2-2


 体格差、というのは、現実世界でははっきりモノを言う。スポーツでもなんでも、同じ実力を持つ者同士がぶつかる場合、そこに体格差が加わる事によって勝負が決まる場合もある。だから、春野が新人の頃、SBの訓練の一環で野島と初めて柔道の試合をしたとき、無茶な組み合わせをやるものだと彼は思った。その時の身長差は既に現在と同じくらいあったのだから。


「さすが野島、やるなぁ」


 結果的に勝負には春野が勝った。その場にいた誰もがそう予想していた。同じく春野自身も。むしろ、体格差を上回る実力で、春野はかなりの苦戦を強いられた。誰もが野島の身体能力をたたえ、もっと力をつけろと春野を叱ったものだ。だが、野島ただひとりは違った。


「あの、野島さん?」


 勝負の後、野島はただ呆然と立ち尽くし、声をかけても反応が薄く、確実に様子がおかしかった。ほかの人間たちは特に気にする様子もなかったが、付き合いの長い春野はそうもいかない。そして彼の状態の原因を、なんとなくではあるが彼は気づいていた。少し、心配はしていたのだ。今まではいつも自分が後ろに付いて回っていた。野島にとって自分は『守られる』側の人間であった。そんな人間に、彼は初めての敗北を味わわされた。彼がいま何を感じているのか、嫌でもわかってしまう。


 ――勝たなきゃよかった。


 何も語らない野島の背中を見つめながら、春野は思った。彼にとっては野島は何があっても最強の男に変わりはないし、柔道で勝てたからといってそれが揺らぐわけでもない。だが、そのたった一度の敗北が、いままでの関係にささやかな溝を作ったのは確かだ。その日の帰り、珍しくさっさといなくなってしまった野島をロッカールームで見かけたとき、彼は声を殺して泣いているようだった。衝撃的だった、同時に、案の定、という気持ちもあった。変な気分だった。声をかけるべきか死ぬほど悩んだ末、その隣に高尾がいたことに気づいて、少し腹が立ったのを覚えている。いつもはそこにおれがいるはずなのに、と。だが、野島をああさせてしまったのは自分であると思い、その場をそっと離れた。



「さすが」


 休憩室の外に居た見張りのふたりをあっという間に気絶させた春野に向かって野島が口笛を吹く。ちっとも感心していない野島の目を見て、春野は大げさに肩をすくめた。


「おれに手柄を挙げられるのがそんなに悔しいんですかね。少しは力になりたいと思っているだけなんですが」

「はぁ? フツーに褒めてんじゃねぇか」

「……どうだか」


 なんだよお前、と不満そうな野島の声を置き去りに、春野はさっさと歩き出す。いつ他の人間が追ってくるかもわからない状況なのだ。それに、あのちょっとしたトラウマの出来事からはもう数年が経っている。その時間は、彼を吹っ切らせるのには十分だった。


 ――ふん、知ったことか。この人の力になれるならなんだっていい。


「一番近いのがあと二つ先の部屋ですね。たしか椅子型のダイブ機器があった」

「悪の組織に占拠されてるって感じでもないな。拍子抜け」

「馬鹿言ってる場合じゃないですよ。ダイブ機器からおれがあなたをここの防犯カメラシステムに送ります。まずは井村さんを見つけてください」


 おっけー、と気の抜けた返事がある。顔を見ると、野島はいつもの笑みを浮かべていた。いつもどおりの彼でホッとする。


「よし、ここまでは順調ですね。出来るだけ急ぎでお願いします」


 何の問題なくダイブ機器のある部屋にたどり着く。手早く起動させ、そこに野島が座った。ほかのシステムならばここまで上手くは行かなかっただろうが、日常的にSBのシステム部分を管理している春野にとってはカメラシステムへの侵入は造作もない。いや、侵入、では言葉が悪い。管理人としてアクセスするのだ、そうとも。


「野島さん、気をつけて」

「おう」


 にっと笑って、野島は目を閉じる。春野は祈るようにして、ダイブ機器を操作した。



 野島が目を開ける。つい昨日もこうして第二世界に入ったというのに、久々の感覚だった。あまり眠れてないせいかもしれない。確かめるように拳を何度か握り、目の前に広がる空間を眺めた。白色のだだっ広い空間に、巨大なモニターが何枚も空中に浮かんでいる。そこにはあらゆる映像が映されていた。SB本部、そして防衛省全体のカメラ映像である。数は多いが人間が映っているのはそれほどでもなかった。SB本部を中心に、注意深く確認していく。


「あ、佐渡さん発見。なんか外国人と話してるみたいだけど。あの人英語喋れるのか」

『おそらくSSOの人間でしょう。占拠されているのはあながち間違いではなさそうですね』


 ダイブ機器を通して春野の声が聞こえる。野島の見ている映像も、ダイブ機器で確認ができるようになっている。一体これからSBはどうなっていくのかふと心配したが考えても無駄だろう。再び視線を動かす。


『あ、左下。そこ。それじゃないですか』

「は? 左?」

『違う、その下……いやもっと左、いや、右ですよ、そこ! ああもうそこだって!』

「うるせぇな! ちゃんと見て……あ、こいつか!」


 左下に位置する画面、会議室だ。そこにひとり、見覚えのある男が椅子に腰掛けていた。間違いない、井村伊助である。


「なかなかいいペースじゃん」

『そうですね。ただ、見る限り扉にはロックが掛かっていそうですね。おれは先にそっち解除してみます』

「おし、任せ」


 ぶつ。

 途中で野島の声が途切れる。現実にいた春野は何事かと思い画面を確認するが何も映っていない。かといって、野島の精神が戻ってきたわけではないようだ。瞬間、背筋を冷たいものが這い上がってくる。


「……はめられた?」


 静まり返った室内に、春野はただ立ち尽くしていた。



「やぁ、また会えて嬉しいよ。ノシマくん」


 声がした。息をのんで振り返ると、そこにはヘレナと名乗ったあの女が立っていた。いつの間に、というのと、罠だったのか、という言葉が頭の中で同時に反響する。体が動くより先、ヘレナの右手が野島の左腕を掴んだ。


「これできみは今からボクの兵隊さんだ」


 掴まれた左腕からなにか冷たいものを感じる。すっと光が走ったと思うと、それが全身を駆け巡っていく。野島は思い切りヘレナの手を払った。慌てて距離を取る。


「なにした?」

「おまじない。きみが言うことを聞いてくれるように」

「くだらねぇ」

「そうかな?」


 ヘレナのニヤケ顔が気に入らない。野島は大きく舌打ちし、両腕を構える。


「こら、ご主人様に物騒な拳を向けるもんじゃない」


 目の前に形のいい人差し指が突きつけられる。何かやるつもりだと構えてはいたが、何も起こらない。野島は目を細め、一歩前へ出る。


「……ん? おかしいな、どうして?」


 今度はヘレナが慌てる番だった。野島の様子に戸惑っているらしく、ゆっくり後ずさっていく。よくわからないが攻撃しないのなら好都合であると、野島は彼女にまた近づいた。


「あはっ、変だね! 失敗したのかな? でもだめだよ、そこから動かないで欲しいな」


 咄嗟にヘレナが構えたのはナイフだった。子供だましもいいとこだろう、精神データにそんな偽物ナイフが脅威になるものか、と。もちろんそのナイフが精神データに影響を与える特殊なプログラムでできていることを彼は知らない。ヘレナには再び余裕が戻っていた。


「いいのかな。これで刺されたらひとたまりもないのに」

「あ? やってみろよ」

「ふぅん? じゃ、遠慮なく!」


 先ほどの失敗が調子を狂わせているのか、ヘレナは少々取り乱していた。片手を振り上げ、ナイフを野島めがけて投げ飛ばす。

 さくっ。

 お見事、命中。ナイフの刃は深々と野島の顔面に突き刺さっていた。しかし。


「何がしたいんだお前」


 何も起きなかったのだ。野島は痛みも感じてなければデータの損傷もない。のだ。


「な、なんで……。なんで、なんで?」

「何もしないならこっちから行くけど」

「……くそ!」


 顔に似合わない悪態をついてヘレナは姿を消した。現実に戻ったのだろう。結局何もされなかったことが不思議でたまらず、野島は首をかしげるばかりだ。考えてもわからないため、彼もすぐに現実へと戻った。


「野島さん、無事ですか?!」


 目を覚ました瞬間、春野に肩を揺さぶられる。その馬鹿力に思わず呻いた。


「うお、びっくりした」

「急に交信が途絶えてたんですよ! 何があったんです?!」

「落ち着けって。あの女がやってきたんだよ。たぶん、わざとオレたちにダイブを使わせたんだろうな。でも結局失敗したみたいだったぜ。何をしようとしてたかすら分かんなかったけど」


 どうやら本当に無事のようだった。ヘレナという名前を聞いた瞬間血の気が引いたが、野島の笑顔にホッと胸をなでおろす。やはり罠だった。何も起きなかったのは幸運としか言いようがない。


「どうしましょうか、安易にダイブするのはもうやめたほうがいいかもしれません」

「かもな。とにかく伊助のところに行こうぜ」

「分かりました」


 一体あの女は何がしたかったのだろう、慌てふためいていた彼女の顔を思い出しながら、野島は心の中でつぶやいた。



 その頃。


 ――なぜ?


 現実に戻ったヘレナは呆然と空中を見つめていた。あんなことは初めてだった。感覚のない高尾とは似て異なる現象である。野島はあらゆるプログラムを無効化できていた。どういうことだ、その衝撃は彼女にとって耐え難いものだった。


「なんでだ……ボクのプログラムに欠点はない……」


 胃が痙攣している。ウォンに初めて敗北感を与えられたあの時よりも強い衝撃だった。


『ヘレナ。誰かがセキュリティシステムに侵入しているぞ』


 その時、端末から仲間の声がした。はっとして、そして苛立ちが一斉に押し寄せてくる。次から次へと小賢しい。


「いいよ、ボクが行く。ボコボコにしてやる。今度は容赦しない」


 野島たちはウォンのいる場所を見つけただろう。だが、扉を開けることは不可能だ。ヘレナ直々にプログラムをいじったのだ。彼を簡単に外へは出せない。それより先に虫を排除しなくては。

 ヘレナはもう一度ダイブ機器に接続し、セキュリティシステムへと飛び込んだ。

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