3-2
紙吹雪がやんだ。夕焼け小焼けも終わりを告げ、世界には再び静寂が訪れる。沈まない夕日だけが変わらずそこにあり、アレが姿を見せることはない。
「プログラムが……」
いち早く変化に気づいたのは四月一日だった。その声にはっとして、弥生もあの黒の球体に視線を向ける。球体のてっぺんから紐のようなものが伸びてきたかと思うと、まるで果物の皮をむくようにして球体の形が崩れ始めたのだ。
球体が次第に一本の紐状になり、それは空へとまっすぐ伸びながら消えていく。見えないナニモノかが引っ張り上げているようだった。
「きみたちは早く現実世界に戻ったほうがいい。帰り方は、教えてあげるから」
「ちょっと、あんた何しようとして……」
ウォンが弥生の額に人差し指をあてがう。6→4→8→1という文字がぱっと頭の中に浮かび、唐突なその感覚にゾッとしたのも束の間。ふわりと体が浮く感覚があり、そこで自分と四月一日の足元にあの木製の扉が現れていることに気づいた。声を上げるより先に、弥生と四月一日は別の空間へと落ちて行った。それを見届けた後、ウォンは鋭い眼光を蓄えた目をヘレナへと向けた。
「帰り方を知らなければここからは出られない。つまりここでお前は消えるんだ」
「ふぅん、それは残念」
状況を理解できているはずのヘレナから動揺が見えないことに、少なからずウォンは苛立ちを覚えた。そんな彼の内心を知ってか知らずか、ヘレナは目を細める。
「キミは自分の体を失ってもなお、伊助くんの体を借りて生き長らえているけれど、ボクはそうじゃない。ボクの本体はサイラスくんの中にあるわけじゃないからね。彼はいわば、遠隔操作可能の頼もしいロボット。ボクの精神はここにあってないようなものだ。キミがその不死身の兵隊さんを遠隔操作したような仕組みと似たようなものだから分かるでしょ?」
空が崩れ落ちてきた。まるで世界終末の比喩だ。状況をいまいち掴めない高尾は、突如空に入った黒い亀裂が次第に大きくなっていくのをただぼんやり眺めていた。剥がれ落ちた空は、黒々とした何もない空間を広げていくだけである。
「つまり、サイラスくんが表へ出てる間、ボクは現実世界に戻って行動ができる。例えばキミが今つかっているダイブ機器の位置情報を取得して、そこへ向かうようにボクの部下に指示することだってできるわけだ」
ウォンが息をのむ。ヘレナの余裕にはやはり訳があったのだ。不敵な笑みを浮かべる彼女を憎々しげに睨み、だがあらゆる罵倒をのみこんだ。完全に彼女が一枚上手だったことは認めざるを得ない。
ピシ、と、微かな音を立て、ヘレナの操り人形であるサイラスの体に亀裂が入る。そこからゆっくりと、大男のデータは崩れていった。
「サイラスくんを失うのは少し残念だけど。彼、いい子だったのに。でも、ピースメーカー直々に手を下してもらえるのは光栄だったなぁ。じゃあ、またね、ウォン」
サイラスの右半分はもう崩れている。最後まで笑みを絶やさないまま、彼は消え去った。
「……で、どうするんだ? よく分からないまま消えるのだけは勘弁してほしいんだけど」
空からゆっくりと崩れていく世界を目の当たりにしてもなお、高尾の表情は変わらない。ウォンは肩をすくめ、木製の扉を出現させる。
「とにかく場所を変えよう。もうここには居られない」
高尾の顔を見ず、塔からの景色を眺めながらウォンは呟いた。夕日に照らされた世界は音も立てないまま崩れ去っていく。それはまるで、やっと訪れた夜に世界が溶けていくようだった。
何も言わないまま、ウォンは扉の向こうへと歩みを進める。その背中に、高尾が問いを投げることはなかった。崩れゆく世界を置いて、二人は扉の向こうに去っていった。
――めがさめる。
伊助は何度か瞬きを繰り返し、そして辺りを見渡す。何もない。真っ白な空間がただひたすらに広がっている。それでも、なぜ自分がここにいるのかあらかた理解していた。ゆっくりと正面を向き、こちらに体を向けて立っている高尾を見た。
「……ウォン?」
伊助の声に、高尾の顔が歪んだ。眉根を寄せ、初めて見せるその苦しげな表情に、伊助は戸惑う。それと同時に、懐かしさで胸が押しつぶされそうなほど痛かった。
「どうしておれに何も話してくれなかったんだよ」
伊助の問いに、高尾は答えない。いや、伊助はすでに彼が高尾ではないことに気がついていた。姿形の話ではなく、中身のことだ。
「さっきの、見てたよ。分かるだろ。あの危ないやつの話もしっかり聞こえてたんだ。一体、何しようとしてる?おれや、高尾さんまで利用して…」
「違う!」
突然大声を出した高尾、いや、ウォンに、伊助は思わず言葉を飲み込む。怯んだ彼に気づいたウォンは申し訳なさそうに目を逸らした。
「……ごめん、きみが戸惑う気持ちもわかるよ。でも、きみを利用するなんてそんなことぼくは全然考えていない。それだけは、信じてほしい。ぼくはただ、きみを守りたくて…」
「でも、記憶をいじったんだよね? おれはつい昨日まで、ウォンのことを何一つ覚えていなかったんだ。それも、精神データに別の精神データを上書きするってことに関係あるんだろ?」
「……ぼくが居なくなって、悲しい思いをさせたくなかったんだ。ぼくとの記憶がなければそんな思いはさせなくて済むから」
「いや…その理屈はおかしいよ。そもそも、ウォンがおれを置いて行かなきゃそんなことしなくて済んだじゃないか!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。だが、感情が抑えきれない。伊助にとってこの再会は嬉しいはずなのに、それを怒りが上回るのだ。
ウォーレン・ウォン・ワイマーク。彼と出会ったのは伊助が小学校低学年の頃だった。もともと引っ込み思案で友人が少なかった伊助にとって、ずっと年上で頭の良い友人は何よりも誇らしい存在だった。
『きみのともだちだよ』
突然伊助の前に現れた彼はそう言って、小型のノートパソコンを手渡した。彼は伊助に、井村…かつて伊助の父親がそうしてくれたように、ハッカーとしての知識を与えたのだった。
学校帰りに、現実世界や第二世界でウォンと会って話をする。それが、当時の伊助の日課である。ふたりは互いの技術を使って思う存分電子の世界を楽しんでいた。ウォンと会う時間はいつも夕暮れで、だからこそその時間帯が一番好きだった伊助は、第二世界にウォンとふたりで作った自分たちだけの秘密基地に【夕日坂】と名付けた。
だが、そんな穏やかな日々も永遠ではない。少しずつ崩れ始めたのは、篠田が現れてからである。奴に会うたびに殴られることは伊助にとって堪ったものではなかったが、それでも彼にとって篠田は眼中になかった。学校から出ればウォンとの楽しい時間が待っている、それが全てだったからだ。それでも、目には見えない何かが伊助の中に黒い靄となって現れていたのである。
『ウォン。おれ、父さんがなんで死んだのか分かった気がする』
その日、伊助はぼんやりしながらそうウォンに告げた。彼の話を聞いたウォンは、理解する。伊助は、かつて自分の父が命を絶つ原因となった方法で、クラスメイトのいじめっ子を制裁したのだと。
いつまでたっても自分の目を見ようとしない伊助に、ウォンはそのとき感じたことをはっきり言い放った。だからこそ、崩壊が始まった。
『―――……』
当時自分の放った言葉を思い返しながら、ウォンは立派に成長した伊助をまっすぐ見つめる。目元が父親そっくりで、それが胸の奥へと鈍い痛みを与えた。
「こんな、大事なことを忘れてたなんて…。おれたちとんでもないことをやったんだ。あんな、どんな兵器よりもずっと危ない代物を作って、ネットに流したりして…」
「いいや。そうじゃない。確かにぼくらが作ったピースメーカーは今や誰にも制御されない支配者だ。でも、危険なのは彼じゃない。ぼくは人工知能を作るとき、絶対ある思想を植え付けるようにしている。ピースメーカーにはそれがあるから、彼は暴走することはないんだ」
「今まさに暴走してるじゃないか! 人が何人も死んでるんだ!」
「よく考えて伊助。死んだのはピースメーカーの目的を邪魔する可能性のある存在だ。彼はあらゆる情報を分析し学習し、自らの考える平和のために戦ってる。あらゆる情に流されない、人類に変わってこの世界を管理することに相応しい存在になったんだ」
きみと一緒に考えたんだよ、そう最後に告げて、ウォンは黙る。伊助は何も言えなかった。彼の言う通り、伊助もまた、人に変わって悪人を退治するヒーローを作りたかったのだから。そうしてアレがうまれた。
ピースメーカーは二人の望むヒーローだった。
この世にはどうしようもない人間がいて、人や法では裁けない人間もいる。だからこそ、手段を問わない人間以外の断罪者が欲しかった。人に恐れられようが、忌み嫌われようが構わない。まさに、そんなダークヒーローが。
真っ白な空間に、ふたりきり。訪れた沈黙は、想像よりもずっと穏やかだった。互いに互いを理解し、信頼していた彼らにとって、やはりこの再会は何ものにも変えがたい感動があった。
「伊助、時間がないんだ。今頃あの女が動き始めてるはず。あいつはぼくが相手をするから、ぼくの代わりにきみにやってほしいことがある」
「……どういうことだよ。また、どっか行くわけ?」
「いいや、ずっと一緒だった。ぼくと関わったばかりにきみに危険が及ばないように、ぼくは体を捨ててきみの中に眠った。何か異変があれば目覚めてきみを守れるように」
「一緒なもんか。おれは……」
ウォンがいなくなって悲しかったのに。そう言いたかったのに、言葉が出て行かない。彼への喪失感は、記憶がなかったために微塵もなかったのだから。今まさに、そこにいるのに、喪失感が湧き出してくる。
「いいかい、伊助。あの女の言うSSOは危険な集団だ。そしてあの女、ヘレナ・ジャービスは特に。ぼくはおそらくあいつらに連れ戻されるだろう。でもそれより危険な存在がきみのすぐそばにいる。きみが、ルドルフと呼んでいた、あの人工知能だ」
「……ルドルフ?」
聞き慣れた名前のはずなのに、それが何を指しているのか一瞬分からなくなる。良き友人であり謎めいた同居人、ルドルフ。ヘレナ・ジャービスよりもピースメーカーよりも危険な存在と言われても、それが等式で繋がらなかったのだ。
「きみとつくったピースメーカーにはひとつ欠点があった。それが、【感情】。彼は、人間の真似事ではない、学習した上で生まれた感情を表現できたんだ。とても好奇心旺盛で、純粋な、何も知らない子どもみたいに。だからこそぼくは危険だと考え、ピースメーカーを理性と感情のプログラムに分裂させた。今の彼は言わば理性のプログラム。そして、分裂させてデリートしたはずの感情のプログラム、それが――…」
――ルドルフ。
確かめるようにゆっくりと、ウォンは言った。伊助は言葉を失う他にない。親友がピースメーカーの一部、信じたくないのに、彼もしくは彼女の能力を考えると、違うんだと声を上げることができなかった。
「ネットに流したピースメーカーはゆっくりと時間をかけて成長し、完成し、そして世界に現れた。それでよかった。でもぼくは、感情のプログラムがあのまま消し去れたとは思えなくて、開発者として監視する必要があった。でも、ピースメーカーを開放したのと同時期にSSOやらキチガイ女が暴走しだしてぼくの開発していたENDを奪おうとするし…かといって伊助をひとりにしたくなかったし…。だから苦肉の策として、きみの精神に逃げ込んだ。いつかピースメーカーが異変を感じた時に目がさめるように」
それが、今だったのだ。
膨大な情報量に爆発しそうな頭を整理しながら、伊助は言葉を探す。だが、答えは出てこない。
「さっき、人工知能にある思想を植え付けるって言ったよね。ぼくはね、伊助。人ではないのに人と同等以上の知能を持つ人外というのは、どうしようとも人類の脅威になるのは確かだと考えてる。だからそうしたものを作る責任として、彼らには消滅するという本能を植え付けるんだ。人間が生きるために本能が働くように、彼らは自ら消えることに対し本能で行動する」
「なん、だそれ……」
「だからぼくはENDを開発していたんだ。ピースメーカーの武器にもなり、いつか彼が望む消滅を手助けできるようにね。そしてENDは今、彼の一部になった。……伊助、きみには辛いことだと思うけれど、ルドルフを彼に差し出して欲しい。ルドルフも、そしてピースメーカーも、いずれは消えなければならない存在だから」
ウォンはおもむろに、片手を伊助に向かって突き出す。それが何かをする前兆であると、伊助には分かった。無意識に体が強張る。
「ごめんよ。もっと別の形で会えたらよかったのに。ただ、これだけは信じて欲しい。ぼくはきみを守りたいだけなんだ。この戦士も、いつかきみに危険が迫った時にいち早く助けられるように準備をした。研究の一環として日本政府に手を貸したのはそのためだよ。感覚器官をすべて削除した第二世界において不死身の戦士」
「そんな、道具みたいな言い方……」
「あまりよくないのは確かだよね。でもぼくは、先生を失った上に伊助まで失うのは耐えられない。さぁ、もう行かなきゃ。最初は少し辛いかもしれないけれど、すぐに慣れるから。利用できそうな集団を見つけたからそこでしばらく匿ってもらったらいい」
彼の言う先生が誰なのか、伊助には分からない。伊助は父親とウォンが知り合いだったことを知らないのだ。眉根を寄せ泣き出しそうな伊助の表情に申し訳なさを感じるものの、引くわけにはいかなかった。
「ピースメーカーを頼んだよ、伊助」
その声を最後に、伊助の意識は暗闇に落ちていった。ぐるぐると回転しているような感覚だけがあって、そして突然眩しい光に目がくらんだ。
「ご、ご、ご覧下さい?! 今まさに奇跡が起きましたよ?! 第二世界から帰ってこなかった少年の意識が戻りました! 我々の神であるピースメーカーが彼を救ったのです!」
割れんばかりの歓声に頭が痛くなる。伊助は目を開け、そして視界に広がる大勢の人間たちに息をのむ。場所はわからない。建物の中だ。椅子に腰掛けた伊助の前にずらりと椅子が並んでおり、そこに多くの人びとが目を輝かせて座っている。
今まで感じたことのない違和感が吐き気となって伊助を襲う。無意識に体が震え、両手を顔の前に持ってきた。小さい手のひら、長さのない足、そしてはっきり認識する。
――おれの体じゃない!おれじゃない!おれじゃない!!
「おぇ…‥っ」
床に崩れ落ち、そのまま嘔吐した。体の震えはひどくなるばかりで立ち上がれないほどの目眩に襲われる。そのまま意識を手放した。
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