蜉蝣の母
三津凛
第1話
私が一番最初に成したことは、殺人だった。
それを夏の午後、父ちゃんに言い放ったら思い切り打たれた。
「なんで叩くとね!本当のことやろうもん!」
私は頭を打たれた頭を庇った。
父ちゃんは唇を歪めて、たった一言だけ呟いた。
「言って良いことと、悪いことがあるばい」
それから、私は自分の言ったことの償いをさせられた。
父ちゃんは、夕涼みの中を私と共に歩いていった。
夕暮れの墓地は少し怖い。彼岸が向こう側から口を開けて待っているような風情がする。
「父ちゃん、怖いばい」
「そうやろなあ、母さんが怒っとるんやろう」
父ちゃんは振り返らずに言う。
広い背中はそれ以上何も言わない。地獄の獄卒もこんな風に屍者を連れていくのだろうか。
それをそのまま言ったらまた打たれそうで、私は素直に従った。
石段を登ると、脇にお地蔵さんが佇んでいる。次第に夜が近づいてくるようだった。
森が鳴く。落ちた葉が駆けていく。
墓石の群れが無表情に浮かぶ。
私は、自分の言ったことの重さを少しだけ実感した。
足元の小石が、踏みしめるたびに乾いた悲鳴をあげる。
父ちゃんは何も言わない。
私が一番最初に成したことは殺人だった。
父ちゃんが振り返る。
「蜉蝣かげろうっち、知っちょるか」
「知らん」
私は俯いて応えた。
「蜉蝣は弱い生き物なんよ。ご飯も食べれんで、子供だけ産んだらそのまま死んでいくとよ」
「ふうん」
「でも、強かろうもん」
「うん」
私は幻のような蜉蝣を思い描こうとする。食べ物の味さえ知らないのに、生命の響きは知っている。
神は何故そんな運命を作ったのだろうかと思う。
「ちゃんと、生命を繋ぐんばい、強いんよ…」
「うん」
父ちゃんは暗に母さんのことを言っている。
「母さんも同じやけん。ちゃんとお前を残してくれたとよ」
私は無言で何も言わない墓石を眺めた。
みかげ石の縞が、何かの文字のように見える。
「でも、私が産まれんかったら、母さんは死なんでよかったかもしれんっちゃ」
可哀想だと思った。
若くて細い身体に、丸々と肥えた私を抱えて、その私に生命を喰い尽くされた母さんが。
「私は本当に産まれて、良かったんやろうか」
「良かったんやけん、母さんは産んでくれたんよ」
父ちゃんは笑って言った。夕闇の中で表情は読めない。
私が一番最初に成したことは殺人だった。
同じことを、今の父ちゃんと母さんの前で言うことはできなかった。
これから、母性のないお家へ還る。
私が居なかったら、産まれなかったら、まだお家には父ちゃんと母さんが仲良くいたのだろうか。男雛と女雛のように、二人は仲良く並んでいたのだろうか。その間に、私以外のちっこい男の子か女の子の一人や二人、いたのだろうか。
全ては私が奪っていったのだろうか。
私が一番最初に成したことは、殺人だったのだろうか。
母さんは蜉蝣のような人だったのだろうか。全ては墓石の前で無のまま、流されていくようだった。
「帰るばい」
父ちゃんは一瞬だけ、母さんに手を合わせて歩き出した。
父ちゃんは私に強制しなかった。
私はその背中を少し見送ってから手を合わせた。
私がおらんかったら、どうなっとったんやろう。
肌寒い風が私の背中をついた。
蜉蝣は薄い生命を全うする。それは生命を繋ぐためだけに、精一杯生きる。母さんも、同じように弱くて強い人やったん。
私は帰りかけて、もう一度だけ手を合わせた。
「ごめんなさい」
音はなかった。
私は生命は数珠のように繋がっていくものなのだろうと、初めて思った。
母さんも、父ちゃんも、私も、そうした珠のひと粒だった。
母さんは強かった。
私が一番最初に成したことは、生きることだった。
蜉蝣の母 三津凛 @mitsurin12
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