桜の季節が過ぎたら
羽鳥ユミ
第1話
飛行機の出発の時間まで、3時間を切った。
律は念のためにもう一度、スーツケースの中を確認することにした。6畳ほどしかない自室の中で、自分の背丈の半分近くもあるスーツケースは異様な存在感を放っている。
スーツケースを横にして鍵を開ける。それを全開にすると、部屋の足場はほとんどなくなってしまった。当面の着替えと洗面用具、読みかけの本ぐらいしか入れていないケースの中身はまだ余裕があるように見える。もう少し小さい物でもよかったかもしれない。
このスーツケースは今回の留学のために購入したものだ。留学どころか海外経験もないから、大きければ大きいほどいいだろうと安直に決めた自分を少しだけ恨んだ。
ジーンズのポケットに入れた準備リストを取り出す。リスト、と言ってもメモ用紙に走り書きしただけのものだ。雑に折られた薄紙の上の文字は、摩擦で擦り切れてしまっている。
乾いた感触の紙を折り開いたところで、部屋をノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
と、律は答えた。
「入るぞ」
兄が遠慮がちにドアから顔を覗かせる。律が高校に上がってから、兄は妹のプライベートな空間からは距離を置くようになった。
「時間、大丈夫か?そろそろだろ?」
空港までは、兄の車で送ってくれることになっていた。律は電車で行くつもりだったが、兄の強い希望により甘えることにした。
本当は、誰にも見送りに来てほしくなかった。でもそれを兄に伝えられるほど、律は非情にはなれなかった。
「うん、もう一回スーツケース確認したら行くから」
「わかった。車、出してくる」
少し眉尻を下げて笑うのは、兄が何と言っていいかわからないときに見せる癖だ。別れの近づく妹に、今、かけるべき言葉を探しているのかもしれない。
兄は二階にある律の部屋のドアを閉め、階段を降りて行った。
小さくなる足音を聴きながら、律はスーツケースを閉じた。
兄の車は古いSUV車だ。やたらと車高が高くて乗り降りするのが億劫だから、律はあまりこの車が好きじゃない。
でも、助手席から見る景色はいつもよりも目線が高くて、いつもよりも世界が広く見えた。
「ここから空港までどのくらい?」
自動車免許すら持たない律には、車移動での時間間隔がわからない。べらぼうに遠いというわけでもなさそうだが、かと言って数分で着くとも思えなかった。
「たぶん、3~40分かな。渋滞にはまらなければ」
「渋滞にはまったら?」
「あんまり考えたくないな。ま、その時は別のルートを探すよ」
律がシートベルトを締めたのと、兄がエンジンをスタートさせたのは同時だった。古い車は大きく身震いをして雄たけびを上げた。
自動車の技術者である兄の、オイルのしみ込んだ無骨な手が、ハンドルを切る。3月下旬のこの時期は、もうエアコンはいらなかった。大きな車体がゆっくりと発進する。
「窓、開けてもいい?」
「いいけど気をつけろよ。手は出すんじゃないぞ」
律の小さなお願いに許可をしつつも、かならず一言付け加える。小さいころから変わってないな、と律は思った。
パワーウィンドウを開くと鎖骨まで伸びた髪が顔にかかった。ばっさりと切ってから旅立ちたかったが、準備に追われて美容室へ赴く時間がとれなかった。
顔にかかった髪を指で撫でつけながら、向こうに行ったらまずは髪を切ろうと思った。
「今年は桜がもう咲いてるな」
途切れがちな会話を続けたいのか、兄は興味もないであろう話題を口にした。でもそれは兄の言う通りで、4月にも入っていないこの時期、律たちを乗せた車が走る通りの両側には、満開の桜がトンネルを作っていた。
秩序なく広がる枝は、まるで恋人同士が指を絡めるように曲がりくねり、その隙間隙間を薄紅色の花弁が埋める。
この街で見る毎年の光景のはずだが、それは律にとって感慨深いものになった。
「お兄ちゃんも、家を出てっちゃったときあったよね」
桜を見ていて思い出した苦い出来事。律は少しの寂しさを込めて、恨みがましく尋ねてみた。
「んーまあ…高校卒業したときだな。よく覚えてるな」
「覚えてるよ。だって私10歳だったよ」
長子である兄は、幼いころから『おれが家を継ぐから』と言っていた。律の覚えているかぎり、両親が強制していたようでもない。だけど兄は、さもそれが当然、と律やほかの兄弟たちにも高らかに宣言していた。
そこまで兄が『家を継ぐ』ことに拘る理由を律は知らなかったが、そんな兄の存在は常に安心をもたらしてくれた。
だから、兄が家を出ると聞いたときには、裏切られた気分になった。
「家出たっつったって、進学だよ進学。それにちゃんと戻ってきただろ?」
「そうだけどさ…」
今思えば、家業を継ぐために進学し、一時的に家を離れたのだとわかる。しかし当時の律には割り切れないものがあった。いつも一緒で、兄に守られてきたから。
家を守るために家を離れる兄の気持ちが理解できなかった。
「お前に泣かれたのは堪えたよ」
右折待ちの間、規則的なウインカーの音が耳障りだった。目の前の横断歩道を年老いた女性がゆっくりとした足取りで渡る。
兄は優しい。だから律は「行っちゃうなんて嫌だ」と言った。そういえば兄は家にいてくれるんじゃないかと思った。
だけど兄は行ってしまった。「ごめんな」と眉を下げて。
「あれは結構、幼な心に傷ついたなあ…」
「だから悪かったって」
バツが悪くなったのか、兄は律から視線をそらして曖昧に笑った。
「まさかお前が、そんな根に持ってるなんて思わなかったよ」
「根に持ってるわけじゃないよ。今なら理解できるし」
制限速度を守る兄の車は、緩やかに坂を下って行く。兄はマニュアル車のギアを一つ落とした。
「私が勝手に傷ついたことを覚えてるだけだよ」
鮮明に覚えているわけではない。10歳だったとは言え、律にとってはもう昔のこととして割り切れているつもりだった。
それでも、置いていかれた事実が、古傷のようにじくじくと痛み出すのだ。
「でも、お前の留学だって、兄ちゃんホントは寂しいんだぞ」
「ええー、止めてよシスコン」
冗談めかしてつぶやいた兄の言葉に、律もあいまいに笑うしかできなかった。
開けた窓からは、散った桜の花びらが舞い込む。満開になってしまった今、あとは散っていくだけかと思うとやるせなくなった。
「忘れ物はないな」
「ないってば」
「パスポート持ったんだろうな」
「持ったに決まってんじゃん、なくてどうやって飛行機乗るの」
「金はあるのか?日本円は使えないんだろ」
「当たり前でしょ、向こうで両替するよ」
搭乗予定の飛行機のゲートはもう開いている。これから荷物検査があるから、兄とはここで別れることになる。
土曜日昼間の空港は、思っていたよりも人が多い。荷物検査のレーンにはどんどん人が並んでいく。早く検査を終わらせてしまいたいのに、なんのかんのと理由をつけては兄は律を引き留める。弱冠の苛立ちとないまぜになった少しの不安に、律もつい足を止めてしまう。
「向こう着いたら連絡しろよ」
「……うん」
でももう、飛行機の時間が迫っている。
「じゃあ、みんなによろしく言っておいて」
律は、肩にかけたボストンバッグの持ち手をぎゅっと握りしめた。
「…見送り、本当に俺だけでよかったのか?」
兄の言葉に、家族や友達の顔が浮かんだ。わざわざ送別されるのは、決意が鈍るような気がしたから断った。
「なんかしんみりしちゃうじゃん。そういうの嫌だし」
「律は…、昔からそうだな」
「あっ、そうだ仕送りお願いね」
「そういうところはちゃっかりしてんのな…」
「じゃ、いってきます」
「おう」
踵を返して、兄に背を向ける。兄の顔は見なかった。何年も一緒にいた兄だ。どんな顔をしてるかなんて大体わかる。
眉を下げて、困ったように笑っているに違いない。
「律、」
思わず足を止めてしまった。背を向けたあとに声をかけるなんて卑怯だと思った。兄らしくない。
「俺はあの家にずっといるからさ、俺がくたばるまでには帰って来いよ」
振り向けなかった。振り向いたら、声を上げて泣いてしまう。兄が行ってしまったあの日のように。
私があの家に帰れるのはいつになるんだろう。
「…ごめんな、」
ああでも、桜の季節に帰るのはやめよう。桜は感傷的になりすぎる。 桜が散って、青葉になった季節に帰ろう。
すべてを受け入れて、忘れられたら帰ろう。
「体、気を付けてな」
歯を食いしばって前を見た。歩き出すと伸びた髪がなびいた。
早く切ってしまいたいと、そう思った。
桜の季節が過ぎたら 羽鳥ユミ @hatoriyumi2997
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