赤鼈甲の髪飾り

シンカとナウラは森の浅層と中層の境目を渡り、2日後にはグレンデーラにたどり着いた。


街近辺で森から出てグレンデーラに近付く。


始めは遠くに見えていた薄青い街壁が次第に大きく視野に映り出す。


その高さは優に10丈を超えている。シンカがこの街を訪れるのは2度目となるが、何度見ても圧巻される佇まいである。




ナウラは覆いかぶさる様にそびえる壁を口を半開きにして見上げていた。




「人とは、ここまで………」




ナウラが何を言いたいのかは分かるつもりだ。




「そうだな。我ら人間は精霊の民の様な強い力を持たない。代わりに数と向上心を持ち、それらを用いて森を退け、互いを潰し合う」




「………」




ぽかんと口を半開きにしてナウラはそびえ立つ壁を見上げていた。




圧倒的な存在感を保ってそそり立つ青白いそれは、一面しか今は見えていないが街をぐるりと取り囲んでいる。壁には壁と一体化した尖塔が一定間隔で立ち、歩哨の姿が見受けられる。壁の背後には同じ青白い石材により建てられたさらに高い建物がいくつかその頂を覗かせていた。




「街の入口が見えてきたな。そろそろ頭髪を隠しておけ」




ナウラを目立たせるのはその肌と髪である。樹皮色のこんがりとした色合いの肌は南方のネラノ人と中央から北方のシメーリア人との混血、或いは中西のドルソ人とあまり変わりはない。目立つが存在しないわけではない。寧ろ生粋のネラノ人比べると其処まで目立たない方だろう。




一方で純白の頭髪は人間の民族には見られない特徴である。いきなり迫害される事は無いだろうが、隠すに越した事は無いだろう。




頭部に巻いた深緑の覆い布から漏れている髪束を詰め込んでやり、門へと近づいて行った。門には4人の衛兵が詰めていた。通行税を納めると難無く通された。どこの街でもそうであるが、薬師は森の糧にて作られた薬を街に落とす存在である。街や村に入る事を咎められる事はまず無い。




夕刻のグレンデーラは人で賑わっていた。


人出は最北の港町狩幡よりも多く、賑わっている。




あまり表情を変えないナウラだが、今は青白い街並みや、多様な民族の他見たことの無い風景を脳裏に収めるべく忙しなく視線を彷徨わせ、口元は僅かに綻んでいた。シンカを放り出して何処かへ駆けていきそうな勢いであったので、シンカはナウラの手を取った。




「今日は何をするのですか、先生」




興奮を抑えているのか何時もより口調が駆け足気味だ。




「うん。今日は旅の垢を落して飯を食べよう。高いが蒸し風呂を貸切に出来る。言っておくが、高いから一緒に入る事になるぞ」




「本来は御導きの伴侶以外に肌を見せる事は避けるべきですが、この際致し方ありません」




「蒸し風呂に入った事は有るのか?」




「ありませんが俺が入り方を手取り足取り教えてやるなどと、私が敬愛する先生なら仰る筈がありません。ですよね?」




「無論だ。俺がお前の身体を洗ってやろう。特に乳と尻は念入りにな」




「笑止」




ナウラと言葉で戯れながら街を歩き、宿屋が立ち並ぶ区画の中でも特に格調高い見た目の宿に足を踏み入れた。




青白い石材で作られた門から宿まで、庭の中を青白い道が伸び、両脇には等間隔に石灯篭が立っていた。




薄暗くなり始めた空の下、灯篭の中で蝋燭に灯された小さな火が踊り、2人の影を幾つも産み出している。




庭を抜けて宿の戸を開けると、赤い絨毯が受付まで真っ直ぐと伸びている。絨毯の両脇には洒落た飾り彫がされた絨毯と同じ色の小洒落た丸机と椅子が並んでいる。身なりの良い男が数人、ぽつりぽつりと席にかけて食事を取っていた。




格調高い雰囲気に気圧されてナウラは身体を縮め、シンカの背後に隠れるようについて来ていた。


可愛らしい仕草だ。義理の妹達がよくこの様な仕草をしていた事を思い出し懐かしい思いに捕らわれた。




だが、シンカが里に戻ることは無いだろう。




受付で記帳を行うと男がさりげなく身嗜みについて問うて来たので、旅の垢を落とした後に街用の衣服に着替える事を伝え、10日分の宿賃と蒸し風呂の費用を支払った。




「………夕食300食分!?」




背後で小さな驚きの声が聞こえた。


森渡りに蓄財は出来ない。ならば稼いだ金で少々の贅沢をしても罰は当たらないだろう。




部屋は3階の2人部屋を希望した。


ナウラがどう考えたかは分からないが、襲撃された場合を考えれば部屋は分けるべきではない。


その代わり衝立を用意するよう頼んではいる。


最低限の気遣いは出来る男のつもりである。




部屋に入ると柔らかそうな毛布が敷かれた二つの大きな寝台に、落ち着いた色調の木製家具がまず目に入った。壁はグレンデーラ特有の青白い色で、濃い赤色の絨毯と相まって貴族の館にでもいる様な気分になった。




相変わらずナウラは気圧されており、入り口に佇んだまま固まっていた。




荷物を置き外套と笠を壁にかける。長旅に汚れが目立つ。手入れが必要だろう。同時にナウラの外套を用意してやらなければならない。今は狩幡で買い与えた防寒用の布製の物を羽織っている。これでは森に耐えられない。




2人して旅装を解除して備え付けの椅子に腰掛けていると部屋の扉が小さく叩かれた。扉を開けると小綺麗な格好をした使用人が立っている。




話しを聞くと蒸し風呂の用意ができたという事で、支度をするとナウラを引き連れて蒸し風呂まで案内された。




案内された先でシンカは直ぐ様衣服を脱ぎ、手拭いを腰に巻いて蒸し風呂に入った。青白い石材で組まれた石室の中、隅の方で火が炊かれており、焚き火の中に大きな石が幾つも焼べられている。


そこから長柄の鏝で焼石を取り出し、蒸し風呂中央の石置きに転がす。




そうしていると備え付けられた木戸が開きナウラが入って来た。




「でかいっ?!」




上半身を手ぬぐいで隠したナウラに対して思わず声を上げてしまった。




下腹部を覆う白い陰毛を隠しもせず、しかし反面しっかりと手拭いで隠した上半身だったが、薄い布切れ一枚では大ぶりな柑橘類の果実程ある乳房の存在感は隠せていなかった。




ナウラを拾った折に彼女の裸を見てはいたが、その時は蘇生について考えていた為しげしげと改めて目にして驚いてしまう。




「何がですか?」




「お前の乳、でかいなぁ。ちと持たせてくれんか?」




「我らエンディラの民は伴侶以外に身体を許しません」




「いや、重さが気になるだけなのだが」




「本来は手を繋ぐことさえも控えるべきなのです。先程も私の手を無許可で握りましたよね?」




「馬鹿かっ!?さてはお前、俺が性的にお前を狙っていると考えているな?」




「当然です。嫌らしい誘いをしたり、それに手までっ」




「悪いがお前にはぴくりともせん。今もな。あー……恨んでいるのはそこなのか……。相部屋でも、風呂への誘いでもなく手繋ぎなのか。これが文化の違いか。成る程、面倒だ」




「ぴくり………?」




「ぴくりはどうでもよろしい。……一つだけ予め断って置きたい事がある。人間にとって手を取る事は性的な行為に直接結び付かないのだ。俺がお前の手を取ったり、出会った時の様に抱き抱えたりする事はお前の身を思っての事だ。悪いが、受け入れてくれ」




「勿論分かっています。恨みが無いとは言いませんが、先生が私の事を考えてくださっている事はこの二月で重々理解しています。ほんの冗談ではありませんか」




「お前、俺を揶揄ったな?」




どうやら文化の違いを利用しからかわれた様である。


石材で作られた椅子に腰掛け、水差しの水を焼け石にかけた。


蒸気が上がり、密閉された空間に充満する。視界が蒸気で濁り蒸し暑くなる。




「先生。この街は美しい街です。見る事ができて感謝しています。何故青白い石材しか使われていないのでしょうか?」




「あの石材はグレンデル岩と呼ばれるこの一帯に多く分布する物で、優れた硬度を持ち、火にも強い。この加工技術を古来よりグレンデル一族は秘匿し利用して来た。美しい青白色はグレンデル一族の力の象徴でもあると言うわけだ。この街で何か建物を建てる時は街の景観やこの街が魍魎や或いは敵に襲われた時の事を考慮してこの岩を使う事を定められているのだ」




自分の隣の椅子を平手で叩きながら説明をする。




「美しい街です。………汗が出て来ました」




蒸し暑さに徐々に身体が暖まり汗がで始める。もう一枚の手拭いで身体を擦り垢を落として行く。




「汚れを落としておけ。蒸し風呂に入った事はあるか?」




焼け石に水をかけ直しながら尋ねる。




「いえ。初めてです。エンディラの民はこの様な文化を持ちません。川での水浴びが身を清める唯一の手段です」




「冬もか?」




「冬は身体を拭う程度です」




温度が下がってしまった石を熱いものと交換して再度水をかける。


身体からは汗が滴るほど浮き出ている。




「では当然、湯槽に浸かった事も無いのだな?」




「ゆぶね?」




「では今度は湯泉に連れて行ってやろう」




垢を落とし終えると備え付けの容器に入っていた泥を掬い出し頭髪と頭皮に塗り込んで行く。




「それは、何をしているのですか?」




「うん。頭と髪の汚れをこうして落とすのだ。お前、折角綺麗な髪をしているのにぼさぼさで油っぽいぞ。しっかり塗り込んで汚れを落としておけ」




そもそも貴族でも無い限り街の人間がこうして頭を洗う事はない。


であるが、頭髪や頭皮を清潔に保っておかないと時に死に至る炎症が起きる事もあるのだ。




汗を流しさっぱりした後は部屋に戻り、街用の衣服に着替える。シンカは自分の爪を切り、ナウラの爪を切ってやると歯を磨き、街に繰り出した。




衣服は狩幡で着ていたものである。


既に日は落ちかけており、街の衛兵達が12尺程の高さの灯籠に長い火杓で明かりをつけて回っていた。この灯籠の明かりを衛兵以外が消す事はこの街では犯罪行為となる。




シンカはナウラの手を引き灯籠に照らし出された青い道を飯屋を探して歩いた。


灯籠に照らし出された街並みにはよその街とは異なり、まだ多くの人出がある。




北方最大の交易都市である狩幡ですらここまで夜が長くは無い。


この街の人間にとっては馴染んだ景色なのかもしれないが、ぼうと浮かび上がる青い街は旅人からすれば幻想的な景色である。




景色を楽しみつつ歩み、可愛らしい娘が客引きをしている飯屋に足を踏み入れた。




「良さげな店だな」




店内を見回して感想を口に出した。


店内は広く、卓の一つ一つも間隔を置いて置かれておりゆったりと過ごせそうである。既に食事を始めている隣の卓の料理も出来立てで湯気を立てており芳香が漂ってくる。




家具は暗褐色の木材で統一されている。


材質はなめらかな手触りから山陽樫のものと考えられる。高級では無いが丈夫な為安くも無い。




活気のある店内を何人かの売り子が料理を運んだり注文をして回っていた。




何人かの酔いが回った男達が売り子の一晩を買おうと赤ら顔で金をちらつかせている。


シンカもその仲間に加わりたかったが流石にナウラの前では気が引けた。




「ナウラよ。旅の醍醐味はな、景色を見て知識を得るだけではまだ足りぬ。我らが持つ感性の内これで満たされる感覚は視覚のみだ。感覚とは他に何がある?」




「嗅覚、聴覚、味覚、触覚、繊覚です」




「………繊覚?なんだそれは」




「我ら精霊の民の多くが持つ他の感覚とは異なる直感の事をそう名付けて見ました」




「いやそれ直感でいいだろうが。勝手に名付けるなよ。………兎に角、嗅覚と味覚はその土地特有の料理と酒を嗜む事で満たす物なのだ」




ナウラは自分の名付けた慣用句を否定されてやや口元を歪めた。


最近わかってきたのだが、この仕草はどうやら甘ったれている様で放置するとぶちぶち嫌味を言って面倒なことになる。




「まあ悪く無い名付けだな。繊細の繊から取ったのだろう?それはさておきこのグレンデルでの名産は鹿肉の料理だ。この辺りは白紋河鹿という草食の獣が多く、その肉は低価格で供されている。また大陸中央に位置する大国であり、交易の要所であるクサビナには東西南北の交易品が集いやすい。南方の名産である各種香辛料も平民が購入できる金額で売買されている」




「食への執着に私が理解できない偏執的なものを感じるのですが」




「喧しい。つまり、お勧めは鹿肉の焼物と言うことだな。それと野菜の炒め物も頼んでおこう」




「!?」




シンカの言葉と同時に目を二割り増しに見開くナウラ。


まさか?




「旅の間は干し肉や炒り豆で凌ぐことが多かったからな。追加で瓜の酢漬けと生野菜の塩揉みした物も頼もうか」




「先生。エンディラの民に野菜を食べる習慣はありません。私には必要ありません」




額がじっとり汗ばみ視線があらぬ方向を見据えている。


大した物なのが、表情自体は相変わらずピクリとも変えていないところである。




「森の民がその長い年月で積み上げて来た知識の中には、野菜を食した者と食さなかった者とで健康状態に著しい差異が出ると言うものがある。また肉だけを食す者の体臭は強くなり森渡りに影響を及ぼすとも」




こうしてナウラは最後まで抵抗しながらも野菜料理を食す事となった。体臭が強くなると言う言葉に対する反応があった事から、一応女として相応の誇りは持っているのだろう。




前菜を腹に入れ肉料理を待っている間、会話をすることも無く周囲を伺っていた。店内で話されているのは軒並みロボクとの戦についてである。




グレンデル勢はまだ引返して来ていない様だが勝ち戦の報は既に街に届いている様で、賑やかに酒を飲みながら語り合う男たちが多い。




一つの卓に着く四人組の男どもが此方を見ている。


見ているのはナウラだろう。ナウラは頭部を覆い布で隠していて尚その美しさが際立っている。目敏いものが見ればゆったりとした衣類に隠された豊満な身体つきも分かるだろう。彼女が望むのであれば好きに異性関係を持てばいいが、恐らく街中で男に誘われてもその誘いに乗る事はあるまい。




上手く袖に出来るのならいいのだが、あの性格だ。


碌なことにはならないと考えると気が重くなる。




料理が売り子によって運ばれてくる。比較的好みの顔をした娘であった為、木皿を置かれた際に目を見て微笑み、礼を述べた。




この様な場所で日銭を稼いでいる町娘は紳士的な態度に弱い。経験則である。




尚この仕草をナウラは見る事なく、食い入る様に鹿肉の焼き物に見入っていた。




出会った当初はこの娘、匙以外の食器を使ったことがなく右手で手掴みしていたのだが最近は何とか食器も扱える様になっている。




どうやら肉料理はお気に召した様でシンカの倍の速度で食べ終えたナウラは無意識に人の皿の食べ物を見つめ出す。


視線が煩いとは正にこの事か。


試しに肉切れを与えて見ると逡巡の後肉を刺した食器から直接頬張った。


いよいよ愛玩動物じみた動きに呆れると同時に僅かばかりではあるが愛情を感じてしまう。




有り体に言えば、シンカはナウラに弟子に対する愛を抱いていた。




恐らくお互いに物足りない夕食を終えると雰囲気のみで未練を訴えるナウラを引き連れ酒場を探し歩く。




グレンデーラは町の中心部に無骨な城が聳え、その城を城壁が囲んでいる。城壁から外には貴族街が広がっており、平民が活動する市街地との境目を川が囲んでいる。




この川はイブル川といい、グレンデーラを北西から南東に横切って流れているが、途中人工的に分流させて城と貴族街を円形に取り囲ませている。川には東西南北に四ヶ所橋が架けられ関が設けられていた。




イブル川の流れは早くも遅くもなくといった具合で、分流されている流域では10歳程の子供であれば川遊びができる程度の流速しか持たない。


市街地は街壁に近付くほど物価が安くなる傾向にあり、よく統治されている影響で貧民街というものは存在しない。




シンカは町の北部から中心に足を向け、川沿いの酒場を物色した。


この辺りは平民が訪ねることができる店の中で品の良い店が多くを占めている。




イブル川の北川はグレンデル岩で川岸が全面覆われており、淵には等間隔に灯籠が立っていて朧げな反射が僅かに川面を彩っている。


少し東に歩を進め、適当な店を選んで中に入った。




既にナウラは挙動が危ぶまれる程に緊張している。




選んだ店は透明度の高い鉱石を薄く切り出したものを窓に嵌め込んでおり、灯籠に照らし出された川を眺めることができる小洒落た趣の店だった。




ナウラと共に窓際の卓席にかけた。


店内に客は少なく、蝋燭の明かりで薄暗く照らし出されている。


店主なのか初老の品の良い男が注文を取りに近寄ってきた。




この辺りは大穀倉地帯であり、麦芽を発酵させた酒の麦酒が名産である。


麦酒自体は大体の土地で作られているが、クサビナは特に種類が多くその中でもグレンデーラは中間的な発泡具合に膨よかな風味を持つ白麦芽酒の名産として知られていた。同じ白麦芽酒にも多様な種類があり、飲み比べるのもシンカの楽しみの一つであった。




自分とナウラに一杯ずつ別々の種類の白麦芽酒を注文した。


暫くして供されたのは金属製の杯に注がれた酒であった。


杯の表面は結露で濡れており、中身がよく冷やされていることが分かる。




「呑もうか」




シンカは一度杯を掲げると一気に中身を煽った。


冷えた液体が喉を通り抜け、気泡にちくちくと刺激される。


果物に似た芳香が鼻を抜けて行った。


旅をこのひと時の為にしているのだと改めて感じた。


一方のナウラは初めて飲む麦芽酒の気泡に対し目を白黒させていた。




麦酒に対する講釈をたれていると鹿の塩漬け肉が木皿に守られて提供された。


初めて酒を飲むナウラも強い塩分と酒の組み合わせに虜になった様で、直ぐに杯を開けてしまった。


最終的にシンカとナウラは三刻もの間飲み続けることになった。


意外と酒に強かったナウラではあったが、今はふらふらとした足取りでありシンカが脇を支えることによって何とか真っ直ぐに歩けていた。




酔い方は暴れる事も吐く事も眠りこける事も無いが、矢鱈と頭頂部で攻撃を仕掛けて来るのには面倒さ半分愛嬌半分といったところか。




まさか女と2人で飲んで合わせて15杯も飲む事になるとは思わなかった。


相変わらずピクリとも表情は変わらなかったか、やや赤らんだ頬を見ると妖艶さも感じられ、1人で飲みに出す事は危なっかしいと思えた。




「………っう?」




頭頂部をぐりぐりと腕に押し付けられながら宿への帰り道を歩んでいたが、突如としてシンカは足を止めた。




そのせいで首に負荷が掛かったのかナウラは不満げな呻きをあげた。




狭い道だった。


点いていなければならない灯籠の明かりが消えており、行先を闇が包んでいる。




匂いがする。




酒の匂いだ。それと垢の匂い。


闇の奥からそれらが漂っている。


耳を澄ませると背後から複数の足音が聞き取れた。まだ大分距離がある。


正面からは息遣いが聞き取れる。


3人だろう。


それに匂いには嗅ぎ覚えがある。夕食時に嗅いだ。


夕食時にこちらを見ていた男のものが2つ。


1つは嗅ぎ覚えが無い。


確実に狙いは自分たちだろうとシンカは判断した。


当初の狙いは金では無かったはずだ。


夕飯を食べていた段階で贅沢はしていない。服装も見慣れぬものとは言え取り分けて高価なものは身に付けていない。


つまり、女だ。




辛うじて明かりが届くその場に立っていると、焦れたのか正面から3人の男が姿を見せた。


体格が良い者が2人。匂いに覚えがあるのは内1人。少し奥で腕を組んでいる高飛車な笑みを口元に浮かべている者がもう1人の覚えがある匂いだ。


彼らの視線からは明確な害意を感じた。


男が片方肩を怒らせて、まるで小型の獣の様に身体を威示しながら寄ってきた。陳腐な台詞はない。速攻でシンカを潰しナウラを拐おうと言う魂胆なのだろう。




灯籠の明かりを消す度胸といい手慣れた行為である事を窺わせた。


ナウラは正常な思考ができていないのか、掴んでいた二の腕から緊張は感じられない。


男は太い腕を振り上げた。




こう様な行為に慣れていない者であれば竦み、目を閉じたかもしれない。




慣れていなければ。




「っおっ……ぶ」




拳をから打った男はその場で崩れ落ちた。


泡を食った後続の大男も慌てて駆け寄って来るがシンカに腕が届くか届かないかの地点で無言のまま背を丸めて動かなくなった。




何のことはない。初めの男は拳が当たる前に肘を打ち上げて透かし、続け様に肝臓を打ち抜いただけである。長くは生きられないだろう。


2人目は股間を蹴り潰した。




「お前……こんなことしてタダで済むと思ってるのか?今ならまだ引き返せるぞ」




呆気なく沈んだ大男2人を見て残る1人はそう告げた。


仲間が潰される事にも慣れていると思われる。




「だんまりかよ。女と金を寄越せ。大層な店に居座るくらいだ。たんまり持ってんだろ?」




やはり要求はそれか。金はどうでもいいが、女を力で手に入れてどうすると言うのだ。


シンカには女を力で屈服させる性行為に魅力は感じられない。


心を通わせた上での行為こそが至高であると考えていた。




勿論、利害が絡んだ無味乾燥な行為もあるにはあるが、暴力で屈服させた上での性行為では人の心は開かれない。心が開かれないと言う事は身体も開かれないと言う事だ。一族の教えには心で受け入れた時とそうでない時の女の体内の感覚は大分変わるとの伝えもある。




「おいおい、俺の手下ぁのしといて今更びびってんのか?この女はお前の目の前で自分から犯してくれって強請り出すまでぐちゃぐちゃに犯してやる!てめえはそれを糞垂らしながら見てろ!一本づつ手足きりっ………は……しょ……」




「女性に薄汚い言葉を聴かせるな。お前は自分の性的嗜好を語って何がしたい?嫌われるぞ」




男の顎から赤い氷柱が下がっていた。


首を流れる血液を行法で無理やり咽喉部から氷結させ下顎から氷槍として突き破らせていた。舌は氷柱に縫い止められ動かす事は出来ないだろう。




「こんな事をしてしまってお前達に仕返されてしまうのは恐ろしいなぁ。そうだ。始末しておけばそれまでか。いい案だ」




「!……っ!……っっ!」




跪き、目に涙を浮かべて必死に何かを伝えようとする男に雷を撃ち込んだ。


数度びくつくと重たい音と共に石畳に沈む。


残る2人の息の根も雷で止めぼんやりシンカの腕を掴むだけのナウラを引っ張り歩みだした。




「ナウラ、取り敢えずお前は1人で酒を飲む事を禁止する」








ナウラとしこたま酒を煽った翌日、シンカは旅の疲れもあってか正午前後に目を覚ました。


隣の寝台からはやや大きめの寝息が聞こえる。時折カチカチと歯を鳴らしている。彼女にとってもゆったりと休めるのは久しぶりだが、シンカの楽しみは飯だ。このまま寝続ける理由はない。




衝立の向こうを覗くと肌着で寝具の一枚も掛けずに寝こけるナウラがうかがえる。


大きな乳の上部が肌着から顔を覗かせている。


人の顔で言えば鼻までを隠しているといった具合だ。




シンカは着替えを終えるとナウラ側の寝台近くに丸椅子を置き腰掛けた。




「ナウラ。めしに行くぞ。起きろ」




数度揺すってやると薄っすらと目を開けた。




「何故こちら側に?衝立の意味は?」




「煩いな。腹が減ったから飯を食いに行くぞ」




「そうですか。意に介しませんか」




気怠げに身体を起こすと着替えを手に取る。




「昼は何が食べたい?俺の勧めは乾麺料理なのだが」




「乾麺?魍魎の一種でしょうか?」




「つまらん冗談だな。食べればわかる。だから早く着替えてくれ」




足を組み替え顎をしゃくって指示を出すと、なんと突然突き飛ばされるではないか。




椅子から落ちて腰を打ってしまった。




「何を驚いた顔をしているのですか。平然と着替えを眺めようとして一体どう言うつもりが?」




「うん。こそこそ見るほど見たくはないが、全く興味が湧かぬ程気にならないわけでは無いので、な」




「失礼にも程がありますね。先生に見せるくらいなら……や、それは、言い過ぎですか………」




「お。俺への好意を自覚したか?」




「笑止。ですが、先生には返し切れないご恩があります。その恩人に着替え程度を見られたところで、死んだほうがマシ等とは思えなかった。それだけの事です」




表情一つ変えずにナウラは宣った。


シンカの抱く所感は複雑だ。彼にとってはナウラとの関係は持ちつ持たれつ、対等な関係である。シンカには与える必要があり、ナウラは与えられる必要があった。




シンカはナウラが恩を抱く事を望んでいない。


その気持ちは彼女が恩を口に出す度に告げてきたが、未だに受け入れられてはいない。




ナウラの着替えをきちんと衝立の向こうで待ち昼に出た。乾麺を家畜化した獣の乳から作った乾酪と和えた料理を食べると、案の定と言うべきか彼女は甚く気に入ったようで、もう一皿追加の注文を行なっていた。喰わせ甲斐のある可愛い女である。




飯を食い終わると次は金稼ぎだ。


旅の間拵こさえて来た生薬方剤と軟膏、飲薬をグレンデーラの薬師組合で売り払う。


組合へ赴く際は鼻を利かせ、中に滞在している者の確認を怠ることは無い。




どの町にも必ず組合は存在し、彼等は薬効を確認する為の獣を飼っている。


病を治す類の効果が目に見えない薬は旅の薬師が売ることはできない。


偽薬を掴まないようにする為と町薬師の権益を守る為だ。


対してシンカの売る薬は強力な傷薬と解毒薬が主体となっている。


これは効果の確認が容易である為販売し易い。


その上通常の薬師が持たない薬草知識を持っており、獣を傷付けて効果を試す際には常に驚かれて高値がつく。


流石に損失部位を修復する薬を流通させた事は無いが、塗った途端に流血が止まる薬や飲むと傷口が数刻で塞がる飲薬等は下手な珠よりも高値がつく。




今回もかなりの金額を組合で得ることが出来、換金の後は衣服を求めに繁華街へ向かった。




クサビナの民が身に纏う衣装は華やかな色合いが多い。


しかしグレンデーラに限って言えば殆どの市民が2色の色合いしか身にまとっていない。


男性は赤と黒、女性は白と赤である。


男性の衣装は上下共に黒字に赤い刺繍が施されている。刺繍は袖や裾の淵に施されてそれ以外はごく控えめに幾何学的である。




一方女性は華やかで、上は赤地に白い花の刺繍が全面に施されて、下の筒履きは白地に大きな赤い花の刺繍が施されている。刺繍は細かく精緻であればある程高級になる。




多少値は張ったが、ナウラには親指の爪の大きさの小花が全身に散りばめられた刺繍衣装を購入してやった。自分には簡素ではあるが品の良い刺繍衣装を購入した。ゆったりしたものではなく身体の線が出るよう選んだ。


身体に合った大きさの服を選ぶ事は女の気を引くのに役に立つのだ。清潔感が生まれる為大きい衣服を身に纏うよりも印象が良くなる。




肌着や下着もいくつか購入しておき、繁華街をぶらぶらと歩く。




「何か見たいものはあるか?」




果実や野菜などの食料品が並べられた店を横目に歩きながら訊ねた。




「何かと言われても。何があるのでしょう?」




頭部に被った白地に赤い小花の刺繍が施された被り布の縁を指で弄りながら答える。


彼女の滑らかな褐色の肌と冷たい表情に、被り布の色合いの組み合わせはとても合っていた。道行く人が凝視し二度見する程の美しさだった。




目立っている状況が煩わしいのかナウラは目深に布をかぶり直した。




街の人々の会話を聴くには、今日青鈴軍がグレンデーラに凱旋するらしい。


カヤテに見つけられないようにしなければ。


森渡りの一族の知識は他者、特に軍人から見れば喉から手が出る程魅力的に映るだろう。




カヤテとは牛鬼を導く直前に戦場で確かに目が合ってもいる。勧誘などは受けたくないものだ。




恐らく昼過ぎ辺りに凱旋行進が行われるだろう。その前に茶店か何処かに退避するか。




ナウラの武器や旅に必要なものを買い茶店を探し歩いていると小洒落た小物屋が目に付いた。




「……見てみるか?」




今迄付いて来るだけだった彼女がじっと見つめていたので声を掛ける。




「いえ。結構です」




聴き方を間違えた。彼女の性格はもう粗方把握できている。




「いや、俺も入りたい。入らないか?」




「そういう事であれば。私も興味がありました」




遠慮していたのだろう。自分の意見はしっかり告げるたちではあるが、望みを告げる事はなかなか無い。




店内はやや狭かったが落ち着いた雰囲気であった為さしてそれは気にならなかった。


棚や卓などに展示されている品は統一性があまり無く、髪留め用の飾り紐の様な身に纏う小物から、砂時計や手鏡や小さな鉢植えまで様々なものが置かれていた。




「いらっしゃいませ」




女性の声に顔を向けると品の良い初老の女性が仕切り卓の向こう側にちょこんと佇んでいた。


シンカは目礼をし引き続き店内を見回す。




「先生、これは何に使うものですか?」




ナウラは興味津々と言った具合で彼方此方の品を指差し尋ねてきた。




手鏡を手に取って覗き込んだ時などは思わずシンカも笑ってしまう様な反応だった。




自分の顔を認めるのであれば水面に映すのが一番手っ取り早いが、基本陽を背にして覗き込むし、小々波もあればはっきりと自分の顔など認識できないものだ。




置かれていた手鏡は中々映りの良いもので、自分の顔を見たナウラはぺたぺたと顔を触り、被り布や襟を直し、無言で此方を見上げて来る。




「うん。大丈夫。綺麗だぞ」




歯の浮く様な台詞だったが事実ではあるし、そう言った言葉を与えるのが一番良いかと考えて告げると褐色の頬を赤らめた。ついでに腰あたりを小突かれる。




店主と思われる女性はにこにこと微笑んで見つめている。


折角だし何か買ってやるか。




ナウラが欲しいものでもいいが、特に無いのであれば此方が良いと思うものを選んでやるのが一番印象に残るだろう。


旅人の身である為大きい物や量のあるものは買う事はできないが、訪れた街の思い出の品を持つのも良いだろう。




良さげな物を探していると赤い鼈甲の髪留めが目に付いた。




「これは珍しい。赤甲岩亀の鼈甲か」




「ええ。お詳しいですね。その通りです」




「しかもこの赤みは産まれて半年も経たない子供の甲羅だな」




細工も細く施され、誂えも丈夫そうである。




「ご婦人、これを頂けるか?」




「有難うございます。金貨で7枚になります」




「うん。やはり高い。これを」




金を渡して購入するとそれを懐にしまった。


ふらふらしているナウラに付き添い品物を見終わると店を後にした。




店を出ると通りを南下し、イブル川の北岸を目指した。川沿いをゆっくり歩いていると茶店が目に止まった。




店内に入ると窓辺の2人がけ席に掛けて赤茶を2人分頼んだ。




「これを」




少し気恥ずかしく感じながらも懐から先程購入した髪留めを手渡した。




「先程はこれを買われていたのですか。私に、という事でしょうか?凄く綺麗で高そうですが」




「折角グレンデルに訪れた記念にと思ってな」




「………」




髪留めをじっと見つめて裏返したり指先で掘り細工をなぞったりしている。




「こんなに綺麗なものを………有難うございます。ずっと、大切にします」




冷たい面差しの、目尻が少し下がり口角が僅かにつり上がっている。




それ程までに嬉しかったか。買ってよかったと思った。




シンカの初めての大切な弟子だ。


可愛がって当たり前と考えていた。




供された赤茶を飲み、その原料の製造方法と茶自体の入れ方に付いて教示していると窓から人々のざわめきが聞こえて来た。


見ると北の橋沿に民衆が集まっていた。


とうとう青鈴軍が凱旋したか。


眺めていると馬に乗った騎士達が胸を反らせて城へと向かっていく所だった。




軍の中程に威厳のある初老の男にカヤテ・グレンデル等の指揮者格が見て取れた。


騎士達も、指揮者達もその表情は明るく晴れやかだ。


絶望的な戦いを勝利にて飾ったのだから当然か。


興味を無くしお茶へと視線を戻すのに時間はかからなかった。




「先生は……」




何かを聴こうとしてナウラは口を閉じた。


聴きにくい内容だろうか。




「なんだ?俺に恋人がいるかどうかなら、今はいないぞ」




「それは全く興味が湧かない内容ですね。……茶化さないで下さい。先の戦での先生の働きは、人の世では英雄と讃えられるべき功績だったのでは無いですか?ですが先生は全く光を浴びることも無く……」




「確かに。俺には光は当たっていない。だがそもそも我ら一族は森の影を人目を、そして魍魎の目すらも避けて歩んで来た。これが我らの生き方。必要とも思わぬ。………それにな。光を浴び、馬上で持て囃されていたら。……今頃お前とこうして茶を楽しめていただろうか?街を穏やかに冷かす事が出来ただろうか?俺にはこちらの方が余程価値がある」




シンカの嘘偽りも、虚飾すらとない思いだった。




「私も、その方が良いと思っています」




「うん」

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