2


 確かに、何か足りないような感覚はあった。

 中学2年に上がる直前だったか、ダイブを終了して現実世界に戻った途端、先ほどまで何をしていたのか思い出せなかったことがある。気持ちの悪い感覚だったが、すぐにそれも薄れていった。原因不明の、喪失感とも呼んでいいのか分からない違和感だけが残っていて、その理由も、おそらく自分が河原くんに抱いた罪悪感を必死に見ないようにしたために起こった感情であると、伊助はそう結論づけた。中学卒業とともに河原くんや篠田の記憶が完全になくなっていたのは、よく考えるとそれがウォンが記憶をいじったせいだとは一概に言えないのかもしれない。伊助自身、忘れたがっていた。

 伊助の父親が他界する以前から家庭が冷めきっていたことも含めーーといっても井村は仕事が忙しいなりに伊助への愛情は欠かさなかったがーー、父親の死後伊助は父方の祖母のところでずっと生活をしていたわけだが、息子の死から何年も立ち直れない祖母は伊助に関心を注ぐ気力さえなく、そのおかげで中学卒業と同時に家を出ることに対しては何も言われなかった。いいのか悪いのか、伊助にはハッカーとしての才能が有り余るほどあり、この情報化社会の中で生き抜く術は充分に持っていたのである。他人と関わることが苦手なこともあり必要性も感じなかったので、彼はそういった関係から遠ざかる生活を選んだ。そして一年するかしないくらいに、平和の災厄、ピースメーカーが突如現れる。それが自分のつくったものであるとも知らず、伊助は素直に感激した。正体不明の人工知能、人より遥かに優秀で危険で手出し不可能な最強の存在、一体誰がどうやってこれをつくったのかと。だが、それはすぐに消えてしまった、核ミサイルを奪って。そんな、人工知能がこれからの支配者となるのかと世界が混沌としていた中、伊助はルドルフと出会う。なにか足りなくなった、その隙間は、彼もしくは彼女がいつのまにか埋めていた。


『こんにちは、伊助』


 ルドルフの声がする。容易に思い出せる。今思えば、彼もしくは彼女との出会いは偶然ではなかったのかもしれない。

 互いに互いの記憶がないままに、彼らは出会った。ピースメーカーほどの人工知能があるのだ、ルドルフくらいの人工知能が存在しても何らおかしくないと、伊助は簡単にルドルフを受け入れることができた。いや、彼もしくは彼女が人間ではなかったからこそ、簡単に受け入れることができたのだろう。彼らは知らぬ間に引き寄せられ、巡り合い、そしていま、自らの望む未来へと繋がった。つまり偶然ではなく必然であり、それは運命だった。


「……笑える」


 そこまで考えて、伊助は肩をすくめた。運命だとかそんな大層な言葉など自分たちには縁がない。ルドルフは伊助を見つけ、伊助はルドルフと出会った。ただそれだけのことである。結末はいくらでもあったはずだ。もっといい選択があったのではと思ってしまうのは、あまりにもあっさりと、ルドルフが消えてしまったからかもしれない。


「……?」


 ほんの一瞬、体に軽い電流が流れたような気がした。右手を顔の前に上げてしげしげと眺めてみるが何の変化もない。首をかしげるのと同時に、聞き覚えのない声が響いた。


『こんにちは、はじめまして。もう大丈夫、心配いらない』


 少年とも少女とも思える高い声だった。声の主に姿はない。それがなにものであるかすぐに理解した伊助は微笑んだ。


『わたしは世界で最も優れたセキュリティシステム。きみの名前は?』


 なるほど、実装されたわけか。伊助は自分の体をしげしげと眺める。やはり見た目はなんの変化もないが、データ自体が変化しているのだろう。分解し、再構築し、セキュリティプログラムを書き込む、完全体となったルドルフ、ピースメーカーは、第二世界のあらゆるデータにこうしてプログラムを実装させるのだ。

 これで、たとえばヘレナの使っていた精神データを破壊するプログラムなどの類いを無効化することができるのなら、ひとまず成功と言えるのだろう。どんな事象に対しプログラムが作用するのかは不明だが、ここでは試しようがない。いま分かることはただ一つ、ルドルフは新たなプログラムとなってこの世界に生き続けているということ。

 はじめまして、という言葉が微かな痛みを与える。姿の見えない誰かに向けて、伊助はまた微笑んだ。


「おれは井村。井村伊助。よろしく」

『はじめまして、伊助。もうきみは大丈夫』


 ――大丈夫。


 その言葉を噛みしめる。伊助はゆっくりと頷いて、小さなこの部屋から出ていった。



 目を開けると現実世界に戻っていた。しっくりくるこの感覚、やはり元の体に戻っていた。伊助はもう一度確かめるように両手を握ったり開いたりする。そして先ほどまでの状況を思い出し、慌てて左右を見やった。


「……あれ、なんか勝手に戻ってきたな」


 椅子から立ち上がっていたのは野島だった。眉根を寄せ、納得いかないような表情で首後ろをさすっている。ということは、他の者たちも無事戻ってきたのだろう。思わず息が吐き出される。恐る恐る小野少年を見ると、彼はどうやら眠ってしまっているようだった。穏やかに呼吸を続けており、だが彼の目が開くまでは安心できない。とにかく、彼の体を返すことができたのでほっと胸をなでおろす。


「無事ですか? 向こうで何かあったんです?」


 春野のが不安そうに尋ねて、結局行って戻ってきただけの野島は肩をすくめるだけだ。なんと説明しようか考えながら伊助が口を開こうとしたとき、高尾が黙ったまま立ち上がる。顔を伏せていて表情が分かりづらいが、何かいつもと違う雰囲気があることは、全員が感じた。


「……かえってきた」


 聞こえるか聞こえないくらいの声がする。野島は片眉をあげ、高尾の顔を覗き込むようにして見上げる。


「おい、大丈夫……」

「野島! かえってきたよ! ほら、見て、ちゃんと嬉しいって思って笑えてる……!」


 全員が息をのんだ。高尾の表情は今までのものとはまるで別物だったのだ。眉根を寄せ、目を細め、心の底から感情をあらわにしている。


「感覚もちゃんとある……! 元に戻ったんだ!」

「信じらんねぇ……なんで急に?」


 困惑している野島だったが、それでも彼は感激しているようだった。片手で頭を抱えながらも、口元は緩んでいる。要も口に手を当て言葉を失っていた。


「俺も分かんない。けど、セキュリティシステムがどうとかって、こっちに戻る寸前聞こえたけど……」

「ああ、オレも聞こえた。どういうことだ? そのセキュリティシステムがなんとかしてくれたってか?」

「心当たりはそれしかないけど……とにかくこんな感覚は久々だ……! あぁでも、なんか、気持ち悪くなってきた」

「おい! ここで吐くなよ!」


 この場でただひとり、伊助だけは高尾になにが起こったのかある程度予想ができた。セキュリティシステムにより一度精神データを分解され再構築される過程で、以前取り除いたが蘇ったのだと。

 予想外の効果に驚き、感動し、そして気づく。


「……ウォンは?」


 その問いに答えるものはいない。心臓を鷲掴みにされた気分になる。伊助の考察はこうだ、セキュリティプログラムによって再構築された精神データは外部からの干渉を受け付けなくしてしまうと考えられる。つまりそれは、ウォンの精神が誰の精神にも上書きできなくなってしまうということにほかならないのでは、と。


「……きみが扉の向こうに行ってしばらくしたあとに、いつの間にかいなくなってたよ」

「そんな……」


 答えなかったわけではない。答えられなかったのだろう。しばらくして口を開いたのは高尾だった。慣れない感覚に体調がすぐれないのか、彼はふらつきながら椅子に座る。だが、彼の表情が苦々しいのは、自分の体調のせいだけではないだろう。伊助の呆然とした顔を見つめ、申し訳なさそうに顔を伏せた。


「何があったのかはよく分かりませんが……ここに居続けるのが得策とは言えませんよ。とにかく、井村さんやそこの少年だけでもここから逃がさないと」


 もともとウォンには実体がなかった。その仕組みも目的もよくわかっていない者にとっては彼がいなくなったのかどうかすら理解できない。誰もが春野の言葉に賛成のようだった。


「いいえ、たぶん、もう大丈夫です。SSOとかいう機関の目的はここにはなくなったはずですから……」


 伊助の言葉に全員が顔を見合わせる。ウォンが黙っていなくなってしまった理由を伊助はなんとなく理解できた。いや、いなくなったのではなく消えてしまったのかもしれないが、それはこの状況では確認しようがない。ただ、彼と、そしてピースメーカーが消えたいま、ヘレナとSSOがここにこだわる理由はなくなる。初めてヘレナと対峙したときはウォンが表に出ていたために伊助は話を聞いていただけだが、彼女はピースメーカーがウォンだけの力でつくられたものだと確信しているようだった。よって、ウォンの脅しの道具として使えなくなった伊助に価値はない。


「あの……おれも、どこから話していいのかわからないんですけど…おれは……」


 全員の視線が集まる。伊助に恐怖心はなかった。気づかないうちに色々成長したのかもしれないと、我ながら感心する。意を決して口を開こうとしたとき、部屋の扉の方が先に開いたのだった。


「……佐渡さん?」


 野島の声に促されるように、入り口に視線が集まる。現れたのはSB指揮官の佐渡だった。目の下にクマができており、疲労が見て取れる。もううんざりだと言うように、彼は肩をすくめた。


「ご苦労さん。お互い大変だったみたいだな。もう逃げ回る必要はない。SSOは日本政府が制圧した。俺たちはとりあえず解放されるみたいだ」


 その言葉に、全員の口からため息が漏れた。なにが起きていたのか、そもそもどこから始まっていたのかよく分からないままではあったが、唯一これだけは分かる。長い一日がようやく終わりを告げたのだと。

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