2-3
要が高尾と二人きりになるのを兄は嫌う。おそらくそれは高尾がいわゆる特殊な体質になってしまったからだと要は思うわけだが、実際はそうではない。
野島要は幼い頃から高尾俊介と兄と行動することが多かった。強い兄と優しい高尾、要にとって彼らは頼もしい二人の兄だった。そしていつのまにか要にとって高尾は憧れの存在となり、本人が無自覚なだけでそれは淡い恋心にも近かった。つまりそういうわけで、野島武はいい年こいて、自分の苦手な同い年の男に大事な妹が想いを寄せることが気に入らず、側に高尾を寄らせたくないのである。
だが今日は珍しくさっさと先に家へ帰ってしまった。おそらくあの伊助という少年のことだろう。兄を助けてもらったお礼をまともに言えていないのが気がかりで、要も昨日からそわそわしている。ただそれよりも、こうして久々に高尾と二人きりになれたことを無意識に喜んでいた。
「高尾さん、帰らないんですか」
「ん? まぁ、そのうち」
SB本部の休憩室で、することもなくぼんやりソファに腰掛ける高尾はいつも通り微笑んでいる。数年前から、彼の表情は変わらなくなってしまった。微笑み方は昔と変わらないというのに、優しいそれは毎回要の胸に鈍い痛みを与える。
「昨日の戦闘で受けた攻撃、平気だったんですか? その後医療チームに診てもらったりしなかったみたいですけど…」
「そりゃもちろん。なにも感じないしね。今更変なこと心配するんだな、要」
かなめ、と、呼ばれる声が優しい。要は高尾の瞳をまっすぐ見つめ、眩しそうに目を細める。
「高尾さんは、後悔してませんか?」
尋ねて、要が後悔する。予想通り、高尾は微笑むだけだ。
「何に対して?」
「その…今の、あなたの状態について…」
「いやぁ、特には。ただ、そうだな……」
非常に気になる言葉の先を待ったが、なかなか出てこない。要は焦れて高尾に向かって首をかしげるが、彼はどこも見ていなかった。その何かに取り憑かれたような瞳に、ゾッとする。
「行かないと」
そう一言発して、彼は立ち上がった。要を一度も見ることなく部屋を出て行き、向かったのは訓練室。自由に使えるダイブ機器がある場所だ。少し不安がよぎる。
「行くって、どこへ? 高尾さん!」
「俺にもよく分かんないけど……」
訓練室に入った高尾は迷わず椅子型のダイブ機器に腰かけた。慣れた手つきで操作すると、そのままどこかへダイブしてしまった。要は、意識のなくなった彼を呆然と見つめることしかできなかった。
*
心臓が激しく脈打っている。
扉が開いたことで塔の中が現れた。だだっ広い空間に、物はなにもない。壁に作られた階段が螺旋状に上へ上へと伸びていて、その所々に木製の扉が設置されている。
「え、なんで開いたの? 伊助、なんて言った?」
「………」
「伊助?」
後ろにいた弥生が伊助の顔を覗き込む。彼女の淡い光を含む瞳に見つめられ、ようやくはっとした。
「え、えと、なんか勝手に開いたみたい」
「いや、あたしの答えが正解だったってことじゃん。喧嘩上等ってやつね」
「ははぁ、弥生ちゃん乱暴だね」
「うっさいわね四月一日」
二人のやりとりは見ていて安堵するものがあるが、伊助はそうもいかない。三人は揃って、ゆっくりと中に足を踏み入れた。
「……これを登らなきゃなんないのかな」
螺旋階段を見上げる四月一日は早くも弱気だった。はるか上の頭上から微かに光が漏れていることから、あそこが頂上なのだとわかる。目視でもかなりの距離があることは容易に想像できた。
「いや、ところどころ入口と似たような扉がある。きっとあれを使って上まで行くのよ」
「なるほどぉ…それならなんとか行けそうだね」
「……ねえ、伊助?あんた大丈夫? 顔色悪いよ?」
先程から黙り込んでいる伊助に弥生は首をかしげる。自分がいま感じている違和感をどう話せばいいものか、話すべきものなのか、彼は迷っていた。
「なんか、落ち着いたら気持ち悪くなってきて…」
「なによだらしない。これから宝探しするんだから。この塔の宝ってのが出口の鍵な気がする。そう思いたい」
最後に本音を漏らして弥生は肩をすくめる。行くわよ、と彼女の号令で、三人はまず一番近い扉へと向かった。
「開けるわよ…」
入口と違い、塔の中の扉に鍵はかかってなかった。少し押すと簡単に開き、今まで通りぱっと真っ白な光に包まれる。そして移動した先は階段の上だった。恐る恐る下を見ると、十メートルはあるだろうか、そこそこの高さまで登ってきていた。
「ふぅん、この調子ならあっという間に頂上まで行けそうね」
体力に自信のない伊助と四月一日にとってそれは何よりの朗報だった。点々と壁に開いた穴は窓とでも言うのだろうか、赤色の夕日がそこから漏れている。赤く染まった壁と人の気配のないこの場所は、住宅地よりずっと気味が悪かった。
「さっきのクイズみたいなあれ、ここを作った人が考えたのかな?わたしだったらもっとカッコいい演出にするけどなぁ」
「たしかに、なんだかここに似合わない気はしたけど。そいついじめられっ子だったんじゃない」
「ほぉ、じゃあ殴って一矢報いたんだね、きっと」
――いや、そうじゃない。
伊助は心の中で彼女たちの会話に加わる。ふと、視線の先に張り紙があった。どうやらここにも住宅地にあったような情報ツールがあるらしい。
【近日発売、いじめっ子の殺し方。著:井村伊助】
息をのむ。無意識に手が伸びてそれを破り捨てようとすると、そこはただの白紙になった。慌てて他の二人を確認すると、その張り紙には気づいていないようでそこでようやく息ができた。
――なんであれを忘れていたんだ? いや、まだ何か忘れている。
必死に取り乱さないよう感情を抑え、伊助は過去の記憶を掘り返す。
当時中学一年だった井村伊助のクラスには、どうしようもないいじめっ子がいた。地元では有名な悪ガキで、誰彼構わず気に入らなければ暴力を振るうような人間だった。名前は、篠田。時折しか顔を出さないというのに、クラスは彼の支配下だった。目に付いた人間を多数で追い詰めて言いなりにし、金を奪ったり恥をかかせたり暴力を振るったり、やることは様々だ。当時から伊助の身長は周りの生徒たちと比べ飛び抜けて高かったが、自己主張も友達もない生徒ということもあり、目立たない存在…のはずだった。
『おまえ、オレの女に手ぇ出しただろ!』
まったく、一体どこの漫画のセリフだよと呆れ返る言葉を放ちながら、伊助は篠田にぼこぼこにされた。何度も、会うたび殴られた。後で知ったのだが、篠田が想いを寄せる先輩が伊助を気に入っていたという事実かどうかも分からない噂話に彼が激怒した、ということらしい。伊助はその先輩の名前も顔も知らないというのだから、理不尽極まりない。
そんな、理不尽な暴力を受けて数ヶ月が経った時、伊助は、自分と同じく友達もいない地味な生徒の一人である河原くんに声をかけられた。家が金持ちだという彼は篠田の財布として頻繁に絡まれていたわけだが、同じくこっ酷くやられている伊助に対し、同類だと思い声をかけたのだろう。だが、伊助の方はずっと淡白だった。彼は助けてほしいわけでも、友達がほしいわけでも、一緒に傷を舐め合いたいわけでもなかったのだ。毎日のように親しげに声をかけてくる河原くんは、伊助にとっては篠田と同じくらい鬱陶しい存在だった。
『井村くん、ぼく分かったんだ。ずっとあいつに一矢報いたかったけど、思いついたんだ』
そんなある日、河原くんが興奮気味に声をかけてきた。
『ぼくはね、あいつの席で死のうと思ってるんだ』
他の人間が聞けば仰天するようなその思いつきに、しかし伊助はまったく動じなかった。そして、河原くんはあの篠田という化け物を人間だと思っているに違いないと、そう思って彼を哀れんだ。そんなことをしてもあの化け物は微塵も後悔しないし、苦しまない。それでも、彼は作戦を実行した。自分の席で動かなくなった河原くんを見た化け物は伊助の思った通り大笑いしていて、その笑い声が妙に耳にこびりついたのをよく覚えている。そう、よく覚えていたはずなのだ。
河原くんはなんとか一命をとりとめたが、未だにどこかの病室で眠っていると聞いた。そのことも、今になって簡単に思い出せる。
――かわいそうな河原くん。そうじゃない、こういう化け物は、こうやって殺すんだ。
まだ変声期前の、高い声。その色のない冷ややかな自分の声に、伊助は唾を飲んだ。よく覚えている、覚えている。井村伊助は何をしたのか。文字通り、晒したのだ。
暴力を振るう場面、金を巻き上げる場面、そして河原くんを笑う場面。全て撮影して、ネットの海にばら撒いた。住所も名前も電話番号も、全てばら撒いた。
しばらくすると、篠田は学校からいなくなった。
「伊助くん?」
四月一日の声にはっとする。右手が暖かく感じるのは、四月一日が手を握っているからだろう。心配そうに首をかしげる彼女に、いくらか落ち着きを取り戻す。
――…思い出してきた。それで、そのあと、おれはここにいた。あの人と。
その瞬間、脳に電撃が走る、ような衝撃を受けた。ピースメーカーの戦士に貫かれたときによぎったあの映像、あそこにいた少年が自分だと気づいたのだ。
「い、伊助くん? 大丈夫? 座る?」
目眩がして思わずその場に座り込む。無意識に呼吸が上がり、そして辺りを見回した。探している人物はここにいない。
「なんで、忘れてたんだ…? なんで置いていったんだよ、おれを……」
「伊助? しっかりして」
「友達だって、言ったくせに…」
――きみのともだちだよ。
また声がする。今度ははっきり聞こえた。忘れるはずのない声だ。伊助は空いた手で額を押さえ、必死に息を整えようとする。
「はじめまして、伊助くん」
低い声がした。伊助の真横にある木製の扉が開いて現れたのは、あの殺人鬼の男。先ほどとは打って変わって微笑みを浮かべるその顔は不気味としか言いようがない。四月一日の短い悲鳴が聞こえた気がした。
「そして…ずっと会いたかったよ、ウォン」
危険だと、逃げなければと思うのに、体が反応できない。男の大きな両手が伊助の顔を包み込むようにして頬に触れる。寄せられた顔にある二つの灰色瞳が嬉しそうに細められ、髪と同じ金色のまつげがよく見える。こいつ、意外とまつ毛長いんだな…なんていって始まるラブロマンスはここにはない、はずなのに、驚くべきことに男は本気で伊助に口づけするつもりらしい。少し顔を傾け慣れた動作で唇を寄せた。
「んむ」
すんでのところでそれを伊助の掌が回避する。自分と男の間にとっさに手を滑り込ませ、なんとか防いだ。男はなんとも間の抜けた声を出したが、伊助の冷ややかな視線に気づいて不敵な笑みを浮かべる。焦りも戸惑いもない、まるで別人のような伊助のそれに、男は喜んだ。
「出てきたね?」
男が言うのと同時に、伊助が男を突き飛ばす。その勢いで階段を駆け上がった。
「早く逃げろ!」
伊助の大声に残りの二人がはっとして駆け出す。目指すのは一番近くの扉だ。まず弥生が、そして四月一日と伊助が続いて飛び込んだ。
「ダメだよ。ボクの前ではどこにも行けない」
まるで歌うように言葉を放つ男の足取りは軽い。長い足で階段を上がり、伊助たちの飛び込んだ扉をゆっくりと開ける。
たどり着いたのは塔のバルコニーだった。扉はたったひとつだけ、バルコニーは地上より遥か上の位置にある。逃げ道がないと悟ったのだろう、伊助たちはバルコニーの隅で途方にくれたように立ち尽くしていた。それを見ながら、男はゆっくり彼らに近づいていく。
「大丈夫。ボクが表面にいるときは、この子に危ない真似はさせないから。少し話をしようよ」
「……なんなの、こいつ」
伊助と四月一日を庇うように前へ出た弥生は眉根を寄せて男を睨みつける。男は、最初に見たときと随分雰囲気が違っていた。口調も表情もまるで違う。その違和感は、気味が悪いという範囲を超えて恐怖すら感じる。
「にっ、二重人格……なの、かな」
無意識に伊助の腕を掴みながら、四月一日が恐る恐る口を開く。違うよ、とはっきり男が返事をするものだから、彼女はまた短く悲鳴をあげた。
「いや、たしかに二重人格というのも間違いじゃないかもしれない。この子の精神データにボクの精神データを書き込んでいるだけだから、憑依というのも少し違う気がするしね」
「ちょっと。さっきから訳の分からないことばっかり言ってんじゃないわよ」
「訳が分からないのは、きみがこの仕組みを理解できてないからであってボクのせいじゃない」
「あ?」
敵意丸出しの弥生に、男の表情は変わらない。スーツと端正な顔が加わり、微笑むとまるでハリウッドスターのような華やかさがある。
「まぁ、いいや。ボクが話したいのはその背の高い男の子、伊助くんだから。ボクの愛しい人の愛しい人。ね、ウォン。やっぱり生きていると思っていたよ。ずっと会いたかったんだから」
男の視線は伊助から少しもぶれない。弥生と四月一日は互いに戸惑って伊助と男を交互に見る。
「……気持ち悪いんだよ。今度伊助に触ったら消してやる」
やっと口を開いた伊助に、弥生と四月一日はますます戸惑うばかりだ。何が起きているのか全く理解が追いつかない。
「あはっ! やっぱりウォンなんだね! きみ、本当にその子が大好きじゃないか。気持ち悪いのはお前だよこのショタコン野郎」
「お前に言われたくないんだよ、妄想好きの変態クソ女」
見えない火花が散っている。ウォン、だとか、明らかにガタイのいい男に向かってクソ女、だとか、弥生たちの理解を超えた情報があちこちから飛んでくる。戸惑いの限界を超え始めた2人を同情するように、男は肩をすくめて微笑んだ。
「彼女たちに説明してやったら? きみの大好きな伊助くんの大事なお友達だろう? 彼が嫌われたらきみのせいだよ、ウォン。何だかんだでボクの考えた技術を使って生き延びちゃって。本当はボクのこと好きなんじゃない」
「……死ねばいいのに」
憎しみを込めた低い声で伊助は言う。ふと、腕を引かれ、伊助は隣にいる四月一日を見た。彼女は不安そうに眉根を寄せて伊助を見上げている。それでも手は決して離そうとはしなかった。その姿に、申し訳なさを感じる。
「悪いけど……ぼくは伊助じゃないよ」
「へっ…ど、どういう、こと?」
「あは! 代わりにボクが紹介しようか!」
全員の視線が男に集まる。彼は腕を地面と垂直にあげて、まっすぐと伊助を指差した。実に愉快そうな表情で、歌うように言い放つ。
「彼の名前はウォーレン・ウォン・ワイマーク。きみたちも名前はよく知っているだろ? この場所をつくった張本人。そしてピースメーカーの脳を第二世界に放った男」
それからついでと言わんばかりに、彼、いや、彼女は自分の胸を叩いた。
「そしてボクはヘレナ・ジャービス。よろしくね」
四月一日が顎を外れんばかりに口をぽかんと開けたのは、言うまでもない。
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