3


 毎年ゴールデンウィークには家族で海外へ出かけるのが恒例だった。それが恒例ではなくなって、もう5年は経つ。世界中を混乱させたあの事件が終わり、5月を迎えた世間はなんだかんだで毎年と同じくどこか浮ついていた。数日前までピースメーカーや秘密組織の籠城騒動が騒がれていたのに、今や空港の利用者数が史上最高だったというのがトップニュースを飾っている。そのことに対し、広子は、特に何も思わなかった。4月末に起きた出来事には被害も逮捕者も出ていたようだが、広子の頭の中は、5年以上眠り続けている息子のことでいっぱいである。

 雲ひとつない青空に、飛行機が遙か上空を飛んでいくのが見えた。自販機のそばの窓から入ってくる柔らかい風は、慰めというより哀れみに近い。もう、潮時かもしれないと、主治医の目は言っていた。


「……きっと、もう少しよ。もう少しの辛抱」


 呟いた自分のかすれた声に、顔をしかめる。一番辛いのは息子の方だと言い聞かせ、今日も眠り続ける息子の元へ向かう。いつ目覚めてもいいように、体をマッサージしてやるのが広子の日課だった。昼下がりの明るい廊下だというのに白い壁に囲まれたここはなぜか不安な気持ちになる。語りかけようが触れようが、眠り続ける息子を象徴しているようで、嫌いだった。

 ふと、向こうから白衣を着た長身の男が車椅子を押しながら歩いてくるのに気がつく。車椅子には黒のシャツとスウェット姿の男が座っていた。患者だろうと察しがつくが、男の銀色の髪はひどく浮いていた。顔は伏せているのでよく見えないが、思ったより若そうな雰囲気がある。若い、と言えば、車椅子を押す男もそうだ。背は高いが顔にはまだ幼さが残る。童顔な研修医だろうかと思い、すれ違いざまぺこりと頭を下げた。


「あの」


 背中に声をかけられる。反射的に振り向くと、研修医らしき男がこちらを向いて立ち止まっていた。彼は何か言いたそうに何度か口を動かすが、結局もう一度頭を下げただけだった。広子は戸惑いながらもまたお辞儀する。研修医は再び歩き出し、その背中が見えなくなるまで、広子は見送った。重たい足を前へ前へと動かしながら、息子の眠る病室へと向かう。


【河原 竜樹たつき


 病室にかけられた名札を見るたび胸が締め付けられる。扉の取っ手に手をかける前に深呼吸する、まるでルーティンのようだ。開けた先にある白いベッドに、上半身を起こして自分を迎える息子が見える。


『お母さん、おはよう』


 そう言って微笑む息子を何百回、想像しただろう。手を伸ばして触れた取っ手はひやりと冷たい。もう一度深呼吸し、扉を開ける。


「お母さん」


 息子の、竜樹の、掠れた声が聞こえた。とても小さくて、ほとんど空気が漏れるような音だったが、広子は聞いた。目を見開き、ベッドを見る。体から何本も伸びるチューブは何一つ変わらない、彼が上半身を起こしていること以外。


「……竜樹?」


 カーテンから漏れる淡い光が滲んでいると思ったら、涙が溢れているだけだった。広子はふらつきながら我が子の元に歩み寄り、そして頰に触れる。

 竜樹は目を覚ましていた。柔らかい明るさも眩しくて仕方ないように目を細め、それでもはっきり広子を認識している。


「ぼく、どうなってるの?」


 また聞こえた。いや、実際は聞こえたような気がしているだけかもしれない。混乱している竜樹を痛いほど抱きしめ、広子は声を上げて泣いた。


「夢にね、井村くんと篠田が出てきて、謝ってたんだ。どうして井村くんまで、謝るんだろうね?」


 途切れ途切れ、竜樹は言葉をつなげる。少し、錯乱しているのかもしれない。ぼんやりとしていて、きっと、長い長い夢からようやく覚めたのだと、広子は思った。



 *


 河原くんの病室を抜け、服を着替え、伊助は病院の入り口前に篠田と立っていた。ここからちょうど河原くんの病室の窓が見える。伊助の立てた仮説はひとまず正しかったようだった。


「……お前、何したんだよ」


 少し離れた位置で、篠田がベンチに腰掛け伊助を上目遣いで睨んでいる。ガラが悪いのは相変わらずだ。不思議と恐怖はない。数年前も恐怖という恐怖は感じていなかったかもしれないが、この顔を見ると謎の腹痛が襲った。つまり、心の底ではこの男が恐ろしかったのだろう。それすら今は何も感じない。


「篠田くんと同じことだよ。河原くんを一度ダイブさせて、セキュリティシステムを実装させた。それだけ。お前の悩んでた発作もそれで治まっただろ。意識の戻らない河原くんにも効くのかなって、試してみたんだ」

「……わけわかんねー。こっちは釈放されたばっかってのに、こんなことに手間とらせてんじゃねぇよ」

「そっちが、自分の頭を直せって言ったんだろ。それに、お前だってここに来ることを望んだくせに」


 返事はない。篠田はもう伊助を見てはいなかった。地面に落ちたガムの包み紙を靴底ですり潰している。


 篠田が率いるあの団体は、全員が不起訴処分で釈放された。秘密結社の情報漏洩や籠城事件など状況が状況であり、なにより少々荒々しくはあったものの負傷者は出さなかったので、そこが大きかったのだろう。

 篠田たちが釈放されたとの情報を聞いて、伊助はすぐに彼に会いに行った。伊助の姿を見た篠田は、一瞬驚きはしたものの、取り乱すことはなかった。やはり、伊助が小野少年の中にいた時すでに、それが井村伊助であると確信していたのだろう。


『河原くんを治せるとしたら、どう思う』


 伊助のその問いかけに何も答えず、篠田はついてきた。ホームセンターでコスプレ用の白衣を調達し、病院のトイレで着替えて何食わぬ顔で河原くんの病室へと忍び込み、彼に無線ダイブ機器を使ってダイブさせたのだった。

 今やセキュリティシステムは全世界の人間の、半数以上に実装されたと言っても過言ではないだろう。ネットワークに消えたルドルフは、その後ダイブによってネットワークに入った精神全てに作用するようプログラムされていたのだ。かつてデリートされた高尾の感覚を元に戻すことができたように、篠田の精神的不安定要素や河原くんが未だ覚醒できない原因など、精神、つまり脳や神経といったあらゆる器官に影響を与えることができるのではないかと伊助は仮説を立てた。

 まず篠田にダイブしてもらい確かめたところ、根本的な問題は解決していないのかもしれないが、発作が治まった、らしい。そして次は河原くん。ダイブ接続を終えてしばらく様子を見ていると瞼が開いた。それを確認してさっさと病室を後にしたのだった。会話は、しなかった。


「もう用は済んだんだよな。俺は戻る」

「どうぞ」


 今さら親しくするつもりはお互いない。短い言葉を最後に、篠田は立ち上がる。


「じゃあな、二度とツラ見せんなよ」

「ああ、見たくもないね」


 ズボンのポケットに両手を突っ込み、篠田はゆっくりと歩いていく。自責の念があったのかどうかは伊助には知る由もないが、ここまで篠田がついてきたのは意外だった。伊助自身、なぜあの男をここへ誘ったのか分からなかった。ただ、そうすることが彼のためになるのかもしれないと、頭の隅で思っていたのは本当だ。

 遠ざかる背中に向かって、声をかける。


「篠田くん。おれは、悪いことをしたってちゃんと自覚してる。でも、この先もずっと、謝らないよ」


 その声に、篠田は立ち止まった。殴ってくるかもしれないなと思ったし、それでもいいかとも思った。


「だからなんだ。俺はお前に悪いと思ったことは一度もないし、この先もない。どうせ、いつかお互いツケが回ってくるんだ。そのときまで俺は自分のやりたいようにやる」


 最後まで伊助の顔を見ないまま、篠田は言った。そしてまた歩き出し、あっという間に見えなくなる。篠田の言葉が予想外のものだったため、伊助はしばらく目を瞬いてしまった。もう一度頭の中でその言葉を繰り返し、思わず笑う。


「ツケが回ってくる、ね。確かに。おれもそれまでは、好きにするよ」


 篠田とは逆の方向へ、伊助は歩き出した。


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