楽しみを希う心

三津凛

第1話

野生の羊が鳴く。ここは人間よりも、羊の方が多い。

必要以上に踏み込まれることはない。朝一番のハローと、夕飯時のディナー!の叫び声が、確かにここにいることを私に思わせた。

ミスター・ウィルソンは信心深いようだった。初めてここに着いた日の夜、夕飯の席で私は神を乞う人を目の当たりにした。

私の国にはその香りすら、あまり漂ってはいない。

深く眉間に刻まれた皺と、薄くなった頭髪が見えない者に向かって開かれていることに、私は何か喜劇じみたものを感じた。

それでもミスター・ウィルソンは私に向かって掌を開いて、一緒に祈りを捧げることを促した。私は素直に従った。神はこれっぽっちも信じてはいない。

郷に入っては郷に従え。

多分、そういった類のものが、私にとっての信仰心だった。


時折、海の向こうに置いてきた国のことを思う。

野生の羊が鳴く。ここは人間よりも、羊の方が多い。


ソフィアと初めて会ったのは、ここに来てから一週間ほど経ってからだった。娘がいる、と当のウィルソン夫妻から最初に聞かされはしたものの、その姿を見ることはなかった。それ以上のことは尋ねることもせず、私はその名前だけをただ憶えていた。

私はこの広い家のことをよく知らない。いつも朝食と夕食を食べる居間と、私のためにあてがわれた一室しか知らない。

外国が広い、というのは一つの幻想かもしれないとこの頃思い始めていた。それを漉してやる人間の感性も同じように開かれていなければ、何も広大なものになりはしない。

私は英語の授業にも飽き始めていた。あの音にどうも馴染めない。それは致命的なものだった。これ見よがしに舌を丸めて、晒してみせる気にはなれないでいた。

バスに乗った後で、私は筆箱を忘れたことに気がついた。別にそのまま学校へ行ってもよかった。それでも、私は何かの切符を貰ったように気分が軽くなった。これは免罪符を手に入れたようなものかもしれない。

そのまま次の停留所で降りて、空っぽになっているはずのウィルソン夫妻の家へと戻った。


野生の羊が鳴いている。私は目を細めた。

ちょうど門をくぐった時に、ピアノの音が聞こえて来た。物哀しい、頬を伝う涙が立てる囁きのような曲だった。

ミス・ウィルソンが手入れをした薔薇を折らないようにして、私は庭を越えた。ピアノのさざめきが近付いてくる。

薄いカーテンの向こうに誰かが見える。私は不思議な思いで、ピアノを弾くシルエットの揺らめきを眺めた。

しばらくそうしていると、向こうも私に気がついたようだった。私はにわかに気まずくなって、そっと庭から逃げだした。

あてがわれた部屋の中で、まるで亡命者のように蹲って、そのままベッドに横になった。

机の上に置きっ放しにしていた筆箱が私を見ている。それから、私はしばらく眠った。


羊が鳴く。

私は目を覚ました。学校をサボったという罪悪感はあまりなかった。それよりも、あの薄いカーテン越しに目が合ったかもしれないソフィアの方に罪悪感を抱いていた。ぼんやりと天井のうねりを眺めていると、空腹感を覚える。

私は起きて、キッチンへ向かった。

「ヘルプ・ユア・セルフ」

声に出して読んでみる。剥き出しになった磁石で紙が留めてある。家でお昼を食べるのは初めてだった。その仏頂面で乱暴なアルファベットは怒っているように見えた。

本当に自由にしていいのかしらん、と思いながら私は中身を漁ってみる。

林檎とチーズを交互に食べる。

しばらくすると、またピアノの音が聞こえて来た。先ほど聞いたのと同じもので、私は深く考えもせず音の在り処に向かってみた。

夫妻の寝室の横の部屋から、聞こえてくるようだった。

扉が狙いすましたように少しだけ開いている。


どこかで聞いたことのあるような音色だなぁと反芻する。

ふと脚をずらした途端、床が軋んで過敏にピアノの音は断ち切られた。意外なことにすぐに扉が開けられて、私は初めてウィルソン夫妻の一人娘を目の当たりにした。

硬い二重の筋はミスター・ウィルソンによく似ていた。身体つきの神経質な細さはミス・ウィルソンに瓜二つで、私は躓くようにして、ハロウ、とだけ呟いた。

ソフィアは会釈だけして何も言わなかったが、私は別に気にならなかった。却って流暢地何か返される方が居心地が悪くなってしまうような気がした。

ソフィアは振り返って、手招きした。

私は少し戸惑いながらも、部屋に入ってみる。

驚いたことにグランドピアノが置かれている。贅沢の象徴のようなそれを、私は少しだけ羨ましく思った。ソフィアは私の袖を引っ張って、しきりに窓の向こうを指差した。瞳には邪気のない色ばかりが宿っている。

私はその仕草に不思議に思いながら、指の差される方を眺めてみる。


あなた、あそこから覗いてたんじゃなあい?


そう言いたいのか、ソフィアは笑って私を見返していた。

うん、と頷くとソフィアも頷いた。

話せないの?

そう聞くことは憚られたし、それをどう彼女の国の言葉で表現するか私には分からなかった。私はその術を知らなくて良かったかも知らないとその時思った。

ソフィアはピアノの前に座って、また何か弾き始める。

今度は先ほどとは対照的な曲だった。一音一音が踊り出す。巨大なワルツが鍵盤から現れてくるようだった。

ソフィアは話さない。

代わりにピアノで何かを伝えようとしているのだろうか。私も何も話さず、聞き入ってみる。


歓迎しているよ。


そう言いたいのだろうか。弾き終わって顔を上げたソフィアに、私はサンキュー、とだけ伝えてみた。ソフィアが、うんうん、と頷く。耳は聞こえているようなのに、不思議な子だなと思った。

それでも私にはこの奇妙な沈黙が、不思議なほど居心地が良かった。

ソフィアは笑って立ち上がると、扉を開けてどこかへ行ってしまった。私はうずうずして、先ほどまで鳴いていたピアノの前に座ってみる。きらきら星くらいしか弾けないが、なんとか絞り出して言葉を伝える時に感じる高揚感と同じような気持ちになる。

鍵盤は重く、ソフィアはすぐに林檎とチーズを抱えて戻ってきた。

嬉しそうに微笑んで、私の横に座る。

思いついたように、ノートを持ってきてミスター・ウィルソンとよく似た筆跡のアルファベットを並べる。


Mozart.


私は音を反芻して、頷いてみせた。ソフィアは早足にきらきら星のメロディをちょっとだけ弾いてみせる。

モーツァルト。きらきら星変奏曲でも弾いてくれるのだろうか。

ソフィアは軽く頷いて、弾き始める。

可愛らしい小さな星たちが煌めくようだった。

音楽に境界はない。勝手知ったように言われるよりも、深く私の中にそのことが落とし込まれる。

私はいつまでもソフィアの踊る手元を眺めていた。


その夜、ミスター・ウィルソンは何も言わなかった。いつものように、夕飯は流れてソフィアは一緒のテーブルにつくことはなかった。

英語でそうした微細なことを尋ねることのできない私は、同じように黙っているしかない。

話すことのできない一人娘を抱えた夫妻と、その間に収まる小石のような外国人はどのように映るのだろう。ミスター・ウィルソンは今夜も祈りを捧げる。私も慣れた手つきで、広げられた掌を握る。

羊が遠くで鳴いている。


私は次の日から、学校へは行ったふりをしてソフィアの部屋に籠るようになった。ソフィアもどこかでそれを待っているように、ノックするたびに鍵盤で応えた。

意味のある言葉はここにはない。ただあるのは、一瞬一瞬の積み重ねで出来上がる音楽だけだった。ソフィアは言葉を持たないだけで、その内面は極彩色だった。天気の悪くなりそうな日は、気分が落ち込むのか暗く哀しい曲ばかり弾きたがった。

明るい日は分かりやすく、軽薄にも思える底抜けに陽気な曲を弾いてくれた。澄んだ夜にはそれを壊さない、優しい曲をゆっくりと弾いた。

ソフィアの好む曲は概して、お行儀の良いクラシックばかりだった。

ソフィアはピアノを介して、柔らかな部分を晒してくれている。それはとても心地が良くて嬉しいことだった。

私は言葉以外にそうしたものを持たない自分を、貧しいと思った。物や金を持たない貧しさよりも、それは悲惨なことのように感じた。

私は持って来た本をぼんやり眺めながら日中を過ごし、ソフィアも気紛れにピアノを弾いて過ごした。


結局私はここで言語を習得できることもなく、帰る日が近付いていた。

ミスター・ウィルソンは相変わらず何も言わなかった。

私は伝えようと思えばソフィアに告げることもできたのに、言えないまま時は過ぎていった。


最後の週末に、教会への誘いを断って私はソフィアの部屋をノックした。

今日は美しい日だった。丹精込められた薔薇が窓の向こうで揺らめく。

こんな日は何も考えずに昼寝したくなる。思わず欠伸が出る。

ソフィアが軽く笑い声をたてた。

私は意外な気がしてソフィアを眺めた。

ソフィアは私とのやり取りがずっと続くように思っているようだった。それはお互いにとって残酷なことのように思えた。私は結局言い出せない。

ソフィアは自分のベッドを指差して、微笑んだ。頬を柔らかく割る皺と笑窪はまるで揺り籠のように優しかった。

私は唇だけで、サンキュウと形作ってソフィアのベッドに潜った。

ソフィアも私の真似をして、ゆっくり唇を動かした。言葉はない。

私は目を凝らして音のない言葉を探った。

ブラームス、ワルツ。

私は頷いてみせた。ソフィアが笑う。

どこまでも優しい、陽の光のようなワルツだった。言葉はない。

まだ手に取ったこともない母性が開かれているような心地になる。この暖かさは母胎へ還っていくみたいだった。私はソフィアの変わらない横顔を眺めながら、眠り込んだ。

何も伝えることはできなかった。


野生の羊が鳴く。

私はソフィアの部屋の扉をノックした。この乾いた音も、羊の声もまた再び聞くことができるのだろうか。

ソフィアは変わらず笑った。

私は紙に初めて纏まりのある言葉を連ねた。


私は今日、帰らなければならない。

ありがとう。

あなたに会えてよかった。


ソフィアは何度も読み直しているようだった。私は泣いたように光る白鍵を眺める。

ソフィアが顔を上げた。変わらない顔で微笑んでくる。言葉はない。

私も、これ以上の言葉は持っていない。

ソフィアは静かにピアノの前に座った。そして、これまで見たこともない勢いで鍵盤を叩き始める。

ソフィアの中には奔流が流れていた。情熱は鍵盤を超えて、音を跳んで、私に向かう。

目を閉じてそれを受け止めた。

ソフィアは弾き終わった後に、綺麗な便箋を取り出して、滑らかに言葉を連ねた。

微笑んで、渡してくれる。私は目を落とす。


The Heart Asks Pleasure First.


今弾いた曲名だろうか。私は乏しい単語と文法の欠片を集めてみる。


楽しみを希う心。


私も頷いて笑う。

「イット・ワズ・ナイスミーティングユウ」

ソフィアは唇だけで、ミィトゥと応えた。


それから、海の向こうへ行くことはしばらくなかった。


野生の羊。鳴き声。ウィルソン夫妻、ソフィア。

言葉のなかった時間と空間を想った。音楽を言葉の代わりにしていた女の子のことを想った。

ほとんど習ったことは、時間の流れと一緒に石鹸水のように流れていった。

今でも憶えているのは、The Heart Asks Pleasure First.

楽しみを希う心。

無数の言葉と、意味のある音の群れに倦んだ時、哀しくなる時は思い出す。

そして、聞いてみる。


The Heart Asks Pleasure First.

楽しみを希う心。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

楽しみを希う心 三津凛 @mitsurin12

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ