2話 親愛なる劣等感殿

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 彼が目を覚ましたとき、ヘレナは言いしれようのない感動を覚えていた。自分より優秀であると初めて認めた唯一無二の存在、それが彼、ウォーレン・ウォン・ワイマークである。伊助という少年の中に入っているせいで、姿形はその通り別人だ。だが、決して他人に心を許さない冷ややかな瞳と結ばれた唇に、確かに彼を感じる。


「分かるよ、うん、分かるよ。きみ、伊助くんの精神をどこかへ流したんだね。でも、そのままの状態じゃ宿主のいないきみは消えてしまうし、伊助くんの体を放置するわけにもいかない。だからこちらに戻って来たんでしょう」


 伊助の体に戻り、SB本部へと連れてこられてもなお、ウォンは沈黙を守っていた。会議室と思わしき場所に、ふたりきり。椅子に腰掛けたまま空中を見つめているウォンに、ヘレナはまっすぐ向き合っていた。視線が合う事はない。


「きみをボクのものにする前に、きみは消えてしまった。開発していた人工知能とともに。ピースメーカーと名乗る謎のが現れたとき、それがきみが作っていたものだとすぐに分かったよ。でも、それもまたすぐに消えてしまった。だけどいま、きみはまた戻ってきた! ピースメーカーとともにボクの元へ! ボクはとても嬉しい」


 うっとりと目を細め、ヘレナは高らかに言う。そのときようやく、ウォンの視線が彼女を捉える。暖房や冷房を使うにも微妙なその室温が、少しづつ冷えていくような気がした。


「きみが日本で何かをやっていることは知っていた。特別な人間がいることも知っていた。それが彼だとボクに知られた以上、きみはもう逃げられないよ。ボクはいま初めて、きみより優勢だ」


 自分が何を考えているのか、何がそんなに嬉しいのか、ウォンには理解できないだろうと彼女は思う。だが、そんなことはどうでもよかった。誰に理解されなくとも、自分さえが自分を理解できていればそれでいい。他人からしてみれば、これは歪んだ愛情とでも言うのだろうか。それでも、誰がなんと言おうと、情は情なのだ。

 そんな情を抱いたのは、SSOのオフィスで彼に出会って数ヶ月経ったある日。それまで彼女は自分が世界一のプログラマーだという自負があった。その自尊心を叩き壊された衝撃はいまでも鮮明に思い出せる。


(ヘイ、どうしてボクの言うこときかないのかな。悪い子だ)


 その日、彼女は自分の作ったプログラムのエラーの原因が分からず久々に苛立ちを覚えていた。なぜ動くのか、動いたとしても、なぜ動くのかが全く分からない。


(ああ、もう、親にその態度はいただけないよ。ちゃんと言う通りにしないと全部消しちゃうぞ)


 どんなに頭の中で自分のプログラムを叱っても、うまくいかない。そろそろ糖分でも補給するかと席を立ち、腹が減っていたのか衝動的にドーナツを3つ買って、不摂生な食生活への背徳感とともに平らげた後でまたデスクへ戻った。


「すごいなぁ、ウォン!」


 なにやら、騒がしい。興奮気味な声が上がっていて、その中心はなぜかヘレナの席だった。何事かと駆け足でそこへ戻ってみると、最近組織にやってきたウォンという男が自分の席に腰掛けていた。


「ヘレナ! すごいよ、ほら。ウォンがきみのプログラムをあっという間に修正したんだ! きみと同じくらい優秀な人間がいたなんてね、驚きだよ」


 ――ジョーダン。


 ヘレナは失笑した。そんな訳があるか、と。空間を開けてもらい、コンピュータの画面を見る。いや、見覚えがない。これは自分のプログラムではない。そう思って、ハッとした。思わずウォンの顔を見る。


「……ああ、ごめん。面白いプログラムだったから。こっちのが分かりやすいかなって、プログラム言語変えて再構築してみただけ。あんたのは消してないから安心してよ」


 ――ふざけるなよ。


 自作のプログラムをエラーごと理解し、そして自分のものにして完成させる。なんということだ。ヘレナは言葉を失った。なんということだ、なんということだ、なんということだ。

 顔が熱い。初めて感じた敗北感を恥じたのか、その悔しさなのか、彼女にとっては全てが未知の感情だった。初めて自分よりも優れている人間がいま、目の前に現れたのだ。


 ――悔しい、憎々しい、恥ずかしい、悔しい、悔しい、腹がたつ、殴りたい、罵りたい、くそ、なんだ、そんな、なんで、こいつ、なんで、


「ウォン、ボクの恋人にならない?」


 気づいたらそう言っていた。場が静まり返った。言われた当の本人は目を何度か瞬いて、そうしてはっきり答えた。


「いやです」



 昔を思い出し、彼女は笑みを堪え切れない。頰が引きつって、どうしても笑ってしまう。あの日からウォンは、絶対に手に入れたい特別な人間となった。どんな手を使ってでも自分のものにしたい。この優秀な男を、自分だけのものにしてしまいたい。その上で自分はこの男の上を行き、負けを認めさせ、そのプライドを粉々にしてやりたい。いや、彼が憎いわけではないのだ。むしろその逆である。負けを突きつけられ悔しさに歪んだその顔、想像の中のその顔がたまらなく愛しい。

 そしていま。

 それが実現しそうなのだ。


「ウォン、取引しようよ。ピースメーカーをボクにちょうだい? そして一緒にボクの計画に手を貸して欲しいんだ。ボクらふたりなら何でもできる。ねぇ、きみにも悪くない話だよ。その代わりボクは、伊助くんに手を出さない。何もしない」


 黙っていたウォンの瞳に初めて動揺が見えた。ぞくぞくと、足元から何かが這い上がってくる。


「この状況できみが逃げることは不可能だ。協力しないという選択肢もあるけれど、そのときはきみの精神をダイブ機器をつかって伊助くんの体から引き離す。きみの代わりの体くらいいくらでも準備できるからね。精神を移すのだって、ボクにとっては朝飯前だし。で、残った彼の体は? 空っぽだし、簡単に心臓を止めるくらいできそうだね」


 ああ、ごめん、間違えた、と、陽気な声。ヘレナは両手を合わせてニッコリ笑う。


「これじゃ取引とは言わないな。そう、きみに選択権なんかない。大好きな伊助くんの命をとるか、取らないか。結果的にはそのどちらかになるだけ」

「……ピースメーカーはもうぼくの手には負えない。意思を持って自分で動いている。制御なんて出来るわけないだろ」

「それはボクにだって分かる。でも、ほら、見てよ。制御はできなくとも、きみの味方だ」


 何か言いたげなウォンを制して、端末の画面を彼に突きつける。そこに映っているのはネット記事かなにかだろう、文字の羅列や写真が掲載されている。だが、記事を見てウォンは驚いたようだった。軽く息をのむ。


【秘密結社 SSOの実態】


 そこには、ウォンの知るSSOの概要が事細かに記されていた。ヘレナがスクロールしてそれを目で追う。驚くべきことにメンバーの名前や個人情報までが載っている。信じられないことだ。SSOのデータベースに誰かが侵入し、そしてばら撒いた。いったい誰が? その答えをヘレナは確信している。


「これをピースメーカーがやったと?」

「へぇ、きみも意外と役者だなぁ。あれ以外にこんなこととができるやつがいるとでも?」

「いや……」


 言いかけて、ウォンは口を閉じる。目を伏せ、何かを考えているようだった。ヘレナは早く彼の返事が聞きたくてしょうがない。


「ねぇ、そういうことだよ。きみがボクにつけばきっとピースメーカーだって協力してくれる。あれをよく知っているきみだって味方になれば怖いものはない。あ、ほら見てよ。『犯罪集団SSO、一般人の少年を人質にSB本部にて籠城』だって! 必死だなぁ、ピースメーカーも。ボクらを世界に晒して攻撃しようとしているのかな」


 秘密組織であるSSOが明るみになったことも、個人情報が晒されていることも、世間的に不利な状況が作られていくことも、彼女が気にしている様子はなかった。余裕をなくさないことを不審がっているウォンに、ヘレナはまた笑いかける。


「ああ、うん。別に今更ボクたちがどういう形で世界に知られてもどうでもいいんだ。どうせ人類の思考は矯正されるんだから。ボクがきみと今からそうする。計画が達成できれば、この世界では何もかもが認められる。価値観ごときで人は死なないし、戦争もなくなるし、少数派なんて言われなくなる。みんなハッピー! きみがショタコンだろうと、ボクがそんなショタコンを愛してるってことも、誰も笑わないし否定もしないんだ」


 別にショタコンではないが、ウォンはなにも言い返さない。ヘレナの瞳を見つめると、その奥に潜む何かが垣間見えるような気がする。

 だが、かける言葉はなにもない。


「お前に手を貸したとしても、伊助の無事を証明できないだろ。信用できない」

「そうだね、それは、ボクの言葉を信じてもらうしかない。でもさ、言ってる通り、きみに選択する権利なんかないんだって」


 ヘレナの瞳の光がさらに鋭くなる。そのとき、彼女の端末からピコンとその場にそぐわない音が響いた。


「……お、ちょうどいい」


 自分の言葉に、ウォンの眉根が寄る。今度はなんだとでも言いたげだ。ヘレナは微笑み、端末の画面を再び彼に見せてやる。動画のようだった。この部屋の作りとよく似た壁、その廊下を2人の男が早足に歩いていく姿が映っている。見覚えのある人物だった。春野薫と、野島武である。


「すごいね、このスキンヘッドの子。見張りを素手で倒しちゃったみたい。ま、動き出すだろうなって思ってたけど。たぶん、ダイブ機器を使おうとしてるんだ」


 何かを察したのか、ウォンの視線が端末から離れヘレナを向く。その通りだよ、と言う代わりに、彼女は頷いた。


「誘われてるとも知らずにね。ダイブしたらボクが直々に迎えに行ってあげよう。ウォンだけ不死身の戦士を持ってるのはずるいもんね。ボクは最強の戦士を手に入れることにする」


 ヘレナは端末をポケットに突っ込み、ゆっくりと入口の方へ歩き出す。


「ま、きみに手伝ってもらうのはそのあとでいいや。しばらくゆっくりしててよ」


 その言葉を最後にヘレナは部屋を去った。試す必要もないだろう、部屋には鍵が掛かっているはずだ。端末も手元にはない。ウォンは自分の無力さを痛感した。ヘレナは野島武に精神支配を使うつもりなのだろう。あの男がヘレナ側についてしまうと余計に不利な状況になる。だが、今ここで起きていることなどほんの些細なことでしかない。先ほど見せられたネット記事を思い出す。あれはピースメーカーの仕業ではない。あんな理性を欠いたような誹謗中傷も含む内容、間違いない、ルドルフの仕業だ。


「暴走し始めている……」


 感情のまま行動する子どもが、世界を混乱させてしまうほどの力を持ったまま野放しにされている。ルドルフはおそらく、伊助を助けようとしているだけなのだろう。いまはまだ情報での攻撃で済んでいるが、それをなんとも思わないヘレナ相手にもっと危険な対処を始めてしまったら……。

 事態は想像以上に深刻だ。世界のあらゆる通信をダウンさせる力を彼らは持っている。ピースメーカーがそれをしないのは、それが何のためにもならないと彼自身がしっかり思考できているからだ。だが、ルドルフは違う。あれを縛るものは何もない。


 ――いや。


 ウォンはゆっくり拳を握る。


「まだ間に合う。伝えることは伝えられたんだから。頼んだよ、伊助」



 陰謀渦巻く防衛省上空、対照的に雲一つない青空が広がっている。穏やかな昼下がり。世間ではピースメーカーやらワイマーク病やらで盛り上がっていたと思ったら、いきなり秘密組織の登場ときた。数時間前に通した車に乗っていた人間たちは確かに怪しかったよな、あいつらのことかな、と門前に立つ警備員は考えていた。

 視線の先、明らかに通りがかりとは違う大勢の人間たちがこちらに歩いてくるのが見えた。マスコミさま方のお出ましだなと姿勢を正す。


「……なんだありゃ」


 いや、違う。マスコミではない。一般人だ。だが、確かな意思を持ってこちらに向かってきている。老若男女様々で、ざっと見五十人以上はいるだろうか。どの人間も怒りの表情を浮かべている。

 なんだ、一体何なのだ。警備員は慌てて増援を頼んだ。

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