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【言語とは、理解の障壁ではない】
という言葉を残したプログラマーがいる。わずか十二歳でハーバード大学への入学を果たした神童、ヘレナ・ジャービスの言葉だ。
第二世界には現実世界と同じく様々な国籍の人間が存在し、そして現実世界よりも容易に彼らと出会うことができる。その上で必要不可欠なのが他言語に対する知識であるが、第二世界ではとあるフリーソフトの開発によりひとつの革命が起きた。それが、翻訳ソフト。十三歳のヘレナ・ジャービスが名言と共に発表したそのソフトは、相手の言葉を完璧に翻訳してくれるというものである。そして第二世界ならではの技術、それは、会話を瞬時に翻訳した上で発した人間の声を利用して言葉が相手に聞こえる、ということだ。つまり、言語を互いに理解しなくとも、互いの肉声でコミュニケーションが取れるのだ。そんな画期的なソフトを、彼女は無料で全世界に配布したのである。発表から十五年経った今、彼女はCIAの捜査官として活躍しているとのことだ。
現在ほとんどの企業や組織がそのソフトを取り入れており、手軽に世界中のウェブサイトやコミュニケーションツールを楽しんでいる。だが、やはりそのソフトを取り入れるというのも手間がかかる。故に、個人が作る仮想現実空間で翻訳ソフトを実装するというのは、それこそまさにマニア中のマニアの、そのさらにマニアがやるようなド変態級のことなのである。
そんな、マニア中のマニアのそのさらにマニアが作った千代田区七番町夕日坂に迷い込んだ伊助とワタヌキこと四月一日は、目の前に迫る脅威の存在を忘れてこの空間を堪能したいわけだが、それが生命の危機ということだから、そうもいかない。
「わ、四月一日さん逃げよう! どこか、扉を探さないと…!」
「は、はい、はいいぃ……っ」
無意識に彼女の手を強く握り、あたりを確認する。だが、移動してきたのはベンチと幼児用の滑り台があるだけの小さな公園で、すぐ近くに飛び込めそうな住宅などない。その間にもスーツの男はゆっくりと伊助の元へ迫ってくる。
「こっち!」
とにかく迷っている暇はない。男とは反対側の方向へと駆け出し、離れた場所にある住宅へと向かう。振り返ると、余裕があるのか男はまだ歩いている。そしてその向こう、倒れていた女性の体がゆっくりと崩れ出しているのが見えた。もしあれが誰かの精神データなら、彼女の精神が死を迎えたことを意味する。精神データが第二世界のデータに飲み込まれるその瞬間を初めて目にし、気分が悪くなった。
「さっ、殺人鬼……! あれが例の殺人鬼では…っ?」
「……言わないようにしてたのに! 四月一日さん、あいつの持ってるナイフどう思う? あの倒れていた人、まるであの刃物で刺されたみたいだったけど……」
「そ、それはわたしも思ったよ……でも、変だよね。ここはゲームでもなんでもなくて、第二世界そのものだし。第二世界では武器なんて意味がない…どれだけ自分の精神を自在に操れるのかどうか、だもん」
そう、四月一日の言うように、第二世界では現実で危険とされる武器、拳銃や刃物などはその存在意味を果たさない。例えばプグナや家庭用ゲームなどはそのプログラムの中へ精神を飛ばしてプレイするので、そこに存在する武器データは精神アバターにも影響する。だが、通常のネットワーク、第二世界においては精神データに干渉できるのは同じ精神データだけである。武器のようなものを演出することはできても、精神データへ影響を与えることはできないのだ。
「よく分かんないけど、あんなガタイのいい奴に捕まったら普通に素手でなんでもへし折られそうだけど……! とにかく追いつかれたら終わりだな…っ」
「そ、そうだね、とにかく早くちがうところへ……っあ」
ぐん、と、手を引かれて伊助は息をのむ。足に力をいれ、なんとか倒れるのだけは踏みとどまった。何事かと振り向くと、四月一日が脱力して地面に膝をついていた。その理由は一瞬で分かる。彼女の左足、ふくらはぎの部分にナイフが深々と刺さっていた。
「な、なんだよこれ……!」
伊助は地面にしゃがみこみ、慌てて四月一日の足からナイフを引き抜く。彼女の痛々しい悲鳴が短く響き、肩が大きく震えた。四月一日の左足から出血はない。それはここが第二世界だからだ。その代わり、まるで粗い画像のようにその部分だけデータが崩れていた。
「精神データに影響を与えるプログラム……?」
震える手でナイフをつかみ、凝視する。先ほど男が手にしていたものだ。ハッとして顔を上げると、歩いてくる男の手にナイフがない。投げたのか、操作したのか、どちらにせよあの男がなにかしたのは間違いなさそうだった。
「だ、だめ、痛くて、立てないよ……っ。い、伊助くん、先に逃げて」
足を引きずりながらなんとか両腕で体を支える四月一日は、頭を左右に振りながら伊助を見上げる。分厚いレンズの向こうにある大きな瞳と初めて目が合った。不安と恐怖を嫌でも伝えてくるのに、彼女は震えながらも笑顔を浮かべる。
「わ、わたしは、だいじょうぶだから…」
「なわけないだろ! ほら、手ぇ貸して!」
ふと、寒気を感じた。気配に誘われるように、伊助は顔を上げる。いつの間にかスーツの男は目の前まで迫っていた。光のない灰色の瞳が四月一日を見つめている。
「今楽にしてやろう。少年、きみは次だ。そこをどけ」
――どきたいのは、山々です。
心の中で返事した。出会ったばかりの女の子。確かに接点はいくつかあったけれど、友人でもない他人の女の子。それでも、自分より小さく、自分よりも力のない、自分よりも悪い状況の中、必死で自分をかばおうとする女の子。
伊助はほぼ無意識に四月一日と男の前に割って入った。
「邪魔だ。少女が苦しんでいる。それは罪だ」
「うるせえ! どかない!!」
恐怖で硬直した体はもうそれ以上動かせなかったが声は出た。緊張のせいなのか自分でも驚くほど大きな声が出た。男の表情は全く変わらない。少し黙ったあとで、男は伊助の顔を覆うほど大きな手のひらをゆっくり伸ばしてきた。その指先が、伊助の額に触れるや、否や。
「なに、カッコイイとこあるじゃん」
聞き覚えのある声がしたのはその時だ。え、と、声を上げるまもなく、男の頭の後ろから、綺麗な白い足がぬっと現れる。
「ちょっと見直したわよ、伊助」
「や……っ!」
まるで女の子のような可愛い悲鳴を出したわけではない、断じて違うと言い訳したい井村伊助。男が振り向くのと、その顔面に見事な廻し蹴りが命中するのは同時だった。伊助と四月一日は同時に叫ぶ。
「弥生ちゃん!!」
その細い足からは想像もつかない勢いで、男が地面に倒れる。そして現れたのはいつかのメイド服に身を包んだ神代弥生だった。
「どう? 戦うメイドさん。イカすでしょ」
「は……はい」
正直これは男女関係なく見とれるところだろう。両手を腰に当て、弥生はにっと笑う。そして勢いよく駆け出した。
「ぼさっとしないで走る!」
「わ、分かった……!」
四月一日をふたりがかりで抱き抱え、駆け出す。後ろを振り返る勇気は伊助にはなかったが、誰かに捕まえられることなく一軒の住宅へとたどり着く。迷わず扉を開き、三人で飛び込んだ。
一瞬で最初と同じような住宅地へと移動する。一息つきたい伊助だが、弥生は止まらない。どうやら彼女もここの仕組みは理解しているらしい。もう一度すぐそばの住宅に飛び込み、それをもう一度繰り返してやっと立ち止まった。
「とりあえずここまで来ればしばらくは時間稼ぎにはなるでしょ。四月一日の傷の具合は?」
「そ、そう、四月一日さん…」
さすがと言うべきか、弥生はすぐに呼吸を整えていた。第二世界では緊張や運動により精神が影響を受け息が上がるが、それをいかに早く落ち着かせるかは精神コントロールの技量による。伊助はまだ肩で息をしているのに弥生は涼しい顔だ。
「うう…わたしの足、どうなってる…?み、見ないほうがいい?」
地面に仰向けにして寝かせた四月一日が涙声で尋ねるが、事実彼女の足の具合はいいとは言えなかった。データが破損し、完全に使い物にならなくなっている。もし精神が無事に体に戻っても、後遺症が残るのは明らかだった。
そのままなら。
「四月一日さん、大丈夫。おれが直すから」
「…伊助?」
ようやく落ち着いてきた伊助は四月一日のそばにしゃがみこむ。華奢な彼女の左足の、損傷を受けた部分に手を伸ばし、波を描く。伊助とルドルフで開発したプログラム、リバースの作動合図だ。
「へっ、へっ?」
慌てて四月一日が上半身を起こす。損傷を受けた左足はみるみるうちにデータを修復し、ものの数秒で元に戻った。
「な、なお、なおったよ…?! い、伊助くん今のどうやったの?! スゴイ! スゴイ!!」
「お、落ち着いて四月一日さん…」
「ご、ごめん、でも、だって今のすごかったよ?! 何かのプログラム? 修復プログラム? スゴイ!!」
興奮しっぱなしの四月一日とは真逆で、弥生は口をぽかんと開けて伊助を見つめている。野島にこれを使ったときもそうだが、やはり最初のこのリアクションは伊助にとって気持ちの良いものだ。思わず口元が緩んでだらしのない顔になる。
「えっと、そう、おれが友だちと一緒に作ったプログラムで…。あれくらいの損傷ならすぐに元に戻せるんだ。もう大丈夫だよ」
「す、す、スゴすぎるよ! わたしにもそれ教えて!」
「ちょっと待って、分かんないんだけど。なに? 四月一日の足これで大丈夫なの?」
いまいち理解できていない弥生は伊助と四月一日を交互に見る。平気!と元気よく返事する四月一日に、彼女は突然抱きついた。
「もう…心配したじゃんバカ…!」
「ご、ごめ、ごめん弥生ちゃん…。もしかしてわたしのこと探してくれてたの?」
「だって帰ってこないんだもん!見つけきれなかったらどうしようって怖かったんだから!」
やはりそれなりの実力があっても弥生は女子高生。頬を真っ赤にして眉根を寄せるその姿は年相応の幼さがあった。
「え、えと、取り込み中すみません。弥生ちゃんはどうしてここに…?」
手放しで安心するのはまだ早い。あの殺人鬼がいつまた出てくるのか分かったものではないのだ。取り乱したところを見られたのが恥ずかしいのか、弥生は伊助から目をそらして答える。
「……四月一日があるURLにダイブして戻って来なくなったって聞いて。私もそこにダイブしてみたの。しばらくさまよってたけど、偶然あんたたちを見つけたってわけ。つまりあんたもあの変なURLとやらにダイブしたわけね」
「え、えと、実はよく分かんないんだけど…多分そうなんだと思う。ていうか、学校でもそんな格好してるの?」
伊助の答えに納得がいかないのか弥生はまた隠そうともせず嫌な顔をする。照れ顔はもう消えていた。
「ばかね。第二世界でコスチュームを変えるなんて小学生でも出来るわよ。気に入ってるのこれ。なんか文句ある?」
「…ありません。さすがです」
彼女のいう通り、第二世界では精神コントロールに長ければ長けるほど自由度が高くなる。服装を変えたりするのは序の口だ。
「とにかく…合流できたのはいいとして、まだ終わってないわ。どうにかしてここから出ないと、さっきみたいに攻撃を受けたら最悪ここで死ぬしかないわよ」
「それはそうだけど…帰り方が分からない。なにか手がかりになりそうなものとかなかった? とにかく同じ場所にいるのは危なそうだから移動しよう」
伊助の言葉には全員が同意のようだった。頷いて、三人で歩き出す。沈むことのない夕日がまだ世界を赤く染めていた。
まずは目に付いた住宅の扉を開ける。次に移動した場所は、明らかに先ほどとはまるで世界観の違う場所だった。三人の前に姿を現したのは、遠く向こうに聳え立っていたあの朽ちた塔。見上げると首が痛くなるほどの高さがある。
「……そうよ、この塔。どう考えても何かある」
それもそうだ。ここへ来たときからこいつは異彩を放っていた。灯台下暗しとでも言うのか。伊助は唇を舐め、そこを見上げたまま口を開く。
「そういえば、塔に宝があるって新聞記事を見かけたけど…」
「わ、わたしも見たよ!」
「あたしも。決まりね。入るわよ」
弥生の大胆さには感心しかない。迷わず彼女は入り口の木製の扉に手を触れた。
【いじめっ子に一矢報いるための方法は?】
まるでファンタジーのような現象だった。弥生の手が扉に触れた途端、扉に文字が浮かび上がったのだ。押しても引いても全く動かない。つまり、この質問の答えがここを開ける鍵ということだろう。出鼻をくじかれた弥生は眉間に深いシワを使って扉を睨みつける。
「なによこれ? これに正解しないと開かないってこと? 一矢報いるって……殴る、とか」
「……弥生ちゃん、乱暴だね」
「うるさいわね四月一日」
弥生の答えは不正解だったようだ。なんの変化もない。そもそも質問が抽象的すぎるため、答えはいくつもあるように感じた。
だが、伊助には心当たりがあった。かつて学校というものに通っていた中学時代の記憶が脳の奥深くから引っ張り出されたように、思い浮かぶ。
「……なんで、忘れてたんだ」
無意識に呟いていた。ふらふらとした足取りで、伊助が扉の前に進む。その彼の後ろ姿を、弥生と四月一日が不思議そうに見つめている。
――ぼくは本気だよ井村くん。ぼくはそいつの、そいつの席で…。
思い出の中の少年が、そう言った。あの出来事は伊助にとって確かに大きなターニングポイントだった。それなのに、今の今まで忘れていた。人間は、都合の悪い記憶を消すものだと聞くけれど、それにしては綺麗さっぱり、忘れていたのである。
【いじめっ子に一矢報いるための方法は?】
無機質な文字が目の前にある。伊助は、誰にも聞こえないようにそっと、出来るだけ小さな声で、答える。
「そいつの席で、死んでやるんだ」
かちゃり。
とても小気味いい音だった。扉がゆっくり開く。そのときようやく、この場所に見覚えがあることを、伊助は思い出した。
*
「……やっぱりここにいた」
軽い脳しんとうを起こしたようだ。スーツの男は自分の顔をさすり、ゆっくりと立ち上がる。
「彼がお気に入りのチョルチンなんだね。会えて嬉しいなぁ」
男は微笑んで独り言を言っていた。その様はまるで、何か別の人間が彼の中にいるようだった。
すぐそばの電柱に貼り付けられている新聞の記事がまた新しいものに変わる。
【帰ってきた伊助と◼︎◼︎◼︎。この世界の創造主】
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