従えてなどいない。邪悪な行為により怒りを煽っただけだ。カヤテはグレンデルに居続ければ千年の後にも名の上がる人物となって居ただろう。あの時は下らぬ戦で命を落として欲しく無いと考えたのだ。」


蒸し熱い気候に額から汗を流し、其れを布切れで拭いながらシンカは話した。


「今でも考えるのだ。ミト様を支えていた自分と今の自分について、責務から逃れたままで良いのか。私だけ好いた人と安穏と過ごして良いものか・・と。」


「個人的な見解を述べれば、グレンデルは一族の安寧とカヤテを天秤にかけ安寧を取った。為政者としては正しい選択だろう。だが家族としては失格だ。グレンデルは自らカヤテを切った。ならばその先でお前が幸福になろうと不幸になろうとそれは一族とは関係のない事。俺の見解だが。」


「シンカの言いは正しい。分かっている。だがどうしても心が晴れんのだ。」


「危機があれば密かに助けに行けばいいではないか。」


シンカが述べるとカヤテはその答えを予想だにしていなかったのか、惚けた表情でシンカの顔を見つめた。


普段は切れ長で凛々しく美しい顔が柔らかく崩れる。

常日頃は黒豹の様に研ぎ澄まされた鋭利な印象であるが、今はでれでれに懐いた川獺の様であった。


心臓が僅かに強く脈打った。


ヴィダードが首だけで振り返り猛り狂った木立小金眼梟の様に舐め付けている。


ナウラは沼嘴広鸛の様に胡乱な目つきだ。


心拍が聞き取られた様だ。参った。


「・・そうか。そうだな!・・なあ、シンカ。その。もし良かったらなのだが・・・」


「うん。・・いいよ。」


「まだ何も言っていないのだが・・」


「心中するつもりもさせるつもりもないが、手伝うのは構わん。あの時、ロボク戦線に参戦した際は渋ったが、今はもう家族だ。手伝うのは当たり前だ。」


「・・・そうか。・・そうかぁ。・・・ふふ。」


呟きカヤテは笑った。


どうやらシンカは幾分かカヤテの心の闇を払えたらしい。

それはどこか心地良く、誇らしい事だった。

国境を超え数日、案の定と言うべきか不穏な気配を感じ取った。


自分がスライからサルマを追う立場であればという目測を立てていたが、それよりも2日遅れの事であった。


気付いた切っ掛けは剣耳兎の群れが前方に垣間見えた事であった。


兎は警戒心が強く物音に敏感で人の接近を許さない。

周辺彼等の糞や足跡は殆ど見当たらない。此れはこの近隣が彼等の生息域では無い事が理由だ。

南下すると兎達の足跡が更に南から北上してきている事がわかる。


南の方向に何かがある。ここ数日でそれが兎を追い出したと考えられる。


ナウラとヴィダードの腕を小突く。

2人は自身の感覚を働かせて周囲を探り始めた。

半日ほど進むと前方に人間の気配を感じ取った。


同時に後方より急接近する人の気配。


手信号で4人の仲間に指示を出す。

前、20、後、20、練度、強、先制、カヤテ、後、火、範囲、先制、ナウラ、前、火、範囲、ヴィダード、前、風、防御、シンカ、後、防御、ユタ、遊撃、弱。


全員が左拳を握り顳顬に当てがう。


カヤテが振り返り両手を突き出す。

その手先は両手の人差し指と親指で菱形を作り、そこから行法の起点を定めている。


同時にナウラが大きく息を吸い込んだ。

背を逸らし肺が膨らみ胸が押し上げられる。山渡り達がどの様に動くかは考慮しない。

はなから40の敵を5人で倒す想定で動く。

まず後方から三度笠に蓑姿の敵山渡りが現れた。

足場の悪い森の中を平地を全力で走るかの如く突き進んでくる。


「赤華稜線!」


向かって左から右に素早く手を動かし行法の名を告げると共に右手を振るった。


行法の動作は人それぞれだ。

火行を行うのに必ずしも手を振るう必要はない。

ただの印象である。その動作を行う事で経が作用する。そう認識しているからこそ行法が起こる。


左から右へ規模の小さな爆発が立て続けに起こった。4人が直撃し骨肉を撒き散らして森に還った。

僅かに遅れてナウラが首を振りながら息を吐き出す。唇から吐き出された呼気が、数寸離れて発火する。


呼気は質を変え粘土の高い溶岩流となり上空へ撒かれた。


火行法 朱釣瓶。


輝く帯状の溶岩が前方から気配を殺して近付いてくる敵の頭上から降り注いだ。


数人の絶叫が森に響き渡った。

衣類や人体の焼ける嫌な臭いが漂った。

続け様に行法を受けるのを嫌い敵が散開する。


「何故森渡りが・・・」


「関係無い。やるぞ!」


後方部隊が動く。起こりの早い行法が山渡り同士の間で飛び交った。

シンカは腰高に岩戸を作り出し、被弾を防ぐと前方に意識をやる。

ナウラ目掛けて飛来した火球や礫をヴィダードが風行法 海嘯で風を立ち上げて攻撃を逸らした。海嘯が立ち消えるや否やシンカは飛び出して前方の敵に迫った。


口を膨らませ短く呼気を吐き出す。吐き出された経を含む呼気はシンカの意思で水へと変じ、正面で剣を構える男へ向けて飛ぶ。


連続して吐き出される水蜘蛛針を敵は剣で弾く。

だが次第に反応は遅れ、6本目が肩に穴を開け、8本目が右手の指を数本吹き飛ばし、10本目が眉間を射抜いた。


間近に迫った2人が斬りかかってくる。1人目の剣を持った左手を掴み体を沈ませて勢いを生かして放り投げた。


「っ!?」


投げられた男は反対より迫る男にぶつかり2人して転げた。


纏まって転がった2人はすぐに起き上がろうとしたが、風の矢が2人の体を貫通した。

ヴィダードの光矢だ。


正面から4人が迫り、後方で3人が経を練る。

樹上からヴィダードへ向けて放たれた毒矢を斬り払うと間近に迫った4人に向かい両手を握り合わせた。


「っ、まず!?」


「こいつ!法の再発動が早い!」


1人の喉の血流を凍結させ葬ると振られた剣の腹に柔らかく掌を押し当て、シンカを殺害せんとする軌道を逸らした。


シンカは次いで左手でその男の顎を捉え、首を捻った。

乾いた音と共に崩れ落ちる。


残る2人は左右同時に襲いかかってきた所を剣戟の合間に滑り込み、片方の蓑を引くことで体勢を崩させ、同士討ちに持ち込んだ。


前方の敵と戦うカヤテは敵を寄せ付けずに一方的に行法を放った。


「赤三柱!・・・・・・赤糸!」


赤い三本の火柱が上がる。

敵山渡りは回避するが、その間にカヤテは大技の準備を終えていた。


カヤテの手が経に包まれ、そこから一筋の赤い線が伸びた。


それは火で出来た紐だった。カヤテに向かう3人の男は赤糸に薙ぎ払われ体を分かたれた。

切断面より着火し、軈て炎は男達の全身に纏わりつき直ぐに息の根を止めた。


「森の中での戦闘は矢張り私と相性が悪い。火事になってしまう。」


「そこですか。気にするところは。」


「私の炎は高熱で長く苦しむ事はない。火葬は慈悲だ。魍魎に食い漁られるよりも遥かに良いだろう。私ならな。」


「成る程。一理ありますね。」


ユタは樹上から放たれる矢を躱し、一番下の枝に飛び移ると勢いを利用して飛び上がり樹上の弓兵を斬り伏せた。


「がっ!?」


体勢を崩して樹から落ちる最中、ユタはそれを追いかけて空中で首を刎ねた。


「・・何という手練れ。我等はこの様な者達を相手にしようとしているのか・・」


サルマを守る中年の山渡りが呟いた。


「だから私は言ったのだ。白雲と天海両里は今後敵対する事になるだろう。つまり頭領のラング様は敵となるという事だ。」


「何故この様な・・」


「ラング様は分かっていないのだ。ルドガーがどの様な男か。あの男は幾ら親身に協力しようと我等など駒以下にしか思っていない。サルマ様の護衛として、私はサルマ様のお人柄を間近で目にし、それを副頭領のウーヴェ様に報告していた。だからこそウーヴェ様はルドガーではなくサルマ様にお味方する様仰せになられたのだ。」


シルアと中年が行法を放ちながら会話していた。

シンカはその会話を聞きサルマと山渡り達の置かれた状況を備に把握した。


四半刻後、40人に及ぶ山渡りの襲撃はたった10人に鎮圧された。


「・・ここで誓っておく。お前達とは絶対に敵対しない。」


戦闘が終わるとシルアの支援を行っていた中年に声をかけられた。

男はニケと名乗った。


「これが最後の襲撃だろう。本来なら先の襲撃で我々は命を落としていたはずだ。本当に助かった。」


シルアが再度頭を下げた。


「お前も大変だな。」


山渡り達が何を求めてサルマを守るのかシンカは知らない。興味もない。

何かに賭けているのだろうがシンカにも森渡りにも関係のない事だ。


シンカは女達に害がなければ全てがどうでもよかった。

シンカがシルアに助勢したのには確たる理由があった。

当然酒に釣られた訳ではない。


サルマとシルアに助勢し、森渡りの力を見せつける事により敵対には不利益しかない事を見せ付ける意図があった。


今回シルア達も応戦していたが、5人で全員を返り討ちにする事は可能であったろう。


それはシルア達にも分かったはずだ。

そもそもヴィティア、ベルガナの二国からは森渡りどころか薬師組合に所属する薬師は軒並み撤退している。森渡り達を狩り立てる事はサルマには出来ない。


危機を乗り越えた一行はそれから10日の後、バリクリンデに到着した。




旧ヴィティア王国の兵士にとある男がいた。

男の父はラクサスの兵士で、母はクサビナ人の平民であった。


20年前、ラクサスが頻繁にクサビナにちょっかいを出していた頃、彼は父が母を強姦する事によって母の腹に宿った。

彼の実の母は胎児を憎み、産み落として直ぐに彼を路に捨てた。


本来であれば彼は直ぐに獣か何かに喰われて死する筈であった。

しかし魍魎に喰われる前に赤児は商人に拾われ、ラクサスのガジュマに連れられ、そこで国営の霊殿に預けられた。


彼はそこで14まで育てられた。

彼はエッカルトと名付けられた。


エッカルトは茶の髪、茶の目を持ち、肌は抜ける様に白かった。

アガド人である母とシメーリア人である父の混血をはっきりと遺伝し、そして大層見る者を惹き付ける美しい顔立ちをしていた。


それに加えて剣や行法にも秀で、独学で並みの兵士には太刀打ち出来ない実力を身に付けていた。

15になり彼は己の腕一つで身を立てるべく傭兵団へ身を寄せ団内で立場を作っていった。


エッカルトの所属する傭兵団は数年後ヴィティアに流れ、ベルガナ戦線に巻き込まれてマルン砦に立てこもる事となる。


砦のヴィティア軍は滅び、殆どの兵達が殺されるが、腕の立つエッカルトはさしたる怪我も負わず背後の山々に逃れ山中を彷徨った挙句反対のシアス王国にたどり着く。


垢や虱にまみれ、顔も泥だらけになって尚人目を惹き付ける優美さと精悍さを併せ持つ何処か特別さを感じさせる歳若い男であった。


この素晴らしい見た目と多少の腕を持つだけの女癖が悪い青年が歴史の表舞台に幸か不幸か登場する事になるのはシンカ達がバリクリンデに到着した数ヶ月後の事となる。




バリクリンデは半ば森に飲まれた小規模な街である。


この街では体長10尺、体高8尺程度の獣、小牙象が飼育されており人々の生活に密に関わっている。

象に跨る町の人々を見てナウラは目だけ輝かせ、カヤテは何やら考え込んだ。


恐らく軍事転用について思案しているに違いない。


街内に繁茂した椰子より人々は家屋を立て、椰子の葉を用いた工芸品などで生計を立てる。

家屋は高温多湿の為か壁が無く、人々の生活が外から伺えるほどだ。


総勢10名の一行はサルマ以外余力が有り余っていた。


サルマは徒歩での旅は初めて。況してや足場が悪く頻繁に魍魎と出くわす森を行き余程疲労が溜まっていたらしい。


村の門を潜ると同時に倒れこんだ。

地にぶつかる前にシルアが受け止めた。


一行は町に一つしかない宿に部屋を取った。

ケーテと名乗る女山渡りが寝込んだサルマの護衛として残り、一行は宿の一階の食堂で数日ぶりの食事を取る事となった。

何時も控えている訳ではないが、此処での食事はシルア持ちだ。


最初の注文でシンカ達は全員が3品づつ料理を頼んだ。

バリクリンデの名物子豚の香草炭火焼はシンカの好物の一つだ。


食の好き嫌いが多いヴィダードは蛇結茨豆の汁物を炊いた長粒米にかけて食べている。


「・・・遠慮がないな・・・」


シルアが唖然とした様子で食事を掻き込み出した5人に目をやった。


「大丈夫か草長。これはかなり行くぞ。」


同時に椰子酒の杯を開けたシンカとナウラを見てニケが言う。


「ニケ。半分はお前が出せ。」


「ふむ。これが椰子酒ですか。甘く酸味がすっきりとした味わいですね。もう一杯、2人分をお願いします。」


「貴方様?ヴィーも飲めそうかしらぁ?」


「うん。此処での食事はシルアの奢りだ。皆、感謝せよ。」


シンカが号令を出すと皆が一度手を止める。


「ご馳走になるぞ、シルア。」


「沢山食べさせて頂きます。」


「やっぱりこの辺りの食べ物は癖が強いわぁ。」


「ふごっ」


若干2名、どうしようもない女がいてシンカは恥ずかしくなった。


「・・・命を失っていたかもしれないからな。この程度安いものだが、頼むなら残すなよ?」


「・・・・・っぷふっ、勿論です。」


2杯目の椰子酒を干したナウラが目元を僅かに赤らめながら答えた。


一行はダルトからの派遣される筈の軍を待つ事となった。

サルマはバリクリンデ到着の翌朝目覚め、健康的な生活を開始した。


到着から3日。

生暖かい風に吹かれながら宿の屋上からシンカは東に広がる森と、投げ掛けられる夕陽を眺めていた。

直、夕餉を取る時間であった。


サルマが背後からやって来た事はわずかに嗅ぎ取れる体臭と木材の軋みで分かっていた。


シンカは反応すらせずに斜陽を眺めていた。

この森の先、シンカの足で2月、東の山間には生まれ育った里がある。


長く帰っていない。

帰ることを拒み続けていた。

ナウラやヴィダードと心を通わせ、漸く昔の傷が癒えて来た。戻っても良いかと考えられる様になり始めたのだ。


シンカには義理の姉がいた。

叔父の娘でたった数ヶ月しか誕生月の変わらない姉だ。

まだ里にいた頃、シンカの心はその8割を従姉弟であり義姉であり恋人であるリンファが占めていた。


シンカは彼女に振られて里を出たのだ。


里に帰らない理由は顔を合わせたく無い、惨めで居場所が無いという程度の理由でしかなかった。

我ながら卑小であると分かっている。


だがあの頃の自分にとって、彼女は生活や心の置き所のほぼ全てを占めていた。


伴侶とは自分の心のもう一つの置き場所だ。

予兆の無い別れはシンカの心を大いに傷付けた。

だが、もう帰っても良いと漸く思えたのだ。

そんな事を考えていた。


静々とサルマがシンカの隣に立った。

サルマは肌の色素が濃いネラノ人、ドルソ人の中ではナウラに比肩する程の美貌を持つ。

その横顔をシンカは目の端で観察した。


サルマは暫く無言で斜陽を見つめていた。

橙色の空が紫との二層に分かれた頃、長く口籠っていた彼女が口を開いた。


「私には、夢があります。」


シンカは宿の屋上、木柵に凭れながらその言葉を聞いていた。

一国の王に無礼だろうが、彼女はシンカの王では無い。

敬う理由はシンカには無いのだ。


彼女はただの女だ。8かそこら年下の頭が大きく尻の青い女に過ぎない。


「この国は大きな街こそ豊かに見えますが、小さな村や辺境、国境沿いの町村での生活は見るも無残なものです。私はこの国を富ませ、人々の生活を豊かにしたいのです。」


「その手段が領土拡大か?」


「そうです。ベルガナを他国が手出しを憚る程の大国へと成長させ、豊かな資源を基に辺境、国境まで富ませます。その為なら何でも致します。」


「そうして攻めた国の人間はどうなる?」


その疑問こそがシンカがサルマに抱く不信感の根源であった。


「貴方は貴方の大切な人が飢え、傷付くのを見過ごせるのですか?襲い来る敵を排除しないのですか?私はまずこの国の人々を富ませ、力無い者も笑える国を作りたいのです!・・・私は5年の間、内乱から逃れ、この国の方々を巡りました。商隊を装い、争う親族や同調する貴族達の目や手から逃れる為に隅々まで足を伸ばしました。この世界は惨すぎます!細い路を行けば四半刻に一度は人の無残な亡骸が目に入り、それと同じ回数魍魎の気配に怯えて足を止めます!それなのにこの国はメルセテの被害に怯え、国境は踏み躙られ、人同士で争っている!この国を拡大する。それが今出来る唯一の国民を守る為の手段だと私は考えました。そして、多くの人がそれに同調してくれた。・・・他に良い方法があるというのですか?」


道理を知らぬ小娘だと思っていた。

だがその内側には強い慈愛と熱情に満ちていた。


「お前のその意思は尊いとは思う。しかし俺は自らは兎も角伴侶を蔑ろにしてまでお前に同調する事は出来ない。お前は民を第一に考えているのかもしれない。だが、俺は顔も知らぬ民ではなく手を伸ばせば届く範囲の人々を俺の手で守り、救い、幸福にしたい。価値観が異なり過ぎる。」


サルマはふっと笑った。


「私は貴方の様に別の価値観を持つ人と出会い交流を持った事がありませんでした。私の虚飾ない思いを告げれば皆賛同してくれるものだと思っていたのです。何故なら、決して誤った事を述べているつもりは無いのですから。」


サルマの心音や呼気に嘘を述べる者特有の変化は無い。

ならばその思いの丈は真実なのだろう。


「お前は決して誤っていない。しかし、やはり力を貸す事は出来ないな。戦に出れば、危険を犯せば、俺の後に軽鴨の雛の様に続く彼奴らにも危険が及ぶ。初めて従軍した時に考えた。伴侶を作るという事はその責を全て担う事なのだと。俺の一挙手一投足が伴侶を守る事、或いは伴侶を傷付ける事に繋がる。守る為には危険からなるべく遠ざかる。それしか無い。それが本音だ。山渡り達は今も尚森渡りに敵対し、害しようと考えている。お前はその首魁の1人だ。お前が我等に害意を持たずとも既に起こった出来事。好きにはなれん。だが、お前の志も分かった。俺にはそれを潰す権利はないだろう。我等に害を成さないのであれば・・・健闘を祈ろう。」


サルマは残り僅かな空の赤色が全て消えるまで佇んでいた。


「・・・分かりました。貴方の気持ち、よく分かります。貴方は家族を大切にし、私は民を大切にしている。・・分かりました。・・・ただ・・・・私の治世が成功してから阿っても遅いですからね。後悔しても知りませんよ。」


最後は冗談であった。


良い権力者なのであろう。

別の出会いがあれば、彼女の為に身を粉にし、彼女に懸想する未来もあったのかもしれない。


だが既にシンカには家族がいるのだ。

シンカは小さく、短く声を出して笑った。


「お前にこの気持ちはまだ理解できぬのであろうが、言っておく。俺は既に幸せなのだ。早く愛する者を見つけるのだな。」


言葉にしたその顔はにやりとしたものだった。


「惚気ですか。成る程。私は馬に蹴られる様な事をしていたのですね。胸焼けがしそうです。」


そう言うと肩を竦めてサルマは屋上を去っていった。


「・・糞。恥ずかしいな。」


一言呟き体温が高まった事により発汗した額の汗を拭って屋上を後にした。


3日後、ベルガナ軍数万がバリクリンデに到着した。

率いるのはリーチェ・マテアスという二十代半ばの若い女軍人であった。


バリクリンデに宿を取ってから2度、夜中に宿に近付く人影をシンカは痺れ針で捕獲していた。

何もサルマを暗殺しようとしたものであった。


シンカ達はシルアより加勢の代替として多くの有益な情報を得て有意義な数日を送ることが出来た。あれから勧誘も鳴りを潜め、長閑な街で心身共に安らいだ数日を過ごしていた。


バリクリンデを囲む様に展開したベルガナ軍にへと導かれるサルマ達を一行は宿の窓より見遣っていた。

外、やや遠い位置から山渡り達が頭を下げていた。

サルマは表向き頭を下げる事はできないので目礼であった。


それに対してナウラは丁寧にお辞儀をし、カヤテはグレンデルの敬礼を行った。

ヴィダードは手元で髪飾りを大切そうに指で撫で、ユタは眉毛を抜いて遊んでいる。

シンカはちらと目線を投げて手を挙げて部屋の奥へと直ぐに去った。


これから彼等はヴィティアを制圧したルドガーの軍勢と戦うこととなる。


しかしそれは道を違ったシンカとは関係のない事だ。

だが一つ感じる事もある。


人を騙し利を説いて人を集めたルドガーと信念の炎に当てられて人が周りに集ったサルマ。

道筋が明るい陣営は推して知るべしであろう。


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